魔界の門が開く
ところで、このところ魔王様はとてもお忙しそう。
私がこちらに来てからは朝食と晩餐、夜寝る前には必ず顔を合わせていた。けれどここ2週間ほど、顔を見ることすら一日置きぐらいの頻度。
顔を合わせる度、私に対しては優しいのは変わらない。でも肌がピリピリするほどの緊張感が漂っているのを感じる。
それというのもどうやら年に一度、一日だけあらゆる『門』が開くからだという。
魔王様はこのところずっと、その対応に追われているせいである。
(門が開くって、そんなに大変なことなのですね)
この世界は、三つの階層で出来ている。
私が生まれ育った人間界。今いる魔界。そして更に、死した魂が行く冥界があると教えてもらった。
そしてそれらを繋ぐ門が開く日があり、その日は誰もが自由に各界を行き来が出来るのだそう。
(言われてみれば、人間界にもそういうお祭りがありました)
年に一度、一日だけ人間界と魔界と冥界を繋ぐ門が開かれる――そういう言い伝えがあった。
門がどこにあるのかは知らないけれど、その日は門から魔族や幽霊が溢れ出して来るのだと言われていた。
その門の向こう側からやってきた者は、気に入った人の子を攫っていってしまう。だから人は魔族に扮した仮装をし、彼らの目を誤魔化してその日をやりすごすというお祭りが毎年催されていた。
私は城から出たことはなかったから見たことはないけれど、城下は大層なお祭りになっていたように記憶している。
実際に人が攫われたことがあるかどうかまではわからない。
でも魔王様曰く、稀にこの日に魔界へと迷い込んでくる人間はいるらしい。すぐに追い返すそうだけど。
――そして今年は門の位置を突き止めて、あえて魔界に乗り込んでこようとしている一行がいるのだという。
(……勇者様、というものなのでしょう)
魔王様は私に語らないけれど、人間界では魔族討伐の編成が大々的に組まれているのだと聞いた。
その中には、聖剣を持っている勇者がいるのだとも。
そして彼らは、攫われた姫を助け出すという名目も掲げているらしい。
これはあまりにお忙しそうな魔王様が心配になって、こっそり魔王様の側近の方に無理を言って教えてもらったことだ。
聖剣なんて、お伽話でしか聞いたこともない剣が実在することには驚いた。
それではいくら魔王様でも危ないのではないかと心配すれば、「魔王様から見れば聖剣を持った勇者といえど、切れ味の良い剣を持っているだけの人間です」と苦笑いをされたけれど。
「ご心配されずとも、魔王様からすれば人間など足元の蟻を踏み潰すより容易い。それだけにやりすぎて彼らの心が挫けないように救いを残しつつ、侮られすぎない微妙なさじ加減で調整することに苦心されているのです」
魔王様の目的は世界征服でも人類殲滅でもなく、ある意味救済だという。強者には強者の苦悩があるということなのでしょう。
魔王様からしてみれば、人間の相手よりも「面倒だから殲滅してしまえ」と言う魔族を抑えるのに手を焼かれているとのこと。
そんな魔王様から私を取り返せることなど、万に一つもありえないのだと安堵してしまう。
(そもそも勇者様の一番の目的は私ではないもの)
私はあくまで魔王を倒した証、いわば戦利品として取り返したいだけ。私が人間界に戻ったところで、扱いに困るだけだというのに……。
(魔王に攫われた姫を取り戻して、自国の権威を知らしめたいのでしょうね)
そして勇者は、富と名誉を。
けして、私だから助けたいわけじゃない。
(それぐらいは、私にもわかるのです)
*
そんな話を事前に聞いてしまっていたから、門が開く前夜、寝る前に私の元に忙しなく立ち寄られた魔王様が告げた言葉に、思わず顔が曇ってしまった。
「エステル。明日の明け方から門が開く。その関係でここも少々騒がしくなるから、おまえは大人しく部屋にいてくれ」
「……勇者様がいらっしゃるのですか?」
ここまで来ても私には何も仰らない魔王様に、我慢できずに尋ねてしまった。
本当は、知らないフリをしていた方がいいことくらいわかっているの。魔王様は私の心を案じて、私の目を覆い、耳を塞ぎ、関わらせないようにしてきてくれた。
だけどもし、万が一にも魔王様が危険な目に遭うのかもしれないと考えると心が波立つ。
どうしても、黙ってはいられなかった。
顔を強張らせている私を見つめ、魔王様は金色の瞳を細めた。
「聞いたのか」
切れ長の瞳が鋭く見えて、反射的に心が竦む。それでも心を奮い立たせて魔王様を見つめ返す。
「聖剣を持っているのだと聞きました。対峙されるのでしょう? いくら魔王様でも危険なのではありませんか」
「いくら聖剣でも、当たらなければ意味がない。まず私に近づくのは不可能な時点で、勇者自体は特に問題にするほどではない」
私の心配をよそに、魔王様はいともあっさりと言った。そこに嘘は見えない。
実際、魔王様の力を考えれば納得も出来る。だからこそ、不思議に思って眉尻を下げた。
「魔王様のお力なら、わざわざお会いにならなくても追い返せてしまうのではありませんか?」
いくら門が開くと言っても、門の前に分厚い壁を作ってしまえば一日でどうにかできるとも思えない。
相手にされる必要はないように思える私に向かって、魔王様は一つ溜息を吐いた。「人間というのは厄介でな」と説明してくれる。
「問答無用で叩き出したいところだか、自分達でも魔族相手にどうにかできるという希望を残しておかないと後が面倒になる。どう足掻いても敵わないと知って絶望しておとなしくなるならいいが、おとなしくなるどころか諦めて今度は自壊行為に走りかねないからな」
眉間に皺を寄せて、呆れてすら見える眼差しになっている。
「昔、やりすぎてそういう状況になりかけたという記録が残っている。だからある程度は望みがあるように相手をしないとならない」
溜息を吐き出しながら、「繊細すぎて面倒だ」とぼやかれてしまった。なんだか同じ人間として、お手間を取らせて申し訳ありません……!
魔王様のひどくお疲れに見える様子が心配で、部屋から一歩踏み出して仰ぎ見る。
「魔王様。私に、何か出来ることはありませんか?」
迷ったけれど、気づいた時にはそう口に出していた。
魔王様が金の瞳を瞠って、予想外なことを言われたと言うようにまじまじと私を見つめる。
自分で言っておきながら、期待いただけるほど何かが出来るわけでもないので少し居た堪れない。
「たいしたことは、出来ないのですけど。不器用ですし、力が強いわけでもありませんし、魔王様を守ってあげられるわけでもないのですけれど」
私がいたところで、役に立たないどころか足手纏いでしかないとは思います。
でも私は魔王様のこれでも妃だから、もしお役に立てることがあるならしてさしあげたい。
しどろもどろになりつつも、ぎゅっと魔王様の服の裾を握りしめて必死に訴えた。
「エステル」
不意に腕が伸びてきて、背中に回された両腕が私の体を引き寄せた。苦しいくらい抱き竦められて、腕の中で自分の心音がやけに響いて聞こえる。
魔王様にも、伝わってしまいそう。
「エステル。抱き返してくれ」
「!」
耳元に届く声に、心音が更に跳ね上がる。
ドクドクと脈打つ音だけが全身に響いていて、あいかわらず余裕なんて全然持てない。言われるままに両手を伸ばして抱き返す。
私の身長だとしがみついているように見えてしまうかもしれないので、これでも実は必死に背伸びしています。
そのせいで、顔を上げればすぐ間近に魔王様の顔があった。
金色の瞳に覗き込まれると、いつもこの先どうしたらいいかわからなくなってしまう。
「エステルにしか出来ないことというのも、あるわけだが」
私を抱きしめたまま、魔王様の視線がチラリと私の部屋の中へと注がれた。
その言葉に、ドクリ、と一際大きく心臓が跳ねる。
(そ、それって、つまり……その、妃の、務めですよねっ)
思い至ると同時に息を呑んだ。急速に顔が熱くなっていくのがわかる。
実は先日魔王様のお部屋から逃げ帰って以来、なんとなく部屋に二人きりになるという状況になることに身構えてしまう私です。
(なぜこんなに躊躇ってしまうの)
大好きな方なのだし、私から「どうぞ」と言えばいいだけなのに。
「あの、…………はいられ、ますか?」
勇気を出して口を開いて、喉からは蚊が鳴くような変な声が出てしまった。擦れて細くなった声では、ちゃんと発音できていた気がしない。
けれど魔王様の耳には届いてしまっていたらしい。
大きく目を瞠られて、まじまじと見つめられる。
居た堪れない。その視線に晒されていることが恥ずかしい。羞恥のあまり熱が回って、息の仕方すら思い出せなくなる。
これで合ってるんでしょうかっ。
顔が熱くて、心臓は胸を突き破りそう。
口にしておきながら、やっぱり待ってください、と言いたくなる自分がいる。口を開いたら、躊躇いが零れていきそう。
「……いや。今日はやめておこう。無理をさせたいわけじゃないと言っただろう。それに、朝には門が開いてしまうからな」
「そ、うですよね!」
だから魔王様がゆっくりと私の体を抱きしめていた腕の力を抜かれたことに、ほっとしてしまった。
それに気づいた魔王様が苦く笑う。
その表情に、チクリと胸が痛んだ。魔王様は誤魔化すようにひとつ私に口づけを落とすと、「おやすみ」と告げて私を部屋に押し込んだ。扉が閉まる音が部屋に響いて、魔王様の足音はすぐに遠ざかっていく。
そこでようやく気が抜けて、扉を背にその場にへなへなと座り込んでしまった。
(今日はとても頑張った方だと思うのですが!)
よく考えたら、そんな場合ではなかったのですけれど。そう、門が開くのでした。我ながら、なんて空気が読めないのでしょう。
でも、これがもし門が開かない日だったら?
魔王様は、立ち寄られていたのでしょうか。それともやっぱり、無理しているのがわかって遠慮された気もする。
まだ落ち着かない胸を服の上から押さえて、細く長く息を吐き出した。
……安堵してしまっている私は、いったい何を恐れているのでしょう。