魔王様と不器用に恋をする
魔界の空はくすんでいるとはいえ、朝を知らせる光が窓から差し込んでくる。
部屋に逃げ帰った後、ベッドに潜り込んだものの一睡も出来ずに一夜が明けてしまった。
(まったく眠れませんでした……!)
寝ようと思って瞼を閉じると、いろんなことが頭に浮かんできて眠気の邪魔をした。
自分の浅はかさとか。動揺したとはいえ、咄嗟に逃げ帰ってしまったことは駄目だったんじゃないの?とか。魔王様の熱っぽい眼差し……とか。
思い返しただけで心臓はクバクと鳴り響いていて、何度ベッドの上で転がったかわからない。
(顔、合わせづらいです)
怒ってはいないと言っていただいたけど、不安は湧いてくる。もちろん考えなしだった私が悪いのだけど。
妃の務めは魔王様に愛されることだと言われているのに。ただでさえ私は人間で、魔王様のお役に立てていないのに。最低限の務めも果たせないのかと思われていたらどうしよう。
ぎゅっと胸の奥が詰まったように苦しくなって、眉尻を下げる。
(……だって、怖かったのだもの)
魔王様が怖いわけではない。
いえ、いつも私には優しい魔王様が私の知らない大人の男の方に見えてちょっと怖くもあったけど、そうでなくて。
あのまま流されてしまったら、自分が自分ではなくなるような気がして怖かった。
(でも私のあの態度は、魔王様が嫌で逃げてしまったように見えたのではない?)
ふと思い至って顔から血の気が引いていく。
確かにちょっと怯んでしまったけど、けして魔王様が嫌だから逃げ帰ったわけではないのです!
「ちゃんと謝らないと駄目だわ」
ここでまた逃げて、部屋に引きこもっているわけにもいかない。ぎゅっと唇を噛み締めると、ベッドから起き出した。
今日はドールがいないので、一人で慣れない身支度を整える。
魔王様からお借りした着慣れない黒いローブに四苦八苦しながら着て、長い銀髪を櫛で梳く。
癖毛なので、どうしても毛先に行くにつれてうねってしまって収まりが悪い。ちゃんと梳いてまとめても、すぐにあっちこっちにふわふわ泳ぐ。
心の底から魔王様の癖の無い髪が羨ましい。
いつもはドールに可愛く結ってもらっていたのだけど、今日は梳いただけで諦めて櫛を置いた。
前の城にいた頃は婆やが結ってくれていたので、よく考えたら自分で結ったことがない。やってみようと挑戦したけれど、自分の不器用さを思い知っただけだった。
こういうことは一朝一夕で身に付くものでもないので、ドールが帰ってきたら教えてもらおうと心に決める。明日から特訓です。
「私って、本当に一人で何もできないのですね……」
ただでさえ落ち込んでいるというのに、より一層、塞ぎ込んだ顔をした自分が鏡に映った。
寝ていないことに加えて黒いローブを身にまとっているせいか、顔色が余計に悪く見えてしまう。
魔王様にお借りした服は、自分でも驚くほど似合っていなかった。
そもそもサイズが合ってない。
長さは問題ないように思っていたけど、実際に着てみたら少し引き摺ってしまう。袖からは爪先がちょっと覗くだけで手が出ない。
ですが、けして服が悪いわけと言っているわけではありません。きっとミステリアスな美女が着れば似合うと思うのです。
しかし残念ながら、私はどちらかといえば童顔。
目は大きくてやや垂れ目気味だし、気にしているのだけどちょっと鼻が低い気がする。
お母様に似た自分の顔は嫌いではないし、可愛いとお世辞を言っていただくことはあったけど、とりあえずこの服が似合う顔ではなかった。
でも、この服が嫌いなわけではない。
無理を言って魔王様にいただいたものだもの。出来れば上手に着こなしたい。
(そうです。私ももっと成長しなければならないわ)
魔王様にちゃんと向き合えるように。
とりあえず、見た目から。いきなり心は成長できないので、出来ることから頑張りましょう。見た目が大人になれば、心だってつられて大人になれるかもしれません。
そう覚悟を決めると、いつもは手を出さない鮮やかな赤い口紅を手に取った。
黒いローブに真っ赤な口紅って、すごく魔王様のお妃っぽい気がします。これなら魔女っぽさが出て、隣に並んでもお似合いだと思ってもらえるかもしれません!
いつもと違う服。いつもと違う口紅。
それだけなのに緊張で心臓がトクトクと跳ねた。
(恋をしているって、こういうことなのね)
貴方に似合う私になれるでしょうか。少しでも気に入ってくれるかしら。
そんなことを考えながら、緊張して紅を引くのは初めて。
筆に含ませた紅をゆっくりと唇に引き、鏡に映った自分と目が合う。
「……。なぜこんなに似合わないのっ」
しかし、致命的に似合わなかった。
鏡に映った自分は必死に背伸びしている感があります!
(やっぱりいつも通りがいいわ)
塗り直そうと、いつも好んで使う淡い口紅に手を伸ばしかける。
(でも、それでいいの? 成長したいのではないの?)
自分じゃ見慣れていないから違和感があるだけかも。案外これはこれで似合ってるって、周りは思ってくれるかもしれない。
(大丈夫よ。ちょっと大人っぽすぎて、気後れしているだけだわ)
そう自分に言い聞かせて、迷いを振り切るようにドレッサーの前から立ち上がった。
気づけば準備に随分と時間を取られてしまっていたようで、時計を見れば針はもうすぐ朝食の時刻を指し示している。
慌てて長いローブの裾を抓みあげると、自室を出て食卓へと続く長い廊下を急いだ。
*
顔を合わせづらいと思っていた魔王様ですが、既に席に付いていた魔王様がいつも通りの表情で私に目を向けてくれたことには安堵の息が漏れた。
けれどその表情は私を見て、僅かに顰められる。
「似合わないな」
「!」
ぼそりと呟かれた言葉に、胸を貫かれた様な気がした。
ですが、やっぱり、と思う気持ちの方が強い。
部屋に来る途中、ガーゴイルがぎょっとした顔で私を見送ったのです。いつも全く動かないガーゴイルが。ぎぎぎぎ、と音を立てて首を動かしてまで。
さぞかし動揺させるような姿をしていたということでしょう。
あそこで引き返すべきだったけれど、時間に押されていたので無謀にもここまで来てしまった。
「……そう、ですよね」
まずは昨夜のことを謝らなければと思っていたのに、面と向かって言われたショックが大きすぎて全然違う言葉が唇から零れ落ちていく。
どうしよう。ちょっと泣きそうです。
「お目苦しいものをお見せして、申し訳ありません」
恥ずかしくて顔が熱くなる。鼻の奥が少しツンと滲みて、思わず顔を俯かせた。
(なぜこんな失敗ばかりしてしまうの)
無理に背伸びをしたところで、中身が釣り合っていなければ不格好でしかない。
わかっていたことだけど、改めて突き付けられると胸が軋むような痛みを覚える。反射的に自分の失態を拭いたくて、手の甲を唇に押し付ける。
けれど唇を拭い去るより先に、立ち上がった魔王様の手に阻まれた。
「服が似合っていないと言いたかっただけだ」
驚いて泣きそうになっていた顔で見上げれば、焦った顔をしている魔王様と目が合った。
それはまるで私を傷つけたことを恐れているようで、そんな表情を覗かせた魔王様が愛しくてほっとする。
「……紅が似合わないのでは、なく?」
それでも念の為に恐る恐る上目遣いで伺えば、魔王様は暫し沈黙した。
(やっぱり似合わないと言いたいのでしょう!?)
いいのです。わかっていたことです。もしかして、などと考えた私が愚かだったのです。
ぐっと喉を詰まらせる私を魔王様は複雑そうな顔で見下ろしつつ、躊躇いがちに口を開いた。
「いつもの方が好ましいとは思うが、エステルがその色が好きならばそれでいい。いつもと印象が違うから驚かされただけだ」
言葉を選んで言ってくれていることがひしひしと伝わってくる。魔王様のいつも私を認めてくださろうとするところ、とても優しいと思います。
ですが、なんでもかんでも認めてくださらなくてもいいのです。そんなに甘やかされては、駄目な子になってしまいます。
「好きというわけではないのです……自分でも似合わないことはわかっておりました」
そう言えば、魔王様は怪訝な顔をした。
ならばなぜそんな色を、と言いたいのだろう。
「この色が纏えば、もっと大人になれるかと思ったのです」
背伸びをしたら、魔王様が望むような大人に近づけるかも、と自分に期待してみただけなのです。
言っていて、とてつもなく恥ずかしくなる。熱が全身に回って耳まで熱い。
たかが口紅の色ひとつで、そんなにすぐ大人にはなれるわけがないのに。気持ちばかりが、はやくはやく、と焦ってしまった。
「私は魔王様を困らせてばかりなので、ちゃんと向き合えるぐらい大人になれたらって……」
「昨夜のことなら気にしなくていい。急いた私が悪い」
そこでようやく私の奇行の原因が昨夜のことだと思い至ったのか、魔王様は狼狽えた顔をして覗き込んできた。
宥めるように大きな手が頬を撫で、苦い顔をされる。
「むしろあの場合、嫌われるのは私の方だな。焦らなくていいと言ったのに、焦らせた。怖がらせただろう」
言いながら、魔王様の手が昨夜を思い出させては拙いと思ったのか、躊躇いがちに離れようとする。
それがまるで魔王様も私との距離を測りかねているように感じた。
私と同じように、不器用に恋をしているみたい。
そう感じると同時に、離れていきかけたその手を咄嗟に掴んで引き留めた。魔王様が金色の瞳を大きく瞠る。
「あれは魔王様が怖かったわけでは……なくもないのですがっ。でもそういうのではないのです!」
自分が、怖かっただけ。
熱に溺れてしまいそうな自分が、自分じゃなくなるみたいに感じて怖かっただけ。
たぶんあれが、大人になるってことなんだと思う。そんな自分を受け入れる勇気がまだなくて、怖気づいた。
けれどそれをどう説明したらいいかわからない。抽象的過ぎて、口にしようとするとふわふわしてしまう。
「私、恋をするの初めてで。まだ、自分でもよくわからなくて」
口を開いて、閉じて、上手く言葉が紡げない。まじまじと私を見つめて言葉を待っている魔王様と視線が絡むと、じわりと焦りで汗が滲んだ。
見られて緊張しているせいか、これ以上はうまく言葉になりそうにない。言葉で伝えるって難しい。
だけど貴方をちゃんと好きだと、伝えたい。
ままよ、と思いながら魔王様の手を引いた。精一杯、背伸びをする。
ぎゅっと固く目を閉じて、勢いよく魔王様の唇に自分の唇をぶつけるように押し付けた。
(っはずしてしまった!?)
目を閉じていたせいか。勢いをつけすぎたせいか。触れた唇の感触は、ちょっと唇から外れてしまった。
それでも一応、半分ぐらいはちゃんと唇に当たっていたはず!
背伸びした足が震える。恐る恐る瞼を持ち上げれば、真ん丸く目を瞠っている魔王様と至近距離で目が合った。
魔王様みたいにまだうまくは出来ないどころか、色っぽさなんて欠片もなくてただ押し付けただけ。しかもそれすらまともに出来ずに、ちょっと外してしまった。
けれど。
「今はこれが精一杯なのですっ」
それでもこれが今の私に贈れる、精一杯。
顔が熱い。ぎゅっと魔王様を引き留める指先は緊張で震えてしまう。
こんな子供騙しなことでいっぱいっぱいになっている私では、全然物足りないとは思う。こんなことしか出来ないなんて、とすぐさま後悔が襲ってきた。
「エステルからされたのは初めてだな」
「!」
それでも魔王様は伸ばした手で私を苦しいくらい抱きしめて、目を細めてひどく嬉しそうに笑った。
「充分だ」
まるで、少年みたいな顔で。
それがなんだかとても可愛くて見えて、もう一度だけ、今度はちゃんと狙いを澄ませてから魔王様にキスをした。
……ちょっとだけ魔王様の口の端に赤い紅が移ってしまったのは、ごめんなさい。