幕間 それを運命の恋と呼ぶ
※魔王視点
熟れた林檎のような顔をして部屋から逃げ出していったエステルを見送って、ソファに背を持たせかけた。
目を閉じて息を吐き出し、体の中に籠った熱を逃がす。
(急きすぎたな)
逃げられて残念な気持ちは勿論ある。
けれどこれ以上にここにいられたら何もしないでいられる保証もなかったので、安堵する気持ちがあった。
狼狽えたエステルの顔が脳裏を過り、ほんの僅かな罪悪感が首を擡げる。
余裕はあるつもりでいたというのに、どうにも目の前にいると箍が外れそうになってしまう。
自分の心を動かすのは、いつだってあの娘だけだ。
「逃がしちゃってよかったの?」
まるで心の無念さを声に出したかのように、唐突にそんな声が投げかけられて眉を顰めた。
ゆっくりと瞼を持ち上げれば、部屋の中にはさっきまでいなかったはずの存在がいた。
相変わらず迷惑な神出鬼没っぷりだ。思わず舌打ちしたくなる。
そいつはソファの背もたれから体を乗り出し、人の悪い笑みを浮かべながらこちらを覗き込んでいた。
「覗きとは趣味が悪いな」
「神の娯楽なんて、人間界と魔界の覗き行為ぐらいしかないからね。下手に関わっちゃうと世界の均衡崩しかねないしさ」
悪びれずに言うのは、人間の子供と大人の中間のような姿の凡庸な顔の少年だ。
神を名乗る割に、人間が思い描いているような荘厳さや美麗さなどはない。会う度に年齢も性別も違うが、どこにでもいそうな顔というのは一定して変わらない。
ほとんどが神を信じるこの世界では、神は誰に心の中にも「いて当たり前」の存在だ。
だからこそ、どこにもで溶け込んでしまえるような、どこに存在していてもおかしくない姿になるらしい。
らしい、というのは私も神の生態などよく知らないからだ。
たとえ自分がこの神によって生み出された、神の使い魔的な存在であっても。
「いちいち人間の微調整などに手間を掛けるぐらいなら、均衡を崩して滅ぼした方がいいんじゃないのか」
「これだから魔王は。出来が悪いからって、我が子を皆殺しにするほど僕は勝手じゃないよ。だいたい人間を滅ぼしていたら、君は君の最愛のお姫様にも出会えなかったんだよ?」
わかってるのかい? と言いたげな視線を投げかけられて、苦虫を噛み潰した様な顔になった。
そんな私の姿を見て、くっくっと神が喉を震わせる。
「本当に魔王は人間の姫に弱いよね。まぁ、僕がそう作ったんだけど」
面白そうに目を細めて、試すような眼差しで見つめられる。
こちらを窺う黒い瞳には光はなく、気を抜けば心を飲み込まれてしまいそうにも思える。
こういうところが、やはり相手は神だと実感させられる一面だ。
「歴代の魔王はほぼ人間のお姫様に恋をしてきたけど、今度の魔王は特に揺るがないね。随分前に運命には屈しないって言って、竜の娘と添い遂げた魔王もいたことはいたけど。君は抗わなくていいのかい?」
『魔王』という種族は、人間の姫に恋をするように出来ている。
いわば、人間の姫は魔王の制御装置だ。魔王は自分の愛する女を生み出した種族を安易に絶滅させたり、過剰に傷つけたりできないように働きかけるための。
歴代の魔王の中には、それが気に入らなくて抗った者もいたことはいたのだろう。
「抗う必要性がない。何も困っていないからな」
しかしながら、自分にとってはこの一言に尽きる。
好む相手が決められている? それがどうした。
たとえば大半の人間の男は、人間の女に恋をする。いちいちそれが気に入らなくて抗ったりするか?
大抵はしないだろう。そういうものだと疑問にも思わない。
自分にとっては、人間の姫がそういう対象であった。それだけのことだ。いちいち疑問を抱いて反発するようなことでもない。
(とはいえ、最初からそういう意味でエステルを気にかけていたわけじゃないが)
初めてエステルに気がついたのは、あれがまだ幼い頃だ。
ちなみにいくら人間の姫であっても、まだそのときはそういう対象として気に掛けたわけじゃない。
最初はエステルにも告げた通り、耳障りだったからだ。
子供のくせに、毎晩のように声を殺して悲痛に泣く。それが聞こえてくるだけでやけに胸が締め付けられて、息苦しさを覚えた。
魔族なら負の感情が心地いいものなのだが、それなりに好みはある。
たとえば普通の子供のように、一瞬だけ嵐のように泣き叫ぶだけのものなら特に気にしなかった。
しかし幼い子供にあんな風に声を殺して誰にも気づかれないようにひっそりと泣かれると、寝覚めが悪くて仕方がない。
魔王の役割として人間の数を調整する為に非道を働くこともあるが、別段人間そのものを憎んでいるわけではない。幼い子供があんな風に泣き続ければ、それなりに気にはなる。
それでもしばらくは誰かが慰めに来るだろうと放っておいた。あんなに幼い子供なのだから、親なりなんなりが対処するだろう。
そう高を括っていたけれど、一向に泣き止む気配がない。
それで仕方なく、泣き止ませるために渋々その娘の様子を見に行ったのだ。
『おかあさま、おかあさま……っ』
か細い声で、随分と黒ずんだ毛むくじゃらのぬいぐるみを抱えて娘は泣いていた。
ぬいぐるみの腹に顔を埋めて、声が漏れないように泣く。
(なるほど、母親を亡くしたのか)
当時の私は、それにたいした感慨も湧かなかった。
親を持たず、同一の種族も持たない私にとって、同族を失くすという意味がよくわからない。
ただ人間ならば父親もいるはずだが、現れないということはこの娘に関心がないということなのだろう。
そして昼間にこの娘が泣かないのは、姫という立場上、気丈に振る舞わざるをえないということなのだろうと辺りを付けた。
私には関係のないことなので、それに対してもたいした感情は湧かなかった。そういうことか、と思っただけだ。
しかし泣く理由はわかったものの、こういう場合の良い対処法がわからない。
魔王であっても、死した人間を蘇らせることは出来ない。神に頼めば出来ないことはないかもしれないが、奴に頭を下げるほどのことでもない。
(……これでいいか)
娘が毛むくじゃらのぬいぐるみにしがみついていたので、ああいうのが好きなのかと似たような使い魔を作り出した。
怖がらせないよう、小さな黒い犬を模した魔獣。
娘が好みそうな、柔らかい毛の手触りの良い子犬だ。思った通り、娘は最初は驚いたが使い魔が擦り寄れば涙を止めた。
抱き締めて濡れた頬を摺り寄せ、ほんの少しだけ笑う。
その顔を見て、なぜか少し安堵した。
……たぶんあれが、安堵というものだったのだと思う。
使い魔は娘に気に入られて、こっそりと飼うことにしたようだった。
アレは負の感情を食べて育つ。誰にも相手にされない娘の嘆きを聞いて成長し、きっと娘を気に掛けない父親も噛み殺してくれることだろう。
そうなれば、娘の気も晴れて泣き止むに違いない。
そう疑ってもいなかった。
(まったく育たなかったわけだが)
こちらの予想に反し、使い魔は育たなかった。
エステルに負の感情がなかったわけではない。使い魔をくれてやっても、完全に代わりになるというわけにはいかなかったようだ。
使い魔を通して、悲しむ気持ちは伝わってきていた。
けれど負の感情よりも、エステルが使い魔に向ける愛情の方が凌駕していた。娘の行き場を失くした本来は親や周りに与える愛情を、すべて私の使い魔に注いでいたのだ。
『ナイト、きて。だいすきよ』
使い魔を通して聞こえてくる声は甘く、撫でてくる手は優しかった。
抱き締める腕はあたたかく、柔らかい銀の髪が鼻先に触れるとくすぐったかった。
魔界のくすんだ空では見られない空色の瞳に愛しそうに見つめられる度に、胸が震えた。
『おまえだけは、私のそばをはなれないでね』
与えられる愛情は密のように甘く、けれどそれは魔素のない世界で生きる使い魔にとっては毒でしかなかった。
いつしか娘から負の感情が薄れていって、愛情だけを注がれれば弱体化していく。いつしか使い魔を通しての声も、姿も、ぬくもりも私には届かなくなった。
それでも、あの娘が泣き止んだのならそれでいいと思ったのだ。
当初の予定とは違ってしまったが、娘がそれでよしとするのならかまわないと、そう思った。
すっかり弱り切った使い魔が人間の前で姿を隠すことも出来ず、殺されてしまうまでは。
(また泣かせることになるとは思わなかった)
使い魔を殺されて、またも娘は泣いた。
泣いて泣いて、目が溶けてしまうのではないかと思うほど毎夜のように泣いた。
今度ばかりは軽率に使い魔を与えた自分のせいでもあり、どうしたらいいのかと途方に暮れた。
また作ることは簡単だ。しかし、結局は同じことの繰り返しだろう。
それに私が使い魔を与えたことで、エステルは魔付きの娘だと囁かれて疎まれることにもなってしまっていた。
時折、あの娘を疎んだ義母からの嫌がらせもあったのだが、私にわかる範囲で弾いていたせいで余計に魔に魅入られているのだと噂になった。
元々あまり望まれた立場ではなかった娘だから、それは切っ掛けに過ぎなかったのだろう。
しかしあの娘がより孤立する要因を作ったのは、紛れもなく私である。
(私が出した助け舟は、泥舟でしかなかったのだろうな)
あの娘を乗せた船は、溶けて沈み行くだけの代物でしかなかった。
良かれと思ってやったことが、まさに魔王の所業だったと言える。今思えば、あの時点で私があの娘を手に入れる為の布石は打たれてしまっていた。
たぶんとっくに私は、エステルに惹かれていたのだろう。
否、最初に泣き声を切り捨てられなかった時にはもう、手遅れだったのかもしれない。
笑う顔を見れば安堵した。
撫でてくる小さな手が可愛くて、愛しかった。
柔らかく波打つ銀髪が触れるとくすぐったくて、その輝きによく見惚れた。
抱き締めてくれる腕は細く頼りないのにあたたかくて、その心地よさにずっと抱かれていたいとすら思った。
魔界では見られない明るい空を映したような瞳で見つめられるだけで、心が浮き立った。
『ナイト。おいで』
名前を呼ばれる度に、どうしようもない幸福感に包まれる。
胸がじわりと熱を持つあれを、きっと人は幸福と呼ぶのだろう。
すべて使い魔を通してではあったけれど、それが自分に与えられているように感じていた。
これが「愛しい」ということなのだと、認めるのに随分と時間が掛かった。
エステルに出会うまでは、人間などどうでもよかった。
滅ぼうが、自滅しようが、好きにしろとしか思わなかった。
人間が自滅していきそうな気配を察すると神は魔王を生み出すが、神も大概いいかげんだ。
人間を救済するように見えて、生みだした魔王がどうするのかを面白がっている節もある。たとえば私が人間を放っておいたとしても、それならそれでいいと思っていたのだと思う。
……けれど結局、奴の目論見通りになったというわけだ。
だからといって、それに反発するほど反骨精神に溢れているわけではない。
なるほど、これが運命というものかと妙に納得しただけだ。
――それでも娘と大国の王との結婚が決まった時、それはそれでいいかと最初は思った。
魔王に娶られたところで、人間の娘が幸せを感じられるとは思い難い。
普通に人として、人と生きるべきだろう。それが娘の幸せになるのだと自分に何度も言い聞かせた。
半ば厄介払いのような扱いだったとはいえ、用意された席は大国の正妃。
既に側妃がいるとはいえ、相手は根が悪い人間ではない。
国を大きくしようと企んでいることだって、自国民を豊かにするためだと考えれば一概に悪であるとも言えない。だから見逃してやろうと、直前までそう思っていたのだ。
『……いっそ誰か、さらってくださればいいのに』
エステルが、泣いてそう口にするまでは。
(おまえがそう願うなら、私はおまえを連れていこう)
ここはおまえが望む場所ではないかもしれない。
余計に心折れる場所かもしれない。
私がおまえに与えられる物は普通の人ならば羨むほどにあるだろうが、物があれば幸福というわけでもないだろう。
それでも、私が与えられるものはすべてやろう。
おまえが思うように、人のようにうまくは愛せないかもしれない。それでも傷つけないよう、怖がらせないよう出来るだけ努力はしていくつもりだ。
おまえが私の隣で、私に笑いかけてくれるように。
――かつてのように愛しげな眼差しを向けて、甘い声で私の名を呼んでくれるように。
「まぁ、魔王がそれで納得してるなら僕はいいんだけどね」
その声で、物思いに耽ってしまっていた意識を引き戻された。
(そういえば、まだこいつがいたな)
どうでもいいから意識から排除していた。
冷めた眼差しを向ければ、なぜかひどく満足そうに微笑みながら見つめられている。思わず眉を顰めてしまう。
「僕はこれでも我が子も愛してるんだよ。人間は勿論、魔王もね。我が子の幸せを願うのは当然だろう?」
その言葉が気味が悪くて顔を顰めれば、「失礼な反応だな」と唇を尖らせる。はっきり言って、そんな態度を取られても苛立つだけだ。
「そう思うなら、覗きはやめてもらいたいものだな。不愉快だ」
「これだけが楽しみで生きているのに」
「じゃあ、さっさとくたばるがいい」
「ひどいこと言うなぁ。遅い反抗期かい?」
からからと笑いながらも、神は嬉しそうな顔をしている。本当に気味が悪い。
「ま、邪魔はしないよ。馬に蹴られて死にたくないしね」
やっと満足したのか、うんうんと頷いて足元から姿が沈んでいく。影から溶け込むように、この魔界よりも更に下、生者は誰も行きつけない深淵へと。
やっと帰ってくれるかと、心から安堵する。
しかし残りが頭だけになったところで、「ああ、そうそう」と軽い口調を投げかけられた。
「はやくお姫様に名前呼んでもらえるようになるといいね。多分あの子、忘れてるよ」
「うるさい。とっとと消えろ」
ひらり、と手を振って消える影に向かって本を投げつけたが、それより早く姿は消えた。
対象物を失くして本だけが床に落ちたことに舌打ちして、一気に疲労感に襲われる。
「……名前、な」
魔族にとって、名前というのは特別なものだ。
名前を知られるだけで、呪を掛けられる。だから魔族同士は、よほど近しいものでない限りは種族で呼び合う。
エステルもそれを知っているから私に名前を聞かないのかもしれない。
(いや、エステルの場合、単純に私の名を「魔王」だと思っていそうな気もするな)
魔王というのは、いわば種族の名称でしかないのだが……。
そして魔族にとって名前が大事だと言うことも、わかっていない気がする。教えた覚えもない。
だから今の使い魔には、カヌレという菓子の名前が付けられているのだろう。今となっては、最初の名がショコラやマカロンなどでなくて良かったと心から思う。
「忘れているというより、わかってないんだろうな」
エステルが最初の使い魔に付けた名前。
あれは使い魔ではあったが私自身でもあったわけで、当時名前のなかった私はエステルに呼ばれて初めて、その名前になった。
名前が無いなら無いでかまわないと思っていた当時の私は、まさかそんなことになるとは思っていなくてかなり驚かされた。
呼ばれた時の拘束力は、想像を絶するものだった。なるほどこれが名に縛られるということかと、半ば感心した。
けれどもしかしたら自分がそう望んだからこそ、その名が自分のものになったのかもしれない。
甘い声で名を呼ばれるという行為が、ひどく心地よかったから。