魔王様の部屋にお邪魔する
「ガーゴイルなら心配しなくてもいいから、少し待っていろ」
魔王様はそう言いおくと、やんわりと私の手を離して部屋に入ろうとした。
「待ってくださいっ。それでもここで待つのはちょっと……暗いのは、得意ではないのです」
石像ではなく、魔族だとわかったからといって恐怖心が消えるわけではない。
魔族であれば私を傷つける心配はなくなるのだけど、本能的な恐怖というのはそう簡単に拭えるものじゃない。
ガーゴイルには大変申し訳ないけれど、やっぱり顔が怖い。
それに暗い城の中に一人で取り残されているように思える状況が、あまり得意ではなかった。ガーゴイルがいるから、厳密には一人というわけじゃないのだけど。
(昔を、思い出してしまうのだもの)
しんと静まり返った後宮の中、夜になると周りから誰もいなくなった。
泣いていても、誰も気づいてくれなかった。もしかしたら気づかれていたかもしれないけど、気にかけてもらえなかった。
なぜか私の部屋の周りだけ衛兵も付けられていなくて、ひとりぼっちにされてしまったかのような恐怖があった。
自分は見捨てられているのではないかという不安が、いつも付きまとっていた。
今は魔王様がいるのだから、そんなことはないとわかっている。でも刻み込まれた記憶をふとした瞬間に思い出す。
『また来るよ。いい子で待っていなさい』
私の父王は、帰る時に必ずそう言った。けれどほとんど、母と私の元に来ることはなかった。
いつしか、「待っていなさい」と言われることが苦痛になった。
だってどれだけ待っていても、結局、私たちの元には戻ってこなかったのだから――。
「魔王様に探していただく間、部屋の隅に置いておいてくださるだけでいいのです。おとなしくしていますから」
なんとなくその時のことを思い出してしまって、不安に駆られて魔王様の服を掴んだ。
「私の部屋に入るのか?」
すると魔王様は息を呑んだ後、とても渋い顔をした。
歓迎されていないことが伝わってきて、ぎくりと胸が竦む。拒絶されていることが怖くて、服を掴んでいた手を反射的に離した。
(……だめなの?)
魔王様は毎日お休み前に私の部屋に立ち寄られるけれど、よく考えたら私は魔王様の部屋に入ったことがなかった。
なんとなく当たり前に許されると思っていたから、そんな態度を取られるとどうしていいかわからなくなる。
「私がお邪魔したら、だめなのでしょうか……?」
無性に不安になってきて、空っぽになった手に無意識に力が籠った。
握りこぶしになった手を、魔王様が困った顔で掬い上げる。
「部屋に入られても私は困らないが、エステルは困るだろう」
「? 私も困りませ……」
意味のわからないことを言われたので反論しかけて、不意に思い出した。
以前、ここに来る前の城で読んだ魔王に関する本では、魔王様は極悪非道、冷酷無比な存在として描かれていた。
脳裏を過っていったそれに、まさか、という不安が湧いてくる。
魔王様は私にはとても優しい。
けれどもしかして、本当にもしかしてだけど。
私室には、私には見せられない嗜好のものが置かれていたりするの!?
「私が見たら恐ろしいものでも、置かれているのですか? その、たとえば、骸骨の飾りとか……っ?」
思い出した本の挿絵を口に出しただけで、心臓が凍り付きそうになる。
魔王様を受け入れたい気持ちに偽りはないのですが、それは……っ。もしそうなら、私も知りたくはない嗜好です! そこまで愛せる自信がありませんっ!
顔を引き攣らせて、魔王様を見上げる。
すると魔王様は慌てて私を引き留めるように手に力を込めた後、深く嘆息を吐いた。
「あるわけないだろう。仕事で非情にならなければいけないこともあるが、私個人の嗜好としてそういうのは全くない」
「そうですよね……っ。ごめんなさい。早とちりしました」
動揺していたせいもあったとはいえ、馬鹿なことを言った自分が恥ずかしくなって顔が熱くなる。
本当にごめんなさい。だって魔王様が紛らわしい言い方をされるから、恐ろしいことを考えてしまいました。
やはり先入観を持つのはいけません。
魔界では花は動くし、石像も動くし、魔王様も怖い方ではありません! きっとそれが常識なのです!
「そんなおかしな心配をするぐらいなら、入るがいい」
魔王様はもう一度溜息を吐いた後、私の手を引いて部屋の中へと足を踏み入れた。
「!」
引かれるままに入った部屋は、柔らかい色調で揃えられた私の部屋とはずいぶん雰囲気が違っていた。
全体的に重厚な落ち着いた色調で、使用されている調度品も年季が入っているように見える。壁には大きな書棚が並んでいて、長ソファには読みかけらしい本が数冊積んであった。
ソファの前のテーブルには飲みかけのグラスが置かれていて、私が呼び出す前はきっと寛がれていたのだろう。
私が一瞬不安に思ったような要素は、欠片もなかった。
早とちりして疑ってしまったことに、申し訳ない気持ちが溢れてくる。
「問題があるか?」
「本当にごめんなさい」
「わかればいい」
魔王様はあっさりと私の無礼を許してくれた。
さすがに今回は怒られても仕方ないことだと思うのに、やっぱり甘いと思うのです。それでも、すぐに許されたことにほっとしてしまう。
「部屋の中を歩き回ってもかまわないが、特に面白いものはないはずだ。私は服を探してくる」
「はい」
促されるままソファに腰かけると、魔王様は続き間へと入っていった。
開いた扉からベッドが見えるので、あちらは寝室なのだろう。衣裳部屋もそちらにあるとだと思われる。
行儀が悪いと思いながらも、待っている間にそわそわと落ち着かなくてさりげなく周りを見渡した。
歩き回ってもいいとは言われても、さすがにそこまでは出来ない。けれど座って見ているだけでも心が浮き立つ。
(ここが、魔王様が普段いらっしゃる部屋……)
仮眠用らしいブランケットは無造作にソファの背に掛けられていて、生活感が滲みだしている。私の知らない魔王様を垣間見た気分。
今更だけど、心臓がトクトクと早鐘を打ち出す。
(ちょっとくすぐったい)
緊張もしているけれど、それより興味の方が勝る。
どんな本を読まれているのかと、置かれていた読みかけの本を捲ってみる。
難しくて、全然わからなかった。まだ私が子供向けの簡単な魔族語しか読めないせいだけではない難しさがあった。すぐに断念して、再び部屋を見渡す。
私の部屋とは、本当に雰囲気が違う。魔王様はこういう落ち着かれた部屋がお好きなのね。
(私の部屋はもっと明るいし、置いてある調度品も新しくて可愛いのだけど。魔王様が選んでくださったのかしら)
普段はこういう部屋を好まれている魔王様が、どんな顔で私の部屋を整えたのかと考えるとちょっと幸せな気持ちが湧いてくる。
私の部屋も、ドレスも、そういえば不思議と私が好むものばかり。
子供の頃から私を知っていたというのなら、好みも把握されているということなのだろうけど。
(これはとても愛されてる、ってことなのではないでしょうか……っ)
時々やりすぎですっ。と思うことも多いのだけど。
こんな風に愛されたことってなかったから、人によっては重いと思うのかもしれないけれど、私は嬉しい気持ちの方が強い。
「エステル。これでいいか?」
一人で照れて赤くなっていたところに、魔王様が戻ってきた。手に持ってきた服を私に差し出す。
「ありがとうございます」
御礼を言って受け取ったそれを、立ち上がって自分の体に当ててみる。丈が少し長いけれど、引きずるほどではなさそう。
「少し大きいが着られないほどじゃないだろう。私が着ることはもうないし、返さなくてもいい」
「ありがとうございます、魔王様」
改めてもう一度お礼を言って、受け取ったそれを胸に抱きしめると安堵で頬が緩む。
よかった。これで明日を無事に迎えられそう。魔王様にコルセットを締めていただくなどという、とんでもない経験をお互いすることなく済みました。
「それでは、私はこれで失礼させていただきます。夜分にお騒がせして申し訳ありませんでした」
しかし私はお暇する言葉を告げたというのに、なぜか魔王様が私の手を取ってソファに腰を下ろした。
手を取られていたので、私もつられる形で再びすとんとソファに腰かける。
「魔王様?」
「これで何もなく帰れると思っているところが、エステルらしいが」
「はい?」
私を見つめる金色の瞳に、不意に心臓がドクリと跳ねた。
蠱惑的な眼差しに動揺して固まった隙に、伸びてきた手が私の頬を撫でて耳朶に触れる。
「っひゃ」
くすぐったくて、一瞬目を閉じて身を竦ませた。
次に目を開けた時には、至近距離に魔王様の顔があった。それこそ、唇に息がかかる距離で。
「まお……、っ!」
驚いて目を丸くした視界が、あっという間に魔王様だけで埋め尽くされた。呼びかける声は唇によって塞がれて、口に触れた熱に全身が震える。
一気の頭の芯が熱を持ち、思考が奪われた。
「ん……っ」
熱い。息の仕方、思い出せない。
時折ずらされる唇から必死に息を吸おうとしても、すぐに塞がれてくらくらした。触れている場所だけに神経が集中して何も考えられない。
無意識に魔王様にしがみついて、与えられる熱に堪えるだけで精一杯。
「待っ…て、まおうさまっ。こわいっ」
体中が熱くて、頭の中まで全部熱くて、勝手に目が潤むのがわかる。
このままだと自分が溶けていきそう。
それがちょっと、怖い。
未知過ぎて、怖い。
ようやく離れた唇から息も絶え絶えに訴えれば、余裕のない顔をした魔王様と目が合った。
「夜に一人で夫の部屋を訪ねてくるということがどういうことか、理解できたか?」
「!」
言われた言葉を脳内で噛み砕いて、ようやく魔王様が最初に複雑そうな顔をしていた理由に思い至った。
(あれはそういうことだったの!?)
やけに渋っていらしたのは、こういう意味で!?
明日の服のことだけで頭がいっぱいで、まったくこういうことは考えていませんでしたっ。朝、寝間着姿で城を歩き回るのもどうかと思って来てしまっただけで、よく考えたらこれは。
夜這いに来たと思われてもおかしくない!
「私まだ、そんなつもりではなくて……っ!」
顔がさっきとは違う意味で真っ赤に染まった。狼狽えて言い募る自分の間抜けさに泣きたくなってくる。
自分の行動の浅はかさに全身の血が沸騰しているんじゃないかと思えた。頭の中は羞恥で塗り潰されて、耳まで熱い。
全身が心臓になったみたいにバクバクと大きく脈打つ音が響いて、今にも弾けてしまいそう。
(違うの! 違うのです!)
いえ、そうなるのが自然だとわかってるんですけどっ。今夜はまだそんなつもりではなかったのです……!
「だろうな」
猛烈に焦る私を見つめ、眉間に皺を寄せたまま魔王様がゆっくりと私から距離を取った。
「カヌレ、来い」
そして不意にそう呟くと、魔王様の影からにゅっと黒い獣が姿を現す。驚く私にかまうことなく、カヌレは私の足元にまとわりついた。
「部屋まで送ってやりたいが、生憎と私も余裕がない。このままだと送り狼になりそうだからな。カヌレと部屋に戻るといい」
そう言って、魔王様は少し疲れたようにソファの背に体を預けた。
(呆れられてしまった……?)
いつまでも子供だから。臆病だから。急に不安になって、恐る恐る口を開く。
「……あの、怒ってらっしゃいますか?」
「いや。そんなつもりはないだろうとわかっていて部屋に招いたのは私だ。ただこれ以上長居されると、私の理性も持たない」
言いながら、魔王様はひらりと手を振る。今日のところは見逃してやる、と言わんばかりの態度に迷いながらも立ち上がる。
(本当に、怒ってらっしゃらないの?)
こんな真似をしておいてなんだけど、けっして焦らして弄んでいるわけではない。恥ずかしくて、まだ怖いだけで。
でもそんな我儘のせいで、嫌われたくはない。
(どうしよう……っ)
でも心の準備なんてしていなかったから、怖い気持ちも捨てきれない。心音はバクバクとずっと鳴り響いていて、その場に立ち竦む。
困惑して躊躇う私を見上げ、魔王様は微かに安心させるように笑った。
「無理強いはしないと言っただろう。私はおまえよりずっと年上だし、まだ余裕のある男でいさせてくれ」
そう言いながらも私を見つめる熱を帯びた視線に、辛めとられそうになる。
私は自分の部屋と、魔王様と、どちらに足を向ければいいのかわからなくなる。
「それとも、覚悟があるなら泊まっていくか?」
「っおやすみなさいませ!」
けれど挑発的に笑って言う魔王様があまりにも心臓に悪いぐらい艶っぽくて、私の知らない人みたいで。
まだ私にはそんな魔王様は早すぎるみたいで、一気に心臓も羞恥心も耐えられなくなって部屋に逃げ帰ったのでした。