魔獣はとってもよく育つ
「犬をやると言っただろう。私の使い魔だ」
驚いてしがみついた私の背を宥めるように撫でて、魔王様がそんなことを口にした。
恐る恐る足元を見れば、黒い毛玉だったものが子犬の形になっている。
たぶん先程の魔王様の髪と血で作られた、小さな魔獣。
「子犬?」
魔王様にしがみついていた腕を離して、その場に屈み込んだ。
見上げてくる瞳は金色で、小さな体を覆う毛並みは黒くて艶やか。
そっと手を伸ばして触れてみた毛並みは思ったより硬いけど、その手触りにも覚えがあった。
私はこの子犬のような魔獣とよく似た子を、知っている。
「小さい頃に内緒で飼っていた子に、そっくり」
「あれも私の使い魔だったからな」
「はい!?」
驚いて呟いた私の声を聞きとめて、魔王様はあっさりとそんなことを口にされた。
弾かれたように顔を上げれば、魔王様はなんてことないように頷く。
「小さい頃、おまえの母が亡くなってからずっと泣いてばかりいただろう。うるさかったから、慰みになればと思ってアレをおまえの元にやったのだ」
うるさかったからという理由はともかく、私が拾った人懐っこい魔獣が魔王様の使い魔だったとは思わなかった。
あの頃、魔獣を匿うのが悪いことだとはわかっていた。
けれどあの子はとても大人しくて、悪いこともしなかった。泣けば涙を舐めてくれたし、淋しくなれば寄り添ってくれた。
正妃である母が亡くなっても父王や義母達から顧みられなかった私は、あの子のおかげで随分と救われていた。
「魔王様の使い魔だったのですね」
撫でる毛並みは柔らかく、抱きしめるとあたたかかったことを思い出す。
あんな頃から魔王様に助けて頂いていたのかと思うと、驚きと嬉しさが胸いっぱいにせめぎ合う。
「ああ。これは人の負の感情を栄養にして育つ。おまえが悲しんで人を呪うほど大きく育って、おまえの嫌う人間を食い殺してくれるはずだったのだが」
「っそんな恐ろしい子だったのですか!?」
けれど、予想もしていなかった衝撃の事実を教えられて思わず目を剥いた。
咄嗟に撫でていた手を離し、隣に佇んでいた魔王様の足にしがみついてしまう。
なんて恐ろしい使い魔を寄越すのですかっ。
私はとんでもない悪事に加担させられるところだったの!?
「それに関しては悪かった。私も若かったのだ……多分、今のエステルぐらいの頃だな。まだ人のことなどよくわかっていなかったから、良かれと思ってやったつもりだった」
涙目になって見上げた私を見下ろし、魔王様が本当に申し訳なさそうに眉尻を下げた。
魔族の良心、斜め上すぎてさすがにちょっと……っ。
今のは私でも怖かったです!
ですが見る限り、今は改心してくださったようなのでなんとか受け入れる努力はしますけれどっ。
「だが、私も知らなかったが愛情を掛けると負の感情は相殺されてしまうようだな。全然大きくならなかっただろう?」
「なりませんでしたけど……」
一緒にいたのは半年ぐらいだったと思う。
けどいつまでも小さな子犬のような姿のまま、私の傍にいた。
最終的にあの時の魔獣は見つかってしまって、取り上げられて処分されてしまったけれど……。
今の魔王様の言葉を聞けば、人側がした行為も咎められることではないと思ってしまう。
それでもあの時の私は悲しくて悲しくて、それからまたしばらく泣き暮らした覚えがある。
「使い魔は私の予定通りに育たないし、小さなおまえはまた泣くばかりであの時は私も困り果てた。どうしたら泣き止むのかと、それから随分観察したものだ」
「観察されていたのですか!?」
「思えば、あれが私をエステルを気にかけるようになった切っ掛けだな。おかげで人間の生態にもそれなりに詳しくなった」
魔王様、いったい何をされているのですか。
私の知らないところで私を知られていたというのは、とても恥ずかしいし複雑なものもある。
(けれどそのおかげで、今こうして魔王様の妃になっているのだから)
そう考えると、怒るのも躊躇われる。
結果良ければすべてよし、と思うべきなのでしょうか。
(でも世間一般的に見て、魔王様の行いは褒められることではないです!)
教えてあげるべきなのでしょうか。
でも魔族だから、それが普通かもしれません。人間の常識を押し付けるのも躊躇われる。
だけど複雑すぎて、どんな顔をしたらいいのかわからない。
じと目で魔王様を見る私を見て、魔王様はバツが悪そうに「すまなかった」と謝ってくれた。
覗き行為はいけないことだとわかって頂けているのなら、とりあえずはいいです。
それに人である私に歩み寄ろうとしてくれたことは、嬉しいです。
「とりあえずこれは、護衛代わりに連れ歩くといい」
そう言いながら魔王様は魔獣を片手で拾い上げた。しゃがみこんでいた私の手も取って立ち上がらせる。
そして首根っこを掴んだ魔獣を私に向かって寄越そうとした。
「あの、この子も大きく育つのですよね……?」
金色の愛くるしい目で見つめられるけれど、どういう生き物かを説明されてしまった手前、ちょっと怖い。
いえ、今はまだ可愛いです。
それに魔王様がわざわざ作ってくださったわけですから、愛情は掛けますけど!
でも差し出された魔獣を素直に受け取るには、ちょっと勇気が必要。
だって育て方を間違えれば、ガブッとしてしまうのでしょう!?
「愛情を掛ければそこまで大きくはならないのは実証済みだ。ただここは魔界だから魔素の影響で多少は育つだろうが、エステルを噛んだりはしないから安心していい」
魔王様は安心させるように微笑む。
私を噛まなくても、もし私を傷つけようとする方がいたら噛むのでは!?
(でも以前、鳥に襲われかけた時のことを考えると、それはそれでいいのかしら)
こう考えること自体、私も魔族に感化されているのかもしれない。
いつか私は魔王様と似たもの夫婦になってしまうのでしょうかっ。
(怖いところは、あまり似ない方がいいと思うの)
そうならないためには、心を強く持たなければ……!
そう心に決めてから、魔王様が差し出し続ける魔獣を覚悟を決めてそっと手を伸ばして受け取った。
抱き上げた体は思ったより軽くて、昔と同じようにあたたかい。
(可愛い)
大きくなると怖い生き物だと知らされても、やっぱりこうして抱くととても可愛い。
単純なので、すぐに顔が綻んでしまう。
(これ以上大きくならないよう、愛情いっぱいに育てればいいことです!)
噛んでもそこまで困らないぐらいのサイズを保ってみせますとも!
……というか、どこまで大きくなるのかしら。大型犬くらい?
「念の為にお伺いしたいのですが、最大でどのぐらい大きくなるのでしょう?」
「エステルが乗って移動できるぐらいにはなる」
恐る恐る伺えば、予想外すぎる答えが返ってきた。
そんなに育つの!? 噛んだら大惨事になってしまう!
「そうならないように、愛情いっぱいに育てますね」
それだけは絶対に阻止しなければならない。
神妙な顔をすれば、魔王様が「乗れたら便利だろう?」と首を傾げた。確かに便利かもしれないけど、それ以前に困ることが出てくる。
「そんなに大きくなったら、お部屋に入らないではありませんか。外や廊下に寝かせるわけにはまいりませんし、扉につかえてしまうぐらい大きくなるのは困ります」
「……その発想はなかった」
魔王様を目を瞠ったけれど、とても大事なことだと思うのです。
「あまり大きくならないでね」
腕の中の子犬のような魔獣を覗き込んでお願いすれば、甘えるように唇をペロリと舐められた。
くすぐったくて、肩を竦めてちょっと笑ってしまう。
魔王様にも先程同じことをされたけれど、この子の場合は単純にじゃれているだけだから緊張もしない。成分は同じ魔王様なのに。
「なぜ私が同じことをしたら緊張するのに、それがやったら嬉しそうなのだ?」
「え…、っ!?」
けれど、魔王様は私と同じようには微笑ましくは思わなかったようだ。
不機嫌そうな声で言われて、驚いて顔を上げたら不意に肩を強く引き寄せられた。あっと気づいた時には、息がかかりそうな距離に魔王様の顔がある。
「まお……、んっ!」
唇に唇が押し付けられて、熱くて濡れた感触が唇に触れた。
魔王様、と呼ぶために口を開いたら、そこから熱いものが捻じ込まれて全身が強張る。
(えっ、これ……し、舌っ)
思い至ると同時に、全身が一気に熱を帯びる。
頭の中はもう何も考えられなくて、口の中、舌に触れられたら全身にぞくりとした震えが走った。
「はっ……んんぅっ」
与えられるままに翻弄されて、全身が心臓になったみたい。
触れ合った場所に神経が集中して、ちゅっと音を立てて吸われると心臓が一際大きく跳ねる。
考えている余裕なんて欠片もない。たまに僅かに開く唇の隙間から息をするので精一杯。
ドクドクと大きく速く跳ねる心音と、息継ぎする音だけが妙に響いて聞こえた。その内呼吸も忘れて、頭の芯が痺れてくらくらしてくる。目を開く余裕は当然、ない。
顔、熱い。
耳まで熱い。
吐き出す息も熱くて、いつの間に唇が離れたのにも気づけないぐらい、ぼうっとしていた。
(いま……私、魔王様と)
ゆっくりと瞼を持ち上げれば、私を覗き込む金色の瞳と目が合った。
「まおうさま……?」
そこでようやくいま自分の身に起こったことを今更ながらに理解する。
(き、きき、キス、してしまっ……っ)
大人のキスでした。
結婚しているわけですから、遅いぐらいなのですけれど!
でも驚きすぎて、込み上げてくる羞恥で全身の血が沸騰しそう。恥ずかしすぎて、魔王様の顔が見られない!
咄嗟に顔を俯かせれば、魔王様が小さく息を吐く音が聞こえた。
「さすがにちょっと大人げなかったか……。悪かっ、」
「いやでは、ありませんから!」
謝られると思った瞬間、反射的に顔を上げて遮っていた。
謝られたいことではないし、むしろ一歩大きく前進したことに祝杯をあげてもいいぐらいです!
「おどろきは、しましたけど……っいやでは、ないです」
ただ蚊の鳴くような声になってしまって、恥ずかしくて真っ赤に顔が染まってしまっているのは多めに見ていただきたいところですっ。
「そうか」
私の真っ赤になっているだろう耳に触れる手は優しくて。
私を見つめて満足そうに微笑む魔王様は、とても嬉しそうな顔をしていた。