7.安息
風呂場から出たアリスは、肌触りの良さそうなモコモコとしたルームウェアを着ていた。フード付きで、上は長袖、下は腿上まで。似たようなものを妹も持っていた気がする。夏に纏うには暑苦しそうだが、気温の穏やかなこの世界でなら違和感はない。
「材料がないので、大したものはできませんが」
伏し目がちに断りながら、アリスは木目の美しい器を持ってきた。湯気が立ち、何とも美味そうな香りが鼻孔に入ってくる。
「いや、これは大したものだ」
シチューだった。タマネギやジャガイモ、ニンジンといった野菜に、肉も多く入っている。それに、パンも添えられている。
「ジャガイモもあるのか」
スプーンで掬いながら、感心した。ここは中世ではない。ジャガイモが存在していても不思議ではない。
「内政系主人公の方々に感謝して、いただきましょう」
アリスは憑き物が落ちたように晴れ晴れと微笑んだ。
なるほど、様々なジャンルのキャラクターたちがエタられ、ここで生活しているのだろう。戦闘だけが能じゃない。適材適所で農工を発展させてきたようだ。現代日本人の知恵を持ち、さらに魔法等も扱えるのだから、その生活水準はよく目にする中世ヨーロッパ風の異世界とは一線を画すという訳である。
味も文句なく、美味い。
相当腹が減っていたらしい。ツヅルが夢中で食べていると、アリスはまた笑った。
「ほら、慌てないで。いっぱいありますから。あ、ワインやエールも」
「それはまずいだろう」
「そうでした。そちらではお酒は二十歳からですもんね」
「ここではいくつからなんだ?」
「うーん。バラバラ、ですね」
聞いておいてなんだが、少し考えれば分かることだ。現実世界ですら国によって文化も法も異なるのだから、このエタ小説の入り乱れた異世界に単一性を見出すこと自体が無謀というか、無意味であった。
「アリスは飲まないのか?」
別に遠慮することはない。そういう意味で言った。
が、彼女は少しだけむくれて、
「私をお酒が飲めないキャラに設定したのは、どこの誰でしょうね」
じっとツヅルを睨んだ。
また地雷を踏んでしまったかと冷や冷やしたが、
「なんて」
彼女は悪戯っぽく舌を出して、
「少しずつでいいので、私のこと思い出してくださいね」
穏やかな表情で、ツヅルを許した。
「こんなことなら、もっと早くアリスの名前を思い出すべきだったよ」
「もう、調子に乗らない!」
「おかわり」
「……はいはい」
この世界にきて、初めて心が安らいだ気がした。
食事を終えると、彼女の案内で階段を上った。
二階には個室が四部屋。それと物置部屋があった。
「そうですね、ツヅルさんは当面こちらの部屋を使ってください。着替えなどもご自由に」
そのうちの一室に通される。掃除は隅々まで行き渡り、家具も揃っているが、あまり物のない部屋だった。窓の外では、相変わらずスライムがひしめいている。
「ふぁ……」
後ろで、アリスが欠伸を噛み殺した。
「私は少し休ませてもらいますね。しばらく、まともに眠れていなかったので……」
この世界についての詳しい事情を聞きたいところだが、ツヅルも精神的な疲労を隠せない。何より、彼女を休ませてあげたかった。憶測に過ぎないが、彼女がまともに睡眠を取れなかった原因が、おそらくツヅルにあるからだ。
彼女がフラフラと斜め向かいの部屋に吸い込まれるのを見送ってから、ドサッとベッドに横たわる。
日は次第に暮れて来た。午後五時か、六時か、定かではない。ランプを灯さず、暗くなっていく天井をぼっと眺めた。
考え事をしていた。小説のプロットを纏めるように、今日の出来事を脳内で整理する。心構えのようなものだ。明日以降も予想だにしない現実が多く訪れることだろう。意識するとしないとでは、適応にも雲泥の差が出る。
あれこれと思慮しているうちに、眠気がきた。久しぶりにぐっすりと眠れそうな予感がした。
今は、目を瞑ろう。夢を見よう。
願わくば、それが悪夢でないことを。
――夢を見た。
また、あの夢だった。
寝汗がひどく、夜風を浴びたくて、外に出た。
夜は暗く、恐怖に似ていた。
ツヅルが目覚めた時、既に太陽が昇っていた。
カーテンの隙間から日が差す。蝉の喧しい合唱でも、怨嗟の声でもなく、小鳥の囀りによって気持ちの良い朝を迎える。
上体を起こし、思い切り伸びをする。実に十時間は熟睡したことになる。相当疲労が蓄積していたらしい。
そうしたところで、気付いた。
安らかな寝息。とろけそうな体温。無垢な寝顔。
どういう因果か、横にはアリスの姿があったのだ。
「んむ……」
寝ぼけて、彼女はツヅルの腰に腕を回し、纏わりついてくる。
男子としては喜ぶべきだろうが、しかしこれは。
(俺が悪者になる流れだ……)
それもまた、男子の務めではある。
ゆっくり彼女の腕に触れ、ロックを外そうとする。起こさないように、細心の注意を払った。が、
「んん……?」
重たそうに持ち上げられた瞼、澄み切ったラムネ色の瞳が、焦るツヅルの顔を捉えた。
沈黙。
ツヅルに落ち度はないにせよ、これはばつが悪い。
直後、事態を飲み込んだらしいアリスが、ハッとした面持ちで跳ね起きる。口をパクパクと開閉し、声にならない声で唸り、可哀そうなほどに赤面していく。そして、結局何一つ言葉を発さないまま、残り香だけを置いて部屋を飛び出していった。
「ね、寝相が悪いなんてもんじゃないな」
要領を得ないまま放置されたツヅルは、ただただ呆然としていた。
ところで、この世界にはスクロールというアイテムがあるらしい。魔法を封じ込めた巻物のことで、素人でも扱える便利グッズだ。例えば水のスクロールを使えば蛇口を捻ったように水が溢れ、火のスクロールを利用すれば湯も沸かせる訳である。
「このように、氷のスクロールを利用することで食品の冷蔵も可能なのです」
アリスに実演を交え教わりながら、この異世界での生活の基礎を学ぶ。
なるほど元の世界におけるライフラインを、ここではスクロールが担っているようだ。棚の中にはその束がどっさりと保管してある。
「スクロールを製作できる魔法使いをそのままスクローラーと呼ぶのですが、彼らは大抵が王国お抱えになっています」
公務員のようなものだ。そうすることでスクロールの供給を安定させ、しかも安価で人々に行き渡らせているのだろう。魔法使いということは、あの幼女魔法大臣の管理下か。
実際に沸かしたお湯で、アリスは紅茶を入れてくれた。テーブルに着き、一口啜る。
「そういえば、ここは王国なのか」
ここがどこかも知らないのだが。
「う~ん。正確には共王国制という特殊な体制を取っていますが……」
彼女は困ったように目を伏せ、カップの縁を指でなぞった。
「が?」
「いえ、この世界の地理や情勢についての詳しいことは、そのうち魔法大臣様から直接説明があると思いますので、今は気にしないことです。それよりも、今ツヅルさんがすべきことを考えましょう」
「……本当に俺がやるのかな」
「もちろん。と言うより、ツヅルさんはそれをするためにこの世界に来たんですよ」
昨日はシチューをご馳走になり、今朝もパンを食べた。
となれば、その分働かなければいけない。
コテージ周辺のスライム狩りの時間だった。
「そうは言っても、俺は何の能力もない普通の人間だよ。スライムにすら勝てるか怪しい」
「何の能力もない普通の人間なのは、今だけです。それに、私が付いてますから。物は試しですよ」
「お試しで殺されちゃ敵わないがな」
ツヅルは一度部屋に戻り、服を着替えた。革製の軽防具があったので、念のためにそれを身に纏う。サイズは問題ない。
一階に戻った時、アリスもまたプリーストらしい衣服で佇んでいた。そして、彼女はツヅルに微笑みかける。
「では、頑張りましょう」
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