5.それは青いぷるぷる
『メイズ・イン・アンダーランド』は、ツヅルが三年近くも前に書いていた作品であり、当然の如く序盤でエタっている。
その中の登場キャラクターであるメイロが、先程の襲撃者の正体だと彼女は言った。さらにこうも付け加えた。早く私のことを思い出せ、と。
(つまりこの異世界に存在するのは、エタられてきたキャラクターたち……?)
まったく可笑しなことを考えている。だが得られた情報を整理するに、そんな馬鹿げた仮説を否定しきれないのも事実であった。
二人は森の中を進んでいく。
鬱蒼と、なんて表現とはほど遠い、ピクニックでもしたくなるような清々しい緑である。
美形な少女の肉付きの良いお尻や脚を眺めながら、ツヅルは若干の危機を感じていた。
(まいったな……)
悟られないようにしながらも、実は内心肝を冷やしている。
(そりゃあ、自己紹介など無用なはずさ。彼女は俺の名を知っていた。彼女の名にしたって、作者ならば把握していて当然だろうという態度だ。厄介なのはそこさ)
早急に、できれば目的地に辿り着くまでにその名を思い出さなくてはいけない。口振りからして、彼女もまたツヅルが過去に創作したキャラクターであることは間違いないのだ。だが200近い作品をエタらせてきたツヅルだ、その生み出したキャラクターの数も膨大を極めていた。
メイロにしたって、名と作品を告げられてやっと思い至ったくらいなのである。自作のキャラとはいえ、文章として見るのと実体として見るのでは、想像以上に乖離が大きいらしい。思い出すという行為はそれこそ、迷路の出口を探すように気の遠くなるものだった。
せめて多少のヒントがあれば。しかし、この期に及んでそれを求めるのは無粋だし、勝手に書いておいて思い出せないなんて、それこそ殺されても文句が言えない。やはりここは脳味噌を絞ってでも彼女の名を捻り出すべきだろう。
「ツヅルさん、見えてきましたよ」
「えっ!」
「……? 何驚いてるんですか」
「いや」
もう多少は試行錯誤できると踏んでいたが、当てが外れた。
急ぎ彼女のお尻から目を逸らし、顔を上げる。
怪訝そうに首を傾げる彼女の奥、木々の隙間から、濁りのない水色が覗けた。池だろうか、陽の光を照り返す美しい水面が視界いっぱいに広がっていく。
そしてその開けた空間の中心には、二階建ての立派なコテージが建っていた。
「水面上のコテージか。こいつは洒落てる」
なるほど、目的地はそこらしい。拠点のようなものか。
「はぁ。その言葉通りなら、確かに素敵ですね」
「うん?」
彼女は途端にやつれた顔をして、首を横に振った。
「もうご承知かと思いますが、ここはあなた方エタ作者の業によって築かれた世界」
だろうなぁ、と心中で相槌を打つ。
「では問題です。エタ作者様が馬鹿の一つ覚えのように書き叩く、序盤のお決まりモンスターといえば……?」
ツヅルは数秒だけ考え、しかしすぐに思い至った。もう一度池を見遣って、次に彼女の曇った表情を再確認し、池、彼女、とさらに何度か繰り返した後、
「あ、あれ、全部か?」
池、だと思い込んでいた光景を指差し、戦慄した。
「ええ、全部、スライムです……」
絶句する。
直径150メートルはありそうな開けた空間に、所狭しとスライムがひしめき合う異様な状況。
「ざ、雑草じゃあるまいし」
「ええ、雑草よりも性質が悪いですよ。半月ほど留守にしただけでこれです。もう二度とスライムを書けないように、あなた方の指を奪い去ってしまいたい……」
「実際に襲われた身としては、冗談にもならないな」
「冗談で言ったつもりもないので、それはそうでしょう」
「……脅かすなよ。これでも平常心を保つのに必死なんだ」
目視ではとても数え切れない大量のスライム。
「さぁ、行きますよ」
「ふむ」
果敢なことに、少女は歩を進めた。
よもやあの数相手に戦いはしまいか。危惧するが、さすがにないだろうと否定し後に続く。
なるほど、距離を詰めれば詰めるほど、それらがスライムというモンスターであることを認識できた。
(スライムすべてが序盤の雑魚という訳でもあるまい。時には主人公、時には四天王クラスであったりもするが、果たして……)
見渡す限り、際立った存在感を放つものはいない。姿形は多少違うにしても、幸いどれも平凡で弱そうだ。
いよいよ踏み入れると、スライムたちの注意が一気にこちらに向けられた。
「だ、大丈夫なんだろうな」
「ええ、まぁ、多分」
「嘘でも強く肯定してもらいたかった」
「お生憎。私はツヅルさんを甘やかしたりしませんから」
「そりゃどうも」
彼女には策がある、とでも思っておこう。
スライムの大群が待ち構える中でも、ラムネ色の瞳は揺るがない。
ツヅルはひとまず静観する。彼女が何らかの魔法やスキルを使ってくれたら、それだけでその名を突き止めるための手がかりになる。第一、ツヅルが出張ってどうなるものでもないだろう。
メイロを退けるのだって一筋縄ではいかなかったはずだ。見た目はプリーストだが、あるいは戦闘力に秀でたタイプなのかもしれない。
(戦い方を見ればあっさりと思い出せるかもしれない。お手並み拝見ってな具合さ)
そうして彼女の取った行動は――。
「すみません、道を開けてくださーい!」
ツヅルの予想を斜め上に大きく外れていった。
「まさかスライム相手にお願いとは、恐れ入る」
そんな都合の良い願いが聞き入れられるはずもなく、スライムたちは威嚇するようにその場で飛び跳ねた。
それでも彼女は怯まずに続ける。
「明日から皆さんを順に殲滅することをお約束します! だから今はどうか、道を開けてください!」
「そんな不遜な頼み方があるかよ……」
「もう、ツヅルさんは黙っててください!」
これが黙っていられるか。彼女の発言はまるで挑発ではないか。とても賢いとは言えないし、スライムたちを逆上させるだけだ。
が、そんな予想に反し、スライムたちは不可解な行動を取った。
ツヅルは唖然としてそれを見た。
モーセがそうするように、スライムたちの軍勢が割れ、コテージまでの道を開いたのだ。
「これは驚いた。いや、素直に」
「百の口説き文句よりも、一つの真っ直ぐな言葉の方が効果的なんですよ。モンスターにも、女の子にもね」
そう言って、彼女は得意げにウィンクを飛ばした。年相応の可愛い仕草もするらしい。
余計な発言で彼女の笑顔を損なわないよう、黙っておいた。ツヅルもまた失敗の中から学習している訳である。
二人はスライムの道を進む。
歓迎されている、とはとても思えないが、危害を加えてくる様子もない。
それにしても改めて、この数は異常だ。
「これをすべて倒すのか? 大変な約束をしたもんだな」
如何にスライムが最弱モンスターとはいえ、一日や二日でどうにかなる数でもあるまい。しかもエタったキャラクターがこの世界に次々と転生してくるのならば、それはもう際限がない。
「何を他人事みたいに言ってるんです」
「……やめてくれ。その台詞からは嫌な予感しかしない」
「この家で暮らす人間が朝一番にする仕事を教えましょうか?」
「いいや、聞きたくないね。それよりも腹が減ったな」
「雑草、もとい、スライム狩りですよ」
「おい、聞きたくないと言ったろう!」
つまり彼女はこう言いたい。明日からこのスライムたちの相手をするのは、お前だと。
「働かざる者?」
「合言葉じゃあるまいし」
「いいから」
「……食うべからずだ」
「よろしい」
まったく、敵わない。妹とは別の意味で厄介な少女だ。口では負かされっぱなし。
日はまだ高い。午後三時くらいだろう。東京の茹だる様な暑さとは無縁で、春のように心地の良い風が吹く。
(田舎の夏とはこういうものなのかな)
しみじみと思った。
次回投稿は2/4の夜です!