4.森の中にて②
「どうして、メイロを独りぼっちにしたの!?」
女の子の憤怒に呼応し、まるで生命が宿ったかのように左右のぬいぐるみたちが躍動し始めた。鉈、そして斧がぬいぐるみの手を介して振るわれ、虚空を切り刻む。
大気が震えるような錯覚、あるいは現実。その光景は素人目に見ても危険極まりないと判断できた。それに、女の子は何故かツヅルの方にだけ敵意を向けている。十中八九、狙いはツヅルなのだ。
逃げるべきだ。
少女の言う通り、ツヅルが残ったところで足手纏いにしかならない。
あるいは小説の主人公ならば危険覚悟で踏み止まったかもしれないが、彼らと違い異世界を生き抜くための能力など何も備わってはいない。
だが待て。
この少女を一人残して、尻尾を巻いて逃げることが本当に正解なのか。感情論で動けば、きっと事態を悪化させる。かと言って彼女を置き去りにすれば、
(俺はまた、何者にもなれずに終わる……)
困った男だと自嘲する。
葛藤は人を成長させるが、今この場では単なる結論の先延ばしに過ぎず、ただただ己の首を絞めるのみである。
そんな浅はかな自問自答を一蹴するように、
「走って!!」
少女が怒鳴った。
それと同時に、ツヅルは駆け出していた。
そもそも悩むこと自体がおこがましかった。
二人ともが生き残るための最良の手段は、ツヅルが逃げてくれることだと彼女は言っていた。それはツヅルを庇ってのことではなく、紛れもない事実だ。我がままで彼女を困らせるべきではない。今彼にできる彼女への最大の援助とは、一目散に遁走することだけなのだ。
魔法の発動も、樹木の切り倒される衝撃をも無視し、ツヅルは裸足のまま走った。
(俺は何のために、この世界に来た!!)
知るはずもなかった。
(俺は何のために、生まれた!!)
脳裏に、妹の顔が過った。
ある程度距離を取ったところで、ツヅルは立ち止まる。
あまりに離れすぎても合流が難しくなる。それに、一人で突っ走り過ぎて別の敵に遭遇しては本末転倒である。
そもそも、敵とは何だ。何故敵がいるのだ。この世界において、ツヅルにとっての敵とは誰なのだ。
「くそっ!」
木陰に隠れ、息を潜めるしかできない。何とも歯痒いことである。
異世界にも様々あるだろうが、どうやらここは危険なタイプの世界らしい。魔王にでも征服されているのかもしれない。そう考えると、浮足立っていたのが愚かに思えてくる。
当てが外れた、と言うよりは、現実に引き戻された。ここに来る直前に何があったかをよくよく考えてみることだ。
敵は、確実に存在する。
そして、その敵と直面した時、ツヅルはたった一人の少女にすべてを押し付け逃げ出した。
(悔やめ。そして、忘れるな……)
恥じることは、決して無駄ではない。むしろ賢明である。この悔悟の念が、必ず役に立つ時が来る。
だから今はただ、彼女の無事を祈り、元来た道を引き返したがる両の足を抑えることだ。
戦闘が終わったのは、それから数分経ってからだった。
森林は元の静けさを取り戻し、何事もなかったかのようにゆったりと時間を流した。
さてどうするか、とツヅルは再び思考を巡らせる。
選択肢は三つある。
私が行くまで身を隠せ、と彼女は言っていた。その通りにここで待機するのが一つ。
二つ目に、彼女が傷を負っている場合や、この場所を特定できない可能性を考慮してツヅル側から迎えに行くこと。
そして三つ目に、彼女が敗戦していることを想定し、すぐさま脱すること。
(馬鹿め。最後のはなしだ)
男として、これ以上の恥の上塗りは容認できない。
とすれば、待機か、合流か。
(……もう考えるのはよせ)
論ずるまでもない、待機だ。
新参者がこの異世界の何を知る。
今は彼女の言葉を信じ従う。それがすべてだと何度悩めば理解するのか。
(仮にも天才だとは思っちゃいなかったが、俺はどうにも馬鹿らしい)
その上、無力だ。
ツヅルが小説を書き始めたのだって、他に芸がないからだ。絵が達者ならキャンバスに向かっていたろうし、声に優れていればマイクに向かっていた。適正さえあれば間違いなくスポーツに励んでいた。しかし何の才もないから、文字なのである。もちろん小説にも良し悪しはある。が、文字の読み書きという最低限の教養だけで飛び込める芸術の世界など、他にはない。
とにかく、その執筆という唯一積み重ねてきた技術すら、この期に及んでは何の効力も持たない。
ただ、待った。
そうしているうちに、落ち葉や枝を踏み砕く音が近付いてきた。
あの少女か。
出会って間もなく、憎まれ口ばかりで、良好な関係を築けている訳でもない。だというのに、ツヅルは今彼女との再会が何よりも待ち遠しい。不思議だとは思わない。彼女の壮健な姿は、逃げ出したツヅル自身への慰めともなる。
いよいよ、彼女は命の恩人だ。
ツヅルは木陰から接近者を観察した。ここで即座に飛び出すほど愚かではない。万が一やって来たのが蜂蜜色の髪と瞳を持った女の子であったら、一巻の終わりだ。
が、杞憂。
「お待たせしました」
その声を聞き、ほっと胸を撫で下ろしてから木陰を出た。そして、彼女の右頬に血糊が生々しく付着していることに気付く。
顔に傷を負ったのか、と一瞬苦々しく思う。
彼女もそんな機微を察したか、右手で頬を拭い、払った。草木に滴る赤が、ツヅルの目にはひどく鮮明に映った。
拭われた後の頬は傷一つない綺麗なもので、それが返り血であったことを直感させる。あの女の子の生死は不明だが、ここで詮索するのも躊躇われた。
何と声をかけていいものか戸惑っていると、
「あの子」
彼女の方から、口を開いた。
「メイロ、という名前だそうですよ」
「……え?」
思わず聞き返す。
「ご存知でしょう。『メイズ・イン・アンダーランド』」
知っている。
知っているに決まっている。
『メイズ・イン・アンダーランド』は過去にツヅルが小説家になれる上で書いたタイトルであり、メイロはそれに登場するヒロインキャラの一人。
そして、その小説は――。
「……あなた、今、気付きましたよね」
一瞬、呼吸を忘れた。
核心を突く言葉が、ツヅルの動揺を誘う。
彼女は目を細め、クスッと笑みを漏らす。不安を煽る、そんな態度であった。
途端に血の香りが濃くなったように感じ、怖気立つ。
「気付いたのに、気付かない振りをしてる。それはどうして?」
「お、俺は……」
言い淀む。すべてを見透かされている。それは、一種の恐怖である。
彼女は緩慢な動作で近付き、引き攣るツヅルの頬に血を拭ったばかりの右手を添えた。
ねっとりとした不快感と、死の悪臭。
「ねぇ、どうして、エタったんですか」
彼女の吐息が顔にかかる。
永遠の刻を封じ込めたかのようなラムネ色の瞳は、美しくもあり、同時に儚くも見えた。
「早く私のこと、思い出してくださいね。ツヅルさん」
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