3.森の中にて①
微笑みを誤魔化すように咳払いしてから、
「行きますよ」
彼女は努めて淡泊に告げた。
どこに、とは聞き返さない。察するに、街か何かだろう。
ましてや、どういう風の吹き回しだ、なんて口が裂けても言わない。藪を突いて蛇を出すような真似はしたくない。案内してもらえるのなら、それに越したことはないだろう。
『後のことはよろしく頼んだぞ』
あの幼女大臣は去り際にそんなことを言っていた。ツヅルの先導及び護衛こそが、このラムネ色の瞳をした少女本来の役割なのかもしれない。
(だとすれば、人選ミスも良いところさ)
この舗装もされていない森の中にドラゴンやグリフォンのようなモンスターが潜み、ツヅルに襲い掛かったとして、彼女が助けてくれるかどうかは疑問の余地しかない。あの悪態の数々を考えれば、ツヅルを後ろから刺すのが彼女であっても何ら不思議はない。
「ご心配なく」
そんな心を見透かしたように、彼女は蔑みの視線でもって応えた。
「とは言い切れないかもですね」
「釈然としないな」
歩み始める彼女の三歩後ろを追行する。せめてこの位置はキープしたいものだ。
行動だけ見れば、ツヅルにとって彼女は救いの女神だ。まず、危機に瀕した際に手を差し伸べてくれた。彼女がいなければあのままドラゴンの爪の餌食になっていたろう。妹灯夏をも巻き添えにしたかもしれない。そして今、右も左も分からない異世界で先頭を歩いてくれている。結局、罵詈雑言はこの際置いておくとして、彼女は現在進行形でツヅルを救い続けている訳である。
故に、気持ちが悪い。
行動と言動があまりにも伴っていないからだ。
どうやら助けてくれるらしい。しかし、随分と嫌われてもいるらしい。こんなにも分かりやすい矛盾があるか。
「なぁ、今さらだが、自己紹介くらいはしておかないか」
とにかく、打ち解けるための努力は率先し行うべきだ。気まぐれで殺されては魂も浮かばれない。
少女はピクリと反応を示し、足を止めるも、しかし振り返らずに口を開いた。
「自己紹介……?」
風がそよぎ、木々がさざめく。小鳥の囀り、小動物の身動ぎ、微かに水流の音も聞いた。強大な自然の息吹を感じる。そこに、ピシッと亀裂のような緊張が走ったことを、ツヅルだけが見逃した。
さて、名前。
「まず俺の名前は」
「名乗りなど無用です」
……。
とことん興を削いでくれる。
「何故無用なのか」
「その胸に手を当て考えてみては?」
「しかしな、人は胸ではなく脳で考える生き物だ」
「屁理屈ですね」
「会話とは理屈だけでするものじゃないからな」
「なら、会話とは独り善がりでするものでもないでしょう」
「……そんなに嫌かよ」
しばしの沈黙の後、はぁ、と大袈裟に溜め息をついてから、彼女はやっとツヅルに顔を向けた。
その表情の色は複雑だった。怒りを主としない。呆れか、いや、それよりも哀傷が強く感じられた。
「いいですか、私から名乗る気はありませんし、あなたの名を尋ねる気もありません。理由はと聞かれたら、それは無用であるから、としか答えようがありません。それでご理解いただけないなら……」
スッと彼女は胸の前で指を絡める。
一瞬だけ、身構えた。魔法を発動する時の所作を想起したからだ。が、杞憂に過ぎない。
「古今の神々に、祈る他ありません」
彼女はおそらくプリースト。攻撃魔法を飛ばしてくるかも、なんて突飛な不安は一抹にもならない。実際、彼女は匙を投げ神頼みしただけだった。
それにしたって、
「初対面の人間に取る態度がそれかなぁ」
言い終えてから、後悔した。
言葉というのは脳内でよくよく吟味し、口にした際に及ぼす内外的効果を熟慮した上で、尚も必要があれば発するべきものであると痛感した。
「初対面……ですって?」
少女の一言で、というより、その気配で空気が一変する。今度ばかりはツヅルもそれを知覚した。
地雷を踏んだ、あるいは竜の逆鱗に触れたとでも言うべきか。とにかく、絶句した。
ラムネ色の、しかし暗色に染まった瞳が急接近し、ツヅルの顔面目掛けてわっと手が伸ばされ、直前で止まる。
「お忘れですか、あなたを襲った数多の手を。あれらは握手を求めた訳じゃない。あなたのその素っ首を圧し折ろうとして伸ばされたのです」
有無を言わさぬ気迫が、全身を突き抜けた。
「何故か?」
言葉の出ないツヅルの思考を代弁するように、彼女は続ける。
「摘まれてしまったから」
細く白い指の隙間から、鋭い眼光がツヅルを射抜く。
(摘まれた、だと?)
そんな抽象的な物言い、答えとは呼べない。が、彼女はあえてそういう言葉を選んでいるようにも思えた。教えることは容易い。しかし、気付くことこそが尊い。端的に言えば、自分で考えろという訳である。
(だが、それは乱暴だ)
異世界に降り立つ、なんて事態がそもそも現実離れしていて説明を要する。何故ツヅルだったのか、という疑念も当然ある。転生転移に理由を求めるのがそもそも間違いかもしれないが、それは飽くまでも小説の、作者の都合だ。当事者は理由を求めて然るべきだと今なら理解できる。
所詮、守られている分際。強く出られるものでもないが。
「……分かったよ。ただ、どうにか一つだけ教えてもらいたい」
この際名前などは置いておくとしても、どうしても確認しておきたい要素があった。
「俺は元の世」
が、言い終える前に、彼女の指がツヅルのTシャツの襟を掴み、そして力任せに引き寄せた。
「ぐっ!?」
引かれたツヅルは咄嗟のことで訳も分からず、抵抗もできずにつんのめる。その直後、ブンッ、という風切り音が頭のすぐ後ろで鳴ったところで、その意図を自ずと理解し、同時に血の気が失せた。
すわ、襲撃。
「……ッ!」
放り捨てられたツヅルは樹木に受け止められ、もとい激突しなんとか停止すると、すぐさま襲撃者を探した。痛みに顔を歪める余韻などありはしない。
そして、容易に発見する。
「ウサギ……」
正確にはウサギのぬいぐるみ、のようなものが地面に仰向けで力なく転がっていた。ツヅルが先程まで立っていた位置だ。
全長は30㎝ほど。白い毛並みで、カートゥーン調にデフォルメされた可愛らしいものだ。
だが手には、おどろおどろしいばかりの、鉈。
「なんだ、こいつ」
その手に持つ鉈で襲撃を受けたことは明白だが、しかしぬいぐるみはまったくと言って良いほど動く気配がない。かといって近付くには、あまりにも不気味。
「いいですか、よく聞いてください」
その可愛らしい襲撃者に注目するばかりのツヅルとは違い、少女は既に別の方向を見据えている。
「あなたは急いでこの場を離れ、身を隠してください。私が行くまで」
「に、逃げろと」
「あなたにとっても、私にとっても、生き残るためにはそれが最良だと言っているんです」
「要は俺は足手纏いか」
「ご明察。理解できたのならすぐに――」
が、
「見ぃつけた、なの」
遅かった。
不意に聞こえてきたのは、鼓膜に粘り付く蜂蜜のように甘ったるい声。
茂みの間から姿を見せたのは、一人の幼い女の子だった。あの大臣に匹敵するほどに若い。
「こ、この異世界は幼女ばかりか」
蜂蜜色の髪と目をして、橙を基調としたロリータワンピースに着られた女の子。その腕にはタヌキのぬいぐるみを抱いている。なるほど、そこに転がっているウサギも彼女の所有物らしい。
その蜂蜜色の瞳が、真っ直ぐにツヅルを捉える。
「ねぇ、どうして、なの?」
「な、何がだよ」
女の子はゆっくりと歩み寄り、ウサギのぬいぐるみを拾い上げた。右手でウサギと、左手ではタヌキと手を繋ぐ。力なく項垂れる二頭の逆の手には、それぞれ鉈と斧が握られていた。
「逃げて、早く」
低く、少女が呟いた。
戦闘は避けられない。そんな緊張感から、余裕の無さが伺える。
そして間髪入れず、蜂蜜色の女の子が腕を大きく広げた。
「どうして、メイロを独りぼっちにしたの!?」
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