2.ようこそエターナるワールドへ
『小説家になれる』から伸びた手に引かれ、ツヅルが瞬いた拍子に世界は一変していた。
そこはベッドやPCの置かれた明るい部屋ではなく、松明と僅かに差し込む陽によって辛うじて照らされる、荒れ果てた遺跡内のようであった。
そんな薄暗い空間の中、その身は宙に投げ出された状態で制御を失っている。コンマ数秒後には石畳に衝突するだろう。
問題は手を繋いだ先の女性が直下にいることで、こればかりはもう避けようがなく、次の瞬間には彼女のブロンドの髪が鼻をかすめ、花蜜のような甘い香りが鼻腔を満たした。なるほど、ミツバチがよく働く訳だ。
そしてツヅルはまことに不本意ながらも、彼女をクッション代わりとして事なきを得たのである。
「きゃふんっ!」
身を重ね、可愛らしい悲鳴が鼓膜を潤し、手の平にこの世のものとは思えない感触が伝わったところで、間近に過ぎる彼女の顔をやっと確認した。
まず、ラムネ色の涼し気な瞳に心を奪われた。空のような、海のような、あるいはそのどちらでもないような。初めて見る発色に相応しい表現が見つけられず、仮にも作家として活動する身でありながら、浮かんだ言葉は、
(綺麗だ……)
という、安直なものであった。
その双眸が見る見るうち怒気に染まり、次いで彼女が左頬をおもちのように膨らませた時、
「あっ」
18歳にもなって恋人の一人も作ったことのない純朴な男は、己の犯した罪をようやく理解した。
この手の感触は――。
「な、なるほど……」
「何がなるほどですか!」
怒鳴られ、急いでその起伏から手を除け立ち上がる。その様はどうしようもなく情けなく映るだろうが、しかし手の平に残る天使の温もりに感動を禁じ得ない。これからはより良いハーレム小説が書けることだろう。百の妄想も大事だが、一の実体験もそれに匹敵するという訳だ。
とにかく、彼女を引き起こそうともう一度手を差し出した。
が、彼女はツヅルの顔を睨み頬を膨らませるだけで、その手を取ろうとはしない。
瞳の色もますます険しい。
「さ、サファイアとルビーは色味こそ違うが同じ鉱石であって、君の瞳もそれに似てるな」
咄嗟に出た苦し紛れの台詞に対して、彼女は宝石のような目を丸くし、眉をひそめた。
「はぁ~? 臭いというか、痛いって知ってます? そういう物言いがあなたをアマチュア足らしめるんですよ、このエタ作者!」
「な、何を言いやがる!?」
彼女はスカートの埃をはらいながら、ツヅルの手を借りずにスッと立ち上がった。
純白と鮮やかな孔雀緑に彩られた衣服はドレスのようにも見えるが、あるいはファンタジー小説に登場しそうなプリーストのようにも見えた。
外見だけで判断するのも何だが、年齢はおそらくツヅルとあまり変わらないかもしれない。身長はおそらく160㎝前半か、ツヅルより10㎝ほど低く思える。
「ふんッ!」
ソッポを向く動作に連動して、ブロンドの髪がふわりと揺れた。
とても日本人とは思えない整った顔立ちと体形。
髪は左肩に流したルーズサイドテール。左側頭で編み込みによるワンポイントの工夫がなされ、毛束を肩の辺りでリボンを用いて結い引き締め、後は自然のままに垂らしている。本来ルーズサイドテールの持つ大人っぽさ、気怠さとは正反対に、メリハリのある若者特有の瑞々しい色気が強調されたアレンジであった。
(この子が蜘蛛の糸を垂らした釈迦かね……)
とてもそうは見えない、というのが率直な感想である。見た目は天使かもしれないが、そもそも取り付く島すらない。胸を触ったとはいえあれはアクシデントであり、立腹するにしても当たりが強すぎはしないか。
立ち去るでもなく、怒鳴り散らすでもなく、その場でリスのように頬を膨らませ続けるジト目の少女を尻目に、ツヅルは今さら周囲を見渡した。
彼女の瞳の色については的確に表現できないが、この場所を言い表すのはたったの二文字で事足りる。
遺跡だ。
薄暗い、まるで異世界召喚をするために存在しているような空間。
(俺はつまり、この子によって異世界に引きずり込まれたってことなのか……?)
口に出し直接尋ねればいいものを、我ながら小心者だと心で嘲る。妹以外の女性とは、どうにも接しにくい。
が、伊達に異世界転生転移ものの作品を量産してきた訳ではない。何の知識もなく突発的に召喚された人間ならば戸惑うだろうが、今回のケースに関してツヅルはある意味異世界に精通しているし、またこの少女の手を取ることを己で選択している。つまり、それが異世界召喚に繋がることは知らずとも、何らかの変化が訪れることを理解し受容したことになる。覚悟とは違うが、気持ち的な部分としては小説の中の主人公よりもよっぽど平静を保てる状態にある。
何より異世界ジャンル好きの人間が実際に異世界に降り立って、何の不満があろうか。来てしまったものは仕方ない、と割り切れるだけの好奇心も兼ね揃えていた。だが不安がまったくない訳でもなく、例えば受験のことや家族のことも依然気掛かりだし、ツヅルを襲った声や手の正体も不明なままだ。
異世界に没頭できるほど手放しでもないし、ホームシックになるほど悲観的でもない。なんとも宙ぶらりんな立場にあった。あるいはツヅルが異世界系小説など読みも書きもしない人物であれば反応も違っただろう。それが幸か不幸かは置いておくとしても。
何にせよ、すべての鍵を握っているのは目の前の女の子な訳で。
攻めあぐねていると、ふと近くに何かが落ちているのを見つけた。
拾い上げて見ると、それは白色の帽子であった。リボンをあしらったもので、つばはなく丸みがあり聖歌帽に似ている。きっと転倒時に少女が落としたのだろう。
「おい、これ」
「……ッ!」
少女は一瞬だけ帽子を視認し驚いた顔をしたが、すぐにまたつっけんどんな表情を繕った。いよいよ強情らしい。
「ばい菌がつきました。捨てます」
小学生じゃあるまいし。
「そういうことなら、君は手も胸もばい菌塗れだ」
仕返しとばかりに意地悪く笑ってやると、少女は澄ました顔で、両の手の平を胸の前で向き合わせ、
「アンチドーテ!」
そう唱え、深緑のオーラでその身を覆った。
魔法か、と直感しながらもさして驚愕しなかったのは、ツヅルの異世界耐性が高すぎる所以だろう。現実での一事には肝を冷やしていたくせに、いざ異世界となればかえって免疫が働いてしまう。緊張感のなさも考え物だ。
さて、アンチドーテと言えば異世界小説に触れずともゲームなどで聞く機会のある言葉で、解毒を意味している。
「つまり君は俺をばい菌どころか毒扱いすると……」
「違いましたか? 毒電波垂れ流し駄文生産機さん」
「こ、こいつ! 言わせておけば!」
「ええまだ言わせてもらいますとも! 大体あなたは」
少女が憎たらしく畳みかけようとしたところで、しかし不意に口を閉ざし後方を振り返った。
何事かと思えば、向こうから石片を踏む音が近付いてくる。暗順応により周囲の様子も次第に把握できてきた。どうやら出口となる通路は一か所にしかなく、それこそが今両名の見ている方向である。
(気付かなかった……)
もし近付く影の正体が件のドラゴンだとすれば、ツヅルなどは腕の一振りで切り裂かれ、死に絶えていたろう。まぁ、気配に気付けないというのも、日本という平和な国で過ごしてきた彼には仕方のないことである。が、それが今後致命となり得ることも少し考えれば分かる。事実、ツヅルは気を引き締めた。
無言で気配を探る。
石片を踏む間隔からして二足歩行、歩幅は短い。人間の子供かと思われた。少女の表情にも注意する。おおよそ臨戦態勢といった空気でもなく、その影が敵でないことを暗示している。
それでも少女は、大丈夫、等という優しい言葉をかけてはくれない。
そのうち、
「さっそく小競り合いしとるようじゃな。若い若い」
妙な年寄り言葉で、しかし幼い女の子の声がツヅルに届いた。
「何にせよ、成功したようで何より。のう、小童」
ツヅルは新たにやって来た人物を見た。
大賢者のような大袈裟なローブに身を包み、背中に杖を括りつけているが、その見た目は完全に幼女だ。アイスブルーのセミロング、じっとりとした双眸が特徴的である。
「小童だと……?」
その言葉が年上であろう己に向けられていることを悟り、ツヅルは怪訝に思った。
「異なことを言う。君いくつだ?」
答えた、と言うより、遮ったのはラムネ色の瞳をした少女の方であった。
「し、失敬な! 大臣様に向かって!」
「よい」
それを更に制し、幼女が歩み寄る。
近付けば近付くほどに幼く映る。
ところで、ツヅルは少女の妙な言を聞き逃さなかった。
「今、大臣と呼んだか? この子供を?」
この幼女を指して大臣と称したのだ。そもそも何を担当する大臣か見当もつかない。お菓子配給大臣とかそんなところか。あるいは名前がダイジンなのか。
ブロンドの少女に問いかけたつもりなのだが、無慈悲にも黙殺され答えは返ってこない。
憐れに思ったか、代わりに大臣と呼ばれた幼女が口を開いた。
「幼女、老人口調、高い地位。今時珍しくもなかろう」
「確かに」
その言葉に妙に納得してしまった。奇抜でもなんでもなく、現代のライトノベルや小説家になれるではありふれたキャラ設定と言える。
「うむ。理解が早くて助かる。まぁ、好きでこんな姿をしている訳ではないのじゃが」
アイスブルーの髪を揺らし、大臣とやらは満足気に頷く。
片やラムネ色の瞳をした天使様は未だに不機嫌らしく、
「奇を衒いたがるくせに、奇に疎い。やれやれって感じですね」
遠回しな嫌味を延々とぶつけてくる。
大臣も思わず肩をすくめ、呆れた様子であった。
「まったく、夫婦喧嘩は犬も食わぬとはよく言ったものじゃな」
「だだだ、誰が夫婦ですか!? 私にも尊厳というものがありますよ!? 如何に大臣様とはいえ、言って良いことと悪いことが!」
「そうムキになるでない。感情の本音が漏れ出るぞ」
「んむぅ……。あまり意地悪を言わないでください……」
ツヅルはそんな解せないやり取りを尻目に、顎を撫でた。この大臣とやらは幼女ではあるが、いくらか話が通じるように思える。
「なぁ」
と、問いかけようとしたのだが、
「うむ、では後のことはよろしく頼むぞ。小童もまた相見えることになろう。精々健勝でな」
タイミング悪く大臣はそう言い残し、ローブを翻してあっという間に踵を返してしまった。
後を任せるとは言うが、この少女はツヅルを無視するばかりで何も教えてくれないではないか。
「ちょ、ちょっと待て!」
呼び止めると、大臣は案外あっさりと足を止めた。
そしてほんの少しだけ振り向いて、
「はい、待った」
と、なんとも天邪鬼な笑みを覗かせから、再び闇の中へ歩み始めてしまう。
「ガキか!!」
叫んでみても、
「ガキじゃ」
もっともな返答が届くのみであった。
すがる様な思いで少女の方を一瞥しても、相も変わらずソッポを向き知らん振りを決め込み、でも口元がざまぁみろと言わんばかりに勝ち誇っていて、
「……分かったよ」
さすがに諦めもつくというものだ。
ツヅルはすれ違い様に少女の頭に帽子を被せ、目深まで沈めてやった。ささやかな抵抗だった。
「はぅっ」
少女は両手で帽子を押さえ、慌てて直している。
構わず、幼女大臣の消えて行った通路へ向かった。教えてもらえないのなら仕方ない、何にせよ外へ出てみようと思った。
思えば、裸足のままだ。寝て起きたままの格好なのだから当然だ。小石が足裏にめり込む度痛みを覚えるが、こればかりはもう我慢するしかない。
幸い通路には一定の間隔で火が灯されており、完全な暗闇ではなかった。脇道も多少あるようだが、ここは真っ直ぐ進む。少し先の方に出口と思わしき微かな光源が確認できたからだ。
気付けば、後方を等間隔で足音が付いてくる。振り向くまでもなくブロンドの少女だろう。ツヅルがいなければあの場に留まる必要もないだろうし、驚きはない。
朽ちた石造りの遺跡でありながら、その出口には内観にそぐわない木製の扉が取り付けてある。真新しい様子で、つい最近急造したものらしい。
この扉を開けば、ついに本格的な異世界がツヅルを迎えることになる。誰かにここが異世界ですと告げられた訳ではない。日本人とは到底思えない人種、そして魔法を目の当たりにして漠然とそう判断しているに過ぎない。それでも期待で胸が高鳴り、取っ手を握る手にはどうしようもなく力が入った。
少女は背後で、それを黙って見守っているようだった。
そして軽くもあり重くもある扉を開いた時、眩いばかりの太陽の光が降り注ぐと共に、激しい疾風がツヅルの心身を吹き抜けた。
「わっ!?」
周囲の深緑に目を遣る余裕もなく、ただ無意識にその圧倒的存在を見上げた。
鷲の上体に、ライオンの下体。大きな翼で空を叩き舞い上がる巨大な生物。その名を知っている。グリフォンだ。加えて、背にはあの幼女が乗っているのを確かに見た。何らかの大臣という肩書も丸っ切り嘘ではなさそうだ。
そのまま空中で気持ちよさそうに風を切る一頭と一幼。地上に残っていた十頭近い翼獣がそれに続き、そのいずれにも人影が跨っていて、次々に蒼穹へと飛び込んでいく。
「い、異世界だ……」
今まさにそんな確信を得ながら、ツヅルは飛び行く一団を見送り、空いた口を閉じることすら忘れて立ち尽くす。連日連夜続いた恨み節も、突如その身を襲った数多の手ですらこの時ばかりは考慮の外にあり、ただただ純粋な一人の異世界ファンとして喜びに打ち震え、止められない。
目の前に広がる平凡な森ですら特別に感じられる。出し抜けにあのドラゴンが現れたとしても、今ならば笑って受け入れてしまいそうだ。
「おい!?」
「はい!?」
この感動を誰かと共有したくて、背後にいた少女の両手を思わず握った。
ラムネ色の瞳が驚きに揺れる。
「俺は今確かに、異世界いるんだよな!?」
ツヅルの興奮度合がよっぽど可笑しかったのだろう。
「もう、子どもみたい」
困ったように微笑む少女は文句なく美しくて、つい見惚れたツヅルの視線に気付き慌ててソッポを向くまでの短時間、そこには確かに天使が舞い降りていた。
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