前編
ばあちゃんの家には、妖怪がいる。
初めて出会ったのは俺が小学三年の時だ。
じいちゃんの一周忌で親戚一同がばあちゃん家に集まった。ばあちゃん家周辺は田舎も田舎、ド田舎で、何にもないところだった。当然、子供には暇で暇で仕方がない場所だったけど、親戚の中で子供は俺一人だった。
それで俺はすっかり暇を持て余した。縁側に座って、ばあちゃん自慢の庭を眺めながらゲームをしていた。
七月だった。切りつけるような陽光が差し込む真昼の庭には、すくすく育つ木々の影が黒く焼きついていた。ちょうど夏椿が花期を迎えていて、真っ白い花が枝だけじゃなく地面に落ちてまで庭を賑わせていた。
そこに、そいつは急に現れた。
ゲーム機の液晶画面にすっと影が落ち、俺は思わず顔を上げた。
さっきまで無人だった庭に、見知らぬ女の子の姿があった。
白い浴衣に赤い帯、風にそよぐ黒髪のその子は、俺と同い年くらいに見えた。
「お前、誰?」
俺はその時、そんなふうに尋ねたと思う。
だけどその子は黙っていた。恥ずかしそうに微笑んで、俺の顔とゲーム機の画面を交互に見つめているだけだった。
一緒に遊びたいのかもしれない、そう受け取った俺は次に、こう声をかけた。
「やりたい? なら一緒に遊ぼうぜ!」
女の子が嬉しそうに、無言で頷くのを見て、俺もすっかり嬉しくなった。何にもないと思ってたド田舎で友達ができた。
仲良くなれるといいななんて思いながら、俺はできたばかりの友達にもう一つ質問をした。
「俺、夏生。お前の名前は?」
途端に女の子は顔を輝かせて、
「じゃあ、私は椿!」
と名乗った。
今になって思えば、どう考えても変わった子だった。
そもそも『じゃあ』って何だ。俺の名前を聞いて初めて、自分に名前をつけたみたいだ。
でも小三の俺は引っかかるどころか、一切気にせずに新しい友達と遊びまくった。一台しかないゲーム機を替わりばんこでプレイして、すくすくと伸びた庭木の陰でかくれんぼもした。疲れたら縁側に座って一緒におやつを食べ、指相撲なんてけしからん遊びに興じたりもした。
そのうち日が暮れて夕飯の時間になって、ばあちゃんが俺を呼びに来た。
「お友達もそろそろ帰る時間だろ。どこの子だい」
そう声をかけられて、椿はにっこり笑った。
「私の家、ここだよ。このお庭!」
それから庭でたくさんの白い花をつけている夏椿の木まで駆けていって、
「これが私! 私の木なの!」
と言った。
当たり前だけど、俺もばあちゃんも呆気に取られた。だって普通に訳わかんないし、そうこうしてる間に外は暗くなり始めてるし、いつもクールなばあちゃんも迷子か家出かとあたふたしていた。
だけど椿だけは慌てず騒がず、やっぱりにこにこしていた。
「本当だよ。証拠見る?」
そう言うなり、俺とばあちゃんに見せるように手のひらを差し出した。
すると椿の手に、唐突に白い花が現れる。
あの夏椿と同じ花が、まるで湧き出るみたいにぽわんと咲いて、小さな椿の手の上に転がった。それが地面に転げ落ちたのも束の間、彼女の手にはまた新しい夏椿の花が咲く。そうして次々と地面に落ちていく夏椿の花が、草履を履いた椿の足元をたちまちのうちに覆っていった。
「ね、本当でしょ?」
足元を真っ白な花で埋め尽くし、まるで花畑の中に立っているような彼女が、さらさらの黒髪を揺らして笑った。
その時の屈託のない笑顔を、俺は九年経った今でも忘れられない。
あの日からばあちゃんは椿を引き取り、あのド田舎の家に二人で暮らしていた。
高校生になった俺は、時々二人を訪ねている。ここ二年くらいは割と、頻繁に。
ばあちゃん家の前でバイクを停め、押しながら門をくぐる。
エンジン音を聞きつけていたのか、俺がバイクに鍵をかけている間に玄関の戸が開いた。
「なっちゃーん!」
椿の声に振り返れば、彼女が笑顔で飛び出してきたところだ。
さらさらの黒髪は肩まで伸び、手足もすらりと長くて細い。背丈も百七十センチの俺とほとんど違わなくて、顔立ちもすっかり『美少女』から『美人』になりつつある。長い睫毛、ぱっちりした目、つやつやした赤い唇とそこに浮かぶ可愛い微笑み――。
この通り、椿は日々成長している。
俺が歳を取り、十八歳になったのと同じように。
「椿、元気にしてたか?」
ヘルメットを外しながら俺が尋ねると、椿は待ち構えていたみたいに飛びついてきた。
「うんっ! なっちゃんが来てくれてすごく嬉しい!」
背中にぎゅっと抱き着かれると照れる。服には汗がへばりついていたし、もうお互い子供じゃないからというのもある。
だけど歓迎されるのは悪い気がしなくて、俺は笑いを噛み殺しながらお土産を手渡した。
「ほら、これお前に。バイト代入ったから」
ちょっと大きめの紙袋を、椿は怪訝そうに覗き込んだ。
「これ、なあに?」
「新しい服。買ってやるって言ってたろ」
すると椿はいつものようにあたふたし始める。
「で、でも悪いよ。いつも買ってもらってるし」
「もう買っちゃったし、返すなよ」
俺はよく椿に服をプレゼントする。
なぜかと言えば、うちのばあちゃんが買ってくる服のセンスがもれなく微妙だからだ。今日着てるのは"403 Forbidden"って書かれたTシャツだし、他にも裾がもこもこで豹柄のショーパンとか、ブルドッグの顔が描かれたワンピとか、フリルと迷彩が同居してるスカートとか――椿を育てているのはばあちゃんだから文句こそ言えないけど、時々服を差し入れるくらいはしてもいいはずだった。
「いいから着てこいって。似合うやつ選んだんだから」
駄目押しで告げると、椿は顔を真っ赤にしながら頷いた。
「う、うん。ありがとう、着てくるね!」
それから紙袋を抱えて、玄関から家の中に飛び込んでいく。
俺は椿の後は追わず、そのまま庭へと向かった。
七月だった。今年の夏も太陽からの熱射は容赦なく、地面には黒々と影が焼きついている。
そして夏椿の木も、いつもの七月と同じように、ころんとした白い花を咲かせていた。
「今年もきれいに咲いたな」
俺が声をかけると、夏椿の木陰にいたばあちゃんが振り向く。
「あんたが来るって連絡あった途端、咲いたんだよ」
皺の深い顔にからかうような笑みが浮かんで、俺は肩を竦めた。
「へえ、そうなのか」
「この色男が。でれでれしすぎだよ」
途端にばあちゃんは顔を顰め、俺の耳をぐいっと引っ張る。
そして囁いた。
「椿はうちの可愛い孫だ。泣かせたりしたら承知しないよ」
「ばあちゃん、俺も一応孫なんだけど」
「あたしにお土産も買ってこない孫なんて知らないね」
ばあちゃんが年甲斐もなく拗ねるので、俺は鞄からお菓子の箱を取り出す。
「お土産ならあるよ、母さんからだ」
それを差し出せば、ばあちゃんはふんと鼻を鳴らしながら受け取った。
「お母さんにお礼言っといておくれ。お仏壇に上げたからって」
「わかった」
俺が頷いた時だ。
軽快な足音が響いたかと思うと、縁側に着替えを済ませた椿が現れた。
「なっちゃーん、着てみたよー!」
そう叫んで、板敷の上でくるりと一回転してみせる。夏らしいマリンボーダーのTシャツと白いフレアスカートは今の成長した椿によく似合っていたし、スカートが風をはらんでふわりと広がるのが、ちょうど咲いている夏椿みたいだ。
「似合う? 似合う?」
椿が誉めて欲しがるので、俺はもちろん惜しみなく誉める。
「似合うよ椿、最高に可愛い」
「本当っ?」
「嘘つくわけないだろ。買ってきてよかった」
大満足の俺の隣で、ばあちゃんがやれやれと首を振った。
「まあまあ、マメに貢ぐ男だよ夏生は」
「どうせなら可愛い格好させてやりたいだろ」
せっかくの美人なんだしな。
今回の服だって、俺がバイト代を貯めて買ってきたものだ。女物の服は詳しくないから友達の詠やんに頼んだ。持つべき者は彼女持ちの友人ってやつだ。
「なっちゃんに誉められるの、すごく嬉しいな……」
椿は縁側でもじもじしている。
「ありがとう。この服も大事に着るね、なっちゃん」
柔らかそうな頬が赤く染まって、黒い瞳はうるうると潤んでいた。こういう時の椿は本当にきれいで、可愛くて、大切にしたいなと改めて思う。
俺にとっての大切な女の子、それが椿だ。
正直に言えば、彼女が妖怪だってわかった時はびっくりした。
そんなことが本当にあるのかって思ったし、すげー友達ができたなって誇らしくもあった。俺よりもばあちゃんをはじめとする大人たちの方が慌てていた。だって椿は花を咲かせること以外は普通の女の子に見えたから、もしかしたらどこかの家の迷子なんじゃないかと思ったみたいだった。
でも椿がここの子だって言い張って、それでばあちゃんも引き取る覚悟を決めたらしい。ちょうど一年前にじいちゃんを亡くして、一人暮らしだったせいもあったのかもしれない。それから九年、椿はばあちゃんの元でひっそりと、でも大事に大事に育てられてきた。
図書館で妖怪図鑑を引いてみたら、椿のことらしい記述もちゃんと載っていた。
それによれば『古椿の霊』という妖怪がいて、古い椿の木には不思議な力が宿って人に干渉する、なんて話があるらしい。
でもばあちゃん家にあるのは夏椿だし、そもそも妖怪図鑑は植物図鑑なんかとは違う、いわば創作の図鑑だ。本当に妖怪を見た人が書いたわけではない――ない、と思う。著者に聞いたわけじゃないから、断言はできないけど。
とにかく椿に関しては、『理屈も何もわからないけどここにいるから』って理由だけがある。
それだけの理由でばあちゃんも親戚一同も、そして俺もこの九年間、彼女を大切にしてきた。
「なっちゃん、お疲れ様。ゆっくり休んで」
椿が俺に、冷たい麦茶を持ってきてくれる。
「ありがとう」
お礼を言って、俺は縁側に座った。
何せバイクで片道三時間の距離を走ってきた。夏の日差しに水分を絞り取られた後で飲む麦茶は、格別の味がする。
「なっちゃんはすごいよね、バイクでどこでも行けるんだから」
そう言いながら、椿が俺の隣に腰を下ろした。
微かに花のいい香りがする。
「椿こそすごいだろ」
俺は言い返して、庭に立つ夏椿の木を指差した。
「あんなふうに花咲かせられる奴、他には会ったことないよ」
「そうでしょ、ふふ」
少し誇らしそうに、椿が細い肩を揺する。
「でもね、咲かせるより勝手に咲いちゃう方が多いんだ」
「それはそれで不思議だな」
以前、椿に聞いてみたことがある。花が咲くってどんな感じだ、って。
椿はその時、こう答えた。――嬉しい時に笑っちゃったり、恥ずかしい時にほっぺたが熱くなったりするのとおんなじだよ、って。
不意に生温い風が吹いて、椿の髪がふわりと揺れた。
同時に夏椿の木も、風に煽られて身を揺する。
するとせっかく咲いていた白い花が、ぱた、ぱた、と音を立てながら地面に落ちた。
その音を聞くと俺は言いようのない不安に囚われる。椿自身は平然としているのに。
「……花が終わったら、お前もいなくなるんじゃないかって思った」
思い出して呟けば、椿がおかしそうに笑った。
「言ってたね。そんなこと、全然ないのにね」
夏椿の花期は短い。本格的な夏に入ったらもう咲かないんだよとばあちゃんに言われ、小さかった俺は慌てた。もう椿に会えなくなるんじゃないかって思ったからだ。
でも花が咲かなくなっても、夏が終わっても、葉が全て落ちてしまって冬が来ても、その次の夏が来ても――俺が訪ねていく度、椿はずっとここにいた。
だから俺もたくさん会いに来た。
十六になってすぐバイクの免許を取ったのも、椿に会いたいからだった。
「心配しなくても、ずっとここにいるよ」
椿は言う。
「私は恩を忘れないからね」
いつもそう言う。椿にとってはそれが。ここにいる何よりの理由らしい。
「恩か……大事なことだよな」
俺が頷くと、椿はわかってくれたのが嬉しいというように微笑む。
「うん」
あの夏椿の木は、ばあちゃんがじいちゃんと二人で、手塩にかけて育てたものだ。
じいちゃんの命日に椿が現れたのもそういうことじゃないかって、父さんたちは言っている。寂しかったばあちゃんの元に、木の精がご恩返しに現れたんじゃないかって。
気丈なばあちゃんも、じいちゃんが亡くなった直後は酷く落ち込んでいた。一時期はこの家を売って、ばあちゃんを俺ん家で引き取ろうかって話もあったほどだ。でも今じゃ見違えるようにパワフルで、この田舎で百まで生きるなんて宣言しているからわからないもんだ。
「そうだ! なっちゃん、写真撮ってよ!」
椿が急に立ち上がり、夏椿の元へ駆けていく。
白いスカートを翻し、地面に落ちた花を器用に飛び越えて木の幹に抱き着くと、くるりと振り向き俺に微笑む。
「ほら、いつもみたいに記念に!」
「また撮るのか?」
気乗りせず縁側に座ったままの俺を、ばあちゃんがつついた。
「撮っておやり。あの子がわがまま言うなんて滅多にないんだから」
「おばあちゃんも言ってるよ!」
椿が聞きつけて尚も促す。
それで俺は仕方なく立ち上がり、携帯電話をカメラモードにして、椿の方へと向ける。
白い花咲く夏椿がなるべく入るように照準を合わせ、シャッターを切った。
「撮れた? 撮れた?」
駆け寄ってきた椿が画面を覗き込む。
俺も彼女と一緒に、おでこをくっつけ合って撮れたばかりの画像を見た。
「上手に撮れてるねえ」
椿は満足そうにしている。
それを眺めるばあちゃんもやっぱり満足げで、だから俺も笑っておいた。
「ああ、きれいに撮れてる」
「やったー! なっちゃんに誉められた!」
大喜びの椿が今度は俺に飛びついてきたから、もう少しで庭にすっ転ぶところだった。
ばあちゃん家から帰る時は、日が暮れる前に発つようにしている。
免許を取って二年経つとはいえ、夜道の走行はまだ怖いからだ。
「なっちゃん……もう帰っちゃうの?」
帰り際になると、椿はたちまち萎れてしまう。俺の袖をぎゅっと握って、なかなか離してくれない。
「泊まってけばいいのに。おばあちゃんも、なっちゃんの分のパジャマ買ってあるって」
その気持ちはありがたいけど――ばあちゃんチョイスのパジャマはちょっとアレだけど、俺は明日も学校がある。あまりのんびりはしてられない。
「夏休みに入ったらまた来るよ」
俺はそっと椿の手を剥がし、それからどうにか笑いかける。
「だから、またな」
「うん……」
寂しそうな椿を置いていくのはまさに後ろ髪引かれる思いだ。
背中にまとわりつくような視線を感じつつ、引き返して抱き締めたい衝動を堪えつつ、俺はバイクを押してばあちゃん家の門をくぐる。
そして椿が追い駆けてこないことを確かめてから、携帯電話を取り出した。
画面の中には今日、庭で撮ったばかりの写真がある。
白い花をたくさん咲かせた夏椿とその木が作る影の中、青々と茂る下草――写っているのはそれだけだ。
椿は写真に写らない。
そのことが彼女を不確かな存在に思わせて、とても切ない気分にさせる。
ずっとここにいるよ。
椿はいつも、そう言ってくれるけど。