諜報員の青年の話
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彼女の瞳から、毒がこぼれ落ちる。止めようとしているのか、彼女は目元を手で抑える。けれど毒は止まらない。私は何かに押されるようにして、その毒を手で掬った。
毒が身体を巡る。それがとても気持ちよかった。舌触りの良い毒は次々と私の中に入り、血肉となる。ああ、ダメだ、と思うも、もう止められない。私という生き物の中にある、どこか大事なものが、毒によってぐずぐずと錆びてゆく。それは理性なのかもしれない。感情なのかもしれない。それすらも分からないまま、私は壊れていく。
「………何で泣くのですか」
彼女に問いかける。彼女は笑った。以前とは違う、影のない笑み。
「だって、嬉しいんだもの」
彼女は笑う。とてもとても楽しそうに笑う。まるで子供のように笑う。
ああ、そうか。彼女は子供なのだ。妖艶で頭の足りない悪役令嬢と、子供だけど賢い彼女。その差異が毒を生み出したのだ。二つの違いが、彼女を壊れたものに見せた。
実際は、彼女自身も歪んでいる。自ら進んで泥を被るなど、正気の沙汰ではない。しかもそれが世界の為だなんて、彼女は気が触れている。
けれど、歪んでいるだけで壊れてはいない。歪んでいるのは元に戻るが、壊れているのは直らない。けれど彼女は影のない笑みを浮かべた。それが、彼女自身が壊れてなかったことを証明する。
「私は、悪役令嬢だから。悪役令嬢を演じる私じゃなくて、私自身に話しかけられたことはないから」
そんなことはない、と思う。彼女の兄だって、彼女本人を見ていた。悪役令嬢を見ていたのなら、あんなに本心から心配するような顔をしない。
そう伝えようにも、私たちには本当の彼女と悪役令嬢の違いが分からない。そんな人物から言葉をもらったって、彼女は信じないだろう。
「看守さん、ありがとう」
そう笑う彼女を見て、欲望がむくりと起き上がる。彼女は今、私しか信じない。私しか信じれない。つまり、彼女の唯一は私だ。彼女にとって私しかいない。脳髄が甘く痺れる。甘美な水物が、喉を滑り落ちる。
ああ、こんなのはダメだ。そう思っても、もう止めるものはない。ストッパーは既に毒によって壊された。私はもう進むしかない。
「──どういたしまして」
私は笑う。愚かな自分を嗤う。こんなの私らしくない。そう思うのに、自分をコントロールできない。ただ、欲望に従って進むしかない。
彼女は私に対して笑った。何も知らない、あどけない笑み。甘い、甘い液体が体に染み渡っていく。けれどそれは毒を薄めることはなく、むしろその効果を強めた。ポロポロと、何かが崩れ落ちていき、見ないようにしていた私自身が現れていく。
「……看守さん、どうする?私を連れ出す?」
彼女は不安げに私を見つめる。そこにいるのは、一人の少女だった。無毒な、整った顔立ちの少女だ。加虐心が湧き上がる。いつもならそれを抑える蓋は、彼女自身の毒によって壊れた。私はただ心の赴くまま、行動する。
灯火を床に置き、腰に下げた鍵束から一本の鍵を選び取り、彼女の独房の鍵を開ける。彼女は呆然としていた。こんなに簡単に開けるとは思わなかったのだろう。
ずっと座り込んでいる彼女に苛立ち、彼女の手首を掴んで牢屋から出す。
「じゃあ行きましょうか」
「………え?」
彼女はぽかん、と口を開けて驚いている。そんなに意外だったのか、と考えるも、答えは出ない。
とりあえず彼女の腕を引く。
「………なん、で」
「簡単なことですよ。私がもう、貴女なしでは生きられないから」
彼女の毒は強力だ。もう彼女がないと、発狂しそうになる。今の彼女からは毒は作られないものの、代わりに甘露が溢れ出ている。それは体内に残った毒を濃くし、私は壊れずに済む。
私が笑うと、彼女は肩を震わせた。そして何故か下を向く。
彼女の行動一つ一つが、甘い露を生み出す。甘くて、中毒性があるものの、毒ではない甘露。私は思わず彼女の手の甲に、唇を落とした。
甘くない。彼女から溢れる水物は幻想だと分かっていたものの、現実かもしれない、と淡い期待を抱いていたが、やはり夢幻だった。
眉を寄せて彼女を見上げると、彼女は林檎のように赤くなっていた。甘い。思わず頬を舐めた。
「ひゃっ」
彼女が声を上げる。さらに赤くなった。私が再び顔を寄せると、彼女が腕を伸ばす。
「な、何やってるんですか!」
「………甘そうだったので」
私がそう答えると、彼女はそっぽを向いた。おかしなことをしている自覚はある。けれど止まれないのだ。
うう、と彼女は呻くと、私を見上げた。若干潤んだその瞳から、甘露が溢れる。
「……これからどうするんですか」
「とりあえず、今から火事にして逃げます。証拠隠滅は貴女の兄に任せましょう。まずは城下町へ行って、服を見繕って……ああ、同僚にも帰るって伝えないと」
「分かりました。あの、ありがとうございます、看守さん」
えへへ、と彼女が笑う。甘露が染み渡る。毒が染み渡る。快感が走り抜けて、ぞっと肌が粟立つ。
「──いいえ」
それ以上は無理だった。快楽によって、脳髄が甘く痺れる。その快感を一瞬でも長く味わっていたかったし、何より脳の働きが鈍って、言葉が思いつかなかった。
しばらくして、快感が消える。私がやっとのことで彼女に目を向けると、彼女は不思議そうな顔をしていた。
「……行きましょうか」
「はい」
私は床に置いたままだった灯火をかかげ、彼女の前を歩く。やがて扉の前に来ると鍵を開けてくぐり、彼女が出るのを待って、手に持った灯火を放り投げた。
小さな炎は回転しながら飛んでいき、やがて床に落ちると、少しずつ火が大きくなっていく。
「急ぎましょう。兵たちに気づかれる前に王城を出たいですから」
彼女はその言葉に頷き、私は彼女の手を持って駆け出した。
この監獄は使われることがほぼ無いため、他の監獄とは離れた場所にあり、兵たちの見回りも来ない。それをこれほど感謝したことはなかった。
木陰に隠れながら、王城の奥へと進んで行った。
遠くに上がる黒い煙を見つめる。きっと今頃王城内は大騒ぎだ。何とか大きな火事になる前に抜け出せて良かったと思う。
私は窓の外の光景から目を離し、ベッドに横たわる彼女を見た。長い間運動もできず、食事も少なかったためか、彼女は王城を出てすぐに歩けなくなった。本当はすぐにでも王都を抜け出したいところだが、彼女が歩けないため、宿を借りて一泊することにした。
「あの……」
「何でしょう?」
彼女が私を見上げて言った。心許なげな瞳が揺れる。
「ずっと思ってたんですが、自己紹介しませんか?私、看守さんの名前知りません」
確かにそうだった。私たちの世界は、今まで二人きりだった。そのおかげで名前を知らなくても事足りたが、今後はそんなことにはならないだろう。
私は彼女を見て言った。
「ローレンスです。諜報員をやってます」
「ローレンスですか。よろしくお願いします。私はアン──」
私は彼女が名前を言おうとしたのを遮る。彼女は小首を傾げた。
「貴女の名前を教えてください。悪役令嬢ではなく、本当の貴女の名前を」
私がそう言うと、彼女は驚いた顔をした。そしてふふふ、と笑う。甘い水物が溢れ出る。
胸のうちに黒いもやが湧き出る。
そんな私の様子を知らず、彼女はかつて毒を紡いでいたその唇を震わせる。
「私はですね──」
一応完結ですが、いずれ続き書きたいですね。
設定はできてるんですが、何しろ時間がないです。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。