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それから

「自然な家庭_3」

〜本当の家族とは?〜



「自然な家庭_3」


それから

 病院側が気を利かして、駿と淳が兄弟ということが判り同じ病室にしてくれた。二人は目を覚ました時に隣に、駿には淳が淳には駿がいることでひとまず安心した。

「しかし、俺たちも悪運が強いなあ!まだ体は動かせないけど、こうして助かってるんだから。やっぱり日頃の行いが良かったのかなあ!」

「日頃の行いだったら、兄さんはここにいないよ!それはとにかく良かったよ!無事で」

「こっちの時代に戻ってきてもお前の憎まれ口は変わってないんだなあ。まあ、いいけど。ところで俺もお前もあれだけ大事故で無傷ってのは凄いことかもしれない。親父やお袋が守ってくれたのかなぁ?」

「こっちに戻ってくる時、母さんを見たよ。生前にはなかなか見ることが出来なかった母さんの飛び切りの笑顔を見たよ!」

「俺は親父と遭った。あの自殺してしまった親父がにっこりと笑顔で笑ってくれたよ!あの笑顔を見れただけでも幸せだったかもな!」


 ひとまず無事だったことを報告し合った後、最初に自分の体の異変に気付いたのは淳の方だった。

巡回に来た医師が来た時「何か変わりはないですか?」と尋ねてきた医師に「お蔭様で大分よくなって来たように思うのですが、なんか膝の上がひどく痛むかと思えば膝から下の足の感覚だけが戻らないんですよ!後どのくらいしたら感覚が戻って立てる様になるのでしょうか?」と訊いた。

 医師は淳の話にビクンと反応し「話さねばならない時が来たようですね!」と言った。医師は故意に業務的な口調で淡々と話した。

 「事故の時、あなたの両足は運転席に挟まれてしまっていました。病院に運ばれた時には、膝が砕けていました。到底、修復するのは不可能でした。血管がつぶれて足の細胞に血が行き届きません。膝から下が壊死(えし)してしまいます。そこで手術の時に膝から下を両足切断せざるおえませんでした」

駿も一緒の部屋にいたので話を聴いていた。淳はがっくりと項垂(うなだ)れたまま黙って聞いていたが「嘘だ!」淳は医師の言葉を受け入れられなかった。

 医師の話は続いていた。

「嘘ではありません。現実を受け入れることは辛いかも知れませんが、受け入れないといけません。でも車椅子があります。車椅子でどこにでも行ける様になります」

「ふざけるな!」下を向いていた淳が突然、医師に向かって叫び出した。

「ふざけるな!そんな簡単に言ってくれるが両足がないんだぞ!そんな簡単なことじゃないだろう!」と医師に食って掛かった。

「先生に両足を失った奴の気持ちが分かるか!」

「落ち着いて下さい!お気持ちは理解しますが事実は事実です。受け入れるしかないのです」と言う医師に淳は「出て行ってくれ!出て行ってくれ!」と叫んだ。

医師は看護師と目を合わせて立ち上がった。「赤木さん、今はショックを受けられているのは分かります。でも車椅子で立派に生きている人もいます。どうか立ち直ってください!」と言い残して病室を出て行った。

 淳は興奮と怒りに真っ赤な顔をしていた。駿はそんな今まで見たこともない淳の顔を見ながら「淳!」と声をかけた。咄嗟に「ちょっと黙っていてくれ!」と返って来た。駿は黙って淳に背中を向けた。


 数日後、駿は立って歩けるようになっていた。飛行機では比較的損傷が少なかったビジネス席に座っていたおかげもあるが、駿は飛行機の事故後歩いて出てこれたのだから足には大きな怪我はなかったのだ。

 駿と淳は病室こそ一緒だが検査は当然のことながら違う。いろんな検査を別々に受ける必要がある。駿も淳も頭を打っていたので精密検査は受けていたが、頭痛などの症状になって現れてないのでおそらくなんともないだろうと思っていた。


 ただ一つ駿は気になることがあった。淳のことがあったため、病室に担当医が来た時には訊けなかったが、検査で整形外科を訪れている時、担当医師に自分の右腕のことを訊いてみた。

 「先生、実は術後の体の経過はいいんですが、右腕だけが動かないんですが……」と駿は言った。駿の担当医師は「赤木さんは飛行機事故に遭われたのですよね!その時に右腕をどこかにぶつけたのではないかと思います。右腕の神経と筋肉が滅茶苦茶に寸断されていました。到底繋ぎ合わせることは出来ませんでした」

 駿は暫く黙っていて「それじゃあ、私の右腕は一生動かないんですか?」と訊いた。医師は重い表情のまま頷いた。「動かないだけではなく、触っても触られても感じないでしょう。現代の医学ではあれだけ神経も筋肉も寸断されてしまっては繋ぎあわすことは出来ません」と言った。

「でも私は右肩を貸して大怪我を負っている怪我人を助けたんですよ!怪我して右手を動かせない人にそんなことが……」と駿は言ってハッとした。

 右肩を貸した時に言い様もない激しい痛みを感じた。だが、そのまま無理に頑張って乗客を一人でも助けることに力を注いだのだ。あれだけ右腕が痛くても頑張れたのは火事場のクソ力と言うものだったのかもしれない。

 事故の際に、駿は通路側の席にいたが、上の荷物室に仕舞っていた荷物などが落ちて飛行機の衝撃の度に宙を飛び回っていた。その時に何かが落ちて飛んできて駿の右腕に激しく当たったことを思い出した。だが、そんな理由はどうでも良かった。「俺の右腕が……」その後の医師の話は何一つ聞いていなかった。


 駿はすぐに病室に戻らず病院の屋上に出て屋上から外を眺めていた。冬でありながらぽかぽかと太陽が照ってる温かい日だった。空は青空が広がり、鯨のような形の雲がゆっくりと流れ泳いでいた。病院はこの地域では高いらしく視界を遮るものがなく、かなり遠くまで見渡せた。

 小さな車が行き交う道路、さらに小さな人間が、働いていたり、自転車を漕いでいたり、遊んでいたりするのが見えた。「なんか、ちっぽけなんだなあ、人間って!」と呟いてみた。

 自分の右腕が動かないことなど、こんなちっぽけな人間である一人の人間の小さな悩みにしか過ぎないのだろうなあと思ってみた。そう思うと右腕が動かないことなど大した事ではないように思えてきた。右腕が動かなければ箸やスプーンが使えないし、ペンを使って字を書くことも出来ないが、まだ左腕は普通に動く、左手を使って練習すれば、箸を持つこともペンを使うことも出来るだろう。

 あれだけの事故に遭って死者が出たにも関わらず、これだけの怪我で済んだのならラッキーだったのかもしれないと考えられるようになってきた。淳は両足が切断されている。それに比べたら右腕一本など大した事ではない。考えている内に医師に言われた時は大きなショックを受けていた駿だが、精神的なショックから立ち直ってきていた。そうして気持ちを落ち着かせてから病室に戻った。


 駿が病室に戻ると、淳はベッドの上で上半身を起こしていた。

「よう!」と駿は淳に挨拶した。

「やあ」とちょっと沈みがちの淳の声が返って来た。

「つくづく俺は付き合いのいい奴だと思うよ!お前ほどじゃないけど、俺も事故で右腕を壊していたらしい。右腕が動かないし触っても触られても分からないらしい、このままずっと。まいったね、こりゃ!」

 淳は俯きがちに黙って聞いていた。

「でも兄さんは右手だけ、しかも動かなくても付いてるじゃないか!僕は両足で、しかももうないんだよ!」と淳はぼそっと言った。

「まあ、そりゃそうだよな!でも気持ちは分かるけど、今は車椅子もあるしさあ、歩けないのは辛いけど、まだ生きてるんだからさあ。お前には子供も生まれるんだから、お父さんとしてしっかりしないと!お前自身がお前の親父に言ったようにさ!」

 「さっきさあ、看護師さんに無理に頼み込んで、妻が入院していた病院に電話してもらったんだよ。僕はまだ動けないからね。それでも、どうしても緊急に知りたいことがあってね。優しい看護師さんで、訳を話すと笑顔で引き受けてくれたんだ」

「妻はさ、亜希子はさ、通常の出産より早くて母子ともに危険という連絡を亜希子のお姉さんから受けててさ!」と話す淳の言葉で駿はやっと淳の事故の背景が掴めた。淳は元から車を飛ばすタイプではない。せかせか焦ることもなくマイペースで制限速度を超過しても10〜20キロ程度だ。だが、事故の大きさから考えるとそれ以上のスピードが出ていたはずだ。駿は淳に尋ねはしなかったものの、何故そんなにスピードを出していたのか気にはなっていた。

 「母子ともに危険な状態だったらしくて、子供を産むことを優先させれば母体が危険になるという状態だったんだ」

淳は言葉に詰まった。

どうしたのかと駿が見つめていると淳は突然泣き出した。

 「妻は大丈夫だったんだけど、子供がさ、子供が死んじゃったんだよ!」

駿はゴクンと息を呑んだ。まさか、そんなことが起こることなど考えてもいなかった。子供も出来て家庭を持って「家族のためにも生きなければならない!」と駿に教えたのは淳だった。その淳にそんなことが待っていようとは駿は思いもよらなかった。

 「この世に一瞬たりとも生を受けずに死んでしまったんだ、僕たちの子供がね!母子共に危険というような状態で亜希子が、そしてお腹の中の子供が頑張っている時に、傍についていてやることも出来なかった。そして、今は子供を失った亜希子に一緒に居てやることも出来ないんだよ、僕は!」

「情けないよ、僕は!この足のせいで!こんな足のせいで!」と言って淳は自分の両足を両手で何度も叩きだした。

 慌てて駿は淳の元に走って淳の手を止めた。駿の右手は動かないので左手で淳の右手を掴んだ。

「止めろよ、淳!そんなことして何になるんだ!子供を失って一番悲しく辛いのは亜希子さんなんだ!お前は亜希子さんの心の支えにならないといけないんだぞ!こんな所で自棄(やけ)を起こすな!」淳は駿に抑えられていない左手で以前として足を叩いていたが、駿の言葉に泣き崩れた。泣き崩れる淳を駿は左手一本で抱きしめた。


 事故から十日ほど時が流れた。淳の妻の亜希子が淳のお見舞いにやって来た。駿は込み入った話になると思って気を利かして席を外した。淳と亜希子と二人きりになって、先に話し出したのは亜希子の方だった。

「ごめんなさい、あなた!子供を産めませんでした」

「何を言っているんだ!謝らないといけないのは僕の方だ!君が辛い思いをしているのに、君を支えるどころか、君に世話ばかりかけている。すまないと思っている。本当にすまない!」

「そんなことないわ。大変な事故だったそうですもの。仕方ないわよ!」

「ありがとう。今回は残念なことになったけど、君が無事でなによりだよ。君が無事であってくれたことが何よりも良かったよ!」

亜希子は「今度こそしっかりと産んでみせるわよ、あなたの子を!」と言って笑顔を見せた。

「でも僕は両足がないんだ!」

「何言ってるのよ!両足が無くたって子供は作れるでしょ!また二人で頑張りましょう!」

 淳はしばらく考えてから顔を亜希子の方に向け「うん、そうだね!頑張ろう!」と笑顔を見せた。亜希子がそろそろ帰ると言う時に、淳は亜希子を呼び止めて「僕は君を妻に持ったことを幸せに思っている」と言った。亜希子の頬は照れて赤くなった。「私もよ!私もあなたが夫で幸せよ!」と言った。それからというもの、亜希子は毎日の様にお見舞いに来るようになった。


 さらに十日ほど過ぎてからリハビリを行うことになった。淳は車椅子の訓練、駿は左手を使って箸を動かすことや字を書く訓練だ。淳は亜希子がお見舞いに来てくれるせいか、何か目的を持ったようで精一杯リハビリに取り組んでいた。駿の離婚した妻の早苗や香澄や徹は一度も駿のお見舞いには来なかった。それでも駿はくじけることなく淳に励まされながらも左手での訓練を行った。

「兄さん、もし兄さんの字が下手糞で読めなくても心配要らないよ。僕が兄さんの代わりに書いてあげるよ。兄さんだったら特別に時給三千円くらいで!」

「お前は俺から金を取るのか?むしろ親父が死んでから卒業してからも暫くの間、お前には金の面倒見ているんだから、利子つけて返して欲しいよ!この頃は俺も入院費とかでお金に苦しいんだからさあ!」

「兄さん、過去は過去、過去のことはもう時効だよ」


 駿はそんな淳の憎まれ口に励まされながら左手を使う練習をした。そして駿は退院する日を迎えた。淳よりも駿の方が怪我の度合いが軽かったから駿の方が早く退院となったのだ。退院の日、淳の妻の亜希子も来てくれた中で、世話になった看護師や医師から「退院おめでとうございます」と言葉を掛けられた。「ありがとうございます」と言いながら駿は、これらの人たちが自分のためを思ってくれることに感動した。自分の退院を祝ってくれる人がいる、それだけでも嬉しかったのだ。


 そんな時、病室をノックする音が聞こえた。「はい、どうぞ!」と言われてドアを開けて入ってきたのは、車椅子に乗った一人のおじいさんと彼に付き添っているおばあさんだった。

 「覚えておいででしょうか?」とおじいさんは駿に向かって開口一番に話し掛けた。駿には誰だかさっぱり思い出せなかった。おじいさんは続けて「あの時は本当にありがとうございました」と頭を下げた。訝しげに見ている駿におじいさんは「ほら、あの時の飛行機の大事故で、あなたは剥がされて倒れたシートの下敷きになって動けなかった私を救い出してくれたんですよ!」と付け加えた。そこまで言われて駿もやっと思い出した。「ああ、あの時の!あの時はお顔をよく拝見しておりませんで、すぐに気付きませんでした。お体大丈夫でしたか?」あの時は必死であったため、助け出した人のことをよく見ておらず男性としか記憶になかったので年齢も気にして見ていなかったが、こうして改めて見ると思った以上に年齢は上だったようだ。

「あの時、あなたが助けてくれたので足を損傷しただけで、こうやってまだ生きとります」

「そうですか、それは良かったです」

「あの時は、ご自分も怪我をされてるのに、あなたは周囲の幾人かを助けて、最後に私を機外に連れ出してくれました。ありがとうございました。感謝しても感謝しきれません」

「いえ、そんなことはありませんよ。当然のことをしたまでです」

「あなたが本日退院と聞きまして、あなたに助けられた人たちを代表してお礼を述べたいと思ってやってきました。他の病院で入院している人もいると思いますが、皆感謝の気持ちで一杯でしょう。あなたの優しく勇敢な行為は一生忘れません!」

「いやあ、それ程のことでもないんですよ」駿は照れながら頭を掻いた。

 病室を何度も頭を下げて立ち去るおじいさんとおばあさんを笑顔で見送った。駿は今まで自分のためにと生きてきたが、こんなに感謝されたことなどなかった。仕事上でもプライベートでも心から感謝される経験は皆無と言ってよかった。

「感謝されるって気持ちいいもんだなあ」

「そうだね、兄さんが感謝されるなんて、今日はこれから雪が降るかもね!それとも(ひょう)でも降るのかな?」と快晴の空を見上げながら淳が言った。

「お前は俺の退院の日にも鋭い憎まれ口を言ってくれるね!」

「兄さんに路上漫才で鍛えられたおかげだよ!」

「路上漫才!?」と淳の隣にいた亜希子が訊き返した。淳から聞いた話の中では路上漫才をやったことなど聞かされていなかったのだ。

「いやあ、路上漫才って言ったって趣味で数回やっただけなんだけどね!」と淳は(つくろ)ってからホッと胸を撫で下ろした。淳が駿と一緒に過去の自分を探る旅で路上漫才をやったなど亜希子には言える訳もなかったし、言ったら頭の打ち所が悪かったと精神病院に入院させられてしまうだろう。誰も信じてくれないだろうし、誰にも話すつもりもなかった。

「それじゃあな、淳!お前はもう少しリハビリでもやって休んでな!俺は一足お先に娑婆(しゃば)の空気を吸いに出るからな!」

その場にいた医師や看護師が娑婆という言葉に顔を見合わせぷっと吹き出した。

淳はちょっと真面目な顔に戻って「兄さん!家族を取り戻しなよ!今度こそ逃げちゃ駄目だよ!」と言った。駿はウィンクして応えて、「それでは皆さんお世話になりました。ありがとうございました」と最後に礼を言って頭を下げて病室を後にした。病院の外は晴れやかな天気で、雲もなく澄み切った青空がどこまでも続いていた。


 駿は事故が起きて一ヶ月程で自分一人のアパートの部屋に戻った。その間、会社は休職扱いになっていた。部屋の鍵は事故の際にどこかに紛失してしまったので、大家さんに事情を話して合鍵を作った。合鍵を作った際に何気なく出したお札に「随分古いお札をお持ちですね!」と言われた。三十四年前に路上漫才で得たお札が残っていたのだ。

 事故の遺留品としては荷物室のトランクも機内に持ち込んだ手荷物も滅茶苦茶になっており、到底回収して使えるものはなかった。

 駿が(はかな)い期待を抱いていたのは機内に持ち込んだノートパソコンだった。ハードディスクの中には今までの大事なデータや資料が入っていた。遺留品の中から探してみるとノートパソコンを入れた見覚えのあるバッグは見つかりノートパソコンも入っていた。家に持ち帰り、ノートパソコンの電源を入れてはみたが反応しなかった。ハードディスクの中のデータだけでも読み出せないかパソコンショップを渡り歩いてみたものの、一片のデータも資料も全てアクセスが出来なかった。

 駿の会社ではデスクトップではなくノートパソコンを貸与されて持ち歩い使っていたのだ。その方がポータブルで機動性に優れているので効率的だった。その持ち運びが裏目に出た。そのノートパソコンに入れていたデータや資料が全て失われてしまった。駿がこの会社に働いてからの数多くの努力と成果は失われた。幾らかの全体が使う資料やデータだけは会社のサーバーに保存してあったが、それ以外の全ては失われてしまった。

「これで本当に一から出直しだな!逆にさっぱりしたかもしれないな。全て最初から築き直しだ」と一人呟いてみた。


 退院後三日経ってから会社に出社した。その期間に左手だけで生活出来る様に、さらに仕事に差し支えない様にいろんな場面を想定して練習した。パソコンを片手でマウスを動かしキーボードを叩く練習したり、左手で受話器を取って肩に挟んで左手でメモを取ることや、ワイシャツ着てスーツを着る練習をしたりした。上手くは出来ず、出来ても以前よりも時間が掛かりもどかしさに苛立ちを露にしたことも数多くあった。中でもネクタイを片手で結ぶのはなかなか上手く出来ず何度もやり直した。それでも時間は掛かるが一通りの事が出来るようになった。そうして久しぶりの会社に意気揚揚として出かけた。

 会社の人たちに挨拶をしながらいつもの自分の机に座ろうと自分の席の行ったら、部長補佐の自分の机と椅子には同僚が座っていた。

 部長が気まずそうに駿を呼び出し「事故になって大変だったね!君には今日から別のことをやってもらうから、しばらくは久しぶりの会社に慣れるようにしてくれ!」

「私はもう部長補佐ではないのですか?」

「例え社員が事故に遭っても、部長補佐の役職を空席にしておくわけにはいかないのだよ!君にも分かってもらえると思うが……」

駿は「判りました」とだけ応えた。しかし、内心は悔しさで一杯で歯軋(はぎし)りしていた。

 事故は駿の責任ではない。だが、その事故で会社を休んだことで自分のポジションを失ってしまった。これまで、この会社のために精一杯尽くしてきたつもりだったが、どんな理由であっても使えなくなったら即座に捨てられる。そんな使い捨ての存在である自分に虚しさを感じた。

 駿の新しい部署は総務部だった。ブランクもあるからという会社の親心で、とりわけ急ぎの仕事が少ない部署で、責任も権限もない役職が付かないポジションに回してくれたのかもしれないが、駿にとっては逆にやる気を失うこととなった。今までとは違って残業はほとんどなく定時で退社出来た。やっている仕事も特に決まっておらず雑用の感もある。最初は何故自分がこんな部署で働かなければならないのかと言葉にこそ出しはしないが不平や不満で一杯で、やる気を削がれた感覚を抱いていた。

 アパートに帰って暗い部屋で一人寂しく食事を取る。仕事が定時に終わっても、今まで仕事一筋に生きてきた駿にとっては、何をしていいのか、何をしたいのかといったこともなく、時間をどうつぶしていいのか判らなかった。酒を飲む量だけが増えていた。酒を飲みながら思い出すのは、家族のことや淳のこと、そして過去の自分が輝いていた仕事のことであった。残業や休日出勤を当たり前に働いてきたのだ。ところが今の自分の仕事のやりがいのなさを思うと(わび)しくなってしまうのだった。

 こんな時こそ、淳や真一に言われた様に家族を取り戻して、会社や仕事ではなく今度こそ家族を大事にするんだと期待を強く抱く様になっていた。


 そんな日曜日、前々から決めていたように香澄や徹に会いに行った。香澄や徹は早苗の両親の家にお世話になっているはずだ。子供たちに会いに行くのは離婚の条件の時に早苗も認めていた。いきなり会いに行っても何の問題もないはずだ。

 久しぶりに子供たちに会えると気分がうきうきとしながら出かけた。事前に連絡して約束を取ることも考えたが、最初は様子見だけのつもりで行ってみて、いいようだったら連絡して再度約束を取ればいい。

 事前に様子見を考えたのは、離婚に至った経緯の中で、香澄や徹にも自分は父親として必要とされていなかったので、あの頃のまま彼らの自分に対する思いが変わっていないのではないかといった不安があったからだった。彼らの感情が依然として強い拒絶であれば、会ってもくれないだろう。会う前に彼らの状況を事前に知っておいた方がいいと考えたからだった。


 確か駿が以前何度か訪問した時の記憶では、早苗の両親の家は駅から歩いて二十分ぐらいの場所にあったはずだ。バスやタクシーで行くというのも手だが、せっかくのウキウキ気分の晴れの日だ。土産物を買っておけば、いきなり訪ねたとしておけば不自然ではないはずだ。

 電車を下りて駅を出る時はウキウキしていた気分も、早苗の両親の家が近づいてくると気分が重くなってきた。妻と離婚して、駿を選ぶことなく早苗の両親の家で住むことを選んだ香澄と徹だった。駿を受け入れてくれるのだろうか?それとも拒絶するのだろうか?不安から会うのが怖くなって歩むスピードはいつしかゆっくりになっていた。ゆっくり歩いても三十分も歩くと家の周辺に着いてしまった。

 閑静な住宅街なので、下手に振舞っていると怪しい人として通報されかねない。辺りを気にしながら家の玄関が見える位置で見張っていた。ドキドキしていた、久しぶりの子供たちだ、出迎えてくれるのだろうか?ニ、三分程家の玄関の前で様子を窺ってからチャイムを鳴らそうと思っていた。

 チャイムを鳴らそうとしたその時であった。玄関の奥から人が走って出て来る気配がした。駿は咄嗟に物陰に隠れた。玄関がガラッと開いた。徹だった。あまり変わっていないが、駿にはとても変わったように感じた。「早く行こうよ!みんな支度が遅いなあ!」と今しがた開けて出てきた玄関の中を覗いている。

 今日は日曜日だ、誰かとどこかに出かけるらしい。次に出てきたのは香澄だった。香澄も駿に反抗的な態度を取っていたときと比べると不良っぽさがなくなっていた。まだ援助交際やっているのだろうか?香澄と徹を見ていると駿は知らずに涙が出てくる思いだった。 

 香澄が「早く、おじいちゃーん、おばあちゃーん、お父さーん、お母さーん」と玄関の中に向かって叫んだ。駿はギョッとした。香澄は確かにお父さんと呼んだ。まもなく、早苗のご両親と早苗、そして最後に玄関の鍵を閉めたのは駿の知らない男だった。


 徹が「遅かったのはやっぱりお父さんか!いっつものろまだなあ!」とその男に言った。「いやあ、どうしても戸締りとかガスとか心配でなあ!徹、おまえこそ部屋の鍵開けっ放しだったぞ!」と徹に言った。「ああ、いっけねえ、つい」と徹が言うと、その男は「そそっかしい奴だなあ、幾つになっても!」と言った。

 早苗は再婚したのか?駿はその可能性を考えもしなかった。都合よく早苗は自分を待っていてくれると思っていた。早苗の再婚相手は、あの時ホテルで見かけた男ではなくもっと年配の男だった。彼ら家族はにこやかに笑っていた。早苗も香澄も徹も素直に笑っていた。駿と一緒の時には見せたこともないような笑顔だった。その笑顔を見た時に、駿の家族を取り戻してやり直したいという願いは儚く消えた。彼らの中に自分の入る居場所がないことを悟った。父親は自分ではなく違う男が選ばれていた。彼らは家族一緒に車でどこかに行く所らしかった。

 駿は早苗と結婚していた間に、淳が小学校に上がる前に一度か二度旅行にも連れて行ったが、その後は一度も連れて行ったことはなかった。授業参観にも出たことも無かった。運動会も徹が小学校に入った時を最後に行ったきり、その後は仕事で行くこともなかった。香澄の中学には一度も行ったことがなかった。小学校に行ったのも徹が小学校に入った年が最後だった。そう言えば、香澄や徹の趣味も部活やクラブも知らなかった。


 彼ら家族は車で一緒に出かけていった。駅への帰り道を戻りながら自分が非常に(みじ)めに思えた。淳には淳のことを愛してくれる妻がいる。淳の妻の亜希子はお見舞に毎日の様に病院に来てくれていた。

 駿の事故については、病院が早苗の家に連絡を取り元妻の早苗に電話したと言っていた。結果的に右手を失うだけですんだものの、頭も打っていたので大変な手術になるので身寄りに電話したとのことだった。

 早苗は「別れた元夫のことですから、私には関係ありません」と言ってきっぱりと断ったということを看護師から聞いていた。それでもその時は駿は早苗も仕事やら家事やらで忙しいから来てくれないのかと考えていた。だが今日ではっきりした。来れなかったのではなく来なかったのだ。そう思うと駿は一人ぼっちな気がして荒涼とした砂漠に一人で、風に吹かれているような心が空っぽな感覚に陥った。


 駿はアパートのある最寄駅まで帰ったものの、暗いアパートの部屋に帰るのが嫌だった。自分と関係ない人たちでもいい、通りがかりの人たちでもいい。誰かがいて賑やかな場所にいたかった。誰とも会話がなくても賑やかさだけでもいいから感じていたかった。暗い部屋で一人で寂しくしていると自分が壊れてしまいそうな気がした。

 駅を降りて行き着けの飲み屋に顔を出した。離婚してこの場所に引っ越してきてから時々飲みに来る店だった。“弥生”という名の店で、その名の通り弥生という名のママがやっている飲み屋というより小料理屋だ。カラオケなどはなく静かに落ち着ける感じで、客層も店の雰囲気に合わせて三十代後半以降の人が多かった。

「あらっ駿さん!お久しぶり」と声をかけてきたのはママの弥生だ。本名も苗字も知らない、板前の辰さんが旦那さんで、夫婦でこの店を運営している。この店は和風料理屋ではあるが日本酒や焼酎以外にもウィスキーやブランデーなんかも置いていた。一番アルコール度数が高いウィスキーを注文した。

「あら、珍しい!日本酒じゃないんだ」

「うん、ちょっと今日は酔いたい気分なんだ!」と笑顔を作って言った。泣きたいのに泣けず笑顔を作っている自分の顔は、笑顔が固くパリパリと(ひび)が入って割れてしまいそうだった。結局、閉店まで独りで飲んでいた。ママに「もう閉店ですよ、駿さん!」と寝ている所を起こされた。

「もう閉店なのー?今日のママ綺麗だからさあ、もう少し、ねえ、いいでしょ?お願い!」

「はいはい、また明日お願いしますね!」

「ママ冷たいなあ!ケチ」と言って立ち上がった駿はよろめいて、ママに抱きつく形になった。ママは酔っ払いの扱いには慣れているので、駿を失礼にならないように体から離して店の外に出した。

店の中で酔っ払った振りをしていたが駿は酔っていなかった。駿は酔いたかったので強い酒を飲んでいたにも関わらず頭は酔えなかったのだ。


 弥生からの帰り道は酔っ払っていて千鳥足で歩いていた。肩がドンと前から来る男三人組にぶつかった。「馬鹿野郎!気をつけろ!」と駿は言ってしまった。その三人の男は血の気が多いようで「何を!この酔っ払いが!」と駿に殴りかかった。彼の仲間二人も喧嘩に加わった。駿も蹴りや左のパンチを出して応戦したが、右手はだらりと垂れたまま動かすことは出来なかった。右手のハンデと酔っ払ってよろめくことで駿はあっという間に路上に倒された。駿がアスファルトの上で(うずくま)っているところを容赦なく何度か男達三人の蹴りが入った。

 暫くすると「何してる、お前達!」と言って警官がやって来た。誰か通行人が呼んでくれたらしい。三人の男達は「やべえ、逃げるぞ!」と行こうとした。駿は蹲りながら逃げようとする一人の男の足を左手で掴んだ。「何しやがんだ!放せ!この野郎!」と蹴りが駿の鳩尾(みぞおち)に入って、駿は「うう」と唸って手を離した。男達は走って逃げて行った。

 アスファルトの上で仰向けになっている所へ警官が「大丈夫ですか?」と声をかけてきた。駿はよろよろと立ち上がり「大丈夫です」とだけ言ってアパートの方へ歩いた。警官は「ああ、君、君!」と去り行く駿に声をかけてきたが追っては来なかった。


 アパートの暗い部屋に帰り、明かりもつけずに窓から入る外からの明かりだけの中で、仰向けになって寝ていた。殴られた顔はぼこぼこに腫れていた、そして蹴られた腹や足もズキズキと痛んだ。だが、ぽっかりと心に空いた穴は体の痛みよりもっと痛かった。駿の目尻からゆっくりと落ちた涙が部屋の畳を濡らした。駿は暫く身動きもせず流れ落ちる涙を拭こうともせず、声も立てずに独り暗い部屋の中で泣いていた。


 翌朝、駿は会社を休んだ。体の節々(ふしぶし)が痛かったことが直接の原因だが、会社に行って働こうというやる気が持てなかったことも心の中にはあった。朝、会社に電話したが駿としては、直前に会社を休むというのは初めてのことだった。有給休暇は使うことなく残っていたが使いたいと思ったこともなかった。それどころか会社の休日も働いていたくらいだった。電話をかけて休みを言い出す時には駿は緊張していた、罪悪感すら感じたものだった。

 総務部長は会議でいなかったために、彼に欠勤の伝言をお願いした、電話応対に出た総務部の女性は「お大事に!」と一言だけ言ってから電話を切った。受話器を切った駿は言い様もない虚しさを感じていた。会社を休んだのは初めてだった、そんな自分のことを心配してくれることを心のどこかで期待していたのかもしれない。ところが「お大事に!」と素っ気ない事務的な言葉だけだったのでがっかりきたのだ。

 会社を休んではみたもののやることがなく、パチンコ屋行ったり本屋で立ち読みしたり喫茶店でコーヒーを飲みながら時間を潰した。夜はテレビを見たが、普段見ていないだけに連続ドラマは面白くもなく、ドラマ以外にも面白い番組があった訳もなくチャンネルを回していただけだ。

 翌日も会社を休んだ、そしてその翌日も会社を休んだ。計三日間会社を休んで、その次の日久しぶりに会社に出勤して、仕事の同僚や総務部長に欠勤して仕事に迷惑をかけたことを謝った。しかし、誰も心配したり気に止めてくれてる様子はなかった。総務部長でさえ「いいんだよ!君も疲れてるだろうから、休みたいだけ休んで!但し、有給休暇の範囲内で」と言っただけだった。総務部長としては気遣ってくれたものだが、駿としては自分が会社に必要とされていないと感じた。

 出勤してもやる仕事は特になかった。総務部の先輩や同僚や総務部長に訊いても「とりあえずこのマニュアルを読んでおいて!」とか「まだ慣れないだろうからみんなのやること見てればいいよ!」とか言われるだけだった。駿は「いつまでに読み終わればいいですか?」と質問したが「いつまででもいいと思うよ!今はどうせ暇だし、忙しくなったら猫の手でも必要となるから」と返された。

 冗談のつもりだろうが、駿は会社の中で自分の右手が動かないことを気にしていたので酷く傷ついた。確かに駿の右手は動かないので荷物を両手で持つことは出来なかった。字は綺麗とは言えなくても書ける様にはなっていた。コンピューターの作業も左手一本でマウスやキーボードを動かしていた。言われるまでもなく時間はかかってしまう。それにしても猫の手と言われたことに非常に心が傷ついたが笑顔で抑えた。もちろん言った本人にはそんなつもりはなかったのだろうが、駿はそういう意味で被害妄想的に受け取ってしまっていた。だが、猫の手と言われたこととは別に、自分がこの部署に、そしてこの会社に必要とされているとは、もはや感じられなくなってきていた。


 駿は会社に復帰して一ヶ月ほど経ったが、この一ヶ月間仕事という仕事はしてなかった。人から指示されたことをこなすとか、マニュアルを読むとか、皆の仕事の手伝いをするといった仕事をしただけだった。この一ヶ月間ずっと考えていた事を駿は実行に移した。定時で仕事が終わった際に総務部長の所に行き「お話があるのですが……」と切り出して退職願を出した。駿は総務部長が「何もそんなに早まらなくても……」と言うのを遮って「決心は固いです。宜しくお願いします」と言った。総務部長の話が出ないのを見て「それでは失礼致します」と言って駿は胸を張って部屋を退出した。

 今までのようなキャリアアップのための退職ではなかった。次の会社が決まっているわけではなかった。自分のプライベートな時間も会社や仕事に打ち込んできたが、会社に捨てられる時は早いものだと気付いたのだ。この一ヶ月間、駿はやる気をなくして今では全く仕事に対するモチベーションを持つことが出来なかった。

 このまま会社で養ってもらっていて、給与という定期的な安定収入を得ることは捨てがたく有り難いことではあったが、ワーカホリックの様に働く事が生き甲斐(がい)だった駿にとっては給与よりも働き甲斐を強く求めていた。かといって次の会社に転職しても、また何かあれば捨てられてしまう。そんな生活に嫌気が差していた。

 お世話になった購買部長にも会社を辞めるというので食事を一緒にして「今、我慢すればきっと君をまた購買部に戻してやる」と言われたが一度揺らいだ会社への忠誠心は元に戻ることはなかった。いや、会社に対して忠誠心がどうのこうのというのは、つい先日まで抱いていた感情だったが、退職願を書いてからは自分の次の人生の一歩を歩み出したくて仕方なかったのだ。自分の新しい人生は希望の光で満ち溢れているように思えたのだ。それは、このまま会社に留まっていても、得られないものの様に思えた。

 駿への説得は駿の意思が強かったこともあり早々に終わり駿の退職の手続きは早々に進んだ。総務部での引継ぎ事項もほとんどなかったこともあり、駿は退職願を出してから一週間で退職の日を迎えた。そして退職の日、総務部の女の子から花束をもらって会社を後にした。駿は会社を後にして振り返ることはなかった。


 駿は会社を退職した日に淳の家を訪ねた。淳は小説家としての地位を固めていたから家にいることが多く、講演をしていなければ大概(たいがい)は家にいた。淳の家は事故の後、バリアフリーに改造されていて、車椅子でも問題なく暮らせるようにしてあった。

 駿は電話をした時、淳の家で飲もうと思っていたが、淳の方から「それならちょっと二人で飲みに行こうか?」と言われた。

「でもお前、車椅子でも入れる所あるのか?」

「大丈夫だよ!心配ないって、たまに行く小料理屋で障害者に気を使ってくれるところがあるんだよ!」

そんなわけで淳の家に一旦行き、そこから二人で小料理屋に行く事になった。駿が淳の車椅子を押そうと思って後ろについたら「何やってんの?兄さん!兄さんの手じゃ車椅子は押せないでしょう!それに障害者だからって余計な気を使わなくていいよ!自分でやれることは自分でやるからさ!」と言って断った。「まあ、そうだな!」と駿は言って出しかけた手を引っ込めて頼もしく思う反面、ちょっぴり寂しい感じがした。


 料亭は出入り口が自動ドアで十分に大きくスロープになっており、車椅子でも通路を塞ぐことなく出入りが楽な様になっていた。淳を席に案内すると、店員が淳を席に持ち上げて椅子に移すと車椅子を邪魔にならない位置に片付けた。「何か御用の際には遠慮なくお申し付けください」と言ってにこやかに淳に笑って見せた。

 オーダーも済ませて駿は退職までの経緯を淳に話した。淳は一通り黙って聴いてから「それで兄さんは、これからどうするつもりなのかい?」と訊いた。

「うーん、そこなんだよねえ!俺はお前みたいに文章を書く才能もないしねえ!今までのスキルを活かすとすれば、同じ業種に進むのがいいんだろうが、それじゃあ会社が変わるだけでやることは一緒だしなあ!なんか今まで精一杯駆け抜けてきたけどちょっと疲れちゃってな!」

「兄さんが働き出したのは高校卒業してからだから、全部で二十四年も働いてきたんだから、少しは休んでみるのもいいんじゃない。僕なんか自慢じゃないけど働かずに女の所で同棲していた時代があったからね。フリーターとは言っていたけどニートよりも酷いひもってやつかもしれないね!」

「そりゃ、自慢にならんな!だが“ひも”って言うのは大抵はイケメンって決まってるだけどな!何故お前がひもになれたのか不思議な点だな!」

「そうか!だから僕がひもになれたんだね!兄さんでは出来なかったね!」

「まあ、いいや!それはさておき、そう言えばお前が居候していたマンションの女はどうしたんだ?」

「キャリアウーマンとしてのプライドがあったからね!その後は結婚したものだか?しないものだか?風の噂にも聞かないんだ。風の噂というか僕が全く別の世界に進んじゃったからね、知りようもないかな!」

「てっきり結婚するものだと思っていたがな!」

「結婚までは至らなかったね!どちらも結婚まで踏み切れなかったんだと思うよ。特に僕がね!さすがに定期的に収入もない男が『結婚してくれ!』なんて身の程知らずなこと言えないもんね!」

「まあ、今の俺には人のこと言えんがな!」

「そう言えば、家族は取り戻したのかい?」

 そこで早苗の両親の家に行った時のことを話した。後日、駿は調べたのだが、早苗の新しい夫は桂木晴彦と言う名前だが、晴彦が早苗の両親の家に移り住んだらしかった。

「なんかさあ、会社でも家でも俺を必要としてくれる人がいなくてさあ!なんか一人ぼっちみたいで寂しいよ!ってこんな年齢のおじさんが言っても可愛くないだろうがな!」

「うん!可愛くないね!」

「お前、少しは慰めたりしろよ!俺だって柄にもなく落ち込んだりもしたんだから……」

「まあね、人間は生きてりゃいろんなことがあるよ!」

「そうだな!生きてりゃいろんなことがあるもんだな!あの手術室で死んでいたら、こんなことも味わうことなかったんだもんな!あの時、生きていたおかげでこんな辛い目にあう羽目になった。それでも、生きていたおかげでこれからの可能性を残したんだからな。やっぱり感謝しないといけないんだろうな!」

「感謝しろ!とは言えないけど、あの手術室で死んだら会社のことも家族のことも知らずに安らかにあの世に行けたの?むしろ後悔だらけであの世に逝くはめになってしまったんじゃないのかなぁ!」

駿はちょっと考えて「そうかもしれないな!」とだけ答えて黙りこんでしまった。

 「これからやることもないし旅にでも出ようかなあ!」と駿が少し上を向いて言った。

「おいおい、兄さん!時間旅行して旅行オタクにでもなったのかい?今まで仕事で散々いろんな所に行ったんじゃないのかい?」

「まあ、確かにそうなんだが、傷心旅行として旅行に行ったことはないからな!」

「会社内で昇進するための昇進(・・)旅行には数多く行ったのにね!焦心して焦心(・・)旅行とか情人を作って情人(・・)旅行にならないでくれよ!」

「よく韻の同じ言葉を集めたもの、さすがは小説家だと言いたいところだが、そんな言葉存在しないだろう!」

「まあ、ちょっと作ってみただけで、兄さんが本当に旅先で情人を作れるとは思ってないけどね!そうだね!旅行もいいかもしれないね!行くならお土産忘れずにね!亜希子と僕と将来産まれて来る予定の子供にね!」

「また産まれる予定があるのか?よくぽんぽこ産めるものだな!」

「おいおい人の女房を鶏みたいに言わないでくれよ!いや、予定はないけどさあ、諦めないで頑張るから、いつかは子供を持てる。その時のためにさ!」

「そうか!そうだよな!それじゃあ、そのいつかを早めるために、お前達の将来の子供に賞味期限の短い生菓子でも土産に買ってきて、プレッシャーでも与えてやろうか?早く産めってな!」

「在庫を抱えるのは嫌だから、腐ったらお引取り願うよ!それに赤ん坊が生菓子なんて食べないでしょう!」

「何言ってんだよ!何でも腐る寸前が美味しいって言うぜ!お腹に赤ちゃんがいる状態で奥さんが生菓子食べれば、多少は赤ん坊の栄養にもなるだろう?」

淳は駿の言葉には応えずに何か思い出した様に話題を替えた。


 「そうだ!どうせ兄さん、暇なプータローならさあ、ボランティアでもやってみない!」

「だから旅行に行くんだって!」

「旅行から帰ってからでもいいからさあ、実はこの前、次に書く小説のために障害者センターに取材に行ったんだけどさあ、そこは僕みたいに車椅子に乗った人や精神障害者のための施設なんだけど、働き手がいないらしくてさあ、ボランティアさんを探していたよ!」

「でもボランティアじゃ金にならんだろうが!」

「だって兄さん、金儲けするために働くことに疲れたんだろう!」

「うっうん」と言って駿はおちょこの中の酒を一気に喉に流し込んだ。

その後は特にこれといった会話がないまま淳とは別れたものの、駿は障害者センターボランティアというのが気に掛かっていた。


 旅行雑誌や旅行ガイドなどを見たものの、特に行きたい所が見つかるわけでもなかった。興味も特に抱かなかった。そうして何もしないのも気が滅入るだけなので、淳に進められた障害者センターに行ってみることにした。

 障害者ボランティアについて話を聞きたいと言ったら係の人が丁寧に教えてくれた。施設の中を案内してくれて、精神障害者もいれば肉体障害者もいる、子供もいれば高齢者の方々もいる。読書をしたり、テレビを見たり、何人かで遊んでいたりと好き勝手に過ごしている。気難しそうな人も楽しそうな人もいる。そんな中を職員の方やヘルパーの方々が駆け回っている。駿が今まで生きてきた世界とは全く違った世界がそこにあった。

 利益も売上も考えていない。でも何か駿がいた世界にはなかった何かがある、例えば皆が見せている笑顔だ。そんな彼らのためにも何か自分が出来ることがあるような気がした。駿は案内してくれている職員に「自分も障害者です。自分の右手は動きません。それでもボランティアの仕事が出来ますでしょうか?」と尋ねた。彼女は「そうですね!出来ることをやっていただくだけでも大変助かります。それに障害者の方の気持ちも分かるでしょうし、願ってもない方だと思いますよ!」と言ってくれた。

 駿は体の中に自信を取り戻すのを感じた。それと同時に何か新しいことにチャレンジするワクワクとした熱い何かが沸き起こってくるのを感じた。自分でも出来ることがある。むしろ障害者の自分だから出来ることがある。案内が終わって応接室で、駿は早速行動に移した。「ボランティアをやらしてください!ぜひとも今からやらしてください!」と言った。

 これには相手の方がびっくりした。「まあ明日からでもいいんですよ。汚れてもいい恰好でいらした方がいいですし……」と言うセンターの職員に「いえ、気持ちが変わる前に、今日からお願いします。服は汚れたら洗えば綺麗になります。でもやる気は一回落ちたら、もう一度やる気を持つのは大変です。だから今からやらせてください。何からやったらいいでしょうか?」と言った。

「なんか凄い情熱ですね!それでは早速始めてもらおうかしら!」

話を聞かせてくれていた職員は応接室から出て、近くにいるボランティアの人をつかまえて「上田さん、斎藤さんを呼んでくださるかしら!」と障害者ボランティアの一人の斎藤さんを呼んだ。


 やってきた斎藤さんというのは、髪をショートにしているのがよく似合う程顔が小さく、動きやすそうなジーンズにTシャツ姿でやってきた。

「この斎藤さんについてボランティアの仕事を覚えて下さい!」

「斎藤さん、今日から障害者ボランティアをしてくれる、えーとー」

「赤木、赤木駿と言います。宜しくお願い致しまーす」と頭をペコリと下げた。


 そうして駿の障害者ボランティアの生活が始まった。他にやることもないので、毎日障害者センターに行ってボランティアをした。ボランティアの仕事は雑用が多かったが、どんな仕事も精一杯やった。両手で物を運べないので、重い物は台車を使って移動することにした。小さい物は左腕一本で胸に抱いて運べるようになった。少し大きい物は右手に木の板と棒で載せられるような道具を作って、その板に物を載せて棒を右手に引っ掛けて、左手で抑えるという方法で物を運ぶ事が出来るようになった。

 最初の一週間は斎藤さんにずっと付いて働いていたので、斎藤さんと自然によく話すようになった。斎藤さんは斎藤めぐみさんと言って、ショートカットの髪からボーイッシュなイメージを抱くがそのままの性格でさっぱりとしている、アウトドアが好きで「何か障害者のためになることがしたい」とここに来ているらしい。このボランティアだけでは生活していけないので夜の仕事をしているらしい。照れたり恥かしがったりすることなく「水商売!」と言ってウィンクして見せた。

「水商売といってもセックスを売る商売じゃないわよ!バーでお金持ちのお相手をしているのよ!」と言っていた。

「でもそんなボーイッシュなショートカットのままで?」と駿は口に出してから「いやあ、悪い意味はなくて……」と口篭もった。

「いいのよ!さすがにこの恰好でお客さんの前に出たら男の子と思われちゃってゲイバーって言われちゃうもんね!カツラを被ってね」と言って口を駿の耳に近づけて「そしてね内緒だけどね、胸にパットを入れてるのよ!ちょっと巨乳にね!男の人って大きい方がいいでしょう?」とそっと囁いた。駿は純粋な少年の様に顔を赤らめた。「いやーだあ、赤木さんって見かけによらず(うぶ)ねえ!」と斎藤さんは駿の肩を叩いた。

「少年の様にもて遊ばれてるな、俺」と駿は小さな声で呟いた。


 斎藤さんが来るのは午後からだった。さすがに夜働いて午前から来るのは大変だからということだった。最初の一週間は、その斎藤さんに合わせて駿も午後からボランティアをやっていた。二週目からは駿はお願いして朝から来てボランティア活動をするようになった。自分も右腕が動かないが、そんな自分が普通に働くことで他の障害者に希望を与えられるのが嬉しかった。ある時、車椅子に乗った青年が駿に話してきた。

「赤木さんって、右手が動かなくても障害者として感じさせませんね。僕なんか障害者ということを言い訳に、これが出来ないとかあれが出来ないとか言ってしまったりしてたけど、赤木さんを見ているとそんな自分に障害があるってことを言い訳にしていた自分が恥かしくなってきます。赤木さんを見ていると障害者でも普通の人と同じで希望が持てるってことを教えられた気がしますよ!」

 駿は照れながら「いやあ、そんな事無いですよ。私の場合は右手だけなんですよ。有り難いことに、左手は問題なく動きますしね、足も動きますよ。右手だけなんて障害なんて言えませんよ!」と笑顔で(こた)えた。人に自分が希望を与えられるなんて嬉しいことこの上なく、駿にとっては初めて経験することだ。会社で働いていた時には感じたことがない嬉しさと感動だった。


 そんな一件以降、駿はさらに明るく生き生きと働いた。職員ともボランティアとも障害者とも笑顔で会話出来るようになった。時が経つうちに、そんな駿はボランティアの中でリーダーとなっていった。より障害を持った人たちが楽しく過ごせるように、駿は次から次へとどんどん提案して皆をぐいぐいと引っ張っていった。どうしても健常者の視点では障害者を、可愛そうとか憐れみとか同情とかいった見下ろす感覚があるものだが、駿は自分も障害者であることから障害者と同じ目線で友達として聞くので、障害者も心を開いて悩みなんかも気安く話してくれた。

 駿はそんな障害者の悩みを聞いたことに対してすぐさま改善策を見つけて解決していった。コスト面などの事情も分かるので、コストを抑えて改善できる解決策を立て、そして実際に皆を引っ張って行動できるのは、さすが会社で部下を持ち、リーダーシップを発揮していただけのことはある。

 そんな駿を見て、障害者センター長は駿を職員に昇格する話を持ち出した。駿は二つ返事でOKして職員に昇格した。職員に昇格しても、駿は障害者と気軽に話して改善していく現場を大事にするスタイルは変えなかった。

 だが職員になって変わったのは、経営面でもセンター長から相談を受ける様になったことだ。経営面にも(たずさ)わり改善に乗り出していた。商社に勤めていた時の経験が役に立った。全面的なコストの見直し、収入面では身体障害者や知的障害者の新規入所者を増やした。入所者が多くなれば満足度が下がるものだが、障害者にこまめに聞いて周ることにより待遇面を低下させるどころか向上させていた。

 経営面だけではなく、センター内の障害者と健常者が交流できるようにイベントを企画して人を動かして成功させたりもした。センターのイメージも段々と変わってきた。センター周囲の人の中には馬鹿にしたり見下したりする人もいたのだが、交流を通じて段々と理解が深まっていった。

 駿が企画したイベントは交流することを目的にされたものだ。通常は、障害者が何かやって地域住民が観客となるものだが、駿が企画したイベントは観客を巻き込む参加型だった。自分達も参加するイベントが、地域住民に限らず段々と来てくれる地域が拡大した。そんなイベントにメディアが報道し、あるテレビ番組でも紹介されるようになった。テレビ番組の影響は計り知れなかった。駿のイベントの手法を取り入れるために、日本各地から便りが届いたり、遠方より何かのついでに来てくれる人たちまで現れた。誰が来ても駿は笑顔で接していた。楽しくて仕方がなかったのだ。

 淳もセンターを何度か訪問してくれた。そして淳はこの駿の物語を本にして出版した。その本がベストセラーとなり、駿も淳も有名になっていった。早いもので駿がこの障害者センターに来てから三年の月日が流れた。


 駿はボランティアで働き出してから、ずっとめぐみと一緒だった。イベントを企画して実施するのもめぐみが一緒になってやってくれた。駿のやり方に反対する職員やボランティアもいたが、めぐみがいつも駿をサポートしてフォローしてくれていた。

 駿が職員になって一番喜んだのはめぐみだった。駿は何度となくめぐみがいるバーに訪れた。場所と店の名前は知っていたが行く事は伝えず、いきなり行ってめぐみを驚かせた。めぐみは金髪のカツラを被り、胸にパットを入れて、アイシャドウなども濃くして、名前も変えていたので、駿にはめぐみがどの女性なのか判らなかったが、めぐみの方で駿を見つけたのだ。

 「まさかこんな所に来るなんて!」とめぐみは驚きの言葉を素直に口にした。その口調には驚きだけでなく嬉しさもちょっぴり含まれていた。

「いやあ、巨乳の君を見ておきたくてね!すごいね、本当に大きくて本物みたいだね!触ってもいい?」と手を伸ばす駿に「馬鹿!」と言って、めぐみは駿の手を叩いた。駿の安月給では、めぐみのバーに行ってめぐみを指定するのはかなり厳しく、一万円札がどんどんと掃除機に吸い込まれるように吸い込まれていった。そうして何度か来ているうちに、めぐみから「もう無理して来ないで!」と言われたが、「まあ、なんとかなるよ!」と言って通い詰めていた。いつしか駿とめぐみは「駿さん」「めぐみさん」と名前で呼ぶ仲になっていた。


 ボランティアセンターに来てから、三年の月日が過ぎて駿は新たな決心をした。自分で障害者のための施設を作ることだった。センター長に「まだ、日本全国に障害を苦に生きている人はたくさんいます。私はそんな人達のためにぜひとも障害者施設を作りたいのです!」と話した。センター長は最初こそ引き止めたものの、駿の意思が変わらない強いものであることが判ると認めざるおえなかった。次いで職員やボランティアの人たちに話した。皆一様に残念がってくれた。一人だけ、途中で部屋を出て行った人がいた。めぐみだった。駿はめぐみの後を追いかけて、外にいためぐみを左手で捕まえた。

「ちょっと待てよ、めぐみさん!」

「離してよ!何よ、嘘つき!せっかく仲良くなれたと思ったのに、私に何の相談もなく、私を置いて行くっていうの?」

「そのことなんだ!」

駿は一つ大きく深呼吸してから言った。

「めぐみさん、バーの仕事を辞めて僕と一緒に来てくれないか!僕と結婚してくれ!」突然の告白だったが駿はずっと考えていたのだ。駿は一緒に仕事をする内に、仕事のパートナーとしてもプライベートでも好きになってしまっていた。めぐみにはどんなことも話せた。めぐみは聞いてくれた、また駿もめぐみの話を心の底から聞くのが好きだった。そんなめぐみに惚れて、めぐみなしの生活など考えられなくなっていた。駿は離婚した妻がいて女の子と男の子がいることも正直に話していた。めぐみに隠していることはない。ただ淳と過去に旅行した時のことだけは話していなかった。これは淳との秘密だった。

 めぐみは駿から顔を背けて「結婚は出来ない!出来ないよ!結婚なんて!」と言って、駿の手を振り(ほど)いて走り去ってしまった。駿は大きくショックを受けた。めぐみも自分に惚れてくれているものとばかり思っていた。駿はめぐみを追うことが出来ずに立ちすくんでいた。


 駿は家に帰ってから淳にめぐみのことを電話で相談した。

「ああ、淳か?久しぶりだな?元気か?」

「ああ、兄さんか?久しぶりだねえ!また時間旅行にでも行ってたのかい?」

淳の質問には答えずに本題に入った。

「ちょっと相談に乗って欲しいことがあるんだよ。お前も知ってるセンターで知り合った斎藤さん、俺さあ彼女に惚れちゃって、今日告白したんだ。結婚してくれってなあ」

「なんだ!兄さんも隅に置けないねえ!」

「ところがさあ、彼女の答えがノーなんだよ。結婚なんて出来ないって走り去ってしまってさあ!俺、またしても振られちゃったのかなあ?妻にも子供たちにも愛想つかされてさあ!参ったよ、俺の一方通行じゃなくて彼女も俺に惚れてるとばっかり思っていたのにこの(ざま)だよ!俺って馬鹿みたいだなあ、まるでピエロだよ!」

「彼女、理由は言ったのかい?」

「いや何も!ただ結婚なんて出来ないって走り去ってしまってさあ!何か悪いことでもしたんだろうか、俺が?」

「そんなことないんじゃないかな!解った!僕が彼女に訊いてみるよ!」

「訊いてみるって、お前、彼女は、俺に話してくれないものをお前さんに話すって言うのかい?」

「そうだよ!思い出してよ!過去に行った時のことを!子供の時の兄さんだって僕に話してくれたんだよ!あの頑固な兄さんが!」

「頑固で悪かったなあ!」

「まあ、とにかく僕に任せておいてよ!大船(おおぶね)に乗ったつもりでさあ!明日、ちょっと時間空けられるからセンターに行ってみるよ!」

「なんか泥舟(どろふね)のような気がする」

「なんか言った!嫌ならいいんだよ!放って置いてあげても!」

「いやあ、お願いしますよ!淳ちゃん!」

「気持ち悪いけど、まあ僕に任せておけって!恋のキューピットの淳ちゃんがあなたの悩み解決しまっせ!」

「やっぱり信用出来ないな!」


 翌日、淳はセンターを訪れた。めぐみとは既に親しい顔なじみであったため、小細工をすることなく呼び出して訊いてみた。

「昨日、兄さんから聞いたよ。結婚の話、断ったんだって!」

めぐみは俯き加減に「駿さんって、淳さんには何でも話すんですね!」と言った。

「まあね、仲がいい兄弟だからね!でも信じないかもしれないけど、仲が悪かったんだよ!子供の時からずっとね!憎しみ合ってたんだ!でもある時を境に仲が良くなったんだ!今では人も羨むような仲の良さかな」

「羨ましい、そんな兄弟がいるっていのはいいですね!そのある時っていつからですか?」

「そのある時ってのは兄さんとの秘密なんだ!こんな年齢の男が二人で秘密ごとなんて気色悪いとは思うけどね!」

「まあ、人にはいろいろありますからね。でも大人になっても仲が良いというのは羨ましいですね」

「まあね、ちょっとした自慢かな!それでさ、単刀直入に訊くけど兄さんのこと嫌いなのかな?嫌いとまでいかなくても好きじゃないのかい?それなら兄に上手く断っておくよ!」


 めぐみは暫く下を向いて黙っていたが、ぽつりぽつりと話し始めた。

「そうですね!はっきりと訳を話さないといけませんね!けじめはつけないといけませんよね。駿さんのことは好き、大好きなの!プロポーズしてくれた時、とても嬉しかったんです」

「では、何故?」

「私、結婚できない訳があるの!私、実は子供がいるの!」

「そのことを兄さんは知ってるの?」

「言えるわけないですよ!結婚して出来た子供じゃないの!未婚の母なのよ、私」

めぐみは続けて話し出した。

「私が馬鹿だったんです。昔は普通にOLしてたんです。OLしていた時に、相手は部長さんだったんだけど、家族ある人を好きになっちゃって、いわゆる不倫していたんです。決して日向(ひなた)に出ることない、日陰で満足してたんです。それ以上は望んだこともなかった。そんな関係がずっと続けばいいと思ってたけど、会社の人に見つかっちゃってばれちゃったんです。噂は一気に広まって相手の奥さんの耳にも入っちゃってね。そしたらね、そしたらあの人に『別れてくれ!』って言われちゃいました。『お願い、このまま別れないで!私を捨てないで!』ってあの人の腕にしがみ付いたんだけど、「離せ!」って強く腕を振り(ほど)いて出て行っちゃったんです。私よりも家庭が大事だってはっきり言い残して去って行きました。悲しくて寂しくて誰かに優しくされたくて、その頃は街をよく彷徨い歩いたんです。そんなある日バーのカウンターなんかで酔いつぶれちゃってね、そんな私を介抱してくれる男がいてね。ぼろぼろの私に優しくしてくれる、それだけでそんな男に付いて行っちゃって、でも奴は私の体だけが目当てだった。彼の部屋に行ってみると彼以外に他にも二人の男がいてね、抵抗したけど回されちゃったんだ。三ヶ月くらいして妊娠しているのが分かって、何度もお腹の赤ちゃんを殺そうとしたんです、中絶しようと産婦人科に行きかけたこともニ度ほどありました。でも出来なかった。育てられないのは分かってた。父親のはっきりしない子供が可愛そうだと分かってた。でもお腹の中で芽生えた命を殺すことがどうしても出来なかったんです」

そこでめぐみはちょっと上向き加減になって、さらに話を続けた。

「駄目ですよねえ、私。会社は不倫の関係がばれてから居辛くなって辞めていたけど、子供を育てるためにはお金になる仕事をしないといけなかった。だけど体を売る商売はどうしても出来なかった。だからバーに勤めだしたんです。年齢を多少誤魔化してね。でもバーで仕事をしているだけでは生きがいが得られなくてやりきれなくて、たまたま障害者センターのことをお客さんから聞いてね、ボランティアをやりだしたんです。何か生きがいが欲しくてね。もちろん朝までバーで働いて、数時間寝て午後から障害者センターでボランティアをして夜からバーで働いて大変だけどね。子供は実家に預かってもらって実家が近いから頻繁(ひんぱん)に帰って子供には会ってるんです。そんな私だから駿さんの純粋なご好意は有り難いのですが、結婚はお受け出来ないんですよ」

淳はめぐみの話を黙って聞いていた。返す言葉が見つからなかったのだ。

暫く間を置いてから「人間、見た目では分からないことをいろいろ抱えているもんだね!お子さんは男の子?女の子?何歳なのかなあ?」

「女の子、四歳の女の子!」

「そうかあ!めぐみさんに似てきっと綺麗、いや女の子だからきっと可愛いんだろうね!ところで、今日めぐみさんから聞いたことを兄さんに伝えてもいいかな?」

めぐみは頷き「本当は私自身が駿さんに直接お話することなんでしょうが勇気が出なくて。淳さんから言ってもらえれば駿さんも諦めてくれるでしょうから……」と寂しそうに言った。


 その夜、淳は駿に電話をかけてめぐみから聞いた全てを脚色することなくそのまま伝えた。

その上で「どうする、兄さん?」と訊いた。

さすがに駿はすぐに答えられないようだった。しばらく考えた後言った。

「少し驚いたけど、めぐみさんに子供がいたなんて俺は運がついているのかもしれないなと思う。俺は自分の子育てには失敗した。仕事に精一杯になって、香澄にも徹にも父親として何もしてやれなかった。壊れ行く家庭に気付くこともなく、壊れてしまってから壊れた家庭を取り戻そうとしたが、そのチャンスすら掴むことが出来なかった。いや、むしろチャンスを掴むことが出来なかったのではなくて、壊れた家庭を修復するチャンスはあっても、真正面から立ち向かうことなく家庭から逃げていたので、チャンスを掴もうとしていなかったのかも知れない。チャンスを掴むために自分が傷つくことを怖れていたのかも知れない。その結果、別の男が子供たちのお父さんとなっていて自分が戻れる居場所さえ失ってしまった。俺は自信をまるで失ってしまっていた。自分には家庭を築くことは出来ない。自分を必要としてくれる家族はいない。駄目な人間かもしれないと考えたりもしていた。」

そこで駿は一呼吸置いてさらに話を続けた。

「それが愛する人に子供がいるなんて、もう一度俺にチャンスが回ってきたのかも知れない。今度こそ現実から逃げずに傷ついてもチャンスを掴んでやる。もちろん、血は繋がってないがきっと大丈夫!今度こそ上手くやれる。なんてったって淳、お前も俺と血が繋がってない。今のお前にも、そして四歳の時のお前とも上手くやってこれたんだ。まあ、いろいろあったけど、今度こそ幸せな家庭を作って見せるよ!」

「そういうと思ってたよ!応援するよ!なにせ親も死んで肉親は血の繋がっていない兄さんしかいいないもんな!兄さんと血が繋がってなくても兄弟には違いないもんね!むしろ血が繋がってないおかげで兄さんと顔が似てなくて良かったかもしれないよ」

「もう憎まれ口の突っ込みはいいって」

「いやあ、路上漫才が癖になっちゃってさ、またこの時代でもやろうか!」

「よせやい!障害者ブラザース駿&淳としてデビューするのか!もう漫才は勘弁してくれよ」

「なんだよ!兄さんが誘ったんだぞ!」

「昔のことだよ、過去のね」


 次の日、駿はめぐみを人気(ひとけ)の少ないセンターの物置に呼び出した。

駿が待っているとめぐみが緊張した面持ちで入ってきた。

「淳から全て聞いたよ!水臭いなあ!何で話してくれなかったんだい!そんなに俺は頼りにならないのかなぁ!」と言ってめぐみの顔を覗き込んだ後、駿はさらに続けた。

「改めて言わせてくれよ!俺には君が必要なんだ!君も、君の娘も僕には必要なんだ。淳から君に子供がいると聞いた時、驚いたけど嬉しかったよ。以前の俺は仕事に夢中で子供たちに何もしてやれなかった。俺が会社で仕事をしている時、家庭が音を立てて崩れていることに全く気付かなかった。その結果、俺は妻とは離婚して妻にも子供たちにもいつしか必要とされなくなっていた。家庭を崩壊させ、修復することさえ出来なかった責任は全て俺にある。家庭から家庭の問題から逃げて目を(そむ)けていたんだ。そんな俺にもう一度家族を持つチャンスが訪れたんだ。今度こそ家族に真正面から立ち向かい、どんな問題でも乗り越えてみせる。一緒に力を貸してくれないか?君の子供を君と俺の子供として育てたいんだ。なーに、血が繋がっていなくても上手くやっていけるよ、心配は要らないさ!だって淳と俺だって血が繋がってない。奴とはいろいろ憎しみもあったが、今は血が繋がっている兄弟以上に仲のいい本当の兄弟なんだ」

めぐみは俯いて聞いていた。さらに駿は話を続けた。

「めぐみさん、君も過去にはいろんなことがあったと思う。でもそんないろんなことがあった君を丸ごと受け止めたい。君の持つどんな面も全て優しく包み込みたいんだ!もしかしたら家庭が壊れそうになることもあると思う。家庭崩壊の危機は何度も訪れるかもしれない。でも君と力を合わせて乗り越えていきたい。パートナーとして一緒の道を歩いてくれないかい!俺も完全ではないから喧嘩もするかもしれないし、謝った道を進んでしまうかもしれない。でもこれから二人で足りないところを補充して、正しい道を模索して、力を合わせて一緒に生きてくれないか、家族として!」駿は自分の気持ちを熱く精一杯に伝えてめぐみの反応を窺った。


 めぐみはゆっくりと顔を駿の方に向けて「ありがとう!」と言って駿の左手を自分の両手で握り締めた。改めて見ためぐみの目には涙が潤んでいた。めぐみの顔は艶々と輝いていて、とても嬉しそうに見えた。めぐみの涙は悲しい涙ではなく嬉し涙であった。

「あなたについていきます。いえ、あなたのパートナーとして一緒に同じ道を歩みませて下さい。いつまでも、あなたと一緒に!」と言って握り締めた駿の左手を自分の頬に押し当てた。めぐみの頬を伝っていた涙が駿の左手に付いた。めぐみの頬はちょっぴり紅く熱を帯びていた。駿は左手を濡らしためぐみの涙を暖かかいと感じていた。

 めぐみが駿の左手を降ろし駿の顔を見上げた。駿は自分の顔をめぐみの顔に近づけた。めぐみは状況を読んで目を閉じた。駿はそのままゆっくりと体を近づけて行き優しくめぐみの唇に唇を合わせて目を閉じた。左手で抱きしめるめぐみの体は温かく柔らかく駿は包み込まれているような安心感を覚えた。長いキスの中、優しく暖かい香りが漂って二人を包むのを感じていた。


 その後、めぐみはバーの仕事を辞め、駿とめぐみは結婚することになった。めぐみは、駿の新しい障害者施設が軌道に乗るまで、バーを続けると言ったが、駿が反対した。子供もいるのに収入源がなくなるのは不安ではあったが、駿はめぐみと一緒に辛くても最初から築き上げたかった。それにめぐみが他の男の相手をしていることを思うと、嫉妬の炎を抑えきれないと思ったこともある。


 めぐみの子供は“(ゆき)”と書いてゆきという名前だった。不幸な境遇で産まれた子ではあっても幸せにというめぐみの願いから名付けられたものだった。駿や淳の妹で早くに亡くなったゆきと字は違うが同じ名前だった。

 駿とめぐみは幸に会いに行った。めぐみが幸に駿を紹介する時、幸はめぐみの後ろに隠れていた。恥かしがりやの様だった。幸を連れて三人で東京ディズニーランドに行くことにした。幸は駿が声かけても、最初はママめぐみの後ろに隠れていて、はにかむだけだったが、駿が乗り物やアトラクションやイベントで一緒に遊び出すとだんだんと駿に心を許す様になってきた。幸ははにかみながらも駿に話す様になり、駿に肩車などしてもらったりすると、きゃっきゃと言って喜んでいた。

 幸はいつも寂しかった。ママが忙しくて相手にしてくれる時間は少ないし、おじいちゃんとおばあちゃんが一緒に遊んではいたが、抱っこや肩車など体を動かす遊びはしてもらえなかった。他の子供がお父さんとお母さんと一緒に遊んでいるのを見ては無意識に寂しさを感じていた。幸は耐えていたから何も不平も不満も愚痴も言わなかったし、一人遊びをして大人の手を(わずら)わさないように振舞っていた。だが、他の女の子がお父さんやお母さんと一緒にいる姿を見た時などは顔は寂しさを隠し切れなかった。

 東京ディズニーランドからの帰り道で、駿は肩車していた幸をを下に降ろし左手で幸の右手をつないだ。めぐみが幸の左側で右手で幸の左手を持った。そして、幸は憧れの駿とめぐみの手にぶら下がって前後に揺れるブランコをした。幸は駿とめぐみと手をつないでブランコをしながら嬉しそうに笑っていた。

 帰り道で三人は小さな公園に立ち寄った。ブランコに乗った幸の背中を駿が押しながら「おじちゃんを、幸ちゃんのパパにしてくれるかな?」と訊いた。聞こえなかったのか何も返事がなかった。駿は幸が乗って揺れているブランコを止めてブランコに座っている幸の前に(ひざまず)いた。ゆきは俯いてちょっと緊張している様だった。幸の顔に向き合って俯き加減の幸の顔を覗き込む様にもう一度訊いた。

「幸ちゃん!おじさんが幸ちゃんのパパになってもいいかな?ママと幸ちゃんとおじさんで一緒に暮らしてもいいかな?」

幸は俯いた顔をそのままに少し恥かしそうにちょっと考えてからこっくりと小さく頷いた。駿は幸を抱き上げて「ありがとう!幸ちゃん、いや幸、皆で幸せになろうね!」と駿は言いながら幸を頭上に「高い、たかーい!」と持ち上げた。幸は一瞬びっくりした顔をしたが、すぐに嬉しそうな顔に変わってキャッキャッと言って喜んでいた。その日、駿が自分のアパートに帰るためにバイバイする頃には、幸は駿の手をなかなか離さなかったくらいだ。幸は駿を受け入れてくれた。


 駿とめぐみは式など挙げずにひっそりとやろうと思っていた。入籍して駿とめぐみと幸の三人でディナーに一緒に取って、ハネムーンに行って終わりにしようと思っていた。特に駿にとっては結婚は二回目で大掛かりにやることもないと思っていたし、父真一や母多恵と駿と淳が行ったように家族だけのディナーというのは洒落ていて気にいっていた。駿のそんな考え方は父真一とよく似ていた。めぐみも呼べる人が沢山いないし結婚式に子連れで初婚ではないというのが少し気になっていたのだ。自分はいいが、幸のことをあれこれと詮索されるのは幸が可愛そうだと思っていた。そこで二人で話し合って小さな結婚式はするが披露宴はしないということで駿とめぐみは決めた。

 結婚式は教会でひっそりと式を挙げた。駿は(あらかじ)めめぐみのウェディングドレスを見ていなかった。ウェディングマーチが教会に響く中めぐみが入場してきた。めぐみは白いウェディングドレスに身を包んでいた。

 駿の横に並んだめぐみは顔をベールで隠していたが、めぐみを見ていつもと違う美しさに駿は息を呑んだ。二人は愛を誓い合って駿は結婚指輪をめぐみの左手の薬指にはめた。そして駿はめぐみの顔にかかるベールを頭の上に上げて、ベールの下のめぐみの顔と向き合った。駿の喉がごくりと鳴った。

 めぐみの顔はソフトフォーカスが掛かっている、または柔らかい光を出している妖精の様な幻想的な美しさを放っていた。いつもと違うめぐみのムードに駿の心はすっかり酔わされていた。駿は目を閉じているめぐみに甘く優しくキスをした。

 教会の中でウェディングドレスを着ためぐみからは香水の香りが駿の鼻腔を優しく(くすぐ)り誘った。おとぎの国のファンタジーの世界にしばし駿とめぐみは浸っていた。周囲からカメラのフラッシュの音と盛大な拍手が二人を教会に呼び戻した。幸が二人に歩み寄った。駿は幸を抱え上げ、そこにめぐみが寄り添った。


 駿とめぐみは、結婚式の後には披露宴はしないつもりでいた。ところが、センターの職員やボランティア、障害者、そしてさらにめぐみのバーでの友達が盛大なパーティーを企画して準備してくれた。二人の門出を盛大に祝おうとしてくれたのだ。

 当日、何も聞かされていなかった駿とめぐみは式を終えてセンターにやってきた。センターにやって来るつもりはなかったが、センターの職員に「是非(ぜひ)とも二人の幸せな姿を皆に見せてあげてください!」と言われてやってきたのだ。

 駿とめぐみと幸がセンターの集会所のドアを開けると、いきなりクラッカーと紙吹雪が三人を包んだ。「結婚、おめでとう!」の声が皆から掛けられ暖かい祝福の渦が三人を包んだ。職員やボランティア、そして身体障害者も精神障害者も皆で一緒に紙吹雪などのパーティーの準備、料理や飲み物やケーキを準備してくれたのだ。

 幸は沢山の知らない人の中でちょっぴり緊張した顔ではあったが、嬉しそうな表情を浮かべていた。めぐみや駿は皆がこれほど自分達を祝福してくれる姿に感動していた。聞けば障害者の人も自分の出来ることをして皆で力を合わせて準備してくれたとのことだった。反抗的な障害者もいたし、なかなか心を開いてくれない障害者もいた。そんな皆が力を合わせて笑顔で祝福してくれたのだ。


 祝福してくれる顔ぶれの中には淳と亜希子もいた。亜希子は少し大きなお腹をしていた。最初の子供を失ってから今年になって再び妊娠したのだ。予定月は三ヵ月後くらいだと言っていた。駿は駿に歩み寄り「兄さん、結婚おめでとう!」と言って握手を求めてきた。「ありがとう!」と言って駿は淳の両手を左手でしっかりと握った。

「実は兄さんにサプライズがあるんだ!」


 淳はドアに向かって「さあ、どうぞ!お入りください!」と言うと、ドアから一人のおばあちゃんが入室してきた。駿はどこかで合ったような懐かしい感じがしたが思い出せなかった。

駿の気持ちを察した淳が「思い出せないかい?兄さんが子供の頃に逢っている人だよ!」とヒントを出した。駿はそのおばあちゃんの顔、そして全体を舐め回すように見て「まっまさか!」と言って驚きに目を大きく見開いた。

 淳はやっと判った駿に「そうだよ、兄さん!やっと分かったみたいだね!兄さんの産みのお母さんだよ!」と言った。会場にいた人たちが「えー」とざわめいてそして静寂が訪れた。皆が興味津々(しんしん)に成り行きを見守った。

 確かに面影が残っている。あの淳と一緒に旅した過去において、モニターの中にいた駿の産みの母親より大分老けてはいるが、目のあたり鼻や口元と言い、(かも)()している雰囲気が同じだった。

駿はおばあさんに近寄り「母さん」と言って抱きしめた。駿は子供の頃、甘えられなかった母親を抱きながら男泣きに泣いていた。モニターで見ていた時よりも背が縮んだようだ。母美恵は「ごめんね!お前には辛い思いをさせたね!ごめんね!」と泣きながら駿を抱き締めた。


 淳はもらい泣きをしながらも駿に言った。

「探し出すのに苦労したよ!出版社の方々に協力してもらって、情報を掻き集めたんだ。兄さん、美恵さんは赤木家を出た後、再婚もせずに一人で八年間生きていてね、その後、美恵さんを見初(みそ)めてくれた人と再婚して子供も出来たんだよ。今は再婚した旦那さんは亡くなられて、お子さんと一緒に暮らしているんだよ。美恵さんは兄さんを虐待したこと、そして当時幼かった兄さんを捨てて出て行ったことについて、自分を責めたんだそうだよ」

そこで、淳は一呼吸置いて続けた。

 「兄さん、分かるかい?美恵さんは当時から器量が良く優しい女性だったから、美恵さんは赤木家を出てから、いろんな人に言い寄られたり結婚のプロポーズまでされたんだ。だけど多恵さんは八年間もの間、再婚はしなかった。何故だと思う?」

 淳は駿に尋ねていたが駿は何も答えられなかった。淳も答えを期待しておらず続けた。

「美恵さんが兄さんを置いて赤木家を出て行ったのは、兄さんが二歳の時だろう?その後も美恵さんは兄さんのことを見守っていたんだよ。そして六年後、真一父さんは僕の母の多恵と結婚した。そして父さんと母さんが再婚してからもずっと兄さんのことを見守っていたんだよ。そして、真一と多恵の間にゆきも生まれて家族として軌道に乗った、もう安心だろうと見届けてから再婚したんだ。兄さんが幸せになる前に自分が幸せになるわけにはいかないと思って、ずっと八年間もの間再婚はしなかったんだよ。今でも兄さんが生まれてから二歳までの写真をずっと持っているそうだよ」

 淳の話にますます駿は泣き出し号泣してしまっていた。会場の皆も一緒にもらい泣きによる涙を流していた。駿も駿の産みの親の美恵もただ二人で抱き合ったまま泣いていた。駿は、美恵を抱いていると遠い昔の赤ちゃんの頃の懐かしいとっても暖かい感覚を感じていた。駿はただ「母さん!母さん!」と言いながら泣き続けていた。



エピローグ

 駿は障害者施設を作りめぐみと一緒に運営していた。駿はセンターでの経験を活かし、すぐに軌道に乗せることができた。アパートを処分して、貸家にしていた家を住んでいた人に買ってもらった。新しく長野に大きな家を建てた。自分達の家を障害者施設にして障害者の数も順調に増えていった。屋内ばかりではつまらないと、マイクロバスを借りて障害者を外に連れ出し遠足などのイベントもよく行った。

 幸はなかなかお母さんと会えずに寂しい思いをしていた所に、お母さんとお父さんまで出来て複雑な気持ちだっただろうが、駿の笑顔に次第に心を開いて打ち解けた。お父さんやお母さんと一緒にいる時間が増えて甘える様になってきた。

 駿が、駿の母美恵に「一緒に暮らさないか?」と誘ったが、「今は子供と暮らしているからいいんだ。ありがとう」と断られた。駿はその美恵の子供に会いに行った。駿の異父兄弟にあたる彼は十歳年下の男で名前を工藤辰夫、教師をしていると言っていた。これからも交流していこうということで、その場は別れた。静岡に住んでいるということで、静岡方面に行く時は家族ぐるみで付き合っている。

 一年後には幸の弟になる(しょう)が生まれた。飛翔する鳥の様に羽ばたいて生きていくことを願って駿が名付けた。翔の誕生に一番喜んだのは駿でもめぐみでもなく幸だった。生まれる前から幸はお姉さんになることを心待ちにしていた。生まれてから親の愛情が弟に行ってしまうことで、少し寂しい思いもしたかもしれないが、障害者の人たちが幸のことを気遣って遊んでくれていた。幸や翔は駿やめぐみの家族だけでなく、入居している障害者の人たちとも仲良くなっていった。そんな多人数の中で育ったせいか、社交的で明るく育ってくれた。


 淳は最初の子供を失って三年後、双子の男の子に恵まれた。駿とめぐみが結婚したその年のことであった。つよしたけしと名付けた。淳と亜希子の最初の子供が、この世の日の目を見ること無く亡くなった悲しみから、二人の双子とも強く(たくま)しく育って欲しいとの願いからだった。親の願いを受けて悪戯(いたずら)ばかりする子供たちで逞しく腕白に育っていて、いつも淳や亜希子に叱られて世話を焼かす子供たちだった。しかも叱られても気にすることなく、また悪戯を繰り返すやんちゃ坊主だった。それでも淳も亜希子も腕白な子供たちを叱りながらも幸せそうだった。この世に生まれてくることなしにあの世に行ってしまった子供を思うと幸せそのものだったからだ。

 淳の仕事は両足切断後、セミナーや講演活動は減るかと思われたが、ますます依頼が多くなった。最初は断っていた淳だったが、亜希子に「またやってみたらいいじゃない!」と言われ引き受け出した。最初は主催者に送り迎えをしてもらったり、亜希子に送り迎えをしてもらっていたが、障害者でも手だけでも運転できる車を見つけて購入して以来、今では自分一人で以前の様に、車でセミナー会場に(おもむ)き帰ってくる様になった。もちろん事故はまっぴらごめんなのでスピードには気をつけている。


 駿と淳は結婚後も家族ぐるみで付き合っていた。めぐみと亜希子も打ち解けていたし、子供たちも一緒に遊んでいた。家族同士でどこかに旅行に行く時など、駿は障害者達に留守を任せて出かけた。留守にして任せられる様に皆を信頼していたのだ。信頼されるとなかなか裏切れないもの、まして裏切ろうと思う障害者達もいなかった。自分達の生活に満足して幸せだったからだ。


 駿はちょっと大きめのバスを借りて、駿の家族と淳の家族、そして入居している障害者たちと一緒に静岡の方まで遠出して河原にバーベキューに来ていた。産みの親の美恵や美恵の子供で駿の異父兄弟になる工藤辰夫さんの家族もいて全部で二十名を超える団体になっていた。皆それぞれビールやジュースを飲んだり、肉を焼いたり、自然の中で羽根を伸ばしている姿を眺めながら、駿は淳に言った。


 「なんか俺たちも波瀾万丈と言う程ではないだろうが、結構いろいろあったなぁ!」

「そうだね、お互い年を取ったしね、兄さんなんか白髪(しらが)が一杯だよ」

「それだけ苦労しているからな!お前の髪は黒々としているな!苦労知らずな奴だなあ!」

「はは、まあね!苦労を苦労と思わずに人生を楽しく生きているからね!」

「なるほどねえ!そういう言い方もあるんだなあ!ものは言い様だな」

「兄さん、父さんと母さんが僕たちに過去に向かう旅をさせたのは何故なんだろうか?」

「俺の場合は産みの母親も知らなかったし、お前の場合は血の繋がった父親を知らなかった。そんな過去について知らないことが多過ぎたからな!憎しみ合って恨みを抱いているより自分達で過去に行って解決してこい!ってことだったんじゃないかなあ!事実を知ることは辛い事だったとしても知らずにいるよりはましだろう?」

「そうだね!僕は過去に自分の父さんを間接的にとはいえ殺してしまったこと、兄さんを憎んでいたこと、ぎこちなかった家族、そして自分の両足を失った事、最初の子供を亡くしてしまったこと、確かにそんな全てが僕の人生を形づくってくれているように思うんだよ!もちろん、その時は辛い思いをしたと思うけど、今振り返ってみた時に強烈にいい思い出に変わっているんだ!」

「確かにそうだなあ、俺にしたって俺を産んだ母親の人生をちょっと垣間見て、お袋を憎んだり、お前を羨んだり、家族を失ったり、右手を失ったりした。その時は辛かったのは確かなんだよなあ。でも今こうして幸せな気分に浸っていられるのは、そういった思い出があったからだとも思えるんだ。言い換えれば、辛いことが土台になって、幸せが築けたのかなあとも思う。まあ、本当の所はどうだか分からんがな!」

「そうだね、どうだか分からないよね!人生なんてさあ!」

「分かるわけないよな、俺たちに!悟りを開いたお坊様みたいなこと!人生を迷って悩んで生きているんだから!」

と駿は言いながら淳の肩を叩いた。

「痛いなあ、兄さんは!兄さんの左手のおかげでこんなに(あざ)になっちゃったじゃないか!もう神様は何故兄さんの左手を残しておいたのかなあ!」

「何言ってんだ!そんなことも分からないのか!そりゃお前、お前を突っ込むためじゃないか!なーんじゃ、そりゃ!」

「突っ込みは僕の役、兄さんはボケの役だろう!」

「はは、まあいいじゃないか!突っ込まれて痛いくらい、生きてるってことだよ!生きてるってな!」

淳は「まったく、もう!」と言いながら駿に叩かれた肩を撫でながら訊いた。

「そういえばさあ、あの事故後の手術室で幽体離脱した時にさあ、二人とも服を着てたし免許証やカードや財布を持って、過去に旅したじゃない!手術受けている時は裸なのに、何故そんな服とか持ち物を持っていたのかなあ?」

「そんなことも分からないのか!それはさぁ、過去に行った時に猥褻(わいせつ)物陳列罪で捕まらない様にだろう!せっかく過去に行っても、牢屋に入っておしまいじゃストーリーにならんだろうが!」

「兄さんぐらい、物事を深く考えないことって、もしかしたら凄い特技かもしれないね!悩みがなさそうだもんね!」

「まあな!ありがとう、俺の長所に気付いてくれて!」


 駿が真剣な顔になって「そうそう、お前に貰って欲しい物があるんだ」と思い出したように言った。

「俺が高校卒業していた寮に最近結婚の報告と懐かしさもあって行って来たんだ。なにせ寮母さんには世話になったからね。寮母さんと話していて、俺が住んでいた部屋は、俺が出た後何人も変わっているんだけど、その誰かがたまたま天井裏を覗いた時に、古い小さなお菓子の缶を見つけたんだ。寮母さんが誰のか分からなくて、俺が行った時に俺のかも知れないと思って訊いてくれたんだ。その小さな缶さ、自分でも忘れていたんだけど俺の宝箱だったんだ。引越しした時にすっかり置いた場所を忘れて、それっきり存在すら忘れていたんだけど、その缶の中に何が入っていたか分かるか?」

「そんな兄さんの宝物なんて分かる訳ないよ。どうせ兄さんのことだからセクシー美女のグラビアの写真とかじゃないの?」

「一つがさ、これだったんだ!」と駿は言ってセカンドバッグから出したのはミニカーだった。錆だらけになっているが、元の色は銀色だった。

「これってもしかして?」

「そう、お前が八歳の俺の部屋の戸棚で見つけた、俺の産みの親の美恵さんが俺にくれたおもちゃだよ!先ほど美恵さんに見せたら泣いていたよ」

淳はミニカーを手に取って眺めてみた。あの当時、八歳の駿の部屋で見かけた時より錆だらけになって四つのタイヤの二つは既に取れており、もう二つも脆く皹が入っており、触れば取れてしまいそうな程、ぼろぼろにはなっていたが、間違いなくあの時のミニカーだった。

「懐かしいね!これが兄さんの宝物だったのか?」

「うん、まあね、お袋の美恵さんが親父と俺を捨てたと思っていた時は憎かったけど、捨てられずに取っておいたんだ。親父が多恵さんと結婚してお前と一緒に住むようになって、空き缶に入れて隠しておいたんだ。それとさ、その缶の中にもう一つ入っていてさ、それがお前にもらって欲しいものなんだけど」と言って駿はセカンドバッグから何やら取り出して淳に手渡した。


 「それ、アルバムらしいんだよ!実は、親父が死んで家を出るとき、お前と俺のお袋の多恵さんから預かっていたものなんだ。すっかり忘れていたんだけどな。お袋さんがな、お前が恨みや憎しみの過去から完全に解き放たれた時に、お前に渡してくれ!って言って俺に預けていたものなんだ。ずっと自分でも忘れていて、こんなに遅くなってしまったけど貰ってくれ!」

 そのアルバムは古い茶色い革表紙で包まれており、革紐で蝶結びにされていた。淳は震える手で革紐を解いてゆっくりとアルバムの一ページ目を開いた。

 そこには赤ん坊を抱えるお父さんとお母さんが写っていた。赤ん坊の時の淳と幸一と多恵の写真だった。二ページ目からもどこかに行った時の家族の写真がアルバムに収まっていた。三人一緒の写真もあれば、淳と幸一、淳と多恵の写真もあった。カメラのシャッターを押すので、幸一か多恵が写真に写らなかったのだろう。

 写真はセピア色に変色しているものも数多くあった。アルバムのページを捲っている淳は涙が潤んでいた。淳が涙を見せていたのは懐かしさだけではなかった。それらの写真は古くセピア色に変色している以外に共通点があった。全ての写真において、幸一も多恵も幸せ一杯の笑顔で写っていた。駿と淳が過去へ旅した時に、幸一と多恵が喧嘩の時見せていた険しく怖い顔など一つもなく、自然な笑顔が幸せであることを物語っていた。

 淳はアルバムを置いてぽつりと呟いた。

「ありがとう!母さんが言っていた父さんとの思い出の物ってこれだったのか!良かったよ!父さんや母さんも幸せな時間があったんだ。それを知ることが出来ただけでもとっても嬉しいよ!」

淳は青く地平線の隅まで澄み渡る青空に向かって思い切り叫んだ。

「とうさーん、かあさーん、ありがとう!」

駿は黙って淳を見つめていた。駿の左手の中の古く錆びた銀色のミニカーがキラッと光を反射した様な気がした。

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