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過去への旅2

「自然な家庭_2_B」


 駿は驚いた目で暫く淳を見ていたが、やがて我に返り「いろいろあったんだな、俺たち!あの頃は確かに自分の気持ちを表現するのが下手だったのかも知れないなぁ。俺たちも自分の心を表現出来なかったし、親父もお袋も表現するのが下手だったのかもしれない。家族でありながら、どこかに遠慮があって、どこかにぎくしゃくした心を引きずって、本当の気持ちを表すことなく長いこと生きちまった。お互いの心を知らず自分の心を隠してな。でもお前とこうして今話せる様になったというのは大事な一歩を踏み出せたのかも知れないと思うよ!」駿はしんみりと話し、淳は黙って聞いていた。


 「そうそう、忘れるところだった。淳、子供の俺はどうだったんだ?うまく行ったのか?」と駿は話題を変えた。

 「それが駿君の心の中には、お母さんに捨てられた怒りと悲しみから、また捨てられるんじゃないかという強い不安と恐怖があるみたいなんだ。それで、不安が恐怖があるために結婚に納得するまで至ってないんだよ!」

「至ってないっておまえ、明日二人が結婚してくれないと……」

「判ってるよ、でも駿君の不安と恐怖を拭い去ってやるには、心の中にあるものを吐き出させないと駄目だと思うんだ。明日、もう一度昼から行って来るよ!」

「そうか!あまり捨てられるなんて思ったこと無かったように思うが、あの当時の俺はそんなことが心のどこかに引きずっていたのかもしれないなあ。それで、明日、子供の時の俺と出会って、どうやって説得するつもりなんだ?何か策があるのか?」

「それが全然見当たらないんだ!でも自分の心の中を全て吐き出したらすっきりして気持ちも変わるかなとも思うんだけど。自信はないんだけどね!」

「うーん、そうだなあ。俺も自分で言うのも頑なな少年だったからなあ。明日、俺が行って子供の時の俺に話をつけてやろうか!」

「いや、好意は有り難いけど、一人でやってみるよ!出来るはずさ、なんてったって、駿君のことは兄さんの性格を見ていれば良く判るからね!」と言って悪戯をしている子供のように少し(おど)けて見せた。


 いよいよ駿や淳の記憶の中では、今日が真一と多恵が結婚するはずだったが予定は未定のままだ。結婚届を出して、夜は四人で高層ビルの屋上にあるレストランにディナーを食べに行くはずだった。ところが、駿君と淳君の思いもしなかった反対で結婚の話は頓挫(とんざ)してしまったのだ。淳君の方は、結婚に同意したものの、駿君の方は強く反対している。

 駿は多恵の家に淳君の子守り役に行く時も気持ちがここにあらずという状態だった。多恵も淳君の顔は昨日とは打って変わって吹っ切れた顔をして、いつもの笑顔を取り戻していた。笑顔のまま、多恵は会社に行った。駿は少々焦って会社に行こうとしている多恵に「今日は早く帰ってきますか?」と訊いてしまった。駿の記憶では、今日結婚届を出す予定になっている。会社から帰ってきてから役所に行ったのでは間に合わない。昔の役所は届け出は平日に役所に(おもむ)かないといけなかったのだ。「ええ、いつもと同じよ。何故?」と逆に訊き返されてしまった。

「だって淳君も結婚に了承してくれたから、もう結婚への障害は何もないはずでしょう!それに今日は快晴だし大安だから丁度いい結婚日和かなあと思いまして!」

「まあ、確かにそうなんだけどね、相手側の駿君はまだ結婚に反対しているって言うし、事は急いても仕方ないでしょう!それとも何か今日じゃないといけない理由でもあるの?」

「いえ、そんなことはありませんけど、『善は急げ!』って言いますしね」

「そうね、でも『慌てる乞食はもらいが少ない』とも言うしね」と多恵は軽くウィンクして見せた。

多恵に上手く返されてしまった。駿としてもそれ以上言えば、怪しまれてしまうので問い詰めるわけにはいかなかった。

「それじゃあ、淳をよろしくね!」と明るい調子で言うと多恵は会社に行ってしまった。

 この頃になると子供時代の淳は駿にかなり懐いて来ていた。大人しく人見知りする淳君にとっては、母以外にも心を開ける人はそうはいなかった。「おじちゃん、おじちゃん」と懐いて来て、駿の前では無口で大人しくて、さらに人見知りさえする淳君も心を開いて結構おしゃべりと思えるくらいしゃべるようになっていた。

 淳君は駿のことを信頼しきっていた。まだ結婚ということがよく判っていない淳君にとっては、誰がパパになっても駿おじちゃんが遊びに来てくれると言ってくれたので、結婚のことは淳君からは話題にも上らなかった。もちろん、駿も淳君に結婚の話をするわけなかった。また反対でもされたら大変だ。

 思えばこの淳君と外で遊びに出たり、家の中でゲームをしたり、折り紙をしたり、いろんなことをして遊んだ。勉強は得意とはいえない駿だったが遊びは得意だったのだ。淳君は呑み込みが早く、トランプなどを教えると、ルールを覚えて、やがて駿を負かすまでになってしまうのだった。スポンジが水を吸収するかのように、どんなゲームもルールも覚えてしまい駿に勝てるようになってしまうのだ。そうやって駿がいろんな遊びを教えて、淳が覚えてゲームなどの勝負ごとなら駿を負かすまでになってしまう。そんなこととして午前と午後を遊んで過ごしてきたのだ。そんなこんなで心を開いて仲良くなっていたのだ。


 淳は時間どおり午後一時五分前に行った時には、既に駿君は帰っていた。真一は会社に行っていなかったので、そのまま駿君の部屋に入って「どうだい?昨日の続きは出来たかい?」と言って早速昨日の続きのノートを見せてもらった。

 駿君は幾分得意げな顔だった。昨日、見せてもらった後に一人で書き込んだのだろう。ノート二十ページにも達していた。駿はこれだけ長い作文を書いたことはなかっただろう。文章を読むのも書くのも好きではなかった、むしろ嫌いだった駿君にとってはよほど嬉しかったのだろう。「よく頑張ったね!昨日あれからやったのかい?」と淳は駿君の顔を見ると、駿君は得意げに大きく頷いた。

 淳は、昨日読んだ六ページも含めて、最初から読み出した。昨日読んだ六ページは駿を捨てた母親に対して怒りと悲しみが一杯に書かれ、新しいお母さんに対して、の不安と恐怖感が強く垣間見えていた。

 文章は、駿君の心の状態を表す様にあっちにこっちに話が飛びながら思い悩んだ様子が見られる思いがした。お母さんが僕を捨てたのは僕のことが嫌いだったからだろうかといった自分を責める表現もあったり、お父さんがどれだけ苦しんでいたか、お母さんが出て行った後、どれだけ二人で大変ながら力を合わせてやってきたか、僕は我慢出来るが、お父さんがまた捨てられて、お父さんの悲しい顔が見たくないといったことが書かれていたりと、このトピックに関していろんな駿君の思いが書かれていた。

 それでも読み進んでいくと、新しい母親を要らないと言う言葉とは裏腹で、母親を強く求めている様子が文章になって現れていて、淳は読みながら駿君の心情を察した。


 淳は読み終わると「ふう」と大きく息を吐き出した。「すごいね、駿君!この文章の中に君の気持ちは全て出し切れたかな?」と優しく微笑みながら訊いた。駿君は軽く頷いた。

 「お母さんを恨んでいるのかい?」と淳は核心をズバリと訊いた。駿君は少し俯いて考えた後に、淳の方に顔を向けて「もう恨んでない!」と答えた。淳は駿君の顔を見ながら、駿君の次の言葉を忍耐強く待った。

 駿君は、淳の方を見ないで下を向いたまま、一人自分に言い聞かせるように呟いた。

「このノートを書き出している時は、抑えていた自分を捨てたお母さんへの怒りや憎しみが一杯あったんだ。だけど、書いている内にお母さんにもいろいろ事情があったのかもしれないと思うようになったんだ。もしかしたら僕のこと嫌いになったということもあったかも知れないと思った。その時はとっても辛くて仕方なかった。でも例え僕に原因があったとしても僕にはどうしようもない。僕と父さんと捨てた母さんを責めても、僕を責めてもどうしようもないことだと思う様になったんだ。お母さんがどこかで僕じゃなくても、誰かと一緒に家庭を築いて幸せになっているならいいと思う。書いている最初は怒りに顔が熱くなり、お母さんへの憎しみが次から次と沸き起こっていて、昨日はよく眠れなかった。でもお母さんにはお母さんの家を出ないといけない理由があったのかもしれないなぁと思えるようになったんだ」

駿君は顔を上げた時、すでに笑顔になっていた。

「そうかあ、駿君は偉いんだなあ!随分と大人なんだねえ!お母さんのことを許せるんだね。そうかぁ!そして、お父さんがまたお母さんに捨てられてしまうのが可愛そうと書いてあるのを見ると、駿君は随分とお父さん想いなんだね!」

「お母さんが出て行った時のことは覚えてないんだ。僕が二歳の時だったらしいからね。でもお父さんを見ていると、なんだかとっても寂しそうで可愛そうに見えるんだ!もうお父さんにあんな思いしてほしくない、お父さんのあんな寂しそうな顔は見たくないんだ!」

「そうかあ!そのことをお父さんには話したのかい?」

駿君は首を横に振り「言ったことなんてないよ!お父さん、また悲しむもん!」と言った。

「でもそれはお父さんに話してみた方がいいんじゃないかな?お父さんには駿君が何を考えているのか何を思っているのか判らないもんね!お父さんに駿君のありのままの気持ちをぶつけてごらん!きっと応えてくれるよ!」

「そうかなあ?そんなもんかなあ?」と駿が少し疑いを持った質問を返してきた。

「そんなもんだよ!なんだったら試してみる!」

「えっ」と駿君が驚きの言葉と共に目を丸くして淳の顔を見つめた。

淳は淳の部屋のドアを開けて「お父さん、どうぞ、中にお入りください!」と言った。ドアの外には真一が立っていた。


 実は、淳は今朝予(あらかじ)め真一の会社に電話して頼んでいたのだ。「会社を午前中で切り上げさせてもらってこっそりと家の鍵を開けて帰ってきてもらえませんか!私がお呼びするまで駿くんの部屋の外で待っていてください!」とお願いしていたのだ。真一は自分にはなかなか話してくれない駿のことを思って(わら)にもすがる思いだったのだ。二つ返事でOKしてくれた。淳が駿くんと話している時の会話が聞こえるように、ドアを完全に閉めずにほんの少し開けておいたのだった。

 真一はちょっと照れながら部屋の中に入ってきた。

淳が「さあ、お父さん、どうぞこちらへ」と真一に自分がいたスペースに招き入れた。そして未だに驚いた顔をしている駿君に向かって言った。「さあ、さっき僕に話してくれた君の正直な気持ちをお父さんにぶつけてごらん!」と言って促した。

 しばらくもじもじしていた駿君だったが、真一も淳も駿君の言葉を待っていた。改まって本人を前に言うのは非常に照れくさいのだが、頬をほんのりと赤く染めながら俯き加減のまま話し出した。

「父さん、僕今まで僕たちを捨てたお母さんを恨んでいたんだ。だけどもうお母さんのことは許すよ。でもお母さんがいなくなって、お父さんとっても寂しそうで悲しそうだった。結婚してまたお母さんが出て行って、父さんの辛い顔を見たくないんだ!」と言った。

 駿の言葉をじっと黙って聞いていた真一は「母さんのことでお前にも辛い思いをさせたね!随分嫌な思いさせたんだな!父さんが母さんの分も頑張っていかないといけないのに、おまえに心配かけちゃっていたんだな。悪かったな。ごめんな!」顔を上げて駿を見た真一の目には涙がうっすらと溜まっていた。

 真一の顔を見る駿君の目にも涙が滲んで見えた。駿君は真一の目の涙を見た時、抑えていた思いが一気に噴き出した。「父さん、父さーん」と言って真一に抱きついて駿は泣き出した。今まで小さいながらも我慢してきた。泣かずに堪えて一生懸命自分を抑えてきたのだ。そんな思いがダムから溢れ出したかの様に涙が溢れ出した。真一は駿を抱きながら「ごめん、ごめんな、駿」と言って泣いた。しばらく二人は抱き合って泣いていた。

 長い様にも思えて数分間だったのだろう。真一は涙を拭きながら「駿、父さんにもう一度チャンスをくれないか!多恵さんは優しい人だ。きっと良いお母さんになってくれる。お父さんも多恵さんともう一度だけチャンスを掴んでみたいんだ!」と駿の顔を見つめて言った。

 駿君は涙を拭きながらちょっと考える仕草をしてから頷いた。「いいよ、僕ももう一度お母さんを迎えてみるよ」と言った俊君の顔には涙の中に笑顔が浮かんでいた。黙ってみていた淳も釣られて目頭に熱いものを感じていた。

 

 その時玄関のチャイムが二回鳴った。「誰だろう?こんな時間に!」と真一は玄関のドアを開けた。「多恵さん!」と真一は驚きの声をあげた。ドアの向こうには多恵と子供の淳、そして駿が立っていた。多恵が簡単に駿のことを紹介した。駿の部屋から淳も子供の駿も下りて来た。駿を見た淳は一瞬驚いた顔を見せたが、すぐに皆に気付かれない様に平静を取り戻した。駿がここに来る事は淳に言ってなかった。ここで初めて駿も淳も子供時代の自分にまじまじと近距離で出会うことになったのだ。

 駿は、多恵が昼休みで戻ってきた時に真一の所に行こうと促したのだ。会社を簡単に休めないと断った多恵だったが、どうしてもと駿は強くお願いしたのだ。

 結婚の期限が今日であるから焦っていたことも確かにあったが、家族四人に弾む会話と笑顔をプレゼントしたいと思ったのだ。駿から見ても、この四人は出会っていても、子供たちが笑顔を見せていなかったのが気になっていたのだ。

 駿と淳はお互いに簡単な自己紹介をした。そして駿と淳も混じって皆で簡単にコーヒーやジュースを飲んでから、駿と淳が引っ張るように役所に行って結婚届を出した。駿の記憶では、四人で届出を出しに行ったのだが、途中で気が変わったりしない様に、駿も淳も一緒に六人で仲良く行くことにしたのだ。役所が終わる時間ぎりぎりに受け付けてもらった。


 その日の晩の高層ビル最上階にあるレストランでディナーを予約する際に、駿と淳も誘われたがさすがに家族水入らずのディナーにご一緒するのは遠慮した。精一杯のお洒落をした真一、多恵、子供時代の駿と淳は一緒にタクシーでレストランに出かけるのを、駿と淳は手を振って見送った。当然、いつもはタクシーなど贅沢と思って使わないがこの晩だけは特別だった。

 タクシーに乗り込む四人を見送った駿と淳にとっては、この時代に来て、真一と多恵と子供時代の駿と淳が出会っているのを見るのは三回目だ。その三回はわずか二十日間の間であるが、四人とも明らかに、前回と前々回とは違って固さが(ほぐ)れていた。以前の二回とも子供たちにはほどとんど会話がなかった。前回は会話はあったが気まずいものだった。それがタクシーに乗り込む四人には笑顔が見えていた。 

 「駿君、ほらネクタイが曲がってる」と多恵が言うと「駿と呼んでよ!お母さん!もう親子なんだから」と駿が(こた)える。淳君が「お、おっお父さん、これから遊んでね!」と緊張気味に照れながら言うと、真一はちょっとびっくりして微笑みを作って「もちろんさ!淳、父さんと遊ぼうな!」と言った。駿がまだ小さい淳の手を引いてタクシーの中に二人仲良く乗って行った。そんな姿を見ると明らかに四人は家族だった。いや、四人はぎこちないながらも家族になろうと努力していた。


 彼らの姿に駿と淳は忘れていた何かを見たような気がした。駿も淳も家族になろうと努力してこなかった気がした。ふてくされてすねて怒ったり憎しみを抱いたり、自分が耐えて我慢して家族に衝突や喧嘩や諍いがなければ、いや表面上なければいい、それが家族だと思っていた。ところが、今の子供時代の駿と淳の家族を見ていると、家族になろうと努力している。

 子供時代の駿にしても淳にしても、父や母に(わだかま)りがあるはずだ。だが、その蟠りをひきずって心を閉じていては、血の繋がっている家族でさえ人間関係を良くしていくのは難しい。ましては血の繋がっていない家族であれば、なおさら自分から努力して心を開いて、家族となれるように努力しなければ到底家族にはなれない。家族の仲がうまくいかないから、血が繋がっていないせいにしたり、相手が自分の血が繋がっている子供を贔屓(ひいき)したりして見えるのは、自分自身が心を閉じていたから相手も敬遠してしまうのだ。


 これから子供の駿や淳、そして真一や多恵にもいろんなことが訪れる。訪れる出来事自体は、駿も淳も未来から来ているのだから知っている。でも今のタクシーに乗り込んだ四人にはぎこちないながらも自然な笑顔が生まれていた。自分達より、もうちょっとうまく生きていけるのではないかと期待を抱くことができる笑顔だった。少なくとも自分達が子供の時にはなかなか出せなかったような自然に生まれた笑顔だった。そんなことを考えて、四人が乗ったタクシーを手を振りながら見送っていた。

「兄さん、あの四人は僕らの時とはちょっと違う気がするよ」

「俺もそう考えていた。家族ってああいううもんなんだな。家族って努力しないと、家族になれないもんなのかも知れないな!」

「僕は恨んだり憎んだりして、それが僕の境遇であれば当たり前のように思ってた。今だから言うけど、父さんが自殺して経済的に逼迫(ひっぱく)した時、兄さんは高校を卒業出来たけど僕は中卒止まりだった。兄さんは高校まで出られたのに悔しかったよ!父さんの自殺後、父さんが横領した疑いで相当苛められた。父さんのせいで、父さんが自殺なんかしてしまったために!だから父さんを恨んでた。だけど、そんな人を憎んだり恨んだりするよりも、何故自分を変えようと努力しなかったんだろう。自分は自分ということをしっかり持っていれば、父さんのことで苛められても、苦しむことなかったかも知れない。あんな小さいわずか四歳の僕が、こうして家族になろうと努力しているのにも関わらず……」

「俺もゆきの死後、お袋に苛められて、お前と差別されているようで恨んだよ!お袋が嫌で父さんの自殺後は、早く家を出たかったんだ。家を出てからも自分の給与の中からおまえのために仕送りしていたんだ。それだって俺は不満で一杯だった。俺のために何もやってくれなかった母さんやお前のために、何故俺が犠牲にならないといけないのかってな!憎んだよ、お袋やお前を。そして俺の境遇を恨んだよ。でも恨んだり憎んだりすることで得たことなんて何もなかった。誰かが悪かったんじゃない、自分が不幸だったり不運だったんじゃない。子供時代の俺たち家族を見ていて自分が努力していなかっただけだったって気付いたよ!」


 しばらく二人はタクシーを見送った場所で(たたず)んだまま黙って俯いていた。ふと淳が声を張り上げた。

「兄さん、どうしたの!その体!」

「えっどうしたって何が?何か変なの?俺の……」駿の最後の言葉は飲み込まれてしまった。駿は自分の手を見ていると自分の手が透けて向こう側が見えた。しかも透けているのは手だけではなく足も透けていた。そこで駿は慌てて淳を見た。淳の体全体が薄く透けて向こう側が見えていた。

「おい!淳、おまえも透けてるぞ!」と興奮気味に語尾を荒げて言った。淳も自分の体と駿の体を交互に見た。

「どうやら、僕たちがこの時代に来た目的は果たせたのかもしれないね!帰れるのかな?」

「どうかなあ!帰れたとしても、俺たちは手術台の上、そのまま死んでしまうのかもしれないなあ」

「うーん、どうなんだろう?」

そう言っている間にも二人の体はどんどん透明な度合いを増していった。すでにほとんど姿はうっすらと見えるだけになっていた。

「おーい、淳!まだ生きているか?」

「はは、生きてるも何も僕たちはこの時代に元々生きていないんだよ!兄さん」

「はは、違いないな!それにしても、これから淳君と約束した遊び相手になるってことが守れないのが残念だな!嘘つきって泣かれるかな?大丈夫なんだろうか?」

「大丈夫だよ、僕はこう見えても立ち直りが早いからね。新しい家族も出来たしきっとすぐ忘れるさ!」

「忘れてしまうのか!ちょっと寂しい気もするな!ちょっと待てよ!子供時代の俺がせっかく淳に家庭教師してもらったのに、淳がいなくなったら、また国語の点数が悪くなるんじゃないか?それにアルバイト代貰ってない!ああ、若くて綺麗なお袋と一回ぐらいはデートしてみたかったなぁ!」

「何言っているんだよ!アルバイト代貰っても子供時代の自分達の家計が困るだけじゃない。それに兄さん!デ(・)ー(・)ト(・)したい時に親はなしって言うだろう!」

「あっそうかって、それを言うなら親孝行したい時には親はなしだろう」

「はは、兄さんでもちょっとは(ことわざ)の知識あるんだね!」

「何言ってんだ!この野郎!」

姿は既に完全に消え去っているが、二人の声だけは何もない空間から暫くの間聞こえてきた。やがてそんな二人の声も小さくなり、耳をすませても聞こえなくなった。二人の体は完全に空間の中に呑み込まれていった。


 タイムスリップの後、駿と淳の現代に戻るという予想は外れてしまった。駿と淳が現れたのは、現代の手術台の上ではなかった。暗闇の虚空の中に大きなモニターが浮いていて、駿と淳はそのモニターの前にいた。

 モニターの大きさは横が六メートル縦が十メートルほどのものだ。厚みはない、かといって投影機で映されていると言った類のモニターでもなかった。モニターが明るく画面と映し出しているのでそのモニターが見えたのだ。

「よう!淳、無事か?」

「いや無事も何も、僕たちはどこに来ちゃったんだ?」

「分からんよ!タイムスリップを失敗してしまって迷子になってしまったのかもよ!」

「兄さんがタイムマシンを操縦してきたなら、それもあり得るけど、自分達の意志とは別に来ているんだからそれはないと思うけど!」

「まあ、そうだよな!って俺が操縦してたら迷子になるみたいな言い方じゃないか?」

「まあ、まあ、そういうことも大いにあり得るって言っただけだよ!それよりもモニターの中に映っている男の人って父さんじゃない!」

淳に言われて、駿は自分の背丈よりも三倍以上も高く、幅も十メートルもあろうかという大きなモニターに見入った。言われてみると確かに真一だった。

「おお、本当だ!父さん、父さーん」駿は呼んで、大きなモニターに近づき画面に触れた。画面の中の真一は振り向きもしなかった、どうやら聞こえないらしい。この画面の中の世界には入れないで何もしないで見ているしかないようだ。

 画面の中には三人いた。一人は真一だ、真一は先ほどの世界の真一と同じかちょっと若かった。真一はソファーに寝転がってテレビのナイター中継を見ていた。女の人は台所で食器を洗って片付けている。子供は銀色のミニカーのおもちゃを一人で走らせてきゃっきゃと笑っている。子供の顔はどことなく雰囲気がそのまま残っている駿だった。淳が駿の戸棚で見つけた銀色のミニカーがまだ新しい様でピカピカ輝いている。そうすると残った女の人は、考えられることの中で一番可能性が高いことを駿が言った。

 「あれが俺のお母さんなのか?」

駿は淳に訊いた訳ではなかった、淳も知っているはずがない。誰に言うともなく言った言葉だった。二歳の時に生みの母が出て行ったということだから、そうすると駿は大きくても二歳ということになる。覚束無いながらも転ばずに二本足で歩いて走っていることからすると、少なくとも一歳以上で産みの母親がいることから二歳以下に違いない。

 「何だよ!音が出ないじゃないか!」と駿が文句を言うと「多分これがボリュームだよ」と淳が画面右下のつまみを時計方向に回した。いきなり大きな音が聞こえてきて駿は鼓膜が破れそうだった。淳がボリュームを調節して適度な音量の声が聞こえてきた。


 「ねえ、あなた!今度の日曜日に私高校の時の同窓会があるの!悪いんだけど駿の面倒を見ていてくれないかしら?」

「ええ、駄目だよ!今度の日曜日は接待でゴルフに行かないといけないんだから」

「そんな、あなた、またなの!いつも接待ゴルフばかりじゃないの!十何年ぶりの同窓会なのよ!お願いだから接待ゴルフの方を断ってよ!お願いだから!」最後の「お願いだから!」のセリフにはちょっと甘えるような響きが含まれていた。

「駄目だって!お得意さんを接待しないと次の仕事が取れないかもしれないじゃないか!」

「あなた、ずるいわよ!いつも駿を私に押し付けて!あなたがいなくても他の人に任せればいいじゃない!」

「そうも行かないよ!仕方ないだろ!こっちは遊びじゃなくて仕事なんだから!それに『押し付けた』って何だよ!子供を厄介者みたいに!」

「そうだけど、なんで、いっつも私ばっかり犠牲にならなくちゃいけないのよー?」

「そういう訳じゃないけど仕事なんだから仕方ないじゃないか!」

 画面の中の二人は口喧嘩をし始めた。推測するに今回が初めてではないらしい。

駿は母の顔は知らなかった。一度、戸籍を調べて母の名前は美恵という名前であることは知っていた。だが会いに行きたくても住所も連絡先も何の手掛かりもなく、会いに行く事など到底出来なかった。探偵を雇って調べようとまでは思わなかった、幼い駿を残して男と出て行った母だ。昔は憎みこそすれ会いに行こうなどと思わなかったのだ。

 二人が喧嘩しているシーンがあって、いきなり画面の中の登場人物がビデオの早送りの様に早い動きになった。どうやら勝手に早送りが為されているらしい。早送りで見ていても何度となく夫婦喧嘩をしているらしい様子が(うかが)えた。


 そしてビデオの早送りが止まって通常の速度に戻った。真一は朝も暗いうちからゴルフバッグを担いで早々に出かけていった。どうやら、画面の中は先ほどの話の中に出ていた日曜日らしい。真一が出て行ってしばらく経ってから、美恵は起きだして朝食を作って駿と一緒に食べた。

 美恵は「本当にしょうがないお父さんね、うちのことは全て任せっきりで何もしないで、駿が生まれてからというもの、いつも私の生活が犠牲になっているわ!あんな人と結婚しなけりゃ良かったわ!ほら、駿早く食べちゃいなさい!ほら、こぼさないの!」駿は離乳食を初めて暫くの期間は経っているので、可愛い小さなスプーンを使って食べるのだが、まだ使い方が慣れていない様で食べるのが遅い、しかもぼろぼろとこぼしている。そんな駿を見ながら、美恵がイライラしている様子が、見ているだけでも手に取るように解った。食事後、美恵は後片付けをして、洗濯をして、駿を連れて公園に行った。

 

 真一が仕事で、美恵はいつも駿を押し付けられていて常にイライラしているようだった。公園でもイライラは増すばかりだった。駿が公園の砂場で遊んでいて周りにいた女の子を泣かしてしまった。女の子が砂場の砂を掘っている時に、駿に砂がかかったので、駿は女の子を叩いてしまったのだ。言葉よりも先に手が出てしまったのだ。女の子はいきなり叩かれてびっくりして、暫くキョトンと駿を見ていたが、やがて激しく大きな声で泣き出した。女の子の母親が、美恵にものすごい剣幕で怒鳴ってきた。美恵は相手に即座に謝り駿の頭を無理矢理手で下げさせて、なんとか許してもらったものの、美恵としてはイライラが増すばかりだった。駿のせいで怒られて謝らなければならなかった。

 女の子とその母親が剣幕を静めることなく立ち去ってから「駿!なんで大人しくしてないの!もう、私が怒られちゃったじゃない!」と駿に怒りをぶつけた。駿は「僕悪くないもん!」と涙を噛み締めて言った。それが美恵には反抗していると思って怒りが爆発した。

 「何であなたはそうやってお母さんの言う事が素直に聞けないの!来なさい、お尻ぺんぺんしてやるから」美恵は公園の中で落ちていた木の板を掴んで駿のお尻を叩いた。駿は我慢していたが耐え切れず大声で泣き出した。それでも美恵は叩くのを止めずに何度も叩いた。泣き叫ぶ駿に「もう二度とあんなことしないとお母さんに誓いなさい!」と言ってはまた叩いた。駿は泣きながら「ごめんなさーい!もうしないから」と謝っても「いっつもそう言って悪さばかりする。今日という今日は許しません!」と言っては叩いた。

 泣き叫ぶ子供と木の板で叩く母親の姿を、公園にいた周りの人がじっと見ていた。そんな大勢の人の視線にやっと気付いて、美恵ははっと我に返った。すでに十発近く木の板で力を込めて駿のお尻を叩いていた。駿は大声で泣き叫んで泣き止む様子もなかった。美恵は我を取り戻して「ごめん、ごめんね、駿ちゃん、お母さんどうかしてたの」と言って抱き締めた。駿は母親の美恵に抱きしめられても泣き止まなかった。

 美恵はそのまま、駿を抱っこして家に連れて帰った。家で駿のお尻を見てみると、無数の蚯蚓(ミミズ)腫れができていた。駿のお尻に出来た無数の蚯蚓腫れを見ながら自分のしてしまった事に気が遠くなるのを感じた。

 

 画面を見ていた駿は、二歳にも満たない自分が木の板で何度も叩かれている姿を見て憤慨していた。「なんて、母親だ!そんなに叩くことないじゃないか!叩かれた記憶は覚えていないが、こんな(むご)い仕打ちを受けていたのか、俺は!」

「うん、ちょっと尋常じゃないね。あのお仕置きは!いくら兄さんの面の皮が厚いからってねぇ!」と淳も同意した。

駿はギロッと淳を向いて「お前、よくこんな時に憎まれ口を叩けるなぁ!」

「いやあ、これも兄さんのおかげかな!路上漫才をやらされたからねえ!」

「おまえは突っ込み役でボケを言う方じゃなかっただろう!」

「そうだったっけかな?」


 美恵は駿の蚯蚓(ミミズ)腫れで腫れているお尻にお薬を塗ってやった。痛くないようにそっと寝せてあげたが、仰向けに寝るとお尻が痛くて駿はまた泣き出した。横向きに寝かせてやると泣き疲れたのか暫くすると寝入った。

 美恵は一人、鏡台の前で鏡に映る自分を見ていた。駿に暴力を振るったのは初めてではない。これで二度目だった。前は、思いっきり頬を叩いた。倒れている駿を手で起こしてもう一度叩いた。駿の左頬は赤く大きく腫れた。

 その後、気付いて氷で冷やしたが、腫れがひくまでには数日間かかった。鏡に映っている自分を見ながら、段々と自分が怖くなっていた。前回も今回も駿に抵抗されると、怒りを抑えきれなくなってしまうのだ。

 鏡に映った自分に向かって「虐待!?」そっと呟いてみる。鏡の中の美恵が冷たい笑いを浮かべ、そしてこう言った。「おまえの本性は怖い女だ、我が子を虐待してしまうほどの。それがおまえの本性だ!」と言って鏡の中の美恵はさらに醜く冷たい笑いを浮かべた。

 美恵は「ちっ違う、そんなことないわ!わあああ」と叫んで近くにあった化粧瓶を鏡に叩きつけた。鏡は半分ほど割れて破片となって落ちた。鏡の割れ残った部分に映った美恵が勝ち誇った様に高らかに笑った。


 自分が虐待しているなんて誰にも言えなかった。医者に罹るなんて恥かしいことは出来なかった。真一に聞いてもらいたかったが、真一はいつも仕事のことばかりで美恵のことを考えてくれそうになかった。前回はたまたま駿が聞き分けなかったからカッとしただけだと思っていたが、今日またやってしまった。駿を叱っている時や叩いている時に、自分を抑えられなくなってしまうのだ。「どうしたらいいの?私」鏡台の割れ残った鏡に映っている自分の顔が悪魔の様に見えた。美恵は割れた鏡を片付けるのも後にして電話をかけた。

 相手は真一の携帯ではなく、高校の同級生のかなえだった。かなえが今回の同窓会の女子側の幹事だった。

「ああ、かなえ?私、美恵だけど、今日の同窓会まだ参加できるかなぁ?」

「あれ、だって参加出来ないって言ってなかったっけ?」

「うん、そうなんだけど用事がなくなって参加できることになったからさぁ」

「ああ、それなら大丈夫だよ!今の時点ならまだ人数の修正幾らでも出来るから。お子さんも一緒?」

「いや、息子は置いて行くわ!せっかくの同窓会ですもの。ありがとう、それじゃあ行くから。待ち合わせ場所と時間は変更ないよね?」

「うん、葉書にかいてあった通りで、東京駅に待ち合わせだから」

「ありがとう、それじゃあ同窓会楽しみにしてるから」

「うん、久しぶりだから楽しみだね。それじゃあね!」

「それじゃあ!」と言って受話器を置いた。


 このままでは自分が壊れてしまう様に思えた。久しぶりの友達に会ってリフレッシュしようと思っていた。鏡と鏡台を片付けて淳と真一の夕食の用意をしてテーブルに置いた。そして外出用の服を着てお洒落をして、割れた鏡台の代わりに小さな手鏡を使って化粧をした。

 久しぶりの友達と会えば気も晴れるだろうし、いつも自分が駿のお守りをしているのだから、たまには解放されてもいいだろう。真一もすぐに帰ってくるだろうし、食事も置いておけば何の問題もないだろう。

 待ち合わせの時間から言って、五時に出れば間に合うはずだ。駿はぐっすり寝ている。美恵は駿が起きてこないことを願っていた。駿が起きて駿の顔を見るのが辛かった。

 美恵は真一と駿に簡単に、同窓会に行って来るということと夕食を用意しておいたから先に食べてくれ!という内容のメモを残しておいた。駿がぐっすり眠っていることを確かめて、五時を少し回った頃家をいそいそと出て待ち合わせ場所に向かった。


 駿と淳は画面を見入っていたが、駿は「おいおい!小さな俺が寝ているにも関わらず、家を留守にするなんて、それでも母親か?」駿の声には憤慨の感情が含まれていた。

「でも、虐待をしていたことで悩んでいたんだよ!誰にも相談出来ずにさぁ!」

「そうだよ!虐待するなんて酷い母親だよ!」

「違うよ!」淳の声がいつもより強かったので駿も黙らざるおえなかった。

「虐待する人の中にはどうしようもなく虐待してしまう人もいるんだ!そんな人たちは虐待することを抑えられなくて、そんな自分が嫌で嫌でどうしようもなくて悩んでいるもんなんだ!美恵さんもどうしようも自分ではコントロール出来ない悩みに、このままいたら虐待している残虐な自分に、そして自分が壊れて虐待マシーンの様になって虐待しても心も傷まない、そんな人になってしまいそうで怖いんだよ!」

「おまえ、虐待したことあるんだろう!随分、詳しいなあ!」

「僕が虐待?僕の子供は生まれてないよ。子供が生まれるところで急いでいて事故に遭って、今は手術台の上で生死を彷徨(さまよ)っているんだから虐待できようはずがないじゃないか!僕が虐待できるとしたら、画面を無神経に見ている僕の隣の変なおじさんにだけだよ!」

「それって俺のことかい?お前さんにおじさんって言われるのは(しゃく)だなあ。さらに変なまでつけられて!忘れたのか?お前と俺とは四歳しか違わないんだぞ!俺がおじさんならお前もおじさん!それに俺に虐待したら虐待し返してやるぞ!」

「はっはは、いやあ、忘れちゃいないよ。でも虐待し返せる人は虐待受けないよ。だから兄さんは安心していいよ!虐待を受けるのは、虐待されても仕返すことなんて出来ない弱い立場の人だけだよ!」

「だから頭に来るんだよ!あんな小さくて可愛い俺に虐待なんて!」

淳は隣のおじさんになった駿と画面の中で寝入っている駿を比べて「うん!昔は可愛かったんだね!いつからこんなになっちゃったんだろう?」と言った。

駿はムッとしながらも再び画面に見入った。


 同窓会で美恵は久々に楽しい思いをした。こんなに無邪気に笑ったのは久しぶりな気がした。同窓会も盛り上がってきたところで会は個々に酒を酌み交わしながら飲んでいた。

 美恵の隣には、高校時代に美恵が好きだった鈴木君が座って二人で話していた。「田村さん!今は赤木さんだっけかな?実はさあ、やっぱりやめとこう」と鈴木はもったいぶるように話すのを止めた。「何、鈴木君!言い出したら途中で止めるのはなしよ!」と鈴木のグラスにビールを注ぎながら言った。「じゃあ、言っちゃおうかな!実はさ、俺あの頃、田村さん!君のことが好きだったんだ!」と言った。「クラスの中で目立つわけでもなかったけど、なんかこう優しくて、君は気付かなかったかもしれないけど、男子の中で結構人気があったんだぜ!そんな君を好きな取り巻きの一人だったんだ、俺もね!」と軽くウィンクして言った。 美恵はドキドキしていた。美恵も好きだった鈴木君と両思いだったなんて驚いていた。

 時間が経つのは早いもので一次会はそろそろお開きとなり二次会に行く人を募っていた。鈴木が「二次会参加するのかい?もしよければ、久々に会ったんだから二人でもうちょっと飲んで話をしないかい?」と言い寄って来た。美恵の心は大きく揺れた。一次会だけ出席して家に帰るつもりでいた。でも鈴木君と募る話をしたい。このチャンスを逃せば、また子守りと家事に追われる毎日が待っている。もう真一も帰ってきてるだろう!もうちょっとだけなら大丈夫だろう。と考えた美恵は「いいわ、高校時代何故告白してくれなかったかも問い質したいしね!もうちょっとだけならね!」そして二人は二次会に行くみんなと別れて二人だけでジャズがゆっくりと奏でられるバーに行った。


 カウンターに隣り合って座って改めて乾杯した二人、美恵が鈴木に訊いた。「さあ、話してもらおうかしら!何故あの時告白してくれなかったの?」といった。「はは、厳しいね!あの時の俺は恥かしがりやでライバルを押しのけて君に告白するなんて出来なかったんだよ!今になって後悔してるけどね!」と茶目っ気を込めて言った。

 「私も言っちゃおうかなあ!」と思わせぶりに美恵は鈴木を試すにように言った。

「なんだよ!俺ばかりに言わせて!自分も隠し事があるなら言ってくれよ!」

「そうね!私も白状するとね、私も鈴木君が好きだったの!」とちょっぴり頬を染めながら言った。「あの頃の鈴木君って輝いてた。サッカー部で得点王、カッコよかったなあ!」と宙に目を漂わせ昔を振り返って言った。

「なんだ!そりゃあ嬉しいな!でも赤木さんは何故告白してくれなかったんだい?」

「告白なんて出来るわけないじゃない。そんなことしたらあなたのファンや親衛隊に殺されてたわよ!」と言って美恵は軽く笑った。

 バーで二、三杯カクテルを飲んだだけだったが、美恵は酔ってしまった。元々酒には弱い上に昔恋焦がれていた鈴木と会ってムードに酔わされてしまったのかもしれない、それとも鈴木に何か薬を飲まされたのか、美恵には分からなかった。

 いつのまにかカウンターに突っ伏して眠ってしまった。鈴木は「やはりこの薬の効き目は抜群だなあ」と言ってバーから美恵に肩を貸して連れ出すとタクシーに一緒に乗った。行き先は都内のシティーホテルだった。


 美恵はホテルのベッドに寝かされていた。まだ起きる気配はなかった。鈴木がシャワーを浴びてから、美恵の横に寝て美恵を抱きしめ美恵の着ている服を一枚一枚ゆっくりと脱がした。手馴れた様子の鈴木はあっという間に美恵の服を脱がしてしまった。ライトブルーのお揃いの下着を見ていると鈴木の鼻息が荒くなってきた。ブラジャーをするりと脱がしパンツも手で丸めながら脱がしてしまった。とうとう美恵は丸裸にされてしまった。その段階でも美恵はまだ眠りこけていた。鈴木は手と舌を使って美恵の体を隅々まで触り愛撫しだした。

 美恵は下腹部に痛みと違和感を感じて意識を取り戻した。うっすらと目を開けるとぼやけた頭の中で何が起こっているかすぐには判らなかった。次第に目の前の景色がはっきりと見えてきた。自分の顔のすぐ近くに鈴木の顔が見えた。ぼやけた頭で周囲を見渡し状況を把握した。

 美恵は突然目を見開き「止めて!止めてよぉ!」と両手を(づき)()ねて鈴木を押し返そうとした。「私には夫も子供もいるのよぉ!止めてよぉ!」と両手を突っ撥ね両足をばたつかせた。鈴木は「なんだよ!大人しく寝てりゃいいものを!起きちまいやがった!」と言って美恵の髪の毛を掴んでベッドに押し付けた。

 美恵は抵抗しても、鈴木の体をどかすことも跳ね返すことなど出来なかった。美恵は涙が出てきた。カッコ良く女の子の憧れで美恵自身も恋焦がれていたあの鈴木君に犯されるなんて!もしかして、高校時代に美恵のこと好きだったと言ったのも彼のテクニックだったのか?美恵は自分の愚かさに涙が出てきた。


 行為が終わって鈴木は自分だけシャワーを浴びてから「素敵だったぜ!また一緒に遊ぼうぜ!もうお前は俺から逃げられないんだからよ!」と言い残して先にホテルの部屋を出て行った。美恵はまだ泣いていた。やっと我を取り戻してシャワーを浴びて衣服を着てホテルの部屋を出た。街を彷徨いながらタクシーを拾って家に着いたのは朝四時ごろになっていた。

 振り乱れた髪をバッグに入っている櫛で髪をすいて口紅も差して精一杯の明るさを作って家に入った。真一も駿もとっくに寝ているだろう。起こさないようにしようと静かにドアを開けた。しかし、居間の電気は点いていた。居間に入ってみると、ソファーに真一が座っていた。

美恵は精一杯明るい声で「あら、起きてたの?」と声をかけた。

 「今までどこに行っていた?」響くように低い声が真一の口から発せられた。美恵は背筋にどっと冷や汗が流れ冷たくなるのを感じた。

「ああ、同窓会に行ってたの!メモに残しておいたでしょう!」美恵は明るさを損なわない様に笑顔のまま言った。

「今、何時だと思ってんだ!」いきなり真一の声は大きくなった。

「私だって、たまには羽目を外しても罰は当たらないでしょう!別にいいじゃない!私だって息抜きしないとやってられないわよ!」と美恵は声を荒げた。

「最低の母親だな!」

 思いもよらない言葉に美恵は(きょ)()かれたが「なっ何ですって?もう一度言ってみなさいよ!」と売り言葉に買い言葉で喧嘩口調になった。

「ああ、何度でも言ってやるよ!おまえは最低の母親だ!熱のある駿をそのままにして自分は遊び歩いてきて、さぞ楽しかっただろう!」真一は投げ捨てるように言った。

駿が熱があると言われて美恵はトーンダウンして心配そうに訊いた。

「しゅっ駿がどうかしたの?」

「俺が帰ってきたら高熱を出して寝ていたよ!医者に連れて行って、なんとか真夜中でもやっている小児科病院を探して駿を診てもらったよ!今は薬と注射で寝ているよ!」

美恵は言葉も出なかった。それを見て駿はゆっくりと続けた。

「さらにな!医者に診てもらうんで、駿を着替えさせたが、駿のお尻に無数の蚯蚓(ミミズ)腫れがあってな。医者の話では何かで何度も叩かれた痕だろうって、しかも塗り薬が塗られていたから今日叩かれたんだろうって。その叩かれたお尻が熱を持って体全体が高熱になったと言っていたよ!おまえがいながら、あの傷は何だよ!あんな傷を負った、まだ二歳の子供を放って置いても、出かけないといけないほど大事なものなのかい?お前さんの同窓会は?」

 真一は駿のお尻の無数の蚯蚓腫れが美恵によるものだと断定して美恵を責めることはしなかった。駿のお尻の蚯蚓腫れを見た医師は「虐待の可能性があります」と言った。当然、真一が虐待をしていると疑われた。だが、真一が「知らない」と応えた素振りは演技ではなく本当に知らないものだと医師は見て判断した。

 「お父さんでなければ、お母さんかも知れません」と医師は言った。確かに美恵は今日ずっと一緒にいたはずだ。もし虐待ではなく怪我しているのを知っていたら出かけなかっただろう。駿のお尻に塗り薬を塗ったのは美恵に違いなかった。するとやはり美恵が虐待をしているというのは、可能性として一番高い。

 医師はさらに続けた。「お父さんがお母さんから子供への虐待を阻止出来ないならば、お子さんはご両親から離して虐待に会わないように施設で保護することになります」と言った。真一は驚いて「もう絶対こんなことさせませんから!」と医師に約束したのだった。真一はそんな医師の話は美恵には話さない様にした。

 美恵は頭から血の気が抜けて貧血で倒れそうな感じがした。頭が大きく前後左右に揺れているような感覚だった。真一はショックに呆然と立ち尽くしている美恵を居間に残して自分の部屋に戻って行った。居間を出る際に「もう君には駿を任せられないな!」とだけ言い残して居間を去って行った。


 真一と美恵の仲はそれまでも頻繁に口喧嘩をしていたが、その一件以来、全く口を利くことがなくなった。真一は駿の世話の全てを美恵から取り上げて、お手伝いさんを雇って任せるようにした。これは真一の感情もあったが、それよりも医師に言われた虐待の恐れがある美恵から、駿が虐待に会わないように遠ざける意味もあった。そうして美恵は家に居ても何もすることがなくなってしまった。

 皮肉なことに美恵が駿の世話に追われている時、愚痴をこぼしていたように「私にだって駿の世話から離れて気持ちをリフレッシュしたい」という時がやって来た。但し、駿の世話から一時だけでも離れたいという三重の願いだったが、今の状況は駿の世話から全てにおいて離れることを意味していた。

 駿は美恵から離されても「ママ、ママー」と何度も追いかけていたが、その度にお手伝いさんが食事やおもちゃで美恵から引き離した。真一からの指示だった。家にいながら母として役目がない母親失格の状態に美恵は耐えられなかった。自分が母親失格の烙印を捺されたかの様に感じていた。


 そんな時に鈴木から電話があれば出かけていってホテルに行くようになった。最初はレイプだったが、その後は美恵自身が求めたものだった。それは真一にもやがて気付かれた。そして、あの駿が熱を出して寝ている時も、鈴木と会ってホテルに行っていたことが判った。

 何故、真一にばれたのかと言うと、鈴木が直接真一に話したのだ。鈴木は美恵を真一から離し自分のものにしようと思っていた。そこで、あの時のホテルでの話を直接真一に電話で話したのだ。鈴木は話の中で、レイプという言葉を使わずに「一緒にホテルでベッドを共にした。誘ってきたのは美恵さんの方だ」と言う様に話を曲げて脚色して話していた。

 既に冷たい関係になっていた真一と美恵だったが、真一がその鈴木からの電話について問い詰めると美恵は隠すこともなく認めざるおえなかった。そうして二人の気持ちは一致して、自然に離婚話はまとまったのだった。


 そこで駿と淳が見ていたモニターの画面が砂嵐の様になりドラマが終わった。

画面に食い入るように見ていた駿の目には涙が浮かんでいた。今まで知ることもなかった駿の産みの親が何故駿を捨てたのか。これではっきりした。

淳が駿の気持ちを代弁して言った。

「兄さんのお母さんは、男を作って兄さんを捨てたと思っていたけど、どうやらそんな簡単な理由ではなかったみたいだね!」

駿は淳の言葉に目に溜まっていた涙が頬を伝って流れ出した。母多恵の葬式の時に駿が流した涙とは明らかに違っていた。

「母さん、ごめん!俺、ずっと母さんが俺を捨てたと疑ってたよ!母さんも辛かったんだね!そんな母さんの気持ちを判るどころか察することもなかったよ。本当にごめん!」と言って駿はまた涙を流した。そんな駿を何も言わずに淳は暫く見つめてぽつりと言った。

「真一父さんは美恵さんのことをずっと誤解していたのかもしれないな!でもずっと気に掛かっていたから、兄さんに真相を掴んできてもらいたかったのかも知れないね!本当のことは全く解らないしけどね」

駿は何も言えなかった。


 しばらく考え込んでいた淳は思い出したように駿に尋ねた。

「そうだ、兄さん!兄さんがこの時代を見たいと願ったのかい?」

駿はゆっくりと顔を上げて、質問の意味を理解するまで数秒かかってから「違うよ!俺が何かしたんじゃなくて勝手に……」

 駿の言葉を淳は途中で遮って「いや、もちろん兄さんがここに連れて来たなんて言ってないよ。兄さんがそんなこと出来たら兄さんは楽せずお金持ちになっていただろうからね。ただね、最初は父さんと母さんが僕たちに旅をするように言ったため、三十四年前の時代に行ったのは判るけど、この時代には父さんや母さんの意思は関係ないと思うんだ!特に母さんは夫の前妻の存在にそんなに気を払うわけないしね。父さんにしても本当に美恵さんの真相を知っていたのかどうか分からないしね、むしろ兄さんが産みの母親のことを知りたいと強く願ったからここに来れたと思うんだ。もし、兄さんが強く願ったからここに来れたんだったら、僕もちょっと行って見てみたい時代があるんだ!」

「まあなあ、無意識に俺がそんな能力を発揮していたら、自分でもびっくりするくらい俺って実は凄い奴なんだって自慢してるがね!時を駈ける()青年(・・)としてね!でも本当にそうは思ってないんだよ、まあ無意識にもそう思っていなかったとは言えないがね!」

「青年ではなくて中年でしょうよ!まあ、いいよ!僕らがここで知るべきことは知ったみたいで、この時代ともお別れみたいだから、駄目で元々で強く行きたい時代を願ってみるよ!」

「願ってみるよって、お前タイムマシーンみたいに自分の意志でタイムトラベルしてるんじゃねえぞ!俺たちは」

「ほら、そろそろ例の透明人間化が始まっているよ!」

淳は自分の手を見ながら言っていた。淳の方を見ると、既に足の方は完全に消えていた。

「足がない男の幽霊みたいだな。そうか!幽霊は、皆このようにタイムスリップする瞬間の足だけ消えて体がまだ残ってる状態を見た人が言い伝えたものかも知れないな!」

「僕たちは手術をしても助かっていないかもしれないから、幽霊みたいなんじゃなくて、本物の幽霊(・・)かもよ!」

そんなことを話しているうちに淳は全身が全て消えてしまった。駿は上半身だけが消えているので、下半身だけがまだ残っていた。「上半身が先に消えてしまった。下半身だけが残っている。下半身だけを見ても幽霊と言われるのかな?なんかかっこ悪い幽霊だなぁ!それにしても何で俺は下半身だけが残ったのかな?俺の下半身にはこの時代に未練があるのかもしれないなぁ!うーん」などと独り言を言っている内に下半身も消えた。


 淳は先に行って駿を待っていた。今度はモニターがなかった。モニターなど必要ではなかった。画面を見なくても、駿と淳は画面の中にいた。

「わっ危ない!」駿はタイムスリップした瞬間に目の前に車が突っ込んできた。避けるに避けられず駿は咄嗟(とっさ)に目を閉じた。

「やあ、兄さん!いらっしゃい!」と淳は明るく駿を出迎えた。

「いらっしゃいじゃないだろう!こんな交差点のど真ん中で待ち合わせした覚えなんてないぞ!」

「いやあ、僕だってないけど大丈夫だよ!見てごらんよ!」

そう言っている間にまた車が突っ込んできた。車は猛スピードで二人の体を通り抜けて去って行った。

「ここでは、僕らの姿は皆に見えないし触れることが出来ないらしいんだ!」淳はそう言いながら歩行者用信号が青になって人の波が押し寄せてきても、人々は二人を通り抜けて素通りしていった。人間が自分の体を通り抜けていく変わった光景と気色悪い感触に「うわあ!」と駿は大きな声を張り上げたが誰にも聞こえないようだった。

「でもこれなら幽霊っぽくていいなあ!画面を見るよりもずっと臨場感があって人間らしいしな!」

「やはり日頃の行いの賜物(たまもの)かな!もちろん僕の!」

駿は肩を(すく)めて敢えて突っ込まないでおいた。

「それでターゲットは見つけたのか?」

淳は言葉の代わりに顎でしゃくった。淳が顎でしゃくった方向を見ると多恵が小さな男の子の手を引きながら歩いてきた。多恵は以前淳が二歳の時に会った姿より幾分疲れがなく若々しく見えた。淳は四歳の時より一段と小さくなっていた。二人は早速多恵と男の子の後を追った。子供の淳はちょっと歩いては「すぐ抱っこー、抱っこしてー」と多恵の手を引いて甘えていた。

「ここはいつの時代なんだろう?」と駿は訊いた。

「おそらく僕が二歳の頃だと思う」と言った。

「何でわかるんだよ!」

「僕が強く願ったからさ!この時代は僕がどうしても来て知っておきたいことがあったんだ!」

「お前が二歳の時って、まさかお前の父親が死んだと言われている日のことか?」

淳は駿の顔を見ながらこっくりと頷いた。

「おいおい!いいのかぁ。お前の父さんがどんな死に方をしたかなんて知りたいのか?」

「もちろんだよ!知りたいに決まってるだろう!なんとしても」


 多恵は子供の淳を抱っこしながら「仕方ないわねえ」と言いながら抱っこして歩いた。多恵と子供の淳が帰るアパートは以前確認したアパートと一緒だった。多恵は淳を降ろしてドアを開けて入っていった。駿と淳は便利なことにドアや壁をも通り抜けられる。この時代における駿と淳の特技と言ってもいいものかもしれなかった。何の苦もなく部屋の中に入ることが出来た。淳は一人で遊んでいた、多恵は夕飯の用意をしていた。


 「お前さあ!親父さんの顔知らないんだよな!きっとお前に似て変な顔なんだろうなあ。だってお袋の多恵さんはかなりいい女だもんな!」

「大きなお世話だって!兄さんこそ不思議だよ!父さんも先ほど見た美恵さんもなかなかの顔をしてるのにどうして兄さんだけ……兄さん、本当にあの二人の子供なの?」

「うるせえやい!」


 そこへ、ドンドンドンとドアが乱暴にノックされた。

「どなた?」と多恵が言うと、ドアの向こうでは「俺だ!俺だ!」と言っていた。ドアが開けられ入ってきたのは、リーゼントの髪にラメが入ったスタジャンを着ていた、いかにも昔のチンピラ風の若い男だった。「ちきしょう!パチンコで二万円すっちまったぜ!」と言ってどっかと腰を落とした。

 二歳の淳が「パパー、パパー」と今来た男にじゃれついていた。どうやらこの男が淳のパパらしかった。

「ちょっと、あなた、またパチンコに行ったの!止めてって言ったでしょ!私たちにはギャンブルやってるお金なんてないのよ!判ってるでしょう!」

「うっせえなあ!パチンコはギャンブルじゃねえよ!ちょとした娯楽だって。それに勝つ時だってあるんだぜ!」

「いい加減にしてよ!定職も持たずにフラフラして、もう淳も二歳なのよ!これからどんどんお金がかかっていくのよ!それなのに、私たちの貯金なんてほとんどないじゃない!私がパートで働いて得たお金だけじゃ到底暮らしていけないのよ!」

「俺だってちゃんと稼ごうとしてるんだけどよぉ。なにせ不景気だからよぉ!」

「何よ!いつもそうやって何かのせいにして!景気なんて関係ないでしょ!大事なのはあなたのやる気だけでしょ!どうしてやる気を出してくれないの!結婚する時にあなたは何て言ったの?何て?」

 淳は父の名前が幸一(こういち)という名前であることだけは知っていたが、その他のことは何も知らなかった。淳が二歳の時に死んでしまったとしか教えられていなかった。写真もなければ何の痕跡もなかったので、なんとも不思議に思っていたが、母に追求することは出来なかったのだ。


 幸一は子供の様に叱られて口を(とが)らせていた。だが言い返すことも出来ずに黙っていた。

「あんたはねえ!私を幸せにするって言ったのよ!たとえ今は金のないチンピラでもきっと定職についてしっかりと()(とう)に働くって約束したのよ!子供が出来れば少しは変わると思ったのに、その子供も二歳になっても何も変わらないし変えようともしない。もういい加減にしてよ!」と多恵はヒステリックに叫んだ。

 幸一は「おっかないでちゅねえ!ママはヒステリーを起こしちゃいましたねえ」と言いながら淳の脇に手を入れて淳を持ち上げてあぐらをかいた膝の上に載せた。淳はチョコンと幸一の膝の上に座った。

「そうやっていつも逃げてる!逃げていれば何も現実を見なくていい。でもそんなの嘘、嘘の世界から出て来ようともしない。あんたは弱虫よ!いつも逃げてばかりの弱虫よ!」言葉の最後の方は、多恵は泣き叫んでいた。

「うるせえなあ!言って良いことと悪い事があるだろうがぁ!俺だって稼ぎがあった時は金を家に入れてんだろうがぁぁ!大金を何度かよー」

多恵は鼻水を(すす)って少しだけトーンダウンしてから「確かに何度かお金を入れてくれたことがあったわね!でもそのお金どうやって作ったのよ!誰かから巻き上げたのか知らないけど、どうせ真っ当に稼いで得たお金じゃないでしょう!しかも家に入れてくれたお金より、パチンコだとか兄貴に渡すだとか何だとかって出て行ったお金の方が多いじゃないの!」

「しょうがねえだろう!そんなもんなんだよ、この世界は!恨むなら、こんな俺と結婚したおまえ自身を恨むんだな!お前が結婚してくれ!ってしつこく頼んだんだからな!」

「冗談じゃないわよ!あんたのおかげであんたの子供が出来ちゃったんじゃないの!結婚してパパとママがいる家庭を作ってあげないと生まれて来た子供が可愛そうだったじゃないの!」

「ふざけんな!そんなの子供をおろせば良かったじゃねえか!それを生みたいと言って産んだのはお前だろ!人のせいにしてんじゃねえよ!」と言って淳を持ち上げて膝の上から降ろした。

「もう出て行って!あんたなんか出て行ってよ!」多恵は泣き叫んでテーブルの上にあった灰皿を幸一めがけて投げつけた。灰皿は幸一の(ひたい)にものの見事に命中した。幸一は灰皿が当たったショックに頭を後ろに大きく()()らせた。

 そしてゆっくりと前に頭を戻して「痛え!」と言って手を額に当てた。手にはどろっとした赤い液体がついた。額から出る血はぽたぽたと流れ落ちる程の大怪我となった。一瞬の内に幸一の眉毛と目が釣りあがり顔が険しく怖い顔へ変わった。


 「痛え、痛えなあ、このアマァァ!」と言うやいなや、幸一は多恵に飛び掛かり多恵を組み敷き、パンチを数発浴びせた。多恵は力では適うはずもなく、顔を打たれないように手で顔を覆うのが精一杯だった。怒りに顔を鬼のようにした幸一は、その多恵が顔を庇っている手の上からお構いなしに殴りつけた。 

 二歳の淳が「ママを苛めないで!」と泣き叫びながら幸一に掴みかかっていった。「邪魔なんだよ!離れてろ!」と言って幸一は二歳の淳を手ではね飛ばした。淳は台所から居間の方まで飛ばされて転び大声で泣き出した。

 それを目の端で捉えた多恵は「何すんのよー!まだ小さな子供に!」と自分の顔を覆っていた手で組み敷かれた下から幸一を殴り始めた。多恵の形相は髪を振り乱し般若(はんにゃ)面の様になっていた。多恵の思いもかけぬ反撃に幸一は怯んだ。

 多恵が幸一の上になり半狂乱になりながら「馬鹿!馬鹿野郎!」と叫びながら幸一を殴りつけた。幸一はそんな多恵に組み敷かれて殴られたことから、怒りは治まることなく益々強くなっていった。 

 「この野郎!」と力ずくで多恵を足ではねのけた。多恵は飛ばされ食器棚にぶつかった。上から食器が数枚落ちては割れた。多恵はぶつかったショックでぐったりしてしまった。

「この野郎!」と血走った目で幸一はどしどしと多恵に歩み寄り多恵の顔面を足で踏みつけた。「偉そうに俺を見下した言い方しやがってよぉ!何様のつもりだ!」と言いながら足に力を入れた。足の下で多恵は為す術もなく「うう」とうめき声を上げた。口からは血が滲み出ていた。


 駿と淳はこの時ほど、自分たちの幽霊のような存在を歯痒く思ったことはない。駿と淳は、幸一と多恵が口喧嘩し始めた時から止めに入ろうとしていた。さらに取っ組み合いの喧嘩になってから、体を使って止めようと必死だった。

 しかし、駿も淳も幸一の体や多恵の体に触れることは出来なかった。触ろうとしても通り抜けてしまうのだ。「ちっくしょう!どうすればいいんだ!」食器や物を幸一に投げつけて失神させようにも物も掴むことが出来ない。

 為す術もなく母の多恵や二歳の淳が幸一に暴力を振るわれているのを見てるしかない。淳は「止めてくれよ!ちくしょう!」と言いながら目の前で何も出来ない歯痒さに涙を流していた。


 幸一と多恵の喧嘩の結末は以外なことで幕が降りた。二歳の淳が多恵の顔を踏んづけている幸一の足にしがみつき噛みついた。二歳の淳の弱い咀嚼力(そしゃくりょく)ではあったが、幸一は思ってもいなかった痛みに「痛え!」と言って、多恵の顔を踏んでいた足を離した。その際に幸一は大きくバランスを崩して食器棚に体ごとぶつかった。

 どしんと激しく大きな音がして、そして大きな幸一が激しく衝突したため、あろうことか食器棚が倒れてきた。食器棚には地震対策など何もしていなかったのだ。多恵は咄嗟(とっさ)に二歳の淳を抱えて食器棚から逃げた。ガッシャーン!多恵が淳を抱えて逃げたすぐ横を食器棚がもの凄い大きな音を立てて倒れてきた。食器が割れるものすごい音がした後、もわーと埃が舞い上がった。

 埃が治まって視界が開けてくると倒れた食器棚の下から幸一の足が見えた。幸一は倒れてきた食器棚の下に挟まれてしまったのだ。多恵は叫んだが、多恵の声は叫び疲れて枯れてしまっていて、叫んだつもりがハスキーな声が出ただけで、部屋の外には聞こえない程度の小さな声にしかならなかった。もう一度、大きく息を吸い込み、「キャァァァァl!」と大きな声をあげた。


 多恵は落ち着きを取り戻し、急いで一一九番に電話して救急車を呼んだ。救急隊員が来てから、大の男が二人掛かりで食器棚を起こし、下に潰されている幸一の体を引き出した。幸一は割れた食器に全身を切っていたが息はあるらしかった。多恵も酷い顔で割れた食器により体のいろんな所から血を流していた。淳も血こそ出していないが、幸一に手ではね飛ばされた時に頭を打っていた。三人とも病院で入院することになった。

 淳は頭の精密検査をした結果、異常はないとのことだった。ただ以降何かトラウマになるかもしれないので注意が必要だと医師が話していた。多恵は全身に打撲や切り傷を作っていたが全治一週間で治るということだった。傷はしばらく残るがやがて消えると言われた。幸一は生死の狭間を彷徨っていた。


 駿と淳は気付かれることなく救急車に一緒に乗って病院に行っていた。そして、最初に淳君の容態を見て多恵の容態を見て医師の言葉から大丈夫そうだという事を聞き、幸一の容態の方を見に行った。

 幸一の手術室では、駿や淳と一緒で幸一は自分の体を見下ろす位置に立って幽体離脱していた。駿が「あれ、俺たちと同じく幽霊になってるぞ!」と言った言葉に幸一は振り向いた。「あんた達は誰だ?」と言って近づいてきた。不思議なことに幸一には駿や淳の姿が見えるようだった。「あれ、俺たちのこと見えてるみたい」と駿はちょっと驚いたが、淳は何も言わず驚いてもいなかった。複雑な気持ちだったのだろう。俯いたままだった。

 「ちくしょう!どうしたって言うんだ!何で俺の体が!分かったぞ!お前たち、俺を迎えに来た死神だろう!」とあろうことか淳の胸倉を掴みあげた。幽霊同士もとい幽体離脱者同士は触れることも出来るらしい。駿が「ちょっと、あんた……」と興奮している幸一を淳から引き離そうとしたが、それよりも先に淳の拳が幸一の頬を殴っていた。バスッと鈍い音がして幸一は吹っ飛んだ。吹っ飛んでも物を通り抜けてしまうので遠くまで殴り飛ばされた。

「なっ何しやがんだ、てめえ!」

「あんた、しっかりしてくれよ!息子の僕が誇りを持てるような父親であってくれよ!」淳は下ろしている両手の拳を強く握り締めていた。淳の顔も興奮で紅潮(こうちょう)していた。

「息子って、俺の息子はまだ二歳だぞ!いい加減なことを言うな!」

 駿が割って入った。

「本当なんだよ!俺たちは未来から来たんだからな!この男は正真正銘のあんたの息子だよ!それよりも認める認めないに関わらず、あんたは死んだんだよ!見苦しいから認めた方がいいんじゃないの!あんたも“幸せ”という字が名前に含まれてる割に運が悪かったかもしれないけどさあ!まあ、人生、そんなものだよ!」

 「何を!そんなことあるもんか!そんな馬鹿なことがー!」

「ほら、よく見てみなよ!あんたの体は消えかかってるぜ!」

幸一は慌てて自分の体を見回した。既に空間の中に消えて半分以上は体が透けて向こう側が見える状態になっていた。手術室の無影燈がまばゆいくらいに光り輝いた。その光の中に幸一は吸い込まれていった。「ちょっと待て!まだ死にたくない。まだぁぁ」幸一は光に吸い込まれて声も聞こえなくなった。


 手術室の上の幸一の体につけられた心電計は大きな波形を一定のリズムとともに映し出していたが、波形が弱弱しく小さくなり、やがてピーという音と共に波形がなくなり一直線になった。医師の一人が、幸一の瞳孔に光を当て脈を見てから時計を見た。「8時55分ご臨終です」と言った。手術室の中に冷たい風が吹いた気がした。

 駿は「まあ、俺たちもすぐそっちに行くことになるかもしれないから、寂しくないぞー!」と声をかけた。淳は黙っていたが笑顔を取り戻して「父さん、僕がそっちに行ったらゆっくりと遊んでもらうよ!なんてったって父さんは僕が二歳の時に逝ってしまったから全く遊んでもらった記憶が残ってないからね!」と声をかけた。


 「でもよ、お前も凄いねえ!二歳で父親に噛み付いて母親の危機を救ったんだからなあ」

「ああ、噛み付いたおかげで食器棚が倒れて父さんが死んだんだから、僕が殺したようなものだね!それを思うと辛くなるよ。だから母さんは父さんの遺品も写真も何もかも全部始末したんだな!やっと分かったよ。僕が辛い思いをしないように、思い出させないようにしてくれたんだ!確かに間接的に父さんを殺してしまったことは辛いことでも、僕はそれでも知らずに死んでいくより、知ることが出来て良かったと思うよ!たとえ知ることが辛くても、事実を知ることから逃げていたくないからね」

「そうかあ、よく吹っ切れたなあ!さすがだよ、お前は!それにしてもこれで俺たちは元いた時代に帰れるのかなあ?」

「それは分からないよ。まさに神のみぞ知るだよ!」


 「うーん、そうだな!なるようになるしかないな?しかし、親父やお袋のこと、特にお袋のことをとやかく言っては嫌っていたけど、俺も全く駄目な父親だったよ。全く人のこと言えないよ」

「そういえば、兄さん離婚したんだってね!」

「ああ、俺が仕事一筋で家族を(かえり)みなかったからなんだ。妻は男を作って離婚、娘は援助交際、息子は(いじ)められる子の気持ちも分からない苛めっ子だよ。そしてとうとう何も出来ないまま家庭崩壊だよ。そんな俺は親父やお袋の悪い所を真似ちゃったのかもしれないなあ!このまま帰って死ぬだけなら仕方ないが、もう一度家族をやり直せないものかなあ!このタイムスリップで家庭崩壊になる前に戻って仕事だけのワーカホリックの時間を少しでも家族のために使ってやれたらなあ!」

「それは無理だよ!それでは過去が変わってしまう。兄さんも分かってると思うけど出来ないし許されないことだよ。僕らがこうして過去に出現しているのでさえ許されないことかも知れないからね。でもね、でも過去は変えることが出来なくても、これからやり直すことなら出来るかもしれないよ!」

 駿は真面目な顔になって「いい加減なこと言うなよ!家庭崩壊してしまったんだぞ!さらにお前も俺も幸一みたいに死んでしまうかもしれないんだぞ!やり直せるわけないじゃないか!これも俺の運命ってやつだったのかもしれないよ。最後にお袋のこと、そして淳お前に抱いていた嫌悪感や憎しみをかき消すことが出来ただけでも良い人生だったと思うよ。これ以上望むのは贅沢ってもんだ!そうだろう?お前こそ、結婚して子供が出来る時だったんだろう?おまえこそ未練はないのか?」

 淳はしばらく黙っていた。そして考え込むように「未練がないわけないじゃないか!定期的に収入が入るようになって収入も右肩上がりで、結婚してやっと子供が出来て幸せの絶頂という時だったんだ。絶対に死ねないよ!生きてやる。妻や生まれてくる子供のためにも生きなきゃいけないんだ!」

強い調子の淳の言葉に駿は言葉を失い、ただじっと淳の顔を眺めてから軽い気持ちで言った。

「もしお前が死んで、俺が生きるようなら、出来る事なら俺の命をお前にやるよ!俺よりお前の方が生きてる価値があるだろうからな!」

淳は「ふざけるな!」と叫んで駿を殴っていた。

「ふざけるな!他人の命なんかいるもんか!僕は僕の命を生きるんだ!兄さんの命をもらって生きたところで何が嬉しいっていうんだ!命を馬鹿にするな!」と言って怒鳴った。

 駿は殴られた頬を抑え、叱られた子供の様に俯きながら謝った。「悪かったよ!ついお前の方が家族に必要とされてるだろうから、お前が生きる方がいいと思ったんだよ!俺は家族に愛されるどころか(うと)んじられてるだけだからな!」

 淳は笑顔になって「兄さんには円満な家庭を取り戻す責任があるじゃないか!それにきっと兄さんの家族も兄さんを愛しているよ!いろんな障害を乗り越えて(きずな)が深くなっていくもんだろう、家族って!僕たちは子供の頃の僕たちの家族から学んだじゃないか!だから自分の命をあげるなんて言うなよ。二人で生きようよ!まだ死ねないだろう、僕らは!」と言って淳は駿に暖かい微笑みを与えた。


 「そうだな!、お前も俺もまだ死ねないな!生きてやらないといけないことも沢山(たくさん)ある。それにお前とまた喧嘩してみたいしな!子供の頃、お互いに遠慮して出来なかったが、お袋の葬式の時に初めて殴り合いの喧嘩したよな。生きてまたいつかやろうな!喧嘩が好きなわけじゃないけど、お互いに遠慮して他人行儀に生きるよりは、ずっと情熱があるし温かいものを感じるよ。またじいさんになってもやりたいものだ。お前もそう思うだろう?」

「それはいいね。確かに子供時代は喧嘩をすることなく話したりといったコミュニケーションもほとんどなく、本音を言い合う訳じゃない。表面上は何の争いがなくても、心の中では嫌いで憎しみを抱いていた時より、喧嘩の後の方がずっと楽しい感じがしたよ。でもおじいさんになってまで喧嘩するのは勘弁願うよ。骨が(もろ)くなってるだろうから、ポッキンポッキン骨を折られたんじゃ入院費が高くつくからね!」

「はは、そうだな!違いねえ!」

そう言って二人は、よぼよぼのおじいさんになって喧嘩している姿をイメージして笑いがこみ上げてきた。二人は顔を見合わせて思いっきり笑った。

「確かにじいさんになってから骨を折りながらやるもんじゃないな!喧嘩は。恰好(かっこう)悪いもんな!」

笑って二人は顔が(ほぐ)れて笑顔になった。


 「さあそろそろ帰ろうか?」と淳がどこか清清(すがすが)しい顔で言った。

「帰るって、どうやって?俺たちは俺たちの意思でここに来たんじゃない。俺たちの意思では帰れないだろう!」

淳はニヤッと笑って「最初の時間移動こそ僕たちの意思で移動した訳じゃないけど、この時代に来る前に兄さんに訊いたよね。『兄さんが強く願って、兄さんが二歳の時代に行けたのか?』って、それで僕も試してみたんだよ!だから今、僕たちはこの時代にいる。僕が強く願ったからだよ。強い意志を抱けば、今の僕たちは好きな時間に移動することが出来るんだよ!」

「ああ、そうか!って、俺が二歳の時代に移動した時、お前は願っていなかっただろう?それに淳、お前が二歳の時代に行く事を、俺は願っていなかったが来たのはどうしてだ!」

「このタイムトラベルは、兄さんか僕かどっちかが強く願えば、もう一方は付属品の様に付いて来るんじゃないかな!」

「そんないい加減な……!それに俺はお前の付属品か!」

「今度は二人が僕らがいるべき時代のあの手術室を強く願えばきっと戻れるよ!」

「そんなものなのか?一人だけ願っただけではダメなのか?」

「そんなものかどうか僕にも分からないよ。ただ結果はどうあれ試してみるだけだよ!それに二人が別々のこと考えていたら戻れないよ。なにせ今度は三十六年も未来に行かないと行けないんだから」

「うん、分かった。急にやる気が出てきたぞ!強くあの手術室を願えばいいんだな?」

駿の確認の質問に淳は答えなかった。淳は既に目を閉じて集中している。淳は既に半分くらい、体が透き通っていた。

「ちょちょっと待て、淳!おまえ、ずるいぞ!俺を置いていくことないだろう!冷たい奴だな、お前は!昔はそんなじゃなかっただろう!まあ、昔からか!」

淳の体は消えていた。空間から「兄さんも早くしなよ!置いていくよー」と淳の声がこだました。

「置いていくよって、もう置いてってるだろうが……、全くもって兄貴思いの善い弟を持ったもんだよ、本当に!俺も早くしなくちゃ!時間の中で迷子になっちゃうよ。強く願えばいいのか!」

駿は目を閉じて手術室のことを考えようとしても雑念が多く集中出来ずにいた。

「ええい、ちくしょう!余計なことばかり考えてしまって集中出来ないよ。もうなるようになれ!」

と忍者の様に、両手の人差し指と中指を立て片方の指をもう一方の手で握り「えい!」と気合を入れると駿の体は一瞬にして消えた。空間から「下らないと思ってもやってみるもんだなあ、あっと言う間に時間を移動してるよ!忍者はやっぱり偉かったんだなあ!」


 駿の姿が現れると淳は手術室の前で待っていた。

「遅かったじゃない!」

「どのくらい待った?ってデートの待ち合わせでもあるまいし、さてこれからどうするかだな?」

「手術を受けてる体に戻らないと始まらないよ。それから生き返るか死ぬかは、もう僕らにはどうしようも出来ない。生きられるように神様にでも祈るしかないよ!」

「祈れば助かるのか?」

「信じる者は救われる!」

「おまえ、変わったなあ!おまえがこんなに大雑把(おおざっぱ)だったとはちょっとびっくりだな!」

「まあね、万物は変わっていくからね。さあ!無駄口はこのくらいにして、それぞれの手術室に戻ろう!」

「でもお前、自分の体にどうやって戻るんだ?」

「自分の体を抱きしめてやればいいんじゃないの?なんならキス(・・)でもしてやれば!愛情を込めて!」

「おまえ、本当に変わったな!」


 二人はそれぞれの手術室に入って行った。駿は手術室のドアを通り抜けると、懐かしいシーンが待っていた。そうだ、この状態から始まったのだった。この時代では全く時が進んでいないようだった。あの幽体離脱して手術台の上に寝ている自分の体を見てびっくりした時と同じだ。

 「それじゃあ、いよいよ戻るか!」駿は気合を入れ、淳に言われた通り手術台の上の自分の体の上に乗って抱きしめた。手術を受けている血だらけの体を抱きしめるのは、いくら自分の体とはいっても吐き気を(もよお)しそうだった。それでも我慢して自分の体をきつく抱きしめ、そして優しく抱きしめたが自分の体に戻れなかった。 

 「戻れないじゃないか!淳もいい加減だからなあ、まあ淳も知らないのだから仕方ないか!」そして、淳がキスといったことを思い出した。自分が自分の体にキスすることを思い浮かべると気色悪くなる。「本当にキスしないといけないのか?まあ、キスよりもさらにといったら変態だけど、キスならまだいいか!」と言って、顔中に怪我があり血の気の失せた自分の顔を見つめながら、目を閉じて唇を尖らせ寝ている自分の体の唇に近づけた。距離感と方向を確かめるために、そこで目を開けてしまった。そこには目の前に自分の顔が迫っていた。

 「うおぉっと、やっぱ出来ねえよ、普通出来ねえよ!気味悪い。この体、いきなり目とか開けないだろうなあ。しかし、そう言っていてもいられないな!よしもう一度だ!」今度は近くまで目を開けて、直前で目を閉じて勢いのまま唇を寝ている自分の体の唇に合わせた。すると唇には何の感触もなく、体の中に自然に吸い込まれていった。

 

 自分の体にキスをして体に戻る時、眩しいばかりの光のトンネルを通っていた。光の中を黒い人影がこちらに歩いてきた。眩しくて顔がまともに見れない。すぐ近くまで近づいてから、その人影は父の真一であることが分かった。そう始まりは真一に言われてタイムトラベルに行ってきたのだ。「どうだった?自分を知る旅は?」と真一は笑顔で訊いてきた。「まあ、良かったよ!なんか自分の知らなかった生い立ちなんかも知ることが出来たし、淳と一緒で楽しい旅だったよ!ああ、そうそう俺を産んでくれた母親のことについてだが……」と応えたところで真一が遮った。

「解っているよ!多恵には私の気が回らないことがあってすまないことをしたと思っているよ!お前の旅行での出来事は全て見ていたのでな」

「知ってたなら訊かなきゃいいのに!」

 駿は少し心配になって「俺は死ぬのか?それとも助かるのか?」と訊いた。真一があの世に自分を迎えに来たのかと思ったのだ。「お前にはまだ生きてやることがあるだろう!お前の家族の心を取り戻して素晴らしい家庭を築くという使命があるだろう。まだ連れて行くわけには行かんだろう!」と真一は笑顔のままで言った。

「有り難い!俺も自分の責任を果たさないと死にきれないよ!早苗にも香澄にも徹にも問題が起きて、話そうとしても無視されるので、居心地悪くて家庭から逃げていたんだよ。問題を誰かのせいにして自分には何の問題もなかったと思って自分が解決すべき問題から逃げていた。離婚を言い渡されたのは俺だったけど、その前から自分の家族から、逃げていたのは俺の方だったと思うんだ。今度こそ逃げずに真正面から家族の問題に取り組むよ。出来るはずさ!小さかった俺でも家族になろうと努力していたんだ。『問題から逃げるな!立ち向かえ!』てな感じで今では家庭の問題を解決することにワクワクしているよ。ところで、親父が俺に分からせようとしたことは何だったんだ?」

「それはお前が無意識の内に掴んでいるよ!」

「そうか!そんなものなのか!そうだ!淳は?淳はどうなんだ?大丈夫なのか?」と駿は訊いた。その駿の質問に真一はニッコリと笑った。「そうか!良かった。淳も生きられるのか!」と駿は笑顔になった。そして真一は来た時と同じように、後ろ向きにまた光の中に遠ざかって行こうとするのを見て、駿は「待ってくれ!最後に一つだけ言わせてくれ!ありがとうー、親父!」

 麻酔が効いているので体を起こせないが、手術台の上の駿の体の左手の指がかすかに動いた。手術は無事終わった。手術は長時間に及んだらしいが成功だった。

 

 駿は意識を取り戻すと病院のベッドの上にいた。白い天井がぼやーと見えて、段々と視界が広がって、ぼやーと見えていたものがしっかりと見えてきた。誰かが顔を覗き込んでいた、視界がはっきりしてくると頭にチョコンとしたピンクのナースキャップをかぶった若い女性の看護師だった。

 「先生、意識が戻りました」と言って医師を呼んだ。呼ばれた医師は駿の顔を覗き込み「赤木さん、気分はいかがですか?」と訊いてきた。「最高とはいえないかな!」と応えると「そのうち、気分も良くなりますよ。じっくりと焦らずに頑張って治して下さい」と言って立ち去ろうとする背中に「先生、淳は?」と駿は訊いた。

 看護師と医師は顔を見合わせている所へ、駿は「淳、赤木淳です。私と一緒にこの病院に運ばれてきたと思うのですが……」と言い直した。「よくご存知ですね!」と言う医師に「彼は私の弟なんです。彼はどうしてますか?」と訊いた。医師は看護師の顔を見合わせ、看護師が代わりに「彼も大丈夫ですよ!」とだけ応えた。そこで安心した駿はまた眠りについた。


 淳が体に戻る場合も駿と同様だったが、キスはしないで体に触れるだけで体に戻った。光の渦から母多恵が出てきた。多恵は優しい微笑みを浮かべて「どうでしたか?過去への旅は?」と訊いた。

「自分を知ることが出来たよ!兄さんと路上漫才なんかもやったりして楽しかった。憎しみや恨みを抱いていたけど、そんなことを抱いていても、自分自身が不幸になってしまうだけなんだね。今回の旅で判った気がするよ。そして母さんに一つ謝ることがある」

「何ですか?」

「母さん……、母さん、ごめん!僕の血の繋がっている父さんさんを間接的にとはいえ、殺してしまったのは僕だったんだね!そのせいで母さんに辛い思いをさせたと思う。女手一つで育てることになってしまって……」と言って多恵に向かって頭を下げた。

「そうですか、知ってしまったのですね。知ればあなたが苦しむと思って、父さんを思い出す物はあなたの目の届かない所に閉まっておいたのですが……。でも間接的にでも、幸一は、あなたのお父さんはあなたのせいで死んだんじゃありませんよ。それにその事で私はあなたのことを恨んだことはありませんよ。むしろ、あなたが私を助けてくれたんですもの。恨むどころか、あなたが育っていく姿を見るのはいつも私の楽しみの一つでしたよ。ありがとう!あなたがいてくれたおかげで生活に張りがありましたよ!」

「母さん、母さん、僕の方こそ母さんの子供で良かったよ。ありがとう!あっそれから、兄さんは、兄さんは大丈夫なの?」

多恵はニッコリと微笑んで光の(うず)と共に消えていったのだった。

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