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過去への旅

「自然な家庭_2_A」


過去への旅

 二人はどこに行く当てもなかったが病院を出て街に出ることにした。街を歩きながら二人は何か違和感を感じていた。もちろん、病院の周辺は知らない街だが、知らない街にしても街の風景が何かいつもと違っておかしい感じがしていた。だが何がおかしいのか具体的に解らずにいた。手術室を出てから病院の中を歩いている時も感じたが、何がおかしいか分からなかった。だが、街並みを歩いていると何かがおかしい。看板や人のファッションが古臭い感じがした。公園のゴミ箱に捨てられている新聞紙に目を通して違和感を感じた理由が分かって唖然(あぜん)とした。新聞は三十四年前の日付が書かれていた。

「おい、ちょっと見てみろよ!この新聞の日付を!何だこんな前の新聞、誰かが保存して持っていたのかなぁ?」

駿から言われて新聞に目を通していた淳が叫んだ。

「そうか!どうも違和感を感じていたのが何か分かったよ。僕たち過去にタイムスリップしているんじゃないかな?」

「おいおい、そんな非科学的なこと……」

「では、こうして幽体離脱しているのは非科学的じゃないのかい?事実、僕らの姿も声も誰にも見えないじゃないか?」

「おい、私たちの姿は見えてるみたいだぞ!見てみろ!」

駿が顎をしゃくった方向を見ると、子供たちが手を上げて大声を上げている。その顔はこっちを向いて「すみませーん、ボール取ってくださーい!」と言っていた。下を見ると、野球のボールがてんてんと駿と淳がいるベンチの方向に転がってきた。周囲を見渡しても誰もいない。駿が試しに転がってきた野球のボールを掴んでみると通り抜けずに掴めた。「な!」と駿は淳に目配せしながら言った。手を上げていた子供は「こっちに投げてくださーい!」とグローブを持った手を振りながら大声で叫んでいる。「ほらよっ」と言って駿はボールをグローブを構えている少年に投げた。「どうも、すみませーん!」と少年は駿に頭を下げて仲間の方にへ駆けていった。

「どうやら、この世界では俺たちは見えているらしい」

「うん、でもどうしてだろう?僕たちは過去には存在しないはずなのになぁ……」

「俺にも分からないがな、深く考えても仕方ないだろう!なるようになるさ!」

「そうだといいけどね!ところでどこへ行けばいいのかな?」

「とにかく電車で東京の方に出てみよう。成田空港で事故があったから成田の近くの病院にいたのだろう。電車はこの時代にもあるから」


 二人は駅に行って二人分の電車の切符を買おうと、窓口でお金を出した。自動切符販売機もないので駅員さんが切符を売っている。料金表を見て「安い」思わず駿は唸った。この三十四年間で物価は相当値上がりしてしまったようだ。千円札を窓口に出して、おつりをもらおうとした時、駅員さんに呼び止められた。

「こんな札は使えないよ。これ、どこのお金?」

 淳が気を利かして、横からコインを駅員さんに渡してくれて助かった。お札のデザインは変わっていたのだ。駿と淳は財布からコインを出して確認しなければならなかった。製造年が三十四年以上前のコインなどほとんど持ち合わせがなかったのだ。


 どこに行けばいいかは分からなかったが、三十四年前というのは、駿の父赤木真一と、淳の母大場多恵がそれぞれ駿と淳を連れて結婚した年であるということを、淳が思い出した。結婚したのが十一月二十五日だった。売店で売られている新聞の日付は十一月五日、駿と淳が事故に遭って手術を受けていたのが十一月五日だったから、年度だけ三十四年間タイムスリップして日付はそのままだったらしい。駿が父真一に淳が母多恵に行くように言われたのが、この年で真一と多恵の結婚まで二十日間ということだから、二人が見つけようとしている何かの手がかりになるのは、父真一か母多恵を探し出すことが最初の手がかりのように思えた。

 駿の記憶では父真一が結婚する前は東京の中野に住んでいたことを覚えていた。淳の記憶はあやふやだった、埼玉県の春日部のどこかに住んでいたということだった。無理も無い、淳は四歳ぐらいの記憶をはっきり覚えている方が不思議というものだ。

 淳は「でも確か大きな池に水鳥がいて小さな神社がある所に僕も一緒に連れて来られたような記憶があるんだけど」と何気なく言った。「そうだ!上野の不忍池(しのばずのいけ)だ!俺も覚えている、父に連れられて母と会った場所だ。父さんはよく上野の不忍池でデートをしていたと言っていた」駿は興奮してきた。手掛かりになるかどうか分からないが、何も繋がりが見えない中から糸を探り当てた気分だった。その糸が核心に繋がっているものかどうかは分からないが、とにもかくにも手掛かりにはなりそうだ。二人は早速、上野の不忍池に向かった。池の(ほとり)を歩きながら、何か思い出せないか記憶を手繰(たぐ)っていた。


 駿はふと子供の頃の父の記憶を思い出していた。

「今度の日曜日、父さんに付き合ってくれないか?」

「別に用事はないけど、どうして?」

その時の父は柄にもなく赤く照れて伏し目がちに答えたものだ。

「実は、父さん好きな女性が出来てな。ぜひともおまえにも会ってもらいたいんだよ!おまえも母さんが欲しいだろう?」

駿は下を向いてしばし黙っていたが「要らないよ!母さんなんて!母さんなんて要らないよ!今まで通り、お父さんと僕の二人でいいじゃないか!それでも上手くやってきたじゃないか!」と真一の方に向き直り言った。

 駿はその時の真一の寂しそうな顔を忘れることは出来ない。真一は息子の駿に顔も向けずにただ叱られて反省する子供の様に項垂(うなだ)れていた。駿は子供ながらに父真一の気持ちを悟った。「分かったよ、お父さん、今度の日曜日その女性と会えばいいんだね!でも忘れないで!僕には母さんはもう要らないんだ!」

「そっそうか!会ってくれるか!会えばきっとお前も気に入ると思うよ!素晴らしい女性なんだ」そう言う父の顔は笑顔で(ほころ)んでいた。


 「兄さん、兄さん、聞いているのか!」

淳に呼ばれて駿は現実に戻った。

「何、ぼけっとしてんだよ!」

「おお、悪い悪い、なんかあったのか?」

淳は黙って顎で方向を示した。

「思い出さないかい?あのレストラン」

不忍池のほとりから周辺の道を歩いていた。街並みの中に決して洒落(しゃれ)たという雰囲気よりも、年代を感じる小さなレストランがあった。そう、あの日、父に連れられ知らない女性と淳に初めて会った。そうして皆で昼食を食べに入ったレストランだった。

「ああ、こんな所にあったんだあ!。よく見つけたな?そういえば、このレストランに入って昼食を食べたんだ」

「そうだよ。兄さんも私もカレーライスを食べたんだ!」

「よく食べたものまで覚えているなあ」

「何故か記憶の隅に残ってたんだ!父さんと母さんだけが楽しそうに話していて、兄さんも僕もほとんど話していなかったね!」

「そうだったかな!ちょっと入ってみようか!」

「でもお金が足りないよ!」

「コインの形は同じだろ!いちいち何年に製造されたなんてチェックしてないから分からないよ。五百円玉はだめだけど、その他のコインで誤魔化そう!大丈夫!為せば成るよ、たぶん!」

「でもそんなことしたら、過去の歯車が狂っちゃうじゃないか!」

「偽コインが出ても誰も何も気にしないよ。それに偽コインじゃなくて、後何年かして製造年を過ぎたら、使えるから構わないだろう。さあ、入ろう!」そういうと駿はレストランの中に入って行った。淳は「使える様になる頃には物価が上がっているからコインが同じ価値ではないんだけどなあ!」と呟きながらも駿の後からレストランに入って行った。


 二人はレストランに入って、空いている席に着いた。淳は驚くべきことに座ったテーブルまで覚えていた。そこへウェイトレスが注文を訊きに来た。「いやあ、腹減った!じゃあ、カレーライス、食後にコーヒーね」と駿がオーダーして、淳も「ああ僕も同じものを!」と注文した。ウエイトレスが注文を書き終え厨房の方に注文を伝えに去ってから、二人で顔を見合わせてプッと吹き出した。二人とも幽霊にも関わらずお腹がぺこぺこだった。

「不思議なことに、幽霊でもお腹は空くし喉は渇くんだな!」

「幽霊じゃないよ!幽体離脱者だよ!」

「どっちも変わらんだろう!おまえも俺も現代の世界では既に亡くなっているかもしれんしな」

淳は駿の言葉を無視して「ほら、あそこのアベックが座っている席に座ったんだよ!兄さんと父さんは窓際で母さんと僕は対面する様に座ったんだよ!」

駿はしげしげとその席を眺めていた。

あまりに駿と淳が見ていたせいで居心地の悪さを感じたのか、アベックは駿と淳をちらちらと見つめてはひそひそ話をして気味悪げにレストランを出て行った。

「あのアベックに悪い事しちゃったかな?」

「まあ、いいだろう。悪気があってのことじゃないし、恋愛には障害がつきものだよ!」

そうしている内にカレーライスが運ばれてきた。確かにこのカレーライスだ。お椀状に盛りたてられたご飯に大きな具沢山(ぐだくさん)のカレーがとっぷりとかかっている。「おお、旨そう」駿はあの時の味の懐かしさに舌なめずりした。


 「兄さん」そこで淳が鋭く言った。淳が見つめている方向、レストランの入り口から今しがた入ってきたのは二人の男の子を連れた家族連れが入ってきた。駿が一瞬息を呑んだ。

父真一、母多恵、そして子供時代の駿と淳だった。家族連れと書いたが、正確に言うとこの時点では家族ではないので家族風の四人ということになる。

 父と母は嬉しそうに歩きながら会話していたが、2人の男の子たちは嬉しそうではなかった。「おお、ちょうどあそこの窓際の席が空いてる」父が話しながら、子供の駿の背中を押している。子供たちは黙って父や母に背中を押されながら席に着いた。

 記憶の通り先程までアベックが座っていた駿と淳のテーブルの隣に彼らが座った。大人になっている駿や淳のことを、真一や多恵はもちろん子供の駿も淳も判るわけがない。ましてや親よりも年上の子供など思いつきもしないだろう。それは駿も淳も百も承知であるにも関わらず緊張して、その家族、つまり子供の頃の自分と若かりし頃の親に目を合わすことが出来なかった。幸いにもその家族は隣の席の駿にも淳にも視線を向けることはなかった。

 淳が言った通りだった。子供時代の駿も淳もカレーライスを頼み、さすがに子供なのでコーヒーではなくオレンジジュースを頼んでいた。隣の席で聞いていても、話は父親と母親が楽しそうに二人で話しているだけで、時折子供に話を振るが、子供の方は「うん」とか「別に」とかだけで全く会話に入っていなかった。楽しそうな父親と母親と対称的に子供たちはいかにもつまらなそうな感じだった。

 家族は食事後、また不忍池周辺を散歩したり、アメ横に行ったりしている間も、父と母が前を歩き、後ろから子供たちが黙って付いて歩いていた。子供たち同士の会話は無かった。子供たちが盛り上がらなかったためか、最初からそういう予定だったのか、夕食の時間の前に家族は別れて、それぞれの家に帰宅した。駿は駿と子供の駿と父の後を付いて行き、淳は子供の淳と母の後を付いて行くことになった。


 駿も淳も三十四年前でも使えるお金が既になくなっていた。お札は使えないし、クレジットカードも使えない。クレジットカードは駿が持っていたが、発効日の関係で使えなかった。コインも五百円玉が使えないのだから、そんなに長く手持ちのお金が続くはずがなかった。

 カレーライスとコーヒーの代金を支払う時にも、三十四年以上前の百円玉や五十円玉や十円玉や五円玉だけではなく、その当時は発行されていない硬貨も使ってしまっていた。ちょっと悪い気がしたが、背に腹は変えられない。そんな訳でお金は二人とも持っていなかった。

 電車に乗る金がなかったが、ここで真一と多恵を見失うわけには行かなかった。幸いにも駅員さんが切符を切っていた時代なので、落ちていた有効期限切れの切符でうまく電車に乗って家まで行くことが出来た。いわゆるキセルをすることに淳は抵抗したが、駿は「どうせ、この時代に子供の私たち以外に、大人の我々が存在することはないんだ。存在しないのだから罪にもならんだろう!どうせ我々の時代では生きてないかも知れない我らなんだから」と屁理屈で説得されてしまった。淳は(いぶか)しげにしていたが他に方法もないので納得せざるおえなかった。

「でも、この時代でお金を稼がないといけないなあ」と駿がぼつりと呟いた。


 駿は、子供時代の駿と真一を尾行して、淳は、子供時代の淳と多恵を尾行して家の所在を確かめた。駿の家は、駿が覚えていた通りの中野にあったアパートの二階に住んでいた。懐かしい思いで一杯になった。なんと言ったって記憶にあるそのままの状態で何も変わっていない。思い出すに従って、どこに友達のよっちゃんが住んでいたとか、悪がきの川口の家の豆腐屋があの当時のそのままの姿で残っているのを見ると懐かしさに目を細める思いだった。


 淳の方は春日部のアパートに住んでいたのだが、四歳の子供であったこともあり、懐かしさを感じるというところまでは行かなかった。それでも幼稚園の先生や仲の良かったやっくんや春ちゃんのことを薄ぼんやりと思い出していた。淳にとっては母多恵が結婚する前に住んでいた記憶より、結婚してから一緒に移り住んだ場所の記憶の方が強く残っていたのだ。

 駿の生みの母親は、駿が二歳の時に男を作って出て行ったということなので、駿には生みの母親の記憶はなかったが、淳の本当の父親は事故で死んだと母多恵に聞かされていた。だが、父の写真はどこにもなく、淳は母に訊いたことがある。母は父の写真を撮らなかったと言っていた。

 父が死んだというのに仏壇も位牌もなく、墓参りにも言ったことが無かったので、不思議に思ったことはあったが、多恵を問い詰めようとすると話をはぐらかすので、深くは追求しないまま多恵は死んでしまったのだ。多恵は淳の父に関する写真や書類などといったものは何も残してなかったので、淳には父のことを知りようもなかったし、もし知ることが出来たとしても知りたいとも思わなかった。そうしていつのまにか子供から大人へと成長して、そんなことを考えることもなくなっていた。


 駿と淳はとにもかくにもお金を稼がないと生活していけなかった。お互いの家の位置を確認したのはいいが、結婚までは二十日もある。それまで、この時代で生きていかないといけない。三十四年後の今、死にかかって手術を受けている二人が、この時代で死ぬこともないように思われるが、この時代であっても、お腹は空くし喉は渇くのだ。

 二人にとってはアルバイトをやることはそう簡単なことではない。履歴書が書けないのだ。嘘の履歴書でも構わないかと思ったが身元保証が出来ない。当初は日雇いの仕事を申し込もうと思ったのだが、身分証明になる免許証の日付を見たら怪しまれてしまう。そこで、二人が考えたのが大道芸だ。大道芸なら、道行く人からお金をもらえるので、履歴書や身元確認が要らない。

 そうはいうものの、二人には芸と呼べるものはない。楽器が吹けるとか歌が歌えるとか、パフォーマンスが出来るとか、そういったものが何もない。しかも駿には大勢の人の前で話す経験すらなかった。だが、そんなことは言っていられなかった。

 どういうわけだが、現代では病院の手術室で意識混迷(こんめい)の重態の駿と淳だが、タイムスリップしたこの時代では、普通の人間と何も変わらず生活していかないといけない。しかも悪いことにお金は当時のお金がない、新札は使えないしクレッジットカードも使えない。二人ともこの時代に存在しないのだから、履歴書どころか戸籍がないのだから働くことが出来ない。この状況を前に二人はえり好みせずに何でもやるしかなかった。ジョークなどと違い、本格的に人を笑わす事などなかった二人だが、路上漫才をやることにした。二人で歌を歌うという手もあったが、路上で歌っている中年の男二人にお金を払う人は滅多にいそうにない。寂しく思われそうな気がした。かといってパフォーマンスは相当の練習量が必要だし、楽器はないしあっても楽器を弾けない。

 二人はネタを練習したが、淳はこんなものでお金を稼げるわけは無いと半信半疑であったが、駿の乗り気に圧倒される形でやることを承知した。夜中、二人で練習した。切羽詰っていたので、朝を待っていられなかったのだ。ネタは以前、漫才を見たネタをアレンジしたものだ。ネタ自体は真似でしかないが、現代の駿がつい数年前に見て覚えたネタだから、有り難いことにこの時代の人はまだ、見ていなかったので「真似にはならんだろう」と駿は都合の良い解釈をしていた。ネタは淳も漫才番組を見て覚えているネタもあったので、とりあえずやっていけそうだということになった。


 一睡もしないで朝を迎えた。こんなにワクワク、そしてドキドキ、ハラハラとする経験は二人とも初めてのことだったかも知れない。果たして練習の成果があるかどうか緊張の中、試されることになった。朝の通勤客が行き交う時間帯に、上野の駅前で駿は人を集めるために大きな声を上げた。 

 「さあ、寄ってっておくれ!兄弟漫才の駿アンド淳ブラザースだよぅ!日頃の鬱憤(うっぷん)を晴らして思いっきり笑っていっておくれ!」

通行人はちらっと駿の方を見たが誰も止まらずに通り過ぎて行った。「ほら淳、お前もやれ!」と駿に促されて、淳は仕方なく下を向いて「お客さん寄ってってくださーい!」と棒読みの様な感情の篭っていない抑揚の無い蚊の鳴くような声を出した。駿はちょっと苛立ちながら「おい淳、どうやらこの時代で飢え死にすることを選びたいようだなあ!」と冗談交じりに脅した。半分冗談とは思えない一言に、淳も自棄(やけ)になった。

 「さあ面白い漫才をこれからやっちゃうよぅ!みんな足をちょっとだけ止めて笑っていってくんな!」と声を張り上げた。数人が顔を向けたがスピードも緩めず歩き去った。「やはり漫才を始めないと人は集まらないようだな。よし、淳、やるぞ!」と駿が漫才をやる体制をとった。駿がボケて淳が突っ込みの役をやるということになっていた。二人は誰もいない観客に向かって漫才を始めた。

 二人は関東出身だから関西弁は話せないが、漫才と言えば関西弁だと思うし、それに駿や淳が覚えていたネタも関西出身の漫才芸人のネタだったので、みようみまねの関西弁で漫才をやっていた。

 ネタよりも、あまりの芸のぎこちなさがウケタのか、駿のボケのタイミングに合っていない淳の真面目な突っ込みがウケタのか、あまりにも漫才師らしくない口調とアクセントと抑揚とテンポが逆にウケタのか判らないが、一人二人と足を止めて、いつのまにか彼らの周りに人垣が出来ていた。通勤時間を過ぎて散歩などで出てくる人が増えてきたこともあるだろう。驚くべき事に、人垣の人々は駿と淳の素人芸に笑ってくれていた。

 一通りネタを終えて「どうもありがとうございましーたー」と言って頭を下げると、さらに驚いたことに人垣の半分くらいの人はお金を空き缶に入れてくれた。空き缶に入れてくれたお金はコインがほとんどであったが嬉しい限りだった。さらに「いいぞー!」とか「またやってくれ!」と声援を頂いた。駿も淳も「どうもありがとうございます」と深く頭を下げた。

 客が引けてから二人は大はしゃぎして抱き合った。駿は思わず「やったー!」と正に飛び上がらん勢いだった。淳は涙を浮かべていた。駿は淳の涙に気付き「なんだ、淳、おまえ泣いているのか?」と訊くと「だって、一時期、嫌っていた僕たちが、いや憎しみ合っていた兄さんと僕が、初めて共同で協力してお金を稼いだんだよ。そう思うとなんだか嬉しくて……」と言った。

 駿はしばらく考え込んだ様子を見せた後「そういえば、そうだなあ!俺たち嫌い同士だったんだなあ!今まで協力したことなんかなかったなあ」と返した。「なんか記念日みたいだね」と言う淳に、駿は「ははは、お前らしいなあ」と言って笑った。

 二人は場所を変えて路上漫才をやったが、どこでも人が笑ってくれ人垣が出来た。パトロール中の警察官に注意されたものの、公園でやったり通行の妨害にならないように気をつけてやることで、その日何度も路上漫才をやることが出来た。一回目より二回目、二回目より三回目と二人の固さは消えていき、アドリブを加えながらネタもどんどんアレンジされていった。夜までに七回場所を変えて行い、二人が稼いだ額は総額で二万円を超えていた。その夜は野宿せずにホテルに泊まり、食事もレストランで食べることが出来た。物価が安かったのでこの時代では大金だった。

 実は昨日は、結婚前の真一と多恵の家を突き止めて、戻ってきた時には、駿も淳もこの時代に通用するお金を使い果たしていた。泊まるところもなかったので、外灯のある公園で食事はファーストフード店の残飯(ざんぱん)(あさ)って食べていたのだ。そんな残飯生活の惨めさもありお金を稼ぐことに切羽詰っていたのだ。


 お金が稼げるようになったからといって、お金を稼ぐ事だけをしてはいられなかった。望んできた訳ではないが、この時代に来てしまった目的は、真一や多恵の言葉によると、何かを捜し求めるためらしい。それが何なのか判らないが、手掛かりとなるのは真一と多恵その人であるように思われた。真一と多恵の二人の近くにいないと手掛かりが得られないままだ。この時代で生きられるだけお金があればいい。駿と淳はお金が足りなくなったら路上漫才をすることにして、次の朝は駿は真一に、淳は多恵についていくことにした。かといって刑事じゃあるまいに、張り込んでいても犯罪者じゃないので尻尾(しっぽ)など出さない。外からではなく家の中に入り込むことが必要だった。

 二人で話し合った結果、子守りと家庭教師をやることにした。駿は小学校の時は、算数が得意で国語が苦手であった。淳はこの時代、四歳と小学校に入学前なので家庭教師は必要とされないだろうから、子守りというのか遊び役で入ることにした。

 そこで、駿が子供時代の淳の子守り役をして、淳が子供時代の駿に国語を教えるようにすればいいことに気が付いた。だが、家庭教師のバイトも子守り子守のバイトも、真一も多恵も求人を出していないだろう。そんな所に押しかけていって不審な人物に思われないだろうか?といった疑問もあったが、死後の真一と多恵が駿と淳に言ったのだから、なんとかしてくれているだろう。とにかく駄目な時は誤魔化して逃げるとして、やってみようということにした。


 駿と淳は、真一のアパートと多恵のアパートの所在を一緒に行って確かめてから作戦を練って時間を潰した。真一も多恵も働いていたから、彼らの帰宅後でなければバイトの話など意味がない。いざ、バイトの押し売りをするためにそれぞれの家に行った。駿はブザーに手をかけて、一旦手を戻した。「なんて言って入ればいいんだ?まあいい、なるようになれだ!」と一人で呟いてからブザーを押した。

「はーい、どなたですかー?」と声が聞こえてきた。思惑通り多恵は帰宅していた。

若い!駿が覚えている多恵の印象はかなり歳とってからのものであるが、今駿の前に立っている多恵はまだ若い。白髪染めもしてない黒々とした髪を後ろにひっつめて、皺一つもなく肌が潤っていた。一人の子持ちとは思えないほど若かった。これなら、父真一が惚れるのも無理は無いと思った。レストランで見た時はまじまじと正面から見た訳ではなかったし、慌てていたのでイメージを抱くまでいかなかったのだ。

「どうも、こんばんわー、今度近くに引っ越してきた赤井ですがー」

「はい、何でしょう?」

「すみません、突然訪問させて頂き恐縮でございますが、勤めておりました会社が倒産してしまいまして、何かアルバイトはありませんでしょうか?子守りでも男の子の遊び役でも何でもしますよ。失業保険はもらっていますし新しい地域に早く慣れたいと思ってのボランティアの様なものですから、アルバイト代は幾らでも構いませんよ」何の小細工もなしに直接言ってしまった。

 さすがに疑わし気に駿を見ている多恵を見て、駿は「まあ、そういきなり言っても駄目ですよね。はは、それでは何かご用があればご連絡頂ければいつでも伺いますよ。暇つぶしにもなりますのでよろしくお願いします。お邪魔しました」と立ち去ろうとするところを多恵が呼び止めた。

「ちょっと待って!本当にバイト代なんてほとんど出せないけどいいの?」

「それはもちろんですよ。別にこれといってやることなかったところに、何か仕事を与えてくれるなら、それだけでも有り難いことですよ」

「それなら頼んじゃおうかしら!実は四歳になる息子がいるんですが、お金がないので幼稚園にもやらずに留守をさせているのが、ずっと気にかかっていたのよ。今日会ったあなたをそのまま信用するというのはどうかと思うけど、あなたを見ているとなんか他人じゃない気がするのよね。どうしてかしら?」

「さあ、でも私も奥さんをどこか他人じゃない気がしていたんですよ!」と言ったが、内心はこれから息子になるのだから、今の段階では他人でいいんだよななどと思っていた。今日は既に多恵が帰ってきているので、明日の朝十時から来るように言われた。とにもかくにも駿は多恵の家に潜り込むことに成功した。


 淳の方は駿の場合より、真一の家に入るのは簡単だった。子供時代の駿の国語の点数の悪さには真一は頭を抱えていた。ところが真一も働いていたので勉強を見てあげる時間が無かった、さらに母のいない分だけ、駿は出来る限り真一の手伝いをしてくれていたので、真一は駿に対する引け目もあり、駿に「勉強しろ!」などと説教も出来なかったのだ。そんな時、淳がチャイムを鳴らして国語の家庭教師を申し出てくれたのだ。真一は淳のことを、得体(えたい)の知れない人間ではあるが、折り目正しく悪い人には見えず、話しているうちに信用する様になっていた。

 淳は、最初は父真一に会うのでどきどきと緊張していた。淳は真一について神経質で気弱でいつも思い詰めた印象を持っていたが、淳の前で話している男は生き生きと活力がみなぎっているという感じだった。白髪もなく黒々とした髪が、若々しい印象を与えていた。

 淳が「もし宜しければ、本日は試しでやらせて頂いた上で、お子様の家庭教師が私で宜しい様だったら雇って頂けますか?時給は困っている訳ではないのでお任せいたしますよ」と言ったのを受けて真一は早速試しでやってもらうことになった。

 子供の駿は「家庭教師なんか要らないよ!」と父に文句を言ったが「やるかやらないかは後で決めてもいいよ!とりあえず今日お試しでやってみろよ!その後で断ってもいいから」と言う父の言葉でとにかくお試しの勉強だけはやってみることにしたのだ。


 子供の駿にとっては家庭教師など要らなかった。適当に理由をつけて、後で断ればいいと考えていた。家庭教師のおじさん自体は悪そうな人には見えなかったが、駿は国語が全科目の中で一番嫌いだったのだ。学校でも勉強しないといけないし、宿題もあるのに、その上家庭教師なんて拷問だと考えていた。とはいうものの駿は宿題をやって学校に行ったことがほとんどなかった。

 そんな理由で淳を迎えた子供の駿は少し身構えていた。勉強させられるという思いが先に立ち、やる前からどうやって断ろうかと考えていた。淳は子供の駿について駿の部屋に行った。淳は子供の駿を正面から見てみると、面影が残っているものの、大人の駿よりも神経質なイメージを抱いた。体は子供であるにも関わらず無理に大人ぶって生きているような感覚を受けた。母が逃げてしまってから父の手伝いなどで、遊びたい年頃であるにも関わらず、自分を抑えて大人ぶっているように見えたのだ。


 「さあ、駿君、始めようか!それではノートに駿君の好きなことを何でも全部書いてみてくれるかな!」

「ええ?好きなことって?」

子供の駿は、漢字の書き取りとか教科書を読んで!とか言われるものと思っていただけに拍子抜けしてしまった。

「だから、駿君の好きなこと何でもいいからそのノートを一杯にするくらい書いてみてくれよ!」と言って机の上のノートを指差した。

「でも国語の勉強じゃ……?」

「まあ、いいからさ!好きなことでもなりたいことでも、何でもいいから楽しいことをこのノートの一ページ分埋めるくらい書いてよ!」

子供の駿は合点(がてん)がいかないようだったが、ノートを開いて何を書こうかと考えた。

「ああ、僕が見ていると書き辛いね。じゃあ、ちょっと離れているから。出来たら呼んでくれるかい!まあ、出来なくても三十分程したら声かけるからね。それじゃあ、よろしく!」

 子供の駿は、何を書くか数分悩んだ様で、シャーペンで書いては消しゴムで消してという動作を繰り返して、やがて一心不乱に書き出した。

 子供の駿が書くことに没頭している間に、淳は駿の部屋を見渡した。この当時の駿は八歳のはずだ。淳は父真一と母多恵の結婚した後の駿は知っているが、それ以前の駿のことは知らなかったのだ。駿の部屋は子供のおもちゃが少なかった。野球の道具やサッカーボールはあるのだがおもちゃといったものが見当たらなかった。

 ただ、本棚に一つだけ銀色のミニカーが一つだけ、なんか寂しそうにポツンと置かれていた。よく見てみると、ミニカーのドアが取れていたり、銀色の塗料が剥げていたりと古びた感じがした。

 本棚は駿君の年相応に冒険小説や百科事典なども置かれていた。壁には何のポスターもなかった。何の飾りも面白みもないカレンダーが一つぶら下がっていただけだった。ふと腕時計に目をやると三十分をを一分過ぎていた。


 「どうだろう!そろそろ三十分だけど、書けたかな?」

「はい、大体書けましたけど……」

「どんなことを書いたのかな?見てもいいかな?」

子供の駿は黙ってノートを淳に手渡した。

「でも、なんでこれが国語の勉強になるんですか?」

「なるんだよ!ちょっと待っててね!」

淳はさっと全体を見て、細かく見て言った。

「ほら、ちょっと見て!この“冒検”という字あるだろう!」

「うん」

「またこっちを見てごらん。“危険”という字があるだろう!」

「うん」

「冒険は危険を冒すから冒険と言うんだ!だから危険と冒険の“険”の字は同じなんだ」

「ああ、そうなのか!」

「漢字はそれぞれつながっているんだよ!漢字を一字ずつ書いていくと間違えてしまうことも繋がりを考えると分り易いんだ」

「ふうん!」

そんな感じで、二人で漢字や句読点などをチェックしていった。飽きの来る駿でも比較的、興味を持って勉強することができた。

 子供の駿が書いたのは、好きなことや未来になりたい自分のことがいろいろ書かれていた。好きなことには、宇宙に行きたいこと、そして危険であっても冒険に行きたいといったことが書かれていた。そして、なりたい自分としては、早く大人になって、働いてお金も一杯稼いで、お母さんの代わりにお父さんを助けてあげたいといった内容のことが書かれていた。


 勉強が一段落したところで、ドアがノックされて真一がドアを開けて入ってきた。

「どうぞ!ちょっと一休みしてください!」

「ああ、お父さん、ちょうど一区切りついたところです。なかなか飲み込みの早いお子さんですね」

「ああ、そう言ってもらえると助かります。男手一つで育てていますので、勉強を見てあげることが出来なくて……。どうだ、駿!今後もこの方と国語の勉強してみるか?」

子供の駿はちょっと考えてから「でもお金がかかっちゃうよ」と遠慮がちに言った。

駿は勉強が終わった後で断ろうと身構えていたのだが、教科書を使わず漢字の書き取りもなく、こんなやり方の勉強なら興味が持てると思ったのだが、お金のことを考えると父に我儘(わがまま)言っているようで遠慮した方がいいと思ったのだ。

「何、言ってんだ!おまえの国語の成績が少しでも上がれば、多少のお金なんて喜んで出すよ。それにこの先生、アルバイト代はこちらの気持ちでいいって言ってくださってるんだ。ねえ、先生!」

「え、ええ、もちろん最初にお話したようにお金の方はお気持ちで宜しいですよ」

淳はお気持ちってことは、結婚まで二十日間で数千円くらいかな、それとも本当に気持ち程度でほとんどないのかな?まあ、ここで金儲けしても仕方ないからなくてもいいがと思っていた。

「それじゃあ、先生明日から正式にお願いします。よろしくお願い致します」

「ええ、もちろん、こちらこそよろしくお願いします」

淳は、これで真一の家に入ることに成功だと思った。

「それでは、私が帰宅した後ということでどうでしょうか?」

「分かりました。それでは、夕食の後ということで八時くらいから一時間程でいかがでしょうか?」

「そうですね。それなら、駿の寝る時間も守れますし、それでは夜八時にお待ちしております」

そうして淳は真一の家を後にした。


 駿はホテルに先に帰って淳を待っている間、真一と多恵のことを考えていた。駿の記憶では、真一と多恵は結婚式を挙げていなかった。再婚同士であるから親戚を呼ぶにも「またか?いい加減にしてくれ!」と言われそうだし、二回目の結婚式にそんなにお金を使うほど余裕がなかったこともある。そして、二人の子供が結婚式などに反対こそしなかったものの、乗り気ではなかったこともあっただろう。そこで結婚式も披露宴も挙げずに、真一と多恵に駿と淳も付いて行って一緒に結婚届を出してから、夜は都内の高層ビルの最上階にあるレストランで都内の夜景を眺めながら、ちょっと贅沢なディナーを取って家族四人だけで結婚を祝ったのだ。

 駿はそんなレストランでのディナーのことはよく覚えている。真一も多恵も駿も淳も自分達なりの精一杯のお洒落をして四人で出かけたものだ。真一は黒いスーツを、多恵は白いナイトドレスを、駿も淳もグレーのジャケットを着て、慣れないフォークとナイフを使ってステーキをお腹一杯食べたのだった。真一と多恵はレッドワインを傾けながらほろ酔い気分になっていた。多恵の頬はほんのりと赤くなって見えた。駿と淳はオレンジジュースを飲んでいた。オレンジのちょっと暗い照明のおかげで、オレンジジュースが注がれていたグラスがキラキラと光っていた。ちょっと暗めの照明が夜景をより際立たせてよく見えた。暗い街中に灯る赤や黄色やオレンジの光が輝く宝石のように見えたものだった。四人の会話はそれほど多くなかったが、美味しい食べ物と飲み物とムードに誘われて、皆幸せそうな顔に見えたものだった。そんな当時のことを思い出しながら「そう言えば」淳も俺も結婚には反対していたと思ったがいつ頃から賛成したのだろう。いや賛成した訳ではなく強く反対しなかっただけか、」そんなことをホテルのベッドに寝転びながら考えていた時、淳が部屋に入って来た。


 早速、二人は報告会に入った。駿は明日から子供の淳を子守りすることで入ることだけを述べると特に話すべきこともなかった。駿は多恵と話している時に、子供の淳にも会ったが、大人しい子供といったイメージが強かった。多恵が話している隣にいたものの、何もしゃべらず悪戯(いたずら)をするわけでもなく大人しくしていた。

 それに対して、淳は実際にお試し家庭教師をしてきたので、もう少し述べることがあった。淳が気になったことは、子供の駿の部屋の中で見たものだった。淳はそんな気になったことを駿に話してみた。百科事典や冒険小説については、駿が父の真一にねだったものではなく父真一が買ったものだった。本を読んで駿が少しでも国語の勉強に興味を持ってくれればと、真一が駿にプレゼントしたものだった。

 だが、駿は冒険小説などは読んだものの、百科事典などはパラパラと開いただけで読むことがなかった。淳が子供の駿の部屋の本棚に一つポツンとあった壊れたみすぼらしいミニカーについて尋ねた時、さっきまで笑っていた駿の顔が真剣なものに変わった。

「あっあれは……、あれは俺のお袋が父と私を捨てて出て行く前に買ってくれた、たった一つの物だったんだ。もちろん、お袋が出て行ったのは俺が二歳の時だから、そんなこと覚えていないが、お袋が買ってくれたたった一つのおもちゃだと聞かされてから、どんなに壊れても古くなっても捨てることが出来なかったんだ。そんな物がまだあったのか!」(うつむ)いた駿が暗く険しい顔のまま吐き捨てるように低い声で呟いた。

 淳は言葉を失って、暫く二人がいるホテルの一室では沈黙の空気が流れた。沈黙を破ったのは淳だった。何か言わないと思った淳が「そうかあ、そんな思い出のおもちゃだったのか」と駿が言った言葉を繰り返した。淳はもっと気が利いたことが言えればと思ったが言葉が見つからなかった。駿は明るさを取り戻して「まあ、でもあのミニカーも引越しなんかでどたばたしてて、どこかに行っちゃったんだけどね。ははは、そうかあ、あのミニカーがまだあったのかあ!かなりぼろかっただろう?」と笑顔になって言った。淳は駿の質問には答えずに「まあ、いずれにしても、探りを入れるということで言えば今日はこんなものだね。二人とも家に入ることが出来たんだから成功ということだね。とりあえずは成功ということで乾杯でもするかい?」と手でグラスを傾ける仕草をした。

「いいねえ、外に出て飲むか!」

その日は二人で飲んだ。二人で飲むのはこの年齢になるまで初めてのことだった。そしてほろ酔い気分でホテルの一室に戻って仲良く寝た。


 駿は翌朝一人早く起きて、子供の淳を子守り役するために出かけていった。駿が家に着いて、暫くすると多恵はパートの仕事をするために出かけていった。駿は子供の淳と二人っきりで遊ぶ子守り役なのだが、子供の淳は大人しく人見知りをする性格のようで、駿が「何しようか?淳君」と聞いても「別に!」と返ってくる。「いっつも何してんの?」と聞くと「別に何もしていない」と返ってくる。どうも自分の意見を言うことに慣れてないのか、扱い難い子供でもある。

 いつも多恵は、淳が昼食べるように弁当を置いておいて、アパートからそう遠くない会社で事務をしていた。昼休みには帰ってきて淳と一緒に食事が出来るように近い職を選んだのだ。とはいっても、昼休みの一時間では帰ってきてお昼の料理をして食べて片付けして、また会社に行くには時間が足りなすぎる。そこで、朝淳の昼を弁当で用意するのと一緒に自分の分も用意してある。

 自転車で会社に行って、昼休みに帰ってきて、淳と一緒にお昼を食べて再び会社に戻っていた。淳は食べるスピードがまだ遅いので、淳が食べるのを待って食器を洗って会社に戻っていては間に合わない。そこで食べている淳に一声かけて食器を洗わずに台所に置いたままで会社に出かけていた。淳は食べ終わったら、食器を台所に戻しておいて、多恵が帰ったら食器をまとめて洗うようにしていた。おやつを用意しておいて、淳がお腹空いた時に食べてもいいと言ってある。


 そんな生活に慣れているせいか、駿が行ってみて思ったのは、淳はテレビを見ている時間が多く、そして一人遊びが上手だった。逆に言うと、誰かと一緒に遊ぶことに慣れていないようだった。そこで、駿が遊びの主導権を握ることにした。午前中はぎこちなかった駿と子供の淳も、多恵と一緒に昼を食べてから、午後は外に連れ出して公園に行って遊ばせたりすると、最初は人見知りか口数も少なく言われたことをするだけの子供の淳だったが、段々と駿に心を開き子供の淳も駿に話し掛けるようになってきた。

 駿は淳から淳の血の繋がっている父親は死んだと聞かされていた。当然、駿は子供の淳にも父親のことを思い出させるようなことは何も言わなかったが、公園で遊んでいる時に、たまの休みだったのか、お父さんが小さい男の子がブランコに乗っている後ろを押してあげて、横でお母さんが見ている家族の姿を淳はずっと羨ましそうに見ていた。淳は子供ながら気を使って誰にも父親のことは何も言わないが、心の中ではお父さんを追い求めているのだということが分かって、見ている駿もしんみりとしてしまった時があった。


 駿と淳がこの時代に来てから時が過ぎ、お金がないときは路上漫才で、そして駿は子供時代の淳の子守り役、淳は子供時代の駿の国語の家庭教師としての日々が順調に過ぎ、駿と淳の記憶によれば二日後に真一と多恵の結婚が控えている日に、真一と多恵は子供時代の駿と淳を連れて、ランチを一緒に食べた。駿と淳には真一と多恵から事前に聞かされていた。さすがに駿と淳は同席するわけにいかなかったが、気にかかるので下手な変装をして尾行していた。

 子供たちのご機嫌取りも兼ねているのか、真一と多恵が子供時代の駿と淳を連れて行ったのは東京近郊にある遊園地だった。園内は子供連れの家族やアベックや若い女性同士の組は多かったが、四十を超えた男ともうじき四十になる男の二人で来ているのは見かけなかった。二人は恥かしくなったが文句を言ってもいられなかった。駿も淳も子供用アトラクションの乗り物など乗りたくなかったが、ここであの四人を見失うわけにいかなかった。二人を見た時、アトラクションの誘導係がいつもの笑顔の中に違和感のようなものが見えたが、大の男二人で仲良く乗ったりもした。やっと食事時になり、真一ら四人はレストランに入って席についた。駿と淳も四人について、彼らの会話が聞こえるように、なるべく彼らの席の近くに場所を取った。


 真一が子供たちに向かって「どうだい、楽しかったろう!」

子供たちは「うん、面白かった!」

真一と多恵は顔を見合わせタイミングを計り真一が切り出した。

「駿、淳君も聞いてくれ!実はお父さんな、ここにいる多恵さんと明後日(あさって)結婚しようと思っているんだ!」

「ほら、結婚すればこれから四人でまた来れるでしょう!家族として」と多恵がフォローを入れた。

 子供時代の駿と淳は共に顔を見合わせた。確かに結婚するということは聞かされていたものの、それがあさってというような具体的な話で進んでいるとは知らなかったのだ。結婚するということが具体的になって、子供時代の駿も淳も不安を感じた。

 子供時代の駿はちょっと考えた様子を見せ「お父さん、多恵おばさん、ご免なさい、やっぱり僕、嫌だ!新しい家族なんて欲しくない!」と言い出した。それに釣られて子供時代の淳も「お母さん、僕も嫌!」と言い出した。真一と多恵は顔を見合わせて驚いた表情を見せた。


 それよりもっと驚いたのは、四人の席の近くにいた駿と淳であった。てっきり順調に進んでいたと思っていた。このレストランで明後日結婚する話を聞いたことは覚えていた。でも駿も淳も、その時考えてから明後日結婚する話に乗り気とは言わないまでも賛成したはずだ。

 このレストランの話の後から、住む家の選択や駿の転校手続き、多恵の退職など具体的に動いていくはずだった。「こっこんなはずは……」駿は淳の顔を見た。淳の顔には明らかに狼狽(ろうばい)の色が広がっていた。きっと自分では見えないが駿にも狼狽の色が濃く出ていたことだろう。


 真一はショックを隠せずにいたが気を取り直して駿に聞いた「どっどうしてなんだい?駿も淳君も一度は結婚には賛成してくれたんじゃないか?」多恵はショックが怒りに変わって「そうよ!結婚に賛成したでしょ!それを今更」明らかに苛立ちが言葉のトーンの中に表れていた。

「ご免なさい!お父さん、大場おばさん、でも僕、僕、なんだかこのまま四人が家族になることは、どうしても受け入れられないんだよ!」

子供時代の駿の目には涙が溜まっていた。子供時代の淳は何度も頷くだけだった。

 それから食事も済ますことなく真一は子供時代の駿を連れ、多恵は子供時代の淳を連れてレストランを出て、それぞれの家に帰っていった。駿と淳はレストランでしばらく取り残されていた。


 「一体どうしたって言うんだ!俺の記憶と現実が違っているぞ!」訳の分からぬ展開に明らかに駿の声は戸惑(とまど)いを隠せなかった。

「何かがが現実と変わってきてるんだ!でも一体何故?」淳は自分に問い聞かせるように呟いた。駿と淳はホテルの部屋に帰って来ていた。

「このまま、もし真一と多恵があさって結婚しなかったらどうなるんだ?」

「それは現実と違ってくるからないと思うけど……」

「でも今の時点で俺たちが知っている記憶と異なってきているじゃないか!もし二人が結婚しなかったら俺たちはどうなるんだ!」

「分からない。存在はなくなることはないと思うけど、でも記憶が全く違ってくるかも……」

「そうすれば、お前と俺は兄弟にならないわけか?」

「それだけじゃなくて、いろんな全ての記憶が違ってくるんじゃないかな?変わってくるのは記憶だけじゃなくて人生そのものかも!」

「冗談じゃないよ!冗談じゃ……」

駿も淳も下を向いて途方に暮れてしまった。


 駿も淳もホテルの部屋の電気を消して、寝ようとしていたが眠れないままベッドの中で悶々(もんもん)としていた。

淳が「兄さん、寝たかい?」と駿に声をかけた。

「眠れるわけ無いだろう。眠りたくても」と駿は答えた。

「ずっと考えていたんだ。何故、僕達の記憶どおりにならずに過去の現実が違ってきたのか?」

「それは俺も考えていたところなんだ」

「過去が通常変わるはずがない。それが変わりつつある」

「そう、変わるわけない過去が、何かの作用で変わってきている」

「そうなんだ!本来過去になかったものが、過去に作用してしまっていると考えるのが一番自然だと思うんだ」

「そう、俺も過去になかったものを考えていたんだ。その過去になかったものって、もしかして……」

「そう、過去に存在しちゃいけないものが作用しているとしたら、それは僕たちじゃないかなって」

駿も淳も息を一呼吸止めてホテルの暗い部屋に沈黙が流れた。

「だが、俺たちが一体何をしたって言うんだ?」

「分からない。でも、僕が子供の時に子守りなんて一時的でもいなかったと思う。兄さんも……」

「そうか!俺も国語の家庭教師なんて受けた記憶がない!受けていたら、現代の俺も本を出版しているかもしれないもんな」

「とにもかくにも、子供時代の駿君と僕の心を変えさせて、記憶通り父さんと母さんが結婚するように持っていかないと、それは僕達の責任だよ!」

「そうだな。でもどうやればいいんだ!」駿は頭をボリボリと掻いた。

「分からないけど、結婚届はあさってだから、それまでになんとかしないと……」

「明日一日しかないじゃねえか!」

「まあね、明日一杯もあるってことだね」

「名案でもあるのか?」

「ないよ。でもやらないと……」

それ以上はお互いに堂々巡りの会話をしても仕方ないと思って言葉を交わすことなかった。駿も淳もどうすればいいんだ、どうすればと思いながらも、いつのまにか答えを見つけられずに眠りについていた。


 翌日は、有り難いことに駿も淳もアルバイトがあり、子供時代の駿や淳と話をするチャンスがある。駿は翌朝、いつものように多恵の家に行った。ブザーを押す手が迷った。結婚するとかしないとかいう話は今まで話してもらったことないから、その話を訊き出すところから始めないといけない。

 子供のことだから、行ったらまた気変わりしていたなんてことないかななどと淡い期待をしてみたりもした。その淡い期待も、ブザーを鳴らして出てきた多恵の顔を見た時に儚く消えた。多恵の顔は見るからに酷かった。目の下に(くま)が出来て、髪もぼさぼさだった。おそらく淳を説得しようとして出来ずに泣きはらしたのだろうと駿は想像した。

 多恵は「すみません、こんな姿で」と駿に謝った。駿は「いいえ、謝らなくてもいいですよ。それよりどうしたんですか?私で良ければお話をお聞きしますよ」と答えた。多恵は駿をじっと見つめていた。「いえ、そんな、なんでもないんですよ」と言いながら髪を手で直していた。

「そうですか。無理してお話することもありませんが大丈夫ですか?」

「大丈夫です。だいじょうぶ」と言いながら、多恵の目にはみるみるうちに涙が溜まってきた。

「我慢しなくていいですよ。泣きたい時は泣いてもいいんですよ」駿は自分で言ってから、俺がこんな優しい事言うなんてどうしたんだろうと思ったりした。多恵は涙で一杯の目で駿の顔を見上げると、張っていた糸が切れたように駿に抱きついて泣き出した。抑えていた気持ちが一気に崩れだしたかの様に泣き出した。

 結局、多恵はその日の午前中、会社に休みをもらった。こんな状態では到底働ける状態ではなかっただろう。多恵は泣きながら、駿に結婚しようとしていた男性がいて、全てがうまく運んでいたと思ったのに昨日、子供たちが反対するものだから結婚出来ないのだと駿に語った。

 全て駿は知っていたことだったが相槌を打ちながら黙って聞いていた。一通り話すと多恵の気持ちは楽になったようで「ありがとう、赤井さんに聞いてもらって気持ちが楽になりました」と言いながら涙を拭いた。まさか、本名を名乗る訳にはいかないので駿は赤井と名乗っていたのだ。心の悩みを吐露(とろ)した多恵は、気持ちが楽になったらしく支度して午後は会社に行った。

 多恵が泣きながら駿にアパートの居間で話していたことは、隣の部屋にいた淳には聞こえていたはずだ。これから、どうやって淳の気持ちを聴くかが問題だ。多恵が出かけた後、隣の淳がいるであろう部屋のドアをノックした。

「淳君、いるかい?」と言いながらドアをトントンとノックしたが返事はなかった。「淳君、いるんだろう!入ってもいいかい?」何の返事もなかったので、ドアをそろそろと開けた。淳はヘッドフォンを使ってゲームをやっていた。四歳の子供ではあるが、多恵がいない時の留守番が多いので、多恵が買い与えたものだった。多恵の泣き声を聞きたくなかったのだろう。ヘッドフォンから音が漏れて大きな音を出していた。かなりの大音量であった。「淳君」と呼んでも、淳は無視していた。駿は淳の耳からヘッドフォンを外した。ゲーム音の大音量が部屋中に流れて慌ててゲームの電源を切った。淳はゲームの電源を切られると無言でベッドに寝転び、駿とは逆の方向を向いて駿に背中を向けてしまった。


 淳の背中に向かって駿は話し掛けた。「淳君、話はお母さんから聞いたよ」と言ったが、淳は全く無視して顔を駿の方に向けようともしなかった。「淳、いい加減にしろ!人が話している時はこっちを向け!」駿は怒鳴った。

 淳はあっちを向いたまま「おじちゃんはどっちの味方なの?」と訊いてきた。淳の質問に「どっちの味方でもないよ!僕は第三者だからね、誰の味方にも敵にもならないさ!だからさ、僕に話してくれないかなあ、淳君の気持ちを!」と優しく言って、駿は以前として向こうを向いたままの小さな背中を見つめたまま淳の出方を待った。

 淳の小さな背中は上下に小刻みに揺れていた。淳は泣いていた。「誰も、誰も僕の味方はいないんだ!ママも、おじちゃんも」と淳は駿の方を向いて泣きながら怒鳴った。

「そんなことないよ!僕は君の味方でもあるし、君のお母さんの味方でもあるつもりだよ!でもちゃんと君の気持ちを知りたいだけだよ。ママの相手の人、赤木さんって言ったっけかな?その人が嫌いなのかい?」

淳はしゃくりあげながら首を横に振った。

「それじゃあ、その人がお父さんになるのが嫌なのかい?」

その質問にも淳は首を横に振った。

「それじゃあ、相手側の男の子が嫌なのかい?」

それにも淳は首を横にふった。

「それじゃあ、一体どうしてなんだい?」


 淳は両手で涙を拭きながら「おじちゃんがパパになって!」と言った。あっけに取られたのは駿の方だ。鳩が豆鉄砲を食らったような顔で「えっ?」と言った。

「おじちゃんにパパになって欲しいんだよ!ママだってきっと、その方が幸せなんだ。さっきだって、ママがおじちゃんに抱きついていたじゃないか!」

以外な展開に圧倒されているのは駿の方だった。

「いや、あれは、君のことで悩みがあったからで……」

「違うよ!ママはおじちゃんが来てから、おじちゃんの話ばっかりするもん!」

「それは、淳君の誤解だよ。ママはあの赤木さんが好きなんだから……」

「おじちゃん、ママのこと嫌いなの?」

「いや、嫌いってことはないけど……」

「それじゃあ、何故駄目なの?」

 駿はしばらく考えてから「とにかく、君の気持ちは分かったよ!それじゃあ、ママが僕じゃなくて、その赤木さんを愛してるってことを聞いたら、結婚には納得出来るのかな?」

「おじちゃんはどうなの?僕のパパにはなってくれないの?」

「質問しているのは僕が先だよ。ママが僕じゃなくて赤木さんのことを愛していると言ったら結婚には賛成してくれるんだね?」と訊きながら、駿は本当は淳君の方が質問したのは先だったけどねと思っていた。

淳は鼻をすすりながら頷いた。

「分かった。それじゃあ、君の質問に答えるのは淳君のママに確認してからでいいね。ママの気持ちを大切にしたいだろう!」

淳は頷いた。

「よし、それじゃあ、ママが帰ってくるまでは時間があるから、河原にでも行ってみようか!運が良ければ、まだバッタなんかもいるかもしれないし……」と駿が誘うと、淳は涙を袖で拭きながら頷いた。

そして駿と子供の淳は河原でしばし何もかも忘れてバッタ取りに夢中になったのだ。淳は転びながらも時期外れで少なくなったバッタを追いかけていた。


 家に帰った淳はさすがに泣いて遊んで、疲れてぐっすりと寝てしまった。駿はそっと家を出て公衆電話から電話をかけた。アパートを出た所に公衆電話ボックスがあったのだ。そこから、多恵のいる会社に電話をかけて多恵を呼び出してもらった。

 駿は電話で多恵に淳君の気持ちを話して「そんな訳ですから心配は要りません。帰宅されたら、あなたが愛しているのは私ではなく赤木さんであることを淳君の前で話してください」と話を合わせてもらうように電話したのだ。

 多恵は黙って聞いていた。「それではお願いします」と駿が電話を切ろうとした時「そうですか、あの子の方が私の気持ちを見抜いていたのね。自分でも気付かなかった気持ちに!」多恵は一呼吸置いてはっきりとした声で「駄目ですか、私じゃ?淳が言う様に!」と話を続けた。

 「はああ?」びっくりさせられたのは駿の番だった。多恵はもう一度「だから、淳が言うようにあの子のお父さんになってくれませんか?」と言った。駿は慌てながらも機転を利かして、「すみません、公衆電話のコインがなくて一旦切ります。その話は後ほどしましょう!」と言って受話器を切った。十円玉が数枚返って来た。駿は返す言葉を失って何と言ったらいいか判らなかった、少し考える時間が欲しかったのだ。

 「まさか!でもそう言えば、今の俺はお袋さんより年上だ。なんとも皮肉なものだが、まさか……迂闊(うかつ)だったなあ」と駿は照れながら言った。だが、喜んではいられない。なんとしても多恵に真一と結婚してもらわないと、駿のストーリーが始まらないし終わらない。「しかし、なんと言おう!くっそう、もてる男も辛いなあ!」と言いながら頭を掻いた。


 しばらくしてから多恵が、何も無かったような顔をして「ただいまー」と帰って来た。緊張している駿にも声をかけながら子供の淳に分からないように目配せした。駿は(うぶ)な少年の様に真っ赤になってもじもじとしてしまった。多恵が向こうの部屋で着替えを済ませて居間に入ってきた。

 淳がテレビに夢中になっている間に、多恵を手で隅に呼び出した。駿は赤い顔に下を向いたままで「あのーさっきの電話のことだけど……」と言ったところで多恵が駿の言葉を遮った。「分かってる、分かってる、淳にあなたのことではなく赤木さんのことを愛しているって言えばいいんでしょう!」と軽く目配せした。駿は呆然と目を見開いて多恵を見ていた。駿は「なあんだ!(かつ)がれちゃいましたよ、つい本気にしちゃったよ、人が悪いなあ、もう」と多恵に言った。多恵はふふっと意味ありげに笑ってみせ、駿の横を通り過ぎる時に「まんざら、嘘ではないのよ!今日はあなたにグッと来ちゃった。赤木さんがいなかったらあなたを本気で好きになってたかも……」と言い残して居間でテレビを見ている順の隣に座った。

 駿は呆気に取られて呆けた口のまま、顔を自分の横を通り過ぎる多恵の姿を見送っていた。多恵が横を通り過ぎるとき、駿のハートがキュンとなった。多恵がテレビの淳の横に座ってから、駿はやっと我に返って顔を右左と横に振りながら「いけねえ、本気になってしまいそうだった!」と小さい声で呟きながら居間の二人と距離を置いて座った。


 多恵は淳に向かって話し掛けた。

「ねえ、淳、淳はママが本当に好きなのは、赤木さんではなく、いつも来てくださるおじさんの赤井さんだと思ってるの?」

淳は黙って頷いた。

「そうね、赤井のおじさんもとても善い人よね。よく淳と遊んでくれるしね。淳は遊んでくれるパパが欲しかったのよね!」

淳は黙ったまま俯いた。

「そうよね。でも赤木さんもきっと淳と遊んでくれる。優しいパパとしてね。ママが約束するわ。赤木さんも赤井のおじさんに負けないくらい優しく子供思いのパパだから」

「いつも来てくれるおじちゃんじゃ駄目なの?」多恵の顔を見上げた淳の目には涙が浮かんでいた。

「そうね!ママも赤井のおじさんは好きよ!こんな善い人があなたの遊び役に来てくれて、ママもとっても嬉しい。でもね、赤木さんのことはもっともっと好きなの!赤井のおじさんが来てくれるずっと前から赤木さんとお付き合いさせてもらってるの。赤木さんと結婚して一緒になることがママにとっては幸せなのよ。分かってくれるでしょう、淳!」

淳はこっくりと頷いた。そして多恵の顔を再び見上げながら「それじゃあ、おじちゃんはどうしちゃうの?」と訊いた。多恵が居間の隅に座っている駿に目をやった。

 駿はすぐさま「僕は大丈夫さ、いつでも淳君の所に遊びに行くよ!友達だもんな!」と淳の方を見て軽くウィンクした。淳の顔にみるみる内に笑みが戻ってきた。「ほら、泣いたカラスがもう笑った!」と言う駿に、子供の淳は「えへっ」と言って涙を袖で拭いて笑顔を作った。「じゃあ、おじちゃん、僕の友達第一号にしてあげるよ!」と淳が得意げに言った。「はは、それは光栄にございます。閣下!」と駿がおどけて右手を右上から左下に振った。フランスの気障(きざ)な貴族のようなお辞儀をすると、淳はちょっと笑った。多恵が駿を見て軽くありがとうの意味を込めて軽く頭を下げた。

 駿は多恵の家を後にしながら、誰にはばかるでもなく大きな声で「ふうう」と溜め息をついた。「結構、難儀(なんぎ)だったなあ!しかし、これでこっちの方はなんとかうまくいった。後は淳の方だが、うまくやってくれよ!」と言いながら腕を振って歩いた。やり遂げた達成感に意気揚揚とした気分と一緒にどっと疲れが出てきた感じがした。


 淳は、駿の家庭教師の時間にはちょっと早い夕方頃ホテルを出て、喫茶店で時間を潰していた。さて、どうしようかなあ?どうやって駿君から訊き出したらいいかなあ?と考えていたが名案は浮かばなかった。そうしている内にタイムオーバーとなり、どうしようかも決まらないまま、駿の家庭教師に向かった。気が進まないままに駿の家庭教師をやることになった。駿君と真一が夕食が終わってから家庭教師をやることになっていた。いつも淳が行く頃には二人とも夕食を終えているのだが、今日に限って淳が行った時にはまだ、テーブルの上に夜食が残っていた。どうやら、昨日駿君が結婚を反対したために、真一も食が進まない上に駿君は気まずくてほとんど食べなかった様だ。

 淳は、テーブルの上に残された夕食を見て、どうしたんですか?今日は食欲がないんですか?」と努めて明るく尋ねた。真一は「ええ、まあ」とだけ俯いたまま答えた。真一からは訊き出せそうにないことを淳は(さと)った。

 淳は駿君と一緒に駿君の部屋に入った。

「どうしたんだい?なんか元気ないみたいじゃないか?」と淳は優しく声をかけたが、子供の駿君は俯いたまま何もしゃべらなかった。

「そうか!言いたくなければ無理には訊かないよ。それじゃあ、勉強始めようか!今日は今淳君が頭の中に思っていること、考えていること、そして心の中で悩んでいること、何でもいいから書いてごらん!テーマは自由でいいからね!」と淳は駿君に言って、軽く駿君の肩をポンポンと叩いた。

 その言葉を聞いて、駿君はノートに向かって猛烈に書き出した。よほど心に引っ掛かっていることがあったのだろう。一度も頭を上げずに書くことだけに集中してノートから目を離すことがなかった。駿君のあまりの熱の入れ具合に時間の経つことを忘れていた淳だったが、ふと時計を見ると既に四十五分間が過ぎていた。

 「そろそろいいかな、駿君?」と淳は言ったが、駿君は熱中していて聞こえなかったのか、依然としてカリカリ、コンコンとでシャーペンで音を立てて書いていた。もうちょっと書かせた方がいいと思って止めずに続けさせた。そうして時計を見ながら一時間が過ぎたところで、淳はもう一度声をかけた。

 「おーい、駿君、そろそろいいだろう!このまま書き続けてもいいから、途中経過だけでも見せてくれないかなあ?お願いだから!」と駿君に頼み込むかの様に言った。駿君はちょっと不快そうに淳の方を見もせずにノートを渡した。

 淳はノートをじっくりと読み出した。A4のノートに六ページ分びっしりと書かれていた。書かれていたノートを読みながら、淳は駿君の書いた内容に引き込まれていった。淳のノートの内容は、何故結婚に反対しているかを背景も含めて書かれていた。淳は一通り読んだ後ノートを駿君に返して、また続きを書くように言った。まだ駿君の頭の中にあるもやもや、心の中の迷いや悩みを出し切っていない。どんなに長くなろうが、駿君の思いを全て出し切らないままで終わらせてはいけないと思ったのだ。もちろん、淳にも時間がないのは分かっていた。だが、駿君の思いを中途半端に吐き出させるのは逆に良くない。ノートを返された駿君はまた無言で書き出した。もう淳には駿君を止めることは出来なかった。駿君は再び書き始めたところで、淳は邪魔をせずに駿君が書いていた内容を思い出していた。

 駿君の中には強烈な女性不信があった。母親が男を作って父の真一と小さかった駿を捨てたことに対する強い怒りと悲しみと失望があった。また捨てられるんじゃないかといった強い不安が根底にあった。「また捨てられるかもしれない、そんなお母さんなんて要らない」また捨てられるかもしれないというのが強い恐怖心として心の片隅に持っていた。


 最初は、それでもお父さんが幸せになるなら、お父さんのために自分が我慢すればいいことだと、結婚を賛成はしないまでも反対しないようにしようと心に決めていた。でも結婚が現実の話になってくると、どうしてもまた捨てられるのではないかといった不安から恐怖心が大きくなり耐えられなくなったのだ。

 駿や淳の記憶と現実が異なって子供時代の駿君が反対したのは、駿君の書いた内容を読んで淳には推測ながら分かってきた。やはり、それは意識的にではないが淳のせいであった。淳が駿君に思いをノートに書かせたことが原因だ。駿君は自分の思いをノートに綴ることで自分の感情を書いて出すことになり、自分で気付かなかった思いや感情、特にお母さんに捨てられた怒りや悲しみ、そしてまた捨てられる不安と恐怖の感情が自分の中で自然に膨らんでいったのだ。


 八時から始めた家庭教師は二時間を過ぎて、さすがに真一が心配になってドアをノックした。「すみません、邪魔してしまって、もう二時間経ってますから、駿も寝る時間ですので、そろそろ終わりにしませんか!」と声をかけてきた。いつもはもっと早く終わっていたので、真一が二時間も待ったというのは、昨日のことから真一と駿君の仲に(ひび)が入っていて遠慮したこともあるが、淳に駿君の心を開いて欲しいという願いもあったのかもしれない。それでも十時という時間は駿も寝る時間だ。そろそろ止めないといけないと(まん)()してドアをノックしたのだ。

「今日はもう遅いので、もし勉強の途中なら、明日駿が学校から帰ってきてから私が会社から帰ってくるまで、やってもらえませんでしょうか?もしご都合が良ければの話ですが……」

「そうですね。すみません。すっかり時間を忘れて熱中してしまいました。駿君がよければ、私の方は明日は全日大丈夫ですよ。駿君はどうかな?」

駿は何も言わずに黙って(うなず)いた。

「それでは今日はこの辺で、また明日ということでお願い致します」

「そうですね。長らくお邪魔しました。また明日、それでは何時くらいに駿君は帰ってこれるかな?」と俯き加減の駿の顔を覗き込むようにして訊いた。

「一時」ぼそりと駿は言った。

「明日は随分早いんだな?」という真一に、駿君は「明日は午前中で終わりだから、お父さんにもそう言ったじゃない!」と少々苛立ちが含まれた声で言った。ノートに自分の思いを書きながら、駿君は書きながら自分の気持ちを吐き出していたため、少々興奮と怒りに頬が紅くなっていた。真一は「そっそうだったな!」と駿君に言って、淳の方に向き直って「それでは明日、一時にお願いして構わないですか?」と訊いた。

「大丈夫ですよ!それでは一時に来ますのでお願いします」と言って淳は真一の家を出た。


 滞在中のホテルで駿と淳は報告会を開いた。

駿の方は上機嫌でうまく行った成り行きを話した後に言った。

「いやあ、まいったよー!実際、お袋に好きになられるなんてな、ここに来るまではお袋に対して恨みや憎しみすら抱いていたけどな、早くお袋から離れたかった、高校を卒業して働きに出るとお袋から離れられると思って嬉しかったものだ、だからお袋の葬式もまるで痛みなんて感じなかった」

そこで駿は一つ二つ呼吸を置いて話を続けた。

「だけど、だけどさあ、正直言うと、ときめいちゃったよ。あの憎かったお袋さんによ!嘘でも好きだなんて言われちゃうとな!」

そして淳に笑顔を向けて

「いい女だったんだな!お袋って、親父が惚れたのも分かるよ!親父が結婚したのは絶対間違っていたと思ってたけど、親父はいい女性を選んだよ。最高の女で最高の母親だったよ!多恵さんって」

 駿の言葉が終わったところで淳が口を開いた。

「兄さんが母さんを嫌っていた、いや憎んでいたのは知ってたよ。ゆきが死んで父さんが死んでからの、母さんの兄さんに対する冷たい態度は僕にも感じられたよ。でも僕は母さんを愛している。だから母さんに嫌われてる兄さんはどうしても好きになれなかったのかも知れない。母さんを愛するがために兄さんを嫌いになるしかなかったのかとも思う。嫌いな感情はやがて憎しみに変わっていった。葬式での兄さんの心にもない集まった人たちの涙を誘う挨拶を聞いている内に、そして兄さんの嘘の涙を見ていると抑えきれないほどの憎しみを感じていたんだ」

 淳はちょっと間を置いてから、顔を少し斜め上に向けて話を続けた。

「だけど不思議なんだ。兄さんと初めて喧嘩して、こうして訳もわからず過去に来て、兄さんと路上漫才して協力したり、こうして語り合っているうちに、今では兄さんへの憎しみも嫌悪感を全く感じないんだ。それどころか、なんかとっても大事な兄貴に思えるよ!」

 淳の話を聞き終えてから、ゆっくりと駿も話し出した。

「俺もお前のことは嫌いだったよ。嫌いどころか憎しみさえ抱いていたよ。当時はよく分からなかったが、今では何故嫌いだったか分かるよ。おまえはお袋の愛を一人で受けていた。俺はお袋に愛されていると感じたことはなかった。お袋の愛はゆきがいた頃はゆきに一番多く注がれて、ゆきが死んだ後はおまえにだけ注がれていた、俺にお袋の愛が注がれたことはただの一度もなかった」駿は少し黙って間を置いてから話し出した。

「お袋の愛が欲しかったんだ!少しでもいい、お前に与える愛の何分の一でいいからお袋に愛してもらいたかった。お袋に愛されていたおまえが羨ましかったんだ。俺はお前に嫉妬を抱いていた。嫉妬は嫌いという感情になり、お前に対する憎しみに変わるのは訳がなかった」

駿は思い出した様に続けた。


 「思い出すと、ゆきの死についてお袋には責められたよ。俺自身もゆきの死が自分のせいだと責めていただけにお袋に責められたのは正直言って辛かったよ。俺がしっかりゆきのことを見ていればゆきは死なずに済んだのにってな。ゆきの代わりに俺が死ねば良かったんだとずっと思っていた。そうすればお袋にとってはお前もゆきも残って幸せだったのかも知れないってな」言いながら駿の目の奥にはキラリと光るものがあった。

 ゆきの話が出て淳も話し出した。

「ゆきの件については、僕も自分を責めていたよ!兄さんだけじゃない。ぼくもゆきのことを見ていなかったんだ。感想文を書くのを居間でゆきを見ながらやっていれば、あんなことにならなかったと。確かに兄さんほど母さんからも父さんからも責められなかったかもしれないけど、責められないだけに自分で自分を責めたものだよ。僕も思っていたよ。僕がゆきの代わりに死んでいれば、母さんも兄さんを愛するだろうし、そして可愛いゆきと一緒に幸せにやっていけるって」

二人はホテルのベッドに腰掛けて俯いてしんみりと思い出していた。


 駿も淳も話すことなく沈黙していた。沈黙を破ったのは淳だった。

「兄さんが母さんを憎んでいるのは分かっていたけど、僕が父さんとずっと馴染めなかったのは分かっていたかい?」

「えっ」駿が思わず淳の顔を見た。

「確かに父さんは兄さんだけでなく僕にも優しくしてくれた。本当の子供も連れ子も分け隔てなく接してくれたと思うよ。でも父さんは兄さんには叱る時は躊躇(ちゅうちょ)なく叱っていたけど、僕を叱る時はいつも遠慮していた。ほらっ!母さんのお腹の中にゆきがいた頃、兄さんと僕で買い物に行って、帰りに漫画の立ち読みに寄っていて夜遅く帰った時、父さんが叱ってくれたじゃない!でもあの時、父さんは兄さんを叩いたけど、父さんは僕を叩かなかった。覚えているかい?正直言うと父さんに兄さんと同じ様に本気で叱って欲しかったんだ。兄さんが母さんの愛情を受けている僕に嫉妬していたのと同様に、僕も父さんからキチンと叱ってもらえる兄さんが羨ましかった。僕も嫉妬していたんだ。父さんに遠慮せずに本気で叱ってもらいたかったんだよ。血が繋がっている子だから本気で叩いて叱ることが出来るけど、遠慮があって叱ってくれないと“他人”を意識してしまうんだ」

 淳はあまり自分の気持ちを外に出さない性質だった。そんな感情を外に出さない淳が、心の中では父真一に対してそんな思いを抱いていたというのは駿にとっては意外だった。

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