本当の家族とは!?
「自然な家庭_1」
プロローグ
赤木駿は、母親の葬式で喪主として挨拶を述べていた。
「本日はお忙しいところをお越し頂きありがとうございました」から始まるお決まりの挨拶の中に、母親との思い出を効果的に散りばめながら話す感動的な挨拶だった。駿は挨拶をたんたんと述べながら、最後に言葉を詰まらせながらふっとキラリと光る涙を浮かべた。
挨拶は前日、即興で作ったものを暗記して、最後にふっと涙を流すことも駿の計算ずくの演出であった。哀しくて流した涙ではない。母親の死に対して、駿に哀しいといった感情はほとんどなかったのだ。だが、そんな駿の涙を演技とは分からない参列者の涙を誘った。駿がふっと涙ぐみ言葉を詰まらせた時、会場からは同様に涙を堪えていた参列者がハンカチで目頭を抑え、時折鼻をすするシーンがあちらこちらで見かけた。故人を惜しんでどこでも見られる葬式のシーンである。だがそんな全体が涙ぐむ会場の中、涙ぐむどころか一人駿を険しい表情で睨みつけている男がいた。
駿と淳
彼の名前は赤木淳、赤木駿の弟である。赤木駿と淳は兄弟ではあったが、実際に血は繋がっていない。赤木駿は父赤木真一の、赤木淳は母旧姓大場多恵の連れ子だった。赤木駿の父赤木真一と、赤木淳の母大場多恵が、お互いの子供を連れて再婚したのは、駿が八歳で淳が四歳の時であった。駿は父から駿の生みの母は男を作って出て行ったと聞かされていたし、淳の父は事故で死んだと多恵に聞かされていた。
しゅんとじゅんという名前が似ていたのは偶然であるが、名前が似ていたことが二人にとっては災いでしかなかった。何かと間違えられたり比べられることが多かったからだ。父真一や母多恵は再婚する時に「名前が似ているから二人うまくやっていけそうね!」などと名前と相性を勝手に結び付けて話していた。ところが、二人の心の中はなかなか相手を受け入れられなかった。名前のことからだけではないが、彼らは兄弟同士で嫌っていたというよりもむしろ憎しみ合っていた。
駿も淳も好意的に再婚を認めた訳ではなかった。駿は父真一から再婚の話を持ち出された時、八歳と割に年齢が大きくて自我が出来てきていたので、新しいお母さんなど要らないと再婚自体には反対だった。
駿の母が男を作って出て行ったのは、駿が二歳の頃だった。駿が小さかったこともあり、駿には母の思い出がない。だが母が出て行ってから、父は男手一つで駿を育ててきた。そんな父の幸せのことを思うと、再婚話を無下に反対も出来なかったのだ。
淳の場合は母親の再婚話を聞いたのは四歳の頃だった。結婚がどういうことかもよく分からぬままに、母と知らないおじさんが結婚していて、その人をパパと呼ぶようになっていた。その頃はプレゼントを買ってくれたり、どこかに連れて行ってくれる存在のパパがいることに、さほど反対もしていなかったのだ。
駿と淳は表面上はうまく行っているように見えた。年齢で四歳離れていることもあり、お互いに血の繋がっていない二人は喧嘩などしたことはなく、口喧嘩をしたことさえなかった。駿は淳の面倒を見て、淳は駿の言いつけを聞いているようだったので、表面上は仲の良い兄弟と映ったのだ。
しかし、駿と淳自身が相手のことをどう思っているかは周囲から見るのとは違っていた。駿も淳も心を許しあった兄弟とは違っていた。喧嘩をしないように自分を抑えることに慣れていただけだった。周囲から見ると真一も多恵も自分の子供でも連れ子でも分け隔てなく公平に扱っていた。だが、自分の子供には叱ることが出来ても相手の連れ子にはどこか遠慮して本気で叱ることが出来なかった。表面上は上手くいってる家族だが、中身は妥協と遠慮と我慢と忍耐により諍いや争いがないだけだった。それでも家族として何の問題もなくやって来れた。ところが、家族の仲に大きな亀裂が出来るような事故が起きたのだった。
真一と多恵が再婚してから二年目、駿が十歳で淳が六歳の時、真一と多恵に子供が出来た。駿も淳も自分に弟か妹が出来るのを楽しみに待ち遠しく思っていた。生まれた子供は妹だった。“ゆき”と名付けられた妹は、ほっぺがぽちゃぽちゃとして可愛かった。ゆきの寝顔を見ているだけでも、駿も淳も楽しく幸せな感じがして、兄弟の仲は良くなり、二人で登下校を一緒にするようになり、この小さな可愛い妖精のようなゆきを、二人で一緒に守る様に共同するようになった。
駿も淳も父や母の言う事を聞いてゆきの世話をしていた。父や母がちょっとの間、ゆきの寝ている部屋を離れる時、駿と淳の二人でゆきの面倒を見ていた。真一は新しく子供が出来たのを機に、仕事に精を出し、係長から課長に昇進した。昇進に連れ仕事の責任と権限を持たされ、収入も上がり公私ともに充実していた。多恵も子育てに張りが出てやりがいを持って取り組んでいた。地域の子育てサークルにも積極的に参加して活き活きとしていた。真一や多恵は家族が団結していくことに小さな幸せを感じていた。
ゆきはすくすくと元気に育ち四歳になっていた。元気にまだおぼつかない足ながらもあっちこっちと歩き回れるようになっていた。駿は十四歳で中学一年生になって長身を活かしバスケットボール部に入部して、いつもハードな練習にぐったりと疲れて帰ってきていた。駿はいつの日かレギュラーになることを夢見て頑張っていたのだ。淳は小学校で大人しいながらも、読書コンクールで入賞するなど文才を発揮してクラスでも秀才として目立つ存在になっていた。
そんな家族にとって幸せの絶頂の日のことだった。真一は仕事で責任があるために、帰りは遅くなっていた。多恵はいつものお買い物に行くため、駿と淳に「ちょっと出かけてくる。ゆきの面倒をお願いね!」とだけ言葉を残して出かけていった。子供たちがゆきの面倒をある程度、見られる様になり、ゆきも四六時中ママがいなくても、泣き出さずに耐えられるようになったため、ママがお買い物の時間は、駿と淳がゆきを見ていた。
そんなお買い物の帰りに、多恵は地域子育てサークルのメンバーと出会い、つい話が弾んでしまい帰りがいつもより三十分ほど遅れてしまった。その間、ゆきを見ていた駿は、ストーブの前でウトウトとしていた。そして淳も感想文コンクールに出すための感想文を書いていた。ゆきは部屋の中をあっちこっちと好奇心一杯に覚束無い足取りで歩いていた。
冬のことで部屋にはガスファンヒーターがあった。ゆきは歩きながらそのガスファンヒーターのガスチューブに足を引っ掛けて転んでしまった。ゆきが転んだ拍子にガスファンヒーターも倒れてしまった。
ガスファンヒーターには通常、転倒した際にガスを止める転倒防止装置が付いているが、ガスファンヒーターが古かったせいか転倒してもガスは止まらなかった。ガスファンヒーターは横倒しになって黄色い炎を高くあげて燃え出していた。その黄色く燃え盛る炎は転んで倒れたままのゆきの服に燃え移った。
燃える自分の服の熱さにゆきが気付いて大声で泣き出しばたばたと手足をばたつかせた。その泣き声にウトウトと寝ていた駿が気付いた。淳も書いていた感想文をそのままに置いて気付いた。乾燥していたせいか火の回りは早かった。あっという間に火はゆきの下半身を包もうとしていた。服が燃え大声で泣き喚いているゆきを前に、駿と淳はどうしていいか分からずしばし呆然としていた。
やっと我を取り戻した駿は「水だ!水をかけろ!」と言うや否や台所に水を汲みに行った。淳も駿に付いて台所に行った。台所で鍋に水を汲んで燃えているゆきの服にかけた。二度三度と駿と淳が往復して水をかけたおかげで、ゆきの服の火は一旦は消えた。
だが、依然としてガスファンヒーターのガスは止まっておらず、ガスを噴き出して炎は治まっていなかった。駿と淳はガスファンヒーターに水をかけた。水をかけて火はいったん消えたと思われたが、シューと嫌な音をたててガスは依然として噴き出していた。それに気付いた駿が、ガスの元栓を締めようと元栓に近づこうとした時だった。噴き出していたガスは、爆発するかのようにボンと大きな音を立ててゆきを包んだ。ゆきの服に燃え残っていた小さな火にガスが引火したのだ。ゆきの下半身は水がかけられていたが上半身は乾いていた。炎は一気にゆきの上半身を包み大きな炎となってゆきを呑み込んだ。駿と淳は大人の助けを呼ぼうと「助けてぇ!ゆきを助けてぇ!」と叫びながら、玄関の鍵を開けて外へ跳び出した。
そこで、二人は見慣れた近所の大人たちに囲まれた。消防車も来ていた。火事騒動を聞いて近所の人が通報してくれていたのだ。「早くゆきを助けてー、まだゆきが中にいるんだ」と二人は消防士の一人の袖を掴み助けを求めた。消防士は「どこに誰がいるんだ?」と訊き返した。「僕の妹のゆきが、まだいるんだよー、早く助けてよう。お願いだから」それだけ聞いた消防士は颯爽と中に入っていった。それから暫くして、ゆきを抱えて先ほどの消防士は出てきた。ゆきの着ている服は焼け焦げ、服から見える腕も顔も焼け爛れていた。ゆきはすぐに救急車に乗せられた。救急車に乗っていた銀色の消防服を着た救命救急士が「お父さんかお母さんは?」と早口に訊いてきたが、動揺していた駿には「お父さんはお仕事で、お母さんは買い物」と言うのが精一杯だった。駿と淳はゆきを乗せた救急車に一緒に乗り込んた。救急車はサイレンを鳴らして街中を猛スピードで走った。救急車の中、顔全体が真っ赤に焼け爛れたゆきは目を開けることもなく、胸を上下させて苦しそうに息をしていた。
救急病院に着いてからは、ゆきは担架から移動式ベッドに乗せかえられ手術室に運ばれていった。そして、手術室の上の“手術中”のランプが赤く灯った。淳は駿の手を握り、視線は手術室を見たまま「ゆきは大丈夫だよね?助かるよね?」と不安げな声で訊いてきた。駿は淳の手を握り返し「大丈夫だよ!きっと大丈夫」と淳より自分に言い聞かせるかのように囁いた。
母多恵が病院に来たのは三十分後ぐらい、そして父真一が病院に来たのは二時間後ぐらいであった。駿も淳も父や母に連絡するところまで、頭が回らなかったが、病院からか近所の人が連絡してくれたのだろう。
病院に着いた時、多恵は取り乱していた。病院に着く早々、看護師さんに容態を訊いて、「手術中ですのでお待ちください」との返答をもらっても落ち着かなかった。駿を見つけると、つかつかと歩み寄りながら、駿の理由も訊かず駿の頬を一度二度と叩いた。「あんたが付いていながらなんてことしてくれたの!」駿は項垂れたまま黙っていた。淳は「ママ、お兄ちゃんが悪いんじゃないんだよ」と兄を庇おうとするが、多恵は「あんたは黙ってなさい!」とぴしりと言ってから「あんたたちに任せたのが間違いだったわ」と言って手術室の前にあるベンチに座り頭を抱えていた。真一は多恵よりも若干落ち着いていた。病院に着いてから多恵に容態を訊いて、駿と淳を呼び寄せて大丈夫とだけ言って、頭をポンポンと二回ほど軽く叩いてベンチに座って項垂れた。
父真一が着いてから、さらに一時間が過ぎた頃、手術中のランプが消えて、中から緑色の手術服を纏ったままの医師が出てきて「赤木ゆきちゃんのご両親ですか?」と真一と多恵の方を向いて訊いた。真一と多恵が息を呑んで頷くと、その医師は「残念ですが……」とだけ言って下を向いた。
真一は一気に肩の力が抜けて下を向き、多恵は半狂乱で大きな声を上げて泣き出した。駿は「嘘だ!嘘だろう?ゆきが死ぬもんか?あのゆきが……」と呟いていた。駿の最後の言葉は力が抜けて発せらなかった。駿は黙って下を向いていた。目からは涙が溢れて鼻筋から冷たい病院の床でピッチャーンと小さな音を立てて跳ねた。
幼気なゆきの事故があってから、赤木家の運は坂道を転がるように落ちていった。多恵は荒れて真一に当たるようになった。真一だけでは気が済まず、駿に対しても当たるようになった。「あんたがしっかりとゆきの面倒を見ていなかったから、ゆきが死んだんだ!あんたが殺したも同然だ!」と駿を詰った。そして、淳の前でも駿を詰るようにして、淳を駿から離すように距離を置かせた。駿は多恵に責められる度に自分を責めた。自分がしっかりとゆきを見ていれば、火事は起きなかったのに、母が言う様に自分がゆきを殺したも同然だ。
淳も駿と同じく自分を責めた。自分が感想文を書きながらでも、ゆきのことを気遣ってやれば事故にならなかったのに。不思議なことに、多恵が駿を責めれば責めるほど、淳は自分が責められているように感じて辛かった。
そうして、駿と淳はゆきが死んでから自責の念に刈られて、同じ家に住みながら、一緒に遊ぶことも話すことすら次第になくなっていた。顔を合わせても会話が無かった。
真一の会社はメーカーであったが、会社の工場が流す排水が公害を齎すと地域住民から訴訟が起こされ、その矢面に立たされる立場にあった。会社の上司からは「地域住民を早く説得しろ!」と指示が来ていた。万一にも訴訟になった際には、会社は真一に全ての責任を押し付けようとしていた。そして住民からは「会社としての誠意ある対応がなされてない」と責められ、中間に位置する辛い立場に置かれていた。真一は、会社では会社の上司に地域住民に責められ、家では多恵に責められて、心身共に疲れ果てていた。
ある日、会社の帳簿に記載されていないお金の使途が真一の課で指摘された。真一は、会社のお金の不正な遣い込みには全く関与していなかったが、「赤木さんが会社の金を使い込んでいる」と噂がいつしか流れた。噂自体は真偽の程を調べれば判明することだったが、会社の上司の中には遣い込みをあやふやにするために、真一に罪を被せようという考えを抱いている者がいた。
真一を課長に引き上げた部長の高原だった。真一は高原の推薦で課長になって以来、高原を尊敬し高原に定年までついて行こうと決めていた。高原は自分の遣い込みであることがばれない様に、誰かに罪を被せる必要があった。一番自分に忠実で自分の事を訴えたりしない真面目な人間、それが高原にとっての真一だったのだ。真一は高原部長に呼ばれ遣い込みについて問い質された。真一が否定するのを無視して、高原は、真一が会社の金を私用で遣い込んだと決め付け自主的に退職を勧めた。真一のショックは相当なものだった。尊敬していた高原が自分を疑っている。真一は誰にも言わず三日間過ごした。誰にも相談出来る人が周囲にいなかったのだ。
多恵はゆきの死後、やたらと真一の昇進にこだわった。周囲の人たちに同情や憐れみを受けるのが耐えられなかったのだ。そんな時、真一が昇進してくれれば、彼女たちを見返し、逆に自慢できると思っていた。多恵が「ねえ、あなた、いつ部長になれるの?」と訊く数日前に、真一は高原から自主退職を勧められていた。真一は課長になった時、高原部長の名前を出して多恵に嬉しそうに語っていた。そして、ことあるごとに「高原部長に昇進の話をしてみては」と真一に話す多恵にその尊敬する高原部長から自主退職を勧められているなど、真一には到底相談出来ず追い詰められていた。真一は現状から逃げたかったが逃げる場所すらなかった。
次の日、真一はいつもの様に会社に行ったものの仕事をするでもなく呆然としていた。真一は昼休みには会社のビルの屋上にいた。自分にはどうしようもないように思えた。せめて会社への無言の復讐として会社の屋上を選んだのだ。真一は大空に向かって羽根が生えたような気がした。そして大空に悠々と流れている雲に向かって大きくジャンプした。ビルの屋上の端から大きなジャンプをして、真一の体は大空を飛ぶどころか落下して行った。
落ちていく真一の脳裏には、過去が走馬灯の様に駆け巡ってなどいなかった。大空をどこまでも飛んでいく鳥のように自由に羽ばたいている姿をイメージしたからか、それとも苦難という足に付けられた錘が外され軽くなったからか真一の顔は安らかな顔をして笑っていた。
真一が亡くなったのは、駿が十八歳で淳が十四歳のことであった。真一の死後、新聞や雑誌は、赤木真一が課長として会社のお金を遣い込んだのを苦に自殺したと報道した。赤木一家に対する風当たりは強く、会社の金を横領した者の家族として、メディアは毎日の様に責め立てた。駿も淳も学校では横領した息子というレッテルで苛められるようになった。自殺であったため生命保険も出なかったし、会社からは横領ということで退職金すら出なかった。家族には横領者の家族という汚名だけが残った。
メディアの影響は大きく、多恵は働きに出ようにも「横領者の家族も横領するに違いない」といった偏見から働き場所もなかなか見つからなかった。やっと弁当の詰め合わせのパートやスーパーのレジのパートの職を見つけるのが精一杯だった。
駿は高校三年生だったので高校を卒業後働きに出た。駿の真面目な人柄もあって、父の汚名を負いながらも、なんとか中堅どころの事務系機器のリース会社の営業として就職出来た。父真一の馴染みの社長に人柄が気に入られたため採用に至ったのだ。駿は高校を卒業してすぐに家を出た。家を出ることはずっと前から考えていた。だが、稼ぐ当てがなかったので時期を待っていたが、父の自殺で家を出る時期が早まっただけのことだ。
多恵は、駿が出て行くことに、内心喜んではいたものの、表面上は反対の振りをした。弟への仕送りをするということを条件として駿が家を出ることに同意した。
会社の寮に入ることになっていたのでアパートなどに住むよりは安いとはいえ、給与の半分を仕送りするのは辛かったが、駿は早く家を出たいという思いが強かったため、給与の半分を弟淳の仕送りとして送ることを約束した。
淳は中学校の卒業まで一年間あった。多恵の稼ぎと駿の仕送りで中学校を卒業した。だがそれ以上、多恵や駿に世話になって高校にまで行きたくなかったので、中学を卒業すると同時に働きに出ることにした。とはいえ、中卒の淳には就職戦線は厳しいもので、就職はなかなか出来なかった。長年、右肩上がりで経済成長を遂げていた日本経済のバブルが弾けたのだ。駿の就職の時には、バブルが弾けてはいたものの就職活動は依然として売り手市場が続いていた。ところが、淳の就職する時には就職戦線が一気に冷え込んだ。淳は何社も回って、やっと担任のツテを頼りに自動車板金の整備工として職を得ることが出来た。
本当のことを言うと、淳は作家になりたかったので、出版関係の会社に就職して勉強したいと考えていた。しかし、応募した出版社は全て不採用になり、家の経済的な事情もあり、とにかく何でもいいから職を得て生活費を稼がないといけなくなった。
駿は自分が稼いで、母や弟淳のために仕送りすることを無理に約束させられたこともあり、淳の母多恵には良い感情を抱いていなかった。母多恵の愛情は、血のつながっていない駿よりも実の子の淳に注がれていると常日頃から感じていた。そんな母への憎しみの感情と裏腹に、駿は心の奥底で母の愛情に飢えていた。淳がいなければ、母が少しでも駿を愛してくれるのではないかと思ったりもしたものだ。駿を可愛い弟というよりも邪魔な存在として考えていた。
淳は、父親の自殺で自分は中学校を卒業する事しか出来ず、父のせいで学校では「横領課長の息子」として苛められていた。自分を苦労のどん底に落とし込んだ父真一が憎かった。そして父の死後は、その憎しみは兄の駿に向かうようになった。駿が高校を卒業して働くようになってからは、駿が「淳の学費は自分が全て賄っている」と友達や親戚に言っているのを聞いて、駿に対する嫌悪感は憎しみに変わった。淳は一人でものを書くことが好きだった、小学生の頃、感想文コンクールで入賞してからというもの、一人で何かを書いていることが好きになったのだ。そのためには、高校を出て大学に進みたかった。だが、駿の世話になって高校そして大学に進学することなど自分のプライドが許さなかった。奨学金という手段もあったが、学業に現を抜かしているよりも、お金を稼ぐごとがより重要に思われたのだ。
一緒の屋根の下でも、いつしか駿と淳の二人は会話が少なくなり、コミュニケーションの欠如が、お互いの相手に関する感情をネガティブなまま固定して、思い込みとして意識の中に定着していた。二人の仲は修復されることなく、かといって喧嘩してやり合うでもなく、冷たい関係としてお互いに相手を嫌っている。それどころから憎んでさえいる状態のまま年月は流れた。
駿が高校を卒業してから、十八年の月日が流れた。駿と淳は一度も会うことがなかった。そして、母多恵が他界し葬式で十八年ぶりに駿と淳は出会った。
父真一の喪主は多恵が務めたが、母多恵の喪主は長男である駿が務めたのだ。喪主は順序から言えば、長男の駿が務めることは、淳も納得していたが、早々に母多恵を放り出して出て行った駿が、作り涙を浮かべて挨拶をする姿に、淳は怒りと憎しみの炎に身をきりきりと焼かれる思いだったのだ。
多恵は胃癌だった。数ヶ月の間、淳が多恵を看病した。駿はお金だけは送ってきたが、多恵が病院に入院しても、一度も病院に訪ねて来ることはなかった。入院費は駿に負うところが多かったが、淳は駿に感謝するより、ますます憎しみの炎に身を焦がしていだ。
十八年間が過ぎて駿は三十六歳になっていた。二度転職をして、今は一流総合商社の購買部の部長補佐を務めていた。キャリア出世を果たしたと言えるだろう。購買部の部長補佐になってから、商品の買い付けは部下に任せるようになったとはいっても、問題があったり重要な取引には、部長を補佐して駿が出かけていくことがよくあった。部長補佐とはいっても、部長を補佐するだけではなく、部長の代理として取極めを行う権限も与えられていた。駿は仕事でいつも大変忙しかった。一年の半分近く家を留守する生活を続けていた。
駿は結婚して八歳になる女の子の香澄ちゃんと六歳になる男の子の徹君がいた。世田谷に豪邸と呼べる程の大きな家を構えていた。奥さんは誰もがはっとするような美人という感じよりは、むしろ可愛らしさが残る元タレントの女性で名を早苗といった。駿はまさに絵に描いたようなサクセスストーリ―を進んでいた。
一方、淳の方はこの十八年間に八回職を変えた。いろんな職を転々とした。一番長く勤めた会社も二年間は続かなかった。「自分に適した職があるはずだ。自分を必要とする会社があるはずだ」と思い続けていたが、それも一年前から時々期間的にアルバイトをする所謂フリーターの生活をしていた。
淳は結婚こそしていなかったが、同棲していた恋人がいた。恋人の名は明子と言った。明子は淳より二歳年上の三十四歳だった。以前、淳が派遣の仕事で出向いていた会社で、バリバリと働くキャリアウーマンといったイメージの女性が明子だった。部署の打ち上げのパーティーで、淳の方から声をかけたのがきっかけだ。お互いに親近感を持ったのか、二人の間は急速に深まって、同棲するまで長い月日はかからなかった。淳は明子の部屋に入り浸るようになり、そのまま荷物を持ってきて居着いてしまった。明子は大手の広告代理店に勤めており、明子の年齢を考えてもマンションの一室を買い取れる程の収入があることから考えても、明子のキャリアウーマンぶりは会社の中でも飛び抜けている存在だった。淳も結婚を考えたことがなかった訳ではない。だが、自分の収入と安定性を考えると、明子に収入面で頼って生きていく生活では自分がやりきれないと思い結婚には踏み切れなかった。
淳は明子の部屋に同棲していることについて、ひものような男としての情けない気持ちを味わっていた。淳は「このままではいけない!自分を変えるんだ!」と思いながらも、ズルズルと明子との関係を続けていた。明子も仕事が面白く、今の生活を壊したくないと見えて、結婚については言わなくなっていた。
駿は、九年前に早苗と結婚する際に、結婚式と披露宴に淳と多恵を招待した。蟠りはあっても招待しないというのは世間体が悪かったからだ。世間体のためもあるとはいえ、駿は多恵はともかく淳との久しぶりに出会えることを楽しみにしていた。ところが、結婚式には多恵は出席したが、淳は欠席となっていた。淳は仕事で忙しいという理由で欠席した。ところが、結婚式の当日は、淳は特に用事があった訳ではなく一人で飲み屋のグラスを傾けていた。成功している駿の姿を客席から見るのが耐えられなかったのだ。淳にも嫉妬など意味がないことは百も承知していた。だが、幸せそうな駿の姿を見ていると、妬みで自分が駄目になってしまいそうに思えたからだ。
そして、結婚式の花婿側の親類縁者の出席者は多恵一人という結果になったが、その分を会社の上司や同僚が出席して盛り上げてくれた。花嫁側は元タレントということもあり、出席者は多数いてテレビ撮影こそ遠慮してもらったが、大勢の参加人数となった。おかげで、花嫁側の出席者が六割から七割といった人数比になった。多恵は駿を祝福するというより、自分が出席しないわけにもいかないと、半ば義務感で結婚式と披露宴に出席してくれた。誰も話す人がいない多恵は席で肩身も狭かった様でポツンと寂しそうに見えた。駿は淳が特に用事がないことは知っていたので「例え蟠りがあったとしても儀式には出席するもんだ。淳は子供過ぎて付き合っていられない」と憎しみの感情だけが増幅されていった。
そんな蟠りも消えるどころか、さらに深まっていった時の急な母多恵の死だった。駿も忙しいし、多恵に恩義を感じている訳でもなかったので、葬式には欠席しようと思ったが、結婚式に多恵が一人で参加してくれたことを思い出して、他の仕事をキャンセルして出席することにしたのだ。駿も多恵が胃癌で入院していたのは知っていた。だから恩義を感じて多恵の入院費を受け持って支払っていたのだ。
葬式も滞りなく終わり、慌しかった日も終わりを告げ夜を迎えていた。元々、親戚との付き合いもそんなになかったので、葬式の日の晩に親戚が朝まで騒ぐといったこともなかった。駿の家族も帰り、淳の恋人明子も帰っていった。多恵の家、すなわち駿も淳も子供時代と学生時代を過ごした家には、駿と淳だけが取り残された。ざわざわとしていた雰囲気も今は対照的にシーンと静まり返り呼吸の音さえ聞こえるほどの静寂が訪れた。
「やっと終わったな!」口火を切ったのは駿だった。ネクタイを緩めながら、淳の方を向くともなしに話した。ここでやっと駿は、淳の方を向いて「お前も疲れたろう!」と声をかけた。淳は拳を握り締めて下を向いて黙っていた。駿は、返事がない淳の顔を覗き込むように見た時、淳の顔が怒りに紅潮しているのを初めて見て取った。
「きっ貴様、何であんな心にもないこと言ったあ!」淳の声は腹の底から搾り出すようなうねりのある低い声だった。駿は訳分からずにじっと淳の次の言葉を待った。淳は次の言葉を続けた「何で、式の挨拶の場であんな涙を誘うようなことを言った!」そこで、淳は駿の方に向き直り「あんな心にもないことをぉ!何もしてないくせにぃ!」と腹の底から声を絞り出した。駿は淳の怒りに圧倒されてちょっとどもりながらも答えた。「あっああ、あれか?なかなか良い演出だっただろう。参列者のお涙頂戴って感……」駿が最後の言葉を言うことはなかった。駿は淳に殴られもんどりうって箪笥に頭をぶつけた。
「あぅぅ」思わず駿の口から呻き声が洩れた。「ふざけるな!この野郎!」淳は倒れた駿に伸し掛かりさらに一発ニ発と殴りかかった。三発目を殴ろうとした淳の右の拳を駿は腕でガードし、その淳の右腕を引っ張り淳のバランスを崩した隙に体を入れ替えた。上になった駿は、間髪入れずに淳の頬を思い切り殴った。
二人は今まで口喧嘩も含めて、喧嘩という喧嘩をしたことがなかった。父の真一や母の多恵に遠慮していたのかもしれない。口喧嘩や喧嘩といったコミュニケーションどころか、会話も含めたコミュニケーション自体がほとんどなかったのだ。それが、ふと偶然に二人きりになり、喧嘩するコミュニケ―ションをするチャンスに巡り合えたのだ。
二人の喧嘩は、パンチや蹴りだけでなくプロレス技の応酬と、誰に遠慮することなく一時間程続いた。一時間喧嘩して勝負がついたわけではなかった。ただ二人とも息が上がって疲れてしまって仰向けに天井を眺めていた。再び静寂が訪れた。静寂の中に二人の荒く激しい息遣いと、時々咳き込む声だけが聞こえてきた。二人の汗が発散し部屋の中はムンムンと蒸していた。二人とも、ワイシャツも礼服もネクタイも乱れ破けて、酷い姿になっていた。二人は荒い息遣いが治まるまで、暫く仰向けになって天井を眺めていた。
最初に静寂を破ったのは淳だった。淳は、天井を眺めたまま、駿の方を見ることなしにぼそりと呟いた。「駿、ぼっ僕は、ずっとお前が嫌いだった!憎んでいた!」駿は天井を向けていた顔を淳に向けてじっと淳を見た。
「俺もな!」駿もぼつりと返した。「俺もお前が大嫌いだ!憎んでいた!」と駿ははっきりと淳の顔を見て言った。淳も駿の顔を見て二人で顔を眺めた。
「はっはははは」二人は顔を見合わせたまま笑い出した。「ははは、お前のその顔ははっは」「お前こそ、なんだその顔は!はっはは」笑いながら咳き込んだ。二人は上半身を起こしお互いの顔を見合わせてまた笑った。いつもシャンとしている相手の顔や身なりがぼろぼろになっているのが、どうにも可笑しかったのだ。
「ああ、やばい!僕、礼服もう予備がないんだ!」笑っていた淳が真剣さを取り戻し言った。「ああ、俺も礼服の替えないな。今からでは買うことも出来ないなあ」と駿も言った。「なんだよぉ!兄さんみたいに金持ちでも替えの一つや二つ持ってないのかぁ」と淳は言った。駿は淳の言葉に返すことなく淳をじっと見ていた。しびれを切らした淳が「なんだよぉ!何で返してこないんだよぉ!」と言った。「お前、久しぶりに俺のこと、兄さんって呼んだな」と駿が感慨深げに言った。「そういえば、子供の頃は、お前、俺のこと駿兄ちゃんって呼んでたもんなぁ」と駿は淳から視線を宙に移して言った。淳は照れて「うるさいなあ!」と下を向きながら小さな声で言った。
翌日の納棺には駿と淳は喪服を着ることなく、黒っぽいスーツで誤魔化したものの、顔もかなり殴り合っていたので生傷は隠せるわけもなく二人で顰蹙を買ってしまっていたが、ちょっとだけ駿と淳の二人の顔には笑顔が見えた気がした。
母多恵が死んでから六年が過ぎた。駿は四十二歳になり益々忙しい日々を送っていた。男の厄年ではあるが、駿はそういった厄といったことに全く興味がなくお払いをしてもらうこともなかった。上の娘の香澄は十四歳の中学二年生、下の息子の徹は十二歳の小学六年生になっていた。
駿は、仕事の忙しさにかまけて家族と過ごす時間が少なくなり、仕事時間の後も接待も含めた仕事に追われ、休みも接待ゴルフだけでなく会社に行ったり、休みを利用して海外に行って商談をまとめて、休みも取らず働く日々が続いていた。家庭に帰れない日も多かったが、家庭に帰ってきても、娘も息子も妻さえも先に寝ている深夜の時間帯に帰宅していた。いつも晩ご飯を家で食べる訳ではなく、せっかく用意しても食事が冷めてしまうということと、後片付けが面倒だということで、駿の晩ご飯は用意されていなかった。駿も外で食べるようになっていたが、たまにはコンビニで買ってきたお弁当を電子レンジで温めて、皆が寝静まった夜中に食べることもよくあった。朝は、子供や妻が起きる前に出かけて、喫茶店で新聞を読みながらコーヒー付きのモーニングセットを取るのが日課になっていた。朝から晩まで仕事一筋のワーカホリックという言葉は彼のためにあるようにさえ思えた。
駿は仕事の忙しさのために家庭のことは無関心になっていた。朝は妻や子供たちが起きる前に出かけ、夜は家族の皆が寝静まった後に帰ってきた。家族は何の問題もなく上手く行っているものと思っていた。何の疑いを抱くことさえなかった。
ある日、仕事中に妻の早苗から携帯電話にメッセージがあった。すぐ電話して欲しいとのことだった。その時、駿は大事な会議の議長役をしていたこともあり、携帯電話の電源を切った。会議は思った以上に長引いて、家に電話したのは夜八時を過ぎていた。「早苗か?どうした?何かあったのか?」家に電話をかけた駿は、前置きももったいないかのように本題に入った。「あら、あなたなの!」早苗からは気のない返事が返って来た。「会議中だったんだ。仕事中には電話してくるなって言っていただろう!」その言葉を聞いた早苗の言葉はいきなりヒステリックにトーンが高くなった。「何よ!家庭の大事な時に家族を放ったらかして!そんなに仕事が好きだったら、仕事と一緒になりなさいよ!会社に寝泊りでもして家には、もう帰って来なくていいわよ!」早苗の突然の甲高い声に、態度を変えた駿は「悪い、悪い、ちょっと大事な会議の議長をやっていたもんだから。それでどうした?」と言った。「ふん、いい気なものね。私が香澄の中学校に呼ばれたっていうのに!」先ほどよりはトーンを抑えた早苗の声が返ってきた。香澄の中学校から親が呼ばれたと聞いて、駿の心は動揺して「どうした!香澄に何があったんだ!」と訊いた。「香澄が援助交際してるんだって!」早苗は語尾がヒステリックに甲高い声で怒鳴って、駿の返答も待たずにガチャンと受話器を切った。駿の耳にキーンと受話器を切られた余韻が残った。「なんだよ!あいつは、もう!」駿は携帯電話の通話を切って、バタンと携帯を閉じた後、「香澄が援助交際だって!?そんな馬鹿な!香澄はまだ中学二年だぞ!」語尾に自信のない駿の言葉は、誰もいない廊下で駿の心が大きく揺れている証拠だった。
早苗との電話の後の駿は、不安な心ばかりが先走りそわそわと居ても立ってもいられなかった。体調が悪いと言う理由で会社を定時に退社した。会社を定時に終えるというのは駿にとっては珍しいことで、皆が「赤木さん、今日は早いですねえ」と声をかけてきた。「ちょっと体調が悪いんだ」と答えると、「お大事に!」と声をかけられた。駿は仮病に慣れておらず嘘をつくことに気恥ずかしさを感じながら慌てて会社を後にした。
家に帰宅した時は午後七時半ほどだった。家のドアの前で一つ深呼吸をして、駿は「よお、ただいま」と努めて明るい声を出しながら鍵を開けて家の中に入った。駿のいつもと違う帰宅時間に食事をしていた早苗と香澄と徹は目を丸くして驚いていたが、駿が居間に入ると香澄と徹はそそくさと食事の片付けをして部屋に戻って行ってしまった。妻の早苗が、食器を片付けながら「どうしたの?こんなに早く」と訊いてきた。駿は頭を掻きながら「何言ってんだ?だってお前が、香澄が援助交際してるなんて言うから、仕事も手につかず帰ってきたんじゃないかぁ!」と当たり前のことを訊く早苗にちょっと苛立ちを隠さずに言った。早苗は食器を台所に運びながら「あら、あなたにも父親らしい心が残っていたのね!でも早く帰って来ても、あなたには何もできないでしょ!」と棘のある言葉を残して台所に去って行った。
お風呂に入って簡単に食事をして一段落してから、駿は香澄の部屋のドアをノックした。トントン。中からは何も返事が返ってこなかった。「入るぞ」とドアを開けようとした時、「何?なんか用?」香澄の棘のある声が返ってきた。「ちょっと話をしないか?」と駿は言いながらドアを開けた。「何だよ!人の部屋に勝手に入って来んじゃねえよ!」と香澄の声が返ってきた。香澄は駿のことを睨んでいた。駿は無言で香澄の部屋に入って香澄のベッドに座った。「汚ねえな!オヤジの臭え匂いがベッドに移るだろうが!」との香澄の声を無視して駿は話し出した。「お前、父さんに話すことがあるんじゃないか?」と内心は怒りを爆発させたいところを抑えて訊いた。「おめえに関係ねえだろう!」と口汚く言う香澄の言葉に駿も抑えていた怒りが爆発した。「それが、父さんに向かって言う言葉か!今日、母さんから聞いたぞ!援助交際などしおって、何を考えてるんだ!お前はぁ!」香澄は間髪入れずに「何言ってんだよ!父親らしいことなんて何一つしねえくせに、何父親ぶってんだよ!今日だって、学校に来たのはおめえじゃねえだろう!」と激しい口調で駿を責めた。駿は言葉に詰まってしまった。「出てけよ!部屋から出てけよ!おめえなんか父親じゃねえよ!こんな早く帰ってきて、偉そうに父親面してんじゃねえよ」と香澄は駿を部屋から追い出してしまった。ドン、ドン、「香澄、開けろ、こらっ!」と怒りに任せて強くドアを叩いたが、中からは何の返答もなかった。見渡すと徹が駿を見ていたが、駿が徹の方を見ると、ドアを閉めて部屋の中に入っていった。駿は仕事一筋に生きてきて、娘がこんなに荒れているとは気付かなかったのだ。「どうして私がみんなのために会社で働いていることが、何故分からんのだ」駿は力なく呟いた。
香澄のことは気がかりではあったが、何も出来ず話をするチャンスさえなく数日が過ぎた。香澄との一件以来、駿はなるべく早く家庭に帰るようにしていたが、香澄は駿と口を利くどころか顔を合わせることもなかった。徹も駿が訊いたことに「うん」とだけ答えるだけで何の話も返ってこなかった。何かというとすぐ部屋に行ってゲームばかりをしていた。そんなある夜、駿が帰宅して寛いでいると、家の呼び鈴が鳴らされる音がした。早苗が玄関で応対している所に駿も居合わせた。訪ねて来たのは徹ぐらいの男の子とその母親だった。男の子はずっと下を向いていた。
「お宅の徹君と同じクラスの林と言いますが、お宅ではどういう教育なさっているんですか?」突然母親の方から話し出した。この母親はかなり怒っているようだった。
「どういうことでしょうか?」と早苗が相手の怒りに押されながらも相手の目的を探るように応対した。
「どういうことじゃないでしょう!お宅の子供がうちの子を苛めていたというのにしらばくれる気ですか!お宅の息子は学校でも有名な苛めっ子らしいじゃないですか!知らないとは言わせませんよ!」相手の剣幕は相当なものだった。
駿と早苗は顔を見合わせた。「何かの間違いではないでしょうか?まさか、うちの徹に限って……」と駿が言った。
「冗談じゃないですよ!お宅のお子さんによく訊いてみてくださいよ。今日、学校から帰ってきた家の子の様子が変だったので気にはしていたんですが、夜になって私のバッグからお金を取っている所を見つけて、訳を訊くと泣きながら、お宅のお子さんにお金を持ってくる様に脅されていたって言うじゃないですか!苛めも今回が初めてじゃなくて万引きをやらされたり蹴られたり殴られたりしたって言うじゃないですか!うちの子、すっかり怯えてしまって学校に行きたくないって言ってるんですよ!一体どうしてくれるんですか!」
駿と早苗は全く初耳のことばかりで俄かに相手の言うことを信じられなかった。
「お話はよく分かりました。ただ、息子にも事情を聞いてみないとなりません。息子に事情を聞いた後で、改めてお宅に訪問致したいと思います」と駿は言って後日訪問するということでその場を取り繕った。
「全く話にならないわ!親が子供がやってること知らないなんて!よく親をやっていられるわ!」ドアを勢いよく閉めて、母親は男の子の背中を押して剣幕のまま帰っていった。
母親と男の子が帰った後で、駿は一方的に言われた行き場のない怒りを徹に向けた。「徹、徹―、降りて来い!」叫びながら、徹の部屋のドアをドンドンと叩いた。徹が「なあに!うるさいなあ!」と言いながら部屋から出てきた。駿は、部屋から出てきた徹の肩を掴んで前後に揺らしながら「おまえ学校でクラスの子を苛めたのか?答えろ!」と興奮して唾を飛ばしながら問い詰めた。
「しょうがないよ、だってあいつはドンくさいんだもん。あいつは苛められて当然なんだよ!苛められる運命にあるんだよ!」と徹は悪びれもせず、苛めたことを悪いとも思っていない口ぶりで言った。パシーン、駿の平手が徹の頬を赤くした。徹の頬を平手で叩いた駿の目は涙で潤んでいた。
徹は一瞬虚を衝かれたように驚いてから、叩かれた頬を手で抑えながら、顔は駿を睨んでいた。思えば駿が徹を叩いたことは初めてのことだった。「父さんなんか大っ嫌いだ!」と叫ぶと部屋に篭ったきり出てこなかった。駿は何も言えず徹の部屋の前で立ち尽くしていた。
駿は会社に行っても仕事に身が入らなかった。ミスの少ない駿にしては珍しくミスを連発した。香澄も徹も一体どうしたって言うんだ。子供の時はあんなに素直で良い子だったのに、いつからあんなことをするようになったんだ。いつからあんな不良のような言葉を使うようになったんだ。きっと早苗が甘やかしたのが原因なんだ。結局のところ、考えてはみても駿にはどうしたらいいか考えが思いつかなかった。
その日は取引先とランチを一緒にする約束をしていたので、取引先の近くのレストランに食べていた。ランチを食べ終わって会社に帰る時、ふと早苗に良く似た女性を見かけた。よく見るとやはり早苗だった。なんだ、随分化粧してめかしこんで、こんな所まで買い物に来ているのか。「おーい、さ……」早苗と呼びそうになって慌てて口を抑えた。早苗のところに走り寄って来る男性に気付いたからだ。早苗は、その男と腕を組んで頭を男の肩に擡げて歩いて行った。駿は気付かれないように後をつけた。二人が消えていったのは都内にある小さくてお洒落なラブホテルだった。二人の挙動からしてかなり慣れた感じだった。
駿は彼らがラブホテルに入って行くのをポカンと口を開けて見送ってから、ラブホテルの前にある小さな煙草屋に座っているおばさんに「今、ラブホテルに入って行った二人はよく来るのかな?」と訊いた。話好きと見えるおばさんは「毎日の様に来てるよ!全く近頃の若い者はこんな真昼間からよくやるよねえ!」と答えてくれた。煙草屋のおばさんはそこまでしゃべってから「ところであんた、どなた?」と怪訝な顔で駿を見た。今入って行った女の夫ですとは言える訳もなく「いや、今入って行った奴の友達なんだけど、あんな彼女がいるなんて聞いてなかったものだからさ。今度あったら冷やかしてやる、あいつめ!」と努めて明るく言い訳した。おばさんは疑うことなく「そうかい!あんたの友達もよくやるよねえ!奥さんとかいないの?」と訊いてきたが、駿は煙草屋のおばさんの質問に答えずにそのままラブホテルを後にした。駿の背中で煙草屋のおばさんは「全くもう今の若いもんは!」と言っていた。駿は動揺してどこをどう歩いて会社に帰ったのか分からなかった。
その夜、駿は久しぶりに早苗のベッドに入っていった。「久しぶりにいいだろう!」と言いながら、早苗のお尻に触った。早苗は「止めてよ!その気にならないの」と拒絶した。それでもしつこく触りだす駿に早苗が「止めてよ!その気にならないって言ってるでしょ!」と強い口調で拒絶した。
早苗の態度に駿はついカッとなって「ふざけんな!他の男とは出来て、俺とは出来ないってのか!知らないとでも思っているのか?今日、おまえが男とラブホテルに入るのを見たんだぞ!」と怒りをぶつけた。
早苗は驚きの表情を一瞬浮かべたがすぐに開き直った。「見ていたのね!陰険な男!でもあなたが悪いのよ!いつも私そっちのけで仕事ばかり。あなたが悪いのよ!」と叫んで泣き出してしまった。
駿が仕事に没頭していた時期に、駿の家庭は大きな亀裂が生じて壊れていた。そして駿は壊れた家庭に問題が起きてからやっと気付いたのだ。駿は無言で部屋に帰り、その夜は一睡も出来なかった。その夜だけではなく、その夜以降、駿は眠れない夜を幾つも数えた。だがそんな状態も長くは続かなかった。
家族の中では会話がまるでなくなった。家族でありながら、お互いに避けるようになり、一緒に居間にいることがなくなり、家族団欒という暖かい空気は家庭の中にはまるでなくなった。それでも駿は早苗に香澄に徹に話し掛けたが、誰一人として返すどころか、皆自分の部屋に篭ってしまう。冷え冷えとした家庭の状態で、駿は居心地の悪さを感じており駿は家に帰りたくなかった。
それまでは仕事で遅く帰っていたが、今は家に帰るのが嫌なので、会社や飲み屋で時間を潰して帰って遅く帰宅していた。飲みながら同僚に家庭の愚痴を言ったりするので、一緒に飲みに行く同僚もいなくなった。誘っても用事があると言って断られた。同じ家に暮らしていても、心はバラバラで修復出来ずにいる苦しい状態の家庭に戻りたくなかったので、一緒に飲む相手がいなくて一人でも酒場で飲んでいた。
家庭にいるのが辛いと感じていたのは駿だけではなかった。香澄や徹は友達の家に泊まり歩く様になっており、早苗でさえも実家に帰って泊まったりと、家族は皆同じ家に家族と一緒にいることを避けている様だった。ある晩、駿がいつもの様に一人で飲んで帰ると、居間の電気がまだ点いていた。駿が帰る頃には、皆自分の部屋に入ってしまっているか、どこかに出かけていたので、居間の電気が点いていることなど珍しいことであった。居間に入ると早苗が起きて椅子に座って待っていた。
駿と早苗の仲が拗れてからというもの、夫婦の夜の営みどころか言葉を交わすこともなく顔を合わせることもほとんどなかったので、駿は早苗と顔を合わせても一緒の空間にいる居辛さを感じた。家族というよりも他人行儀な言葉しか出なかった。
「なっなんだ、起きてたのか?」と言う駿の目は早苗の顔から背けていた。駿の質問を無視して、早苗は「はんこを下さい!」とだけ言ってドンと駿の前のテーブルの上にぺらぺらの紙を置いた。駿が置かれた紙を読んでみると、離婚届と印刷されてあり、既に妻の欄に早苗の名前と印が押されていた。駿は思わず早苗の顔をじっと見た。早苗の顔は駿を見ていなかったが、横顔は無表情で何の感情も読み取れない能面の様に無表情だった。しばらく早苗の横顔を見つめていた、駿は思い出したように息を吐き出した。息をするのも忘れるくらいのショックだったのだ。
駿は一呼吸おいてから言葉にしたが心の動揺を隠せなかったため「こここれはどういうことだ?じょじょ冗談のつもりか?」とどもってしまった。早苗は答えもせず駿の顔を見もしなかった。駿は肩を落として「わかった!これがおまえの答か!だが子供たちはどうするつもりだ?まさか、あのホテルで会った男と……」と訊いた。駿には、子供たちが新しい早苗の男とやっていくなんて許せなかった。そこへ早苗が答えるより早く、居間のドアの方から声がした。「私たちなら大丈夫。おじいちゃんおばあちゃんの家に行くから。おじいちゃん、おばあちゃんも『おいで!』って言ってくれてるし」駿がドアの方を振り向くと、ドアの所に香澄と徹が冷たい笑みを浮かべながら立っていた。
駿の両親は既に他界していたが、早苗の両親は健在だった。おじいちゃん、おばあちゃんとは早苗の両親のことだ。全ては準備万端に計画されてのことだった。早苗も香澄も徹も、そして早苗の両親も皆知っていた。皆で考えて駿がどうしようも出来ないようにして最後に駿に話したのだ。駿と早苗の問題にも関わらず、駿は除け者にされて皆で決められてしまっていた。駿は深く大きな溜め息をついた。
追い討ちをかけるように早苗が「離婚しても子供たちの養育費は結構よ!離婚後も子供たちにはいつでも会っていいわ。但し、子供たちが望めばね!」と言ってフンと軽く鼻を鳴らした。
即座に「私たちはパパになんか会わなくてもいいわ。むしろ会いたくないから来ないで!」と香澄が言った。徹が強い意志を持って頷いて見せた。駿は暫く考えを巡らせて、再び大きく深い溜め息をしてから言った。「分かったよ。全てお前達の好きにしたらいい。離婚届には判を押すよ」諦めた口調で駿は話した。駿は離婚届を見ながら、こんなぺらぺらの紙一枚で家族の絆が切れることに憤りすら感じた。
駿は話している時、家族の誰の方も向いていなかった。誰かを向いて話していたら悔しくて泣けてきそうだったからだ。「何がいけなかったんだろう?一体何が?」そんな質問ばかりが、ぐるぐると渦巻いていた駿の頭の中の言葉を一人誰にも聞こえない程小さな声で呟いた。
淳は母多恵が死んでから転職をした。文章を書く仕事が好きだったため、ずっと小説を書き続けていた。今まで何度となく出版社の新人賞に投稿していたが、一度も入賞したこともなかったし入選すら経験がなかった。ところが、母多恵の死後、自分が書いてきた小説が新人賞に受賞したのだ。新人賞に応募してはみても駄目だと思って忘れていた矢先のことだった。その頃には、淳は明子と別れていた。自分独りで自分を見つめ直したいと思ったからだ。長すぎた春というのだろうか、明子と結婚というタイミングを逃した以上、再び結婚の言葉を口にすることは淳にも明子にもなかった。
母多恵の死後、淳は明子のマンションを出た。多恵が住んでいた家を売りに出し、父と母が使っていた家具なども全て売れるものは売って金にした。その金を元に四畳半のアパート一部屋を借りて生活していた。そのアパートに暮らして小説を書くことに没頭していた。
淳はアパートに一人で住むようになってから、明子に別れ話を持ち出した。明子は別れ話に涙も見せずに、最後に東京の夜景が綺麗な高層ビルでディナーを共にして、その足でお洒落なシティーホテルでベッドを共にして愛し合った。翌朝には身なりを整えて「二人振り向かないで生きて行きましょう!」それが明子の最後の言葉だった。さっぱりした別れだったが、さっぱりした性格の明子ならではの別れだったのだろう。淳も明子のペースで涙も見せずに振り返ることもなく別れた。
そうして淳は自分の書いている小説に没頭した。昼も夜も昼夜逆転して書き続けた。そうして半年間かかって書き綴ったものを出版社に送っていた。それから一ヶ月程してから、出版の話が持ち上がり、校正なども終えてトントン拍子に出版された。それから淳の小説家としての道が開けた。その場限りのアルバイトで収入を賄っていたのが安定的に収入を得られるようになり、収入も少しずつ上がっていき、自分の家を持てるまでになった。その早さはスピード出世と言われる程のサクセスストーリーだった。
そして多恵が死んで六年の後、駿の人生がどん底に転がった時、淳は出版社の出版パーティーで知り合った女性と結婚した。出版社に勤める彼女は、淳の本の読者でありファンでもあった。パーティーで知り合った二人はトントン拍子で話は進み、出合って一年で結婚を果たした。彼女の名前は、淳のかつての恋人明子と同じ読み方で別の漢字の亜希子といった。淳は三十八歳、亜希子は三十二歳だった。母多恵が死んで六年、奇しくも駿がどん底の生活を歩んでいる時に、淳は幸せの絶頂の生活を歩んでいた。
駿は離婚をしてから仕事にさらに没頭することで辛さを紛らわそうとした。事実、以前よりもさらに仕事だけの人生を歩んでいた。仕事をしている時だけがプライベートの早苗との離婚や香澄の援助交際や徹の苛めの問題、そして家庭崩壊の問題を忘れることが出来た。
さもないと時間さえあれば、何で失敗したのだろう?自分が家族を構わずに働いたせいなのか?でも一生懸命働かないと高卒の自分がここまで上って来れなかった。そのおかげで家族の皆にもある程度の贅沢な暮らしをさせてやることが出来たのに、何故分かってくれないのだろうなどと思って家族や自分を責めてしまうのだ。
あの離婚届を突きつけられた時の、妻や子供たちの顔を忘れることが出来なかった。してやったりと言った冷たい笑みを浮かべていた。そこには家族としての愛情もなければ、夫に、そして父親に対する尊敬もなく、他人を陥れて喜ぶ悪魔の笑みの様にさえ思えた。もう妻や子供たちは自分を必要としていないという心の痛みに身をきりきりと引裂かれるように耐えられない程寂しかった。
だが、仕事に没頭して忙しさに身を任せている時だけは、そんな思いを抱かずにすむ。そのためにも昼夜を忘れて仕事に没頭した。海外との折衝や商談にも自らが積極的に出向かう様にして、ハードな仕事が、駿の心から家族のことも何もかも忘れさせて欲しかったのだ。
家族と暮らした豪邸と言える程の家は一人には大き過ぎて、さらに家族のことを思い出すので、家をそのまま貸家にして、自分は一人住まいのアパートを借りて住んだ。アパートの部屋には誰も入れたことはない。また誰も訪ねてくる人もいなかった。家具なども最小限のものしか置かなかった、余計な飾り付けも一切しなかった。ガラーンとした殺風景な寂しい部屋だったが、そんな部屋の方が自分の心を癒してくれていた。
机の上には家族の写真、早苗と香澄と徹が笑顔で写っている写真が置いてあった。駿がカメラのシャッターを押したものだ。こんな笑顔でカメラのファインダーに納まったのは最後の時かもしれない。事実、それ以降の写真が見当たらなかった。駿が忙しくて写真を撮るようなことがなくなっていたのだ。
駿は笑顔で写っている写真を目を細くして眺めながら、いつからこんな笑顔を見せなくなったのだろう?そんなことさえ仕事に没頭し過ぎて、家族と会うこともなかった駿には分からないことだった。駿はそっとその家族の笑顔の写真を机の引出しの中に閉まった。写真を引き出しの中に閉まってはいるが、ことある毎に出して眺めていた。駿は現実の家族の姿を認めることが出来ず、写真の中で笑顔の家族が本当の家族だと思いたかったのだ。
駿の心の傷は癒えなかったが、アパートで一人住まいで家族の顔を見ることなく過ごすようになり、仕事に精を出すことで、いつもの生活を取り戻していた。少なくとも見かけ上はそう見えた。
駿が新しい生活に慣れた十一月五日、駿はシンガポールでの商談を終わらせて帰る飛行機の中、ノートパソコンで商談のレポートをまとめていた。突然、駿の乗った飛行機がエアーポケットに入ったのか十メートルほど垂直に落下した。駿はノートパソコンの画面から目を逸らして辺りを見渡した。幸いにも飛行機の翼はまた空気を捉え通常飛行に戻った。「ふう、びっくりした。まあ、今の飛行機がそんな簡単に落ちるわけないよな。心配することじゃないよな!」と駿は安心して緊張を解いた。着陸間近になり、駿は席に戻りリクライニングに倒していたシートベルトを定位置に戻し、シートベルトをつけてきっちりと締めていた。
いざ着陸となり地上がどんどん近く見えて来た。飛行機のタイヤが滑走路に着くと飛行機はバウンドして、次にタイヤが着地する時、機体が左に傾き、姿勢を取り戻す様に機体が水平の状態に戻ったが、やがて左に大きく傾いた。あっと思う暇もなかった。駿の体が飛び跳ねようとするところをシートベルトがしっかりと抑えた。駿は、シートの上から酸素マスクが降りてきたところまでは覚えていたが、その後大きな衝撃を体に感じて一瞬気を失った。
駿は一度は気を失ったが、飛行機の中で怒号と泣き声と傷みと苦しみを訴え叫ぶ声に気を取り戻した。駿は客室乗務員と一緒に、他の乗客の避難を手助けしていた。酷く惨い有様だった。シートの上から荷物が散乱して、酸素マスクがブラブラと上からぶら下がっていた。機体は左に45度以上傾いており、乗客はシートベルトにぶら下がっている状態だった。シートがもげてシートと一緒に吹っ飛ばされている人もいた。駿はビジネスクラスに座っていてシートベルトにぶら下がりながらも命は助かった。客室乗務員は、そんな状態の中でいち早く対応していた。避難路を確保し、女性、子供、高齢者から先に避難させていた。
いち早く避難しようとパニックを起こした人々を、一喝して沈めたのは駿だった。駿は怪我した人を運びながら大声で人を誘導していた。駿は自分が頭から血を流していたことにも気付かなかった。消防車の救命救助隊が、機内に入ってきて救命活動を行い出したので救出は彼らに任せることにして、駿は怪我人の男に肩を貸しながら自分も機外に出た。機外に出て地表に立った所で救命隊員に怪我人の男を引き渡した。そして二、三歩歩いた所で、張っていた気がプツンと切れて、ドゥと前のめりに倒れてしまった。再び意識を失った。
後に、飛行機の着陸を見ていた人の話から、そして事故後の解析から事故を起こした時の飛行機のより正確な動態が明らかになった。
それらの話を統合すると、飛行機は一度大きくバウンドして、次に落ちた時には左の車輪がパンクして、パイロットがバランスを取ろうとしたが、そのまま左に傾き左の翼を滑走路に擦った。
そして左の翼のエンジンから火を噴いた。飛行機は左の翼が折れて暫く胴体で滑走して止まったということだった。
消防車がいち早く駆けつけ乗客を救助した。死亡者の数はニュースが伝えられる度に増えていった。多くの乗客は成田空港から近くに位置する各地の病院に運ばれたということだった。
「ふう、ひどい目に遭ったな。どこだ、ここは?」駿が意識を取り戻したのは病院の手術室の中だった。意識を取り戻すというのは正確ではなかったかもしれない。駿は確かに手術室の中にいた。だが、手術室に寝ていたのではなく、寝ている自分を見下ろしていた。外科医が自分の体の周りに集まって手術の真っ最中だった。「なな何だ!こりゃ!」駿は口を開けてぼーっと見ていた。どうなっているんだ!と思って「おい!ちょっと、これ、どうなっているんでしょうか?」と声をかけて執刀中の外科医の肩を叩いた。しかし、駿の手はその外科医の肩に触ったと思ったら外科医の体の中を通り抜けた。「ちょっと待て、おい!おい!」駿は慌てふためいて大声を出したが誰も振り向かなかった。どうやら駿の声は聞こえないらしい。
今、手術を受けているのは、どう見ても自分だよな。じゃあ、ここにいる俺は何なの?幽霊?でも手術を受けているなら、まだ死んでいないみたいだな。死人に手術する医師もいないだろうからなあ。死人を手術する医師はフランケンシュタインみたいな一風変わったものを作る変人だけだろう。それじゃあ幽体離脱?そんなことありうるのだろうか?この科学の進んだ現代に?
駿が訳も分からず突っ立ていると、手術室の無影燈の光が急に明るくなり、どこか懐かしい声が聞こえてきた。やがて声が大きくなり、光の奥から人影が現れた。その人影は駿の良く知っている人物だった。「おお、親父!」間違えるはずもなかった、光から現れた人影は駿の父真一のものだった。
「親父、本当に親父なのかい?」
「久しぶりだな、駿!いろいろと大変だったようだな!」
「知っていたのか?俺のことを」
「ああ、お前のことはずっと見ていたよ。あの世でね!」
「意地が悪いなあ、ずっと見ていたのに、何も助けてくれなかったのか?」
「何を言っている。見守っていたじゃないか。それ以上、何を望むというんだ?」
真一は笑顔のまま優しい声で駿に言った。
「まあ、いいや!でも親父が迎えに来たということは俺は死ぬのか?」
「お前にはまだやることがあるだろう。それからでも遅くない。行って来い!自分を知る旅に!」
「行くってどこへ?」
「おい!親父、どこへ行くんだよ?」真一は、無影燈の中へゆっくりと吸い込まれるように影が薄くなり消えて行った。光の中から「行って来い!自分を取り戻して来い!」と真一の声がこだまのように聞こえて、やがて聞こえなくなった。無影燈の光はいつもの明るさに戻った。「行って来いって言ったってどこへ行けばいいんだよ?どうやって行くって言うんだよ?」と言いながら駿は頭を掻いた。手術室のドアを通り抜けて廊下に出た。
同じく十一月五日、淳は壇上で講演をしていた。淳の小説が売れるに従って講演の依頼が舞い込んできた。当初は自分の柄にはないと丁重にお断りしていたのだが、どうしてもと頼まれたのがきっかけで講演活動を始めることとなった。引き受けてみると、最初は壇上で緊張してあがってしまい、自分で何を話しているのか判らず、脈絡のない講演になってしまった。最初の講演の後は、次からは講演は断ろうと思ったものの、二度、三度と頼まれて引き受けるに従って緊張もしなくなり軽いジョークを飛ばして会場を沸かせることも出来るようになると、講演活動の面白さが判ってきた。
そんな事情で十一月五日は千葉の成田の方で講演をを引き受けていた。講演会場で十分後に講演を控えているという時に、会場の電話に淳あての電話がかかってきた。実は夜中に亜希子が陣痛を催して、産婦人科病院に緊急入院となった。淳も出産が予定通りなら講演など断っていただろうが、亜希子の出産は予定日より二ヶ月も早かった。亜希子を病院へ車で運び、亜希子について分娩室の前で待とうとした時に、亜希子が「あなたは講演があるでしょ!私は大丈夫だから!ちゃんと元気な赤ちゃんを産んで見せるから!」と言って淳の手を握り締めポンポンと淳の手を叩いた。亜希子は玉のような汗を額に多く浮かべ苦しそうに短い吐息の合間に淳に言ったのだ。亜希子の精一杯の強がりだった。
亜希子に言われてからも悩んだものの、講演会当日に講演をキャンセル出来る訳がないことも淳には分かっていた。医師に亜希子を任せて、一旦家に帰り身なりを整えてから、車で講演会場に行ったのだ。講演会場に着いてもなかなか落ち着こうと思っても出来なかった。それでもやっと無理に心を落ち着けてきた時の電話だった。電話は病院で亜希子に付き添っていた亜希子の姉からだった。
電話の中の声は慌てていた。「赤木さん、今お医者様からお話があって、亜希子の体は出産に絶えられないかもしれないっていうのよ。母親もお腹の中の子供も危ない状態だって言うのよ。とにかく早く病院に来て!」淳の心は動揺した。淳はしばし間を置いて「分かりました。講演が終わり次第、大至急病院に向かいます」と努めて平静を装って答えた。亜希子の姉は「そんなことしてたら、亜希子はどうなるの?赤ちゃんは?講演会なんてキャンセル出来ないの?そんなに時間に余裕なんてないのよ!」と苛立ちを込めた言葉を言い終わると、受話器を叩きつけるように切った。淳の心は動揺し傷ついた。淳だって出来たら今すぐに講演会をキャンセルして病院にすっ飛んで行きたかった。でも今更、講演会を中止する訳には行かなかった。講演会を主催してくれた方々、企画してくれた方々、講演を聞きに来てくれた方々を裏切る訳にはいかなかった。
淳は会場の化粧室に気持ちを落ち着けるために行った。化粧室で淳のファンの子供が淳に「赤木淳さんですか?わお、感激だ!僕ずっとファンだったんですよ。わあ、感激だなあ!先生の講演楽しみにしてますよ!」と目を大きく輝かせていた。淳は「ありがとう」と平静を装って笑顔を作って言った。作り笑顔はパリパリと音を立てて割れてしまいそうだった。子供はそそくさと化粧室を嬉しそうに、目は淳の方を向いたままで「やったぁ!赤木先生にこんなに間近で」と叫びながら出て行った。こんな小さなファンを裏切れないと淳は鏡に映った自分に言い聞かせた。
小さな一人のファンのおかげで心を落ち着かせることが出来た淳は、講演をいつものようにユーモア―を交え笑顔で終えることが出来た。講演の後、幾つかの質問に答えて、その後の用事は事情を話して自分だけ抜けさせてもらい、会場を後にしたのは亜希子の姉から電話があってから、たっぷり二時間は過ぎていた。
淳の心は慌て急いでいた。車を運転する淳の足は知らず知らずアクセルを強く深く踏んで、目は周辺に気が配らず前だけを見ていた。頭は亜希子とおなかの中の赤ちゃんのことを考えて、気持ちだけが先走って一瞬道路状況を見ていなかった。いや、目は見ていたが、頭で捉えていなかったというほうが、的確な表現かもしれない。淳がハッと気付いた時には信号は赤に変わっていた。車の目の前に横断歩道を渡っているまだ小さい子供を視界に捉えた。子供がハッと大きく目を見開き咄嗟に動けずに立ち竦んでいた。その子供の驚きに見開かれた目を、淳が一瞬視界に捉えた時には、淳の足は既にブレーキを強く踏んで、間に合わないと思うより先にハンドルを左に切っていた。車は流れるように横断歩道脇の電柱に激しくぶつかった。淳は激しい衝撃を伴って淳の体は前方に持っていかれ、ハンドルに激しく頭をぶつけて意識を失った。シートベルトをしていたおかげで、体は投げ出されずにすんだものの、エアーバッグのない車は淳の頭を激しくハンドルに衝突させた。車のボンネットが大きく凹み、ラジエーターから湯気がシューシューと噴き出した。淳の頭がホーンを押していて車はけたたましい音をあげていた。電柱が傾くほどの衝撃だった。救急車が到着したが、淳の体は運転席に挟まれており、引き出すのに時間を取られて、救急車が到着してから二十分程かかって救急車で運ばれていった。
淳が運ばれたのは奇しくも駿が運ばれていた病院と同じ別の手術室だった。淳も手術室の中で目が覚めた。「あれ、僕はどうしたんだろう?」そこで淳は手術を受けている自分の体を見下ろした。「あれ、手術台に寝ているのは僕じゃないか!」淳の体は手術台の上で手術を受けていた。「僕は死んでしまったのか?でも何故、僕が自分を見ているんだ?こんなことがあるのだろうか?」そこで、手術台に寝ている淳の体が光り輝いた。淳は自分の体が光り輝くのを見ていたが、眩いばかりの光に耐えられなくなり手で目を覆っていた。次第に光の輝きは収まり人影が現れた。「かっ母さん」手術台の淳の体の上の空中に浮かび出たのは、淳の母多恵の姿だった。
「かっ母さんなのか?何故母さんがここに?」
「お久しぶり淳、幸せそうね!」
「幸せそうって、手術を受けていて生きるかどうか分からないっていうのにかい?僕は死んでなんかいられないんだ!亜希子が!生まれてくる赤ちゃんが!ちっちきしょう!」淳は悔しさを言葉に出した。
「行きなさい!自分を知りなさい!それが今のあなたには必要ですよ!」
それだけ言うと多恵の体は薄くなり、向こう側が透けて見えるようになり、さらに薄くなり完全に消えた。淳は、しばしポカンと母多恵が消えた空間を見つめていたが、我に帰ると手術室のドアを通り抜けて外に出た。
駿が手術室をドアを通り抜けた時と、淳が手術室を通り抜けた時が重なっていた。駿も淳もお互いの存在に気付いた。
「じゅっ淳」
「にっ兄さん」
病院の第一手術室と第二手術室は隣合っていたのだ。
「お前、何でここに?」
「兄さんこそ何で?」
お互いに事故の有様を話した。さらに駿は父から、淳は母から、自分を見つける旅に出ろ!と言われたことまで話した。
「そうか、良く分からないが、父さんと母さんは、俺とお前の二人で何かを見つける旅をしろと言いたいのだな」
「そうだよ!だから二人同じ時間に幽体離脱して出会っているんだ。でも僕たち、死んでしまうのだろうか?」
「それは分からんよ!どうなるかは全く」
今までのお互いの事故の成り行きを語った後、どちらからともなく言葉を洩らした。
「それでどこへ行って何をすればいいんだ?」