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桜の季節

作者: aihara

 中学校を卒業したら死ぬ。

 正志は小学校6年生の卒業式の日にそう決心した。真剣だった。

 小学6年生の卒業式。その日は正志がこれまで生きてきた12年間で最大の事件が起きた日だ。同じクラスの雨宮藍に告白した日である。


*****


 雨宮さんは正志と同じクラスの、休み時間にはいつも本ばかり読んでいる大人しい女子だ。6年生になってから席が隣になった。クラスでも目立たない地味目な文系女子だと、正志を含めてクラスの全員が思っていただろう。しかし、話してみると、――声は小さいけど――遠慮がちにはにかむ笑顔が可愛く、無愛想なわけではなかった。なんとなれば、打ち解けるに連れて冗談を言うようにもなったし、正志が消しゴムを忘れた時は自分の消しゴムをカッターで切って半分を正志にくれたこともあった。


 6月の梅雨始め。委員会の活動で下校が遅れた正志は校舎を出てバス停に向かった。雨が降らなければ歩いて帰るけど、雨の日はバスを使うことにしているので梅雨時はバスの利用が多くなる。昨夜からの雨は朝には勢いが衰えたものの、下校時刻をとっくに過ぎた今もしとしと降り続いていた。外の空気は校内以上に水気をはらんでじっとりし、気温の高さと相まって服を着ながらサウナの中を歩いているような気さえした。傘を差して5分ほど歩くと屋根付きのいつものバス停に着く。そこで正志はベンチに腰掛けて本を読んでいる一人の女子を認めた。雨宮さんだった。

「雨宮さん」と、正志は何気なしに声をかけた。

 雨宮さんは読んでいた本に人差し指を挟んで顔を上げた。正志は雨宮さんの隣、席を一つ分空けてベンチに座る。

「正志くんは委員会だっけ?」と、正志の事情を知っている雨宮さん。

 雨宮さんは、放課後に教室で本を読んでいると先生がきて明日の理科の実験準備をさせられたと、うんざりした様子で話してくれた。話を聞きながら、雨のバス停で肩を並べている状況がなんだか面映ゆくて、正面と少し先の地面を見ていたけど、一瞬だけ視界に入った雨宮さんの髪が濡れているのに気付いて少し振り向いた。眼鏡には水滴が付いていて、髪もしっとり濡れて顔にくっついていたし、服に至ってはぴったり張り付いてその下が透けて見えてしまうような気もして、慌てて顔を正面に向けた。まるで湯上がりみたいに見えてどぎまぎしながら居住まいを正した。

「あ、これね、朝は車で送ってもらったんだけど、傘忘れちゃって。ここまで走ってきたけど結構濡れちゃったよ」と、しっとりとした髪を片手で撫でながら雨宮さんは笑った。

 その時、手に持っていた本を傍らに置いた。どんな本を読んでるんだろう? 好奇心と、雨宮さんともっと話したいという不純な動機から

「なんて本読んでるの?」と、あくまで自然に尋ねてみた。

「これ? これは、梶井基次郎の代表作で『檸檬(れもん)』っていう短編小説集。もう読み終わってるから、良かったら見る?」

 代表作というけれど聞いたこともなくて少し恥ずかしい気がした。その恥ずかしさは雨宮さんに良く思われたいという気持ちの表れだったけど正志はその正体がまだ分からなかった。


 明日以降も話すきっかけが出来たし、二人だけの秘密を共有しているような気分で嬉しかった。『檸檬』を借りてすぐ、到着したバスに乗って雨宮さんは帰っていった。

 正志は家に帰るなり、部屋のベッドに勢いよく腰を下ろして『檸檬』を読み始める。「桜の樹の下には」という話の“桜の樹の下には屍体が埋まっている!”という書き出しには目を惹かれたけど面白いのかどうかよくわからない。表題作の「檸檬」という話は、主人公が果物のレモンを、爆弾に見立てて本屋に置いて帰るという話だった。それは正志でも読み取れたけど、なぜ主人公が檸檬を置いて帰るのか理由は全く分からなかった。

 全て易しそうな文章だったけどすんなりと頭に入ってこなかったし、正志には読めない漢字も多かった。こんな難しい本ばかり読んでるなんて雨宮さんは凄い。しかし、難しいと感じながらも少し暗くて儚げで、滲み出る淡いパステルカラーのような雰囲気がいいなぁと思う。そして、その雰囲気は雨宮さんから受ける印象とよく似ていることに気が付いた。

 1週間ほど『檸檬』を頑張って読んでみてもやっぱりあまり意味は分からなかったけど、読むたびに雨宮さんが頭の中に浮かんできて、どんどん雨宮さんを意識し始めていた。本を返すと、

「どうだった?」

 雨宮さんは目をぱちぱちさせながら、いつものはにかんだような笑顔で聞いてくる。正志は少しどきどきしていた。

「うん、良かったよ。少し暗いけど綺麗な感じだったね」

 取り繕う余裕もなく素直に答えてしまった。雨宮さんは

「え、ほんと? あ、ごめんなさい。ちょっと意外だなって。意味分かんないって言われると思ったから。そっかそっか」と言ってなぜだか嬉しそうにした。

「じゃあ、またこの本を読み終わったら貸してあげるね」と、手に持って読んでいた本に目配せして笑いかけた。

 正志も雨宮さんと話すことができると思うと嬉しかった。


 雨宮さんの本を正志が借りる関係は、二学期、三学期になって席替えをしても続いた。6年生まで正志はそれほど読書好きというわけではなく、むしろ苦手だったけど、雨宮さんと話したいという動機から借りた本を読んでいくうちに苦もなく読書することができるようになった。雨宮さんも正志の好みを把握して、日本の古い小説から外国の推理小説まで色々な本を持ってきてくれた。


*****


 あのバス停の一件で正志は雨宮さんが好きだということをはっきり自覚した。本の往復をするたびにどんどん気持ちが膨らんでいくようで、卒業式が間近になってその気持ちを抑えられなくなりつつあった。

 正志の小学校は卒業するとその地区に1つしかない中学校へ自動的に進学することになる。中学受験でもしない限りは雨宮さんも同じ中学校になる。そんな話は聞いていないから中学生になってもこの関係は続くはずだ。しかし、そのままでいいんだろうか? 告白したい。告白してみたい。冷静に考えてみたつもりだったけど、冷静になんてなれるはずがなく、正志は卒業式の日に雨宮さんに告白することに決めた。


 卒業式当日、春らしいうらうらとした天気で、空には青が広がり通学路にある緑は優しい風にざわざわと揺られていた。終わりというよりは何かが始まりそうな、全てが瑞々しく見えるような気持ち。いつもは目に留めないそんな景色に気付けたことが何だか嬉しかった。卒業式が終わり、校門の前でクラスメイトや先生に別れの挨拶をした後、式に出席した両親に

「教室に忘れ物したから、先帰ってて!」と、わざとらしい言い訳をする。雨宮さんが待っている2階の教室に急ぐためだ。

「借りた本を返したいから卒業式が終わったら教室に来て下さい」と言っておいたのだ。


 教室に着くと、この日、日直だった雨宮さんは正志を待ちながら一人教室にいて学級日誌を書いていた。窓際の真ん中の席に座っている雨宮さん。教室に入ってくる正志には気付いていない。正志は意を決して声をかけた。

「あ、あの雨宮さん」

自分でも声が震えているのが分かった。心臓は100m走をした後のように脈打ち、手も足も口も震えている。悟られないように足指に力を込め、手を後ろに強く組んだ。

「あ、正志くん。もうちょっと待ってて、今書き終わるから」

 顔を上げた雨宮さんは笑みを返し、学校との別れをしみじみ惜しんでいるような憂いを帯びた目で正志を見上げた。そして学級日誌に目を落とすと、さらさらと続きを書き始めた。その仕草がなにかとても優雅なものに見えて、一層どきどきした。

「桜、きれいだよね」と、手元に目をやりながら雨宮さんは唐突に話しかけてきた。

 咄嗟に何を言われたか分からなかったけど、窓の外に目をやると、2階の窓からでも見える大きな桜の樹が揺らめいている。正志は桜が好きだ。『檸檬』を読んで以来、桜を見ると雨宮さんを思い出すし、青空と薄紅色の対比がとてもいいなぁと思っていた。

「そうだね」と答えて思う。告白は、今しかない。

「ああああ、あの」

 声がうわずってしまって次の言葉がなかなか出てこない。それでも雨宮さんは顔を上げて穏やかな表情で続く言葉を待っている。呼吸がうまくできているのかさえも分からなくなっていたが、今日の日のために何度もイメージした通りなんとか口にした。

「あああ、雨宮さん、ずず、ずっと好きでした」

 長い沈黙だった。


 少しだけ開いた窓から吹く風。桜の花びらが隙間から入り込んで落ちた。ガラス越しに差し込む光が春だというのにジリジリと暑い。遠くのクラスから笑い声が聞こえてくる。

 雨宮さんは正志から目を逸らさず緊張したように考え込んでいるように見えた。一瞬、なにか悲しそうな色を発したように感じた。

 肩よりも少し長い髪を後ろに束ね、茶色いメタルフレームの眼鏡に太陽がキラキラと反射している。前髪がひらひらと風に揺れていた。綺麗だと思った。

 黒い髪が光に透けて薄茶色になり、眼鏡と同化したように見えて。

 ――そして。



「言ってなくてごめんなさい。……実はお父さんの仕事でイギリスに引越すの」



 気が付くと、正志は下校の道をふらふらと歩いていた。初めての告白が失敗に終わったショック、全く予期していなかった言葉、そしてそれを聞かされていなかったことなどが重なって、正志は天国から地獄に落ちた。告白するんじゃなかった、死んでしまいたいという些か突飛な思いが、頭の中にべったりと貼り付いている。

 教室からどうやってここまで来たのか記憶が曖昧だった。あの後、雨宮さんの目には涙が溢れだして、僕も無性に悲しくなって泣いた。雨宮さんは声にならない声で

「ごめんなさい……本当にごめんなさい……」と繰り返し、正志は気が動転して借りていた本のことなどすっかり忘れて教室を後にしていた。

 あれほど色鮮やかに見えていた景色が、今や白黒写真のように色を失っている。しかし何も感じることはなかった。


 家に帰る途中コンビニがあって、もう少し先に正志の家がある。いつもコンビニで500ml、100円のアロエドリンクを買って帰るのが習慣になっていて、重い足取りながらこの日も無意識にコンビニに踏み入った。

 外とはうってかわって店内は涼しかった。そのギャップが何だか勇気を出して告白し、数分後にフラれて絶望している自分の気持ちと重なっている気がして悲しくなった。

 雑誌コーナーの前を通ると、ひとつの雑誌に焦点が合った。


「ブレない男がモテる!!」


 いつもは目に留まるような言葉では全くなかったけどタイムリーな言葉に目が吸い寄せられる。表紙に太字で大きく書かれていて、外国人タレントがカッコつけている。

 ブレない男……。僕はまるで正反対だなぁと正志は思う。

 小学校2年生で宇宙飛行士になりたいと言い、3年生の時は図書室で借りた小説の影響で探偵になりたいと思い、4年生の時は漫画ばかり読んで漫画家になりたいと思うようになり、5年生で携帯ゲーム機で遊ぶようになりゲームデザイナーになりたいと思った。雨宮さんはそんな僕を見抜いたのかもしれない。だから……だからきっと引越しすることも黙っていたんだ。


 正志の夢が変遷していったことと、つい今しがたの失恋は全く関係がない。しかし、小学生の正志にはなぜだか強い関係があると感じられた。雑誌コーナーに立ち尽くして考えれば考える程、今まで何一つやり遂げたことが無かったと思い返され、正志は暗澹たる気持ちになった。

 もし、2年生のとき宇宙飛行士になりたいと思って、6年生まで勉強を続けられたらきっと雨宮さんは受け入れてくれたはずだ。宇宙飛行士も探偵も漫画家もゲームデザイナーも、TVや小説や漫画の影響を受けた思い付きだけど、その努力を続けていたらこんなことにはならなかったはずだ。

 正志は自縄自縛に陥っていた。失敗してしまったという思いが更に暗い気持ちにさせた。さっきよりも強く死んでしまいたいと心の底から思う。

 たっぷり20分は雑誌コーナーに立ち尽くして正志は決心した。今思っていること……それは死んでしまいたいということだ。だったら死のう。ブレないことが良いことだというなら、この死にたいという気持ちもブレずに持ち続けよう。それは雨宮さんによく思ってもらいたいという少年特有の虚勢からくるものだったが、正志にはどうしても必要なことだと思われた。


 こうして正志は死ぬことに決めた。


****


 中学校の卒業式。あれから3年の月日が流れた。小学校の卒業式の日と同じようなうららかな日だ。中学校を卒業して義務教育を終えてから死のうと思い、今日を死ぬ日に決めていた。

 死ぬための準備はつつがなく終えていた。卒業式から帰ってから決行する予定だ。部屋のカーテンレールに縄を縛り、首を括ろうという計画。縄は既にホームセンターで買ってきている。準備は万端整っている。今日を迎えて穏やかな水面のような気持ちになっていることが正志には不思議だった。恐怖心は全く無いが、とうとう今日で終わりなんだなという寂寥感に支配されていた。


 家を出る前に『檸檬』を鞄に入れた。中学生になってから本屋で見つけて買ってからも折にふれて読み返していた。これを読むと雨宮さんに本を借りていた頃の淡い記憶が思い出されて心が落ち着く。今にして思えば、雨宮さんが引越しのことを正志に言わなかったのは、ただ言えなかったんだろう。今はそれが真相だろうと思えるのだった。

 死ぬことを考えるといつも雨宮さんを思い出してしまう。死のうと決めた理由は既にあやふやになっている。なぜブレてはいけないのかは、中学生になって論理立てて考えられるようになった正志には納得のいかないものだった。しかし、ブレてはいけない、死ぬことが必要だというあの日の決心は未だによく覚えている。

 卒業式が終わり家に帰ろうと思ったけど、今日の天気を見るにつけあの小学校の卒業式が思い出され小学校に足が向いた。死ぬ前にもう一度、教室から見えたあの桜が見たかった。


 小学校も卒業式だったから中学生の正志が構内に入っても誰も不審に思う人はいなかった。あの日と同じように、青い空に桜の薄紅色が映えている。木々のざわめく音が苦しいことや辛いことを全て洗い流してくれるような気がして、鼻の奥がつんとした。

 桜の下から2階の教室を見上げる。誰もいないようだった。春は毎年やってくるけど小学6年生はもう二度とやってこない。あの頃を懐かしく思い、正志は大人になったことを実感していた。今はそれで良いと思える。

 鞄から『檸檬』を取り出した。この桜の樹の下には本当に屍体が埋まってるんだろうか? 梶井基次郎は“これは信じていいことなんだ”と書いている。もう何度も読んだその文章を読み返す。なんだか本当に屍体が埋まっているような気がしてくる。基次郎はこう言っている。何事も真っ盛りという状態に達すると、コマがよく廻ると静止しているように見えるように、素晴らしい音楽の演奏が何かの幻覚を伴うように、不思議な生き生きとした美しさを周囲に撒き散らすと。そしてそれは人の心をうつのだと。


 しばらく桜の花びらに打たれて目を閉じていると、不意に正志に話しかける声がした。

「正志くん、久しぶりだね」

 その声はいま一番聞きたかった声だった。驚いて目を開けると、ここにはいないはずの雨宮さんが立っていた。

「あ、え、えっ?」

 夢を見ていると思った。あの日と同じ日、3年ぶりに小学校に来て桜を見ていたら雨宮さんが表れた。何度も思い返していたから夢か幻覚かと半ば本気で思った。

「今日、卒業式だったんだよね? 私も小学校の桜、見に来たんだ」

 そう言ってはにかんだ笑顔は、確かに雨宮さんで、これは夢じゃなくて現実なんだと実感した。背は前よりも伸びているし顔立ちも前より大人っぽい。髪は黒色で変わっていなかったが前よりも少し伸びているように見える。眼鏡も前と少し違っていて赤茶色のメタルフレームになっている。間違いなく、3年経った雨宮さんだった。何か話したいと思ったけど驚きで言葉がまるで浮かばない。今はこうして平静を装って雨宮さんと同じ桜の下にいるのが良いように思える。


 数分、そうしていると雨宮さんが話し始めた。

「私、帰ってきたんだ。高校はこっちのに行くことにしたんだよ」

「え、そうなの?」

「うん」と、またしばらくの沈黙。

 何か、話したほうがいいとは思っても、色々な思いが頭を巡って言葉にならない。そして、なんとなく思いついた話を振った。

「梶井基次郎の『檸檬』を貸してもらったよね」と、手に持っていた『檸檬』を見せて言った。

「あ、それ私の、じゃないか。正志くんは『檸檬』好きだったんだね。実は私もとっても好きなんだ。あの時のこと覚えてる?」

 あの時のこと――それは『檸檬』を借りたあのバス停のことだ。

「もちろん、覚えてる」と桜を見上げながら答えた。

「桜の樹の下には」と雨宮さん。

「「屍体が埋まっている!」」

 正志と雨宮さんは笑い合って、貸してもらった色々な本のこと、小学校のこと、イギリスの中学校のことを話した。そしてあの卒業式のことに触れた。

「イギリスに引越すって聞いてびっくりしたよ」と、努めて暗くならないように言った。

「あの時は本当にごめんなさい。どうしても言い出せなくて卒業式になっちゃって」と少し間を置いて、

「告白してくれてありがとう、とっても嬉しかったよ。本当は行きたくなかったんだけどあの時はそんなわがまま言えなくて。でも高校はお祖母ちゃんの家から通うことにしてもらったんだ」

「ってことは、もう日本にいるってこと?」

「そういうこと!実はね、今日ここに来たのは正志くんのことを考えてて。『檸檬』を見るとなんだか正志くんのこと思い出しちゃうんだ。桜の樹が見たいなーって思って小学校に来てみたら正志くんがいて、ほんとびっくりだよ」と、興奮気味に話す雨宮さん。

 雨宮さんが同じ気持ちでいたことがたまらなく嬉しかった。そして正志は気付いた。まだ、雨宮さんのことが好きなんだ。


「正志くん、彼女とか、いる?」と、雨宮さんはさっきまでのトーンと違って真剣な目で正志に尋ねた。

 その言葉に、正志は跳ね上がるようにどきどきした。

「いないよ」と緊張しながら答えると、雨宮さんは続けた。

「あの時は急にいなくなってしまってごめんなさい。私も正志くんのこと、好きでした……もし良かったら付き合って下さい」

 受け入れそうになり、正志は雨宮さんと再開してからすっかり忘れていたことを思い出した。今日、死のうとしていたことを。 

「実は……訳あって今日死のうと思ってたんだ」と正直に白状する正志。

 その口調は、これから死のうとしている人のような重々しいものではなかった。雨宮さんには冗談のように聞こえたことだろう。

「え、死ぬ……? どうして?」と、戸惑いつつも雨宮さんは理由を聞いた。

「詳しい訳は言えないけど、小学校を卒業してからすごく死にたいって思うことがあったんだ。ブレないことが人としてかっこいいだろ? 小学校を卒業してから僕は生まれ変わったんだと思う。だから僕はあの頃の僕じゃない。その気持ちをブレずに持ち続けて、中学校を卒業したら死のうって思ったんだ。ここへは死ぬ前に桜が見たいと思って来た。雨宮さんが来たのはほんとびっくりしたよ」

 言葉にすると滅茶苦茶なことを言ってるなと正志は思う。だが、死のうと思っていた理由はそんな単純なことだった。もっともらしい理由なんてなかった。それを聞いた雨宮さんはホッとした顔をして

「じゃあ今日ここに来てほんとに良かった。正志くん、私がここに来たのは正志くんが死ぬのを止めるためだったんだね」と言った。それでも正志は、

「小学校を卒業した後もずっと雨宮さんのことが好きだった。僕も『檸檬』を読むと雨宮さんのことを思い出してた。でも駄目なんだ、ブレないことが僕にはやっぱり大事なんだ」と答えた。正志も自分で何を言っているのか分からなかった。


 今まで死のうと決心していたことは、実は言葉にすると矛盾だらけで何の論理も無いものだと正志ははっきりと自覚していた。それでも正志の中にある、まだ小学生の頃の自分がその意味不明な論理を笠に着て反抗している。雨宮さんも正志の様子をみて、それをはっきり感じ取ったのだろう。

「でも正志くん。正志くんはブレてないよ。今、小学校を卒業してからも私のことずっと好きだったって言ってくれた。それってブレてないってことじゃない?」と言う。

 確かにその通りだと正志は思った。それでも正志の中の小学生が反論する。

「確かにずっと好きだったことはブレてない。でも死ぬって決心したことがブレてしまうんだ。それじゃ駄目なんだ」

 もう口を突いて出る言葉に任せることにした。きっと誰かが乗り移っているのだ。

「さっき生まれ変わったって言ったよね。だったら一度は死んでるってことでしょ? 正志くんはきっと死んだの。そしてその屍体はこの桜の樹の下に埋まってる!」

 正志は雨宮さんの言葉に得心がいった。その瞬間、さっきまでの幼稚な論理を振りかざすもう一人の正志が本当に桜の樹の下に埋まっているような気がした。

 雨宮さんは真剣な目で正志を見ていた。風に吹かれて揺れる桜の樹の音がよく聞こえた。ゆっくりと空気を吸い込んで、正志は口を開いた。

「今日、雨宮さんに会えて本当に良かった。僕が間違ってたことが分かった。意味分かんないこと言ってほんとにごめん。そして……雨宮さん、やっぱり雨宮さんが好きです。良かったら付き合って下さい」


 雨宮さんはあの卒業式の日と同じように、目にいっぱいの涙を溜めて泣き出した。あの日と違うことと言えばどちらも泣きながら笑っていたことだ。

 桜の樹の下には屍体が埋まっている!今ではそれが本当だと知っている。それは、正志の屍体だ。正志と雨宮さんは、その屍体を弔うために『檸檬』を桜の樹の下に置いた。正志はこれまで分からなかった「檸檬」の主人公の気持ちが、今なら分かるような気がしていた。

 青い空には薄紅色の桜の花びらが舞っている。二人は桜の樹を並んで見上げてから、ゆっくりと歩き出した。


<完>



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[良い点] 最初の主人公が死ぬって決心したところは、ちょっと怖かったけど、でも良い文章で読みやすかったです。 [気になる点] 特にありません。全部完璧です。 [一言] あなたなら小説家になれると思うの…
[良い点] 非常に読みやすく、一気に読んでしまいました。 あなたは長年書いていらした方ですか? 話の展開も面白く、文才を感じました。 ただただ、感服しました。 [気になる点] 好きな作品ですので、あえ…
2015/10/18 23:19 退会済み
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