帰郷
「ふう。 やっと着いた」
額にたまった汗をぬぐい呟いた。
疲労感を吐き出すかのような溜息に反して、表情からは疲れが読み取れなかった。
「いつもこんなきつい旅してるのか?」
目的地が人があまりいない村であることもあって整備が行き届いていない道を通った。そのせいで、体力に自信のあるニクスは疲労をより強く感じていた。
「まあね。慣れたらそんなに気にならないよ」
ユイの足はその年齢の子供の基準で言えば普通よりやや太い程度ではあるが、筋肉はかなり発達している。
「体力には自信があると思っていたが、アンタを見ていると心が折れたよ」
「なくすほどの事でもないでしょ? アタシの場合、こういう人が通らない道の歩き方を知っているから体力を余計に消耗しないで動けるわけだし。経験の差ってやつだよ」
「経験ねえ。自分より年下に経験の差って言われるほうがよっぽど堪えるよ」
「じゃあ、知らない」
ユイはニクスがしょんぼりした顔を見せたので慰めようとした。しかし、これ以上は何を言ってもニクスの自尊心を傷つけるだけだと理解したので、黙ることにした。
「落ち込んだと思ったら、もう笑ってる。忙しいね」
「なんでもない」
ニクスは口や態度には表さないが、まだ未練は残っている。
何の準備もなく唐突に別れたからだ。
いや、準備をしようとしなかった。それをしてしまうと、友人との別れを認めることになってしまうからだ。
それを絶対に態度に表わさない。
自分の未練なんか、過酷な決断を下したユイの辛さに比べたらちっぽけなものだ。
ニクスには演技なのか、良い方向に消化できたからなのかは判別できないが、ユイは元気にふるまえている。
ここで、コペルのことで落ち込むのはユイに対して失礼にあたる。
「どこに向かってんだ?」
何の目的もなくぶらついているわけではないとわかっていたが、どこへ向かっているのかをニクスは知らない。
今まで何度となく訊くことのできる機会はあったが、ことごとく訊きそびれてしまっていた。いよいよ、訊きそびれたままでいることにこらえきれずに訊いた。
「アタシの家」
短く答え、すぐに言葉をつないだ。
「って言っても到着したけどね」
ユイはドアを強くたたいた。
すると、家から一人の女性が出てきた。
顔や手のしわから初老くらいだろうとニクスは思った。
「久しぶりだね」
ユイはその女性に親しげに話しかける。
「紹介するよ。この人はルネ。いろいろ世話になっているんだ」
細かい話は中に入ってすればいい。
そんな気持ちで、どういう間柄なのかなどの説明を端折った。
「はじめまして」
ルネは朗らかな笑顔を浮かべ、あいさつしをした。
「初めまして。ニクスと言います。こちらこそお嬢さんには世話になっておりまして」
慣れない敬語を話すニクスはまるで言葉を覚えて間もない乳児のようにたどたどしかった。
ユイはそんなニクスの無様な姿を笑っていると、ルネの背中からひょっこりと顔を出した子供に目が行った。
「初めまして、だね。アタシはユイ。多分、時期的に入れ違いになったのかな」
「そうね。アナタがここを去って一週間くらいしてからここに来たから」
「君の名前はなんていうの?」
「ニールって言います。お姉ちゃんは?」
ユイは思わずにやけた。
ここに戻ってくるまでは、ずっとユイが一番年下だったから、そんな風に呼ばれたのは生まれて初めてだった。
だから、呼ばれなれない呼ばれ方にこそばゆく思った。
「アタシ、ユイ。さっきも言ったけど、君が来るほんの少し前に出ていったんだ」
ユイは唯一の手でニールの頭を撫でた。
「ルネを守ってくれてありがとう」
見慣れないユイやニクスに対して発していた敵意は消えていた。
ニールにとって、ユイたちは敵ではないと認識したからだ。
「そうやって、アタシがいない間ここを守ってくれていたんだね」
「そうだよ」
揺るぎのないその言葉は、ユイにその力への欲求は悪魔に都合よく改ざんされたものではなくニールのものであることを信じさせた。
いくらか記憶を改ざんされ欲求を強められているとはいえ、それでも芯の通った力強い言葉には違いがなかった。
「やけに優しいね」
ニールの悪魔による侵食の度合いはかなりのものだった。
その気になれば、ニールの意識を食らいつくし、体を乗っ取ることだってできる。なのに、そのそぶりを全く見せていない。
憑かれたことにさえ気づいていない子供の身体を乗っ取るには時間がかなりかかる。子供の体は変化が激しい。それだけに、憑いた自分を安定して維持していられるように少しずつ手を加えなkればならないからだ。
それに、憑かれたことに気付いていないということは、異能を全く使わない。悪魔の侵食を早める異能のしようが全く期待できない。
それだけに、侵食にはかなりの時間を要する。
悪魔にとって気の遠くなるほどの時間をかけて、支配権を奪い取るのだけなら今にでもできる状態でい続ける理由がない。
「さっきからお姉ちゃんは誰と話してるの?」
話しているというよりは、見たことに関して感想を述べていただけだった。
ただの独り言がニールには誰かと話しているように見えた。
「ん……。君の知り合い。いや、知り合いというよりも一方的に君のことを知っている人かもね」
「どこにもいないよ?」
ニールはあたりを見渡すが、特にそのやな人物は見当たらなかった。
「アタシは幽霊が見えるの。その幽霊とお話していたんだ」
「幽霊……? じゃあ、死んじゃってるのか。残念だな」
「全然、残念そうに思っていなさそうなんだけど」
ニールは残念そうな仕草を全く見せない。
ユイがでたらめを言っていることを見抜いているからか、元から離せなくてもよいと思っていたのか。そのどちらであるかをユイに確かめるすべはない。
「話しできたら良いなって思うけど、そういうのが無理だって決まりきっていることだしね」
ニールの諦めはユイの胸に冷たく刺さった。
「ごめんね。アタシが君に希望を持たせるようなことを言ったばかりに」
「だってさ、お姉ちゃん、とても怖い顔してたから」
「怖い顔してた……?」
ニールは縦に首を振った。
「ごめんね。怖がらせちゃって」
「まあ、もしかしたら警戒していたのかもね」
「どうして?」
「アタシが全く知らない大人の人だからね。君にとっては怖くないのかもだけど、アタシはその人のことを知らないから無意識に越えられたくないラインを作っていたんだ。そのラインを越えられそうになったから突っぱねようとしたら、そうなっちゃったんだろうね」
そもそも会話などしていない。
ユイはニールに憑いた悪魔に対して敵意を向けていただけだ。それで、顔が険しくならないわけがない。
「よくわかんないけど、幽霊が馴れ馴れしかったってこと?」
「うん……まあ、そういうことだね」
ユイが動揺したのは嘘を見抜かれているような感覚があったからではない。こんな幼い子供の口から馴れ馴れしいなんて言葉が出てくるなんて思いもしなかったからだ。
「なんていうか、しっかりしてるよねえ」
「そうかな?」
「うん。アタシなんかよりずっとね」
旅の理由も、悪魔を狩る理由も、これまでの時間さえ、無駄なものに思えた。
「ねえ、あの子……ニールってどういう子なの?」
ユイはヒラハタには半年に一回ほどの割合で訪れる。だが、ニールという少年をユイは今日初めて見た。
「なんてことはない普通の男の子よ」
それは嘘であるとユイにはわかる。なぜなら、ルネの周りに集まる子供は訳ありだからだ。よそ者であるニクスの前では言いたくないのだろう、とユイは察した。
そもそもここが孤児院である以上、子供たちは何らかの事情を背負っている。なので、事情がないことだけはニクスにもわかる。ただ、その内容をふらりと現れたよそ者に知られることを拒んだだけだった。
赤い瞳が見透かした白。
それは、およそ人の肌が持つ白からは完全にかけ離れた無機質なものだった。
「まあ、そういうことにしておくよ。今は」
時間ならたっぷりある。
この場で話すのはルネがニールを気遣っているから無理なだけである。ならば、気遣わなくてもいい時に聞けばいい。
ユイはその時までニールのことは訊かないと決めた。
「ところで、他の子たちはどうしてるの?」
「その辺の積もる話は中でしましょう」
「いや、それだと……困るっていうか……そのさ……」
「あの子ならいないわ」
「ほんとに? よかった」
ユイは胸をなでおろした。
ここには身寄りのない子供が何人も住んでいる。
その中で会いたくない人物が一人だけいる。
ユイはその人物を嫌っているわけではない。
何ならすきに入る部類ですらある。
ただ、致命的に相性が悪い。
その人物とユイが関わると、ユイにだけ災難が降りかかる。だから、できることなら会いたくない。




