約束
「本当に何もないね」
五時間ぐらい歩いて村にたどり着いた。
村についたころにはかなり日が傾いていた。
その道中には目を張るものは何もなかった。
ユイは視覚への刺激が全くなくて、退屈を感じていた。
それでも歩き続け、村にたどり着いた。
退屈だった徒歩での移動は一日かかったように錯覚させるほどにまでつらいものだった。
「言った通りだろう。本当に何もない退屈なところだって」
「ここまでとは思いもしなかったね」
ユイは、ニクスがウケ狙いでかなり脚色していたんだとばっかりに思っていた。
村に入ってからもユイたちは歩き続けた。
これまでの道中と大して変わらなかったこともあった。
それで、より強く退屈だと感じてしまった。
「本当、飯屋の一個や二個くらいあってもいいと思うんだけどなあ」
「だから言っただろ。何もない退屈なところだって」
「本当、あそこのうどん屋で昼ご飯すましといてよかったよ」
一晩過ごした小屋から二時間ほど歩いたところにあったうどん屋。
そこを最後に、外食店は一軒も見当たらなかった。
「だな。俺の家までは結構距離あるし」
「まだ歩くの?」
途中で休憩を挟んだとはいえ、体力の限界が近かった。
「仕方ねえだろ。俺の家ははずれのほうなんだから。あと、二十分は歩くぞ」
「それを最初に言ってよ」
「なんで怒ってんだよ?」
「それを聞いていたら、もう少しゆっくり目のペースで歩いたのに」
ユイは一人で旅をしていた時よりも速足で歩いていた。
朝、八時に起きてすぐに出る予定だった。
しかし、実際は十時まで寝ていた。
小屋を出るのが二時間も遅れたことが、ユイを急かした。
急いだことで本来の予定よりかなり遅れたものの、日が沈む前に村に入ることはできた。
結果的にはよかったものの、体力をかなり消耗してしまった。
「疲れたのか?」
「かなりね」
悪魔を狩ってきたことで培った体力をもってしても、疲弊を感じるほどだった。
その疲労感の原因は精神的なものである。しかし、だからこそ、ただの体力の消費以上に疲れを大きく感じてしまっている。
「休憩がてら、俺の話を聞いてくれないか?」
「何をいまさら改まってんの?」
「俺としてはサプライズを仕掛けたいんだ」
「さぷらいず?」
「そ。サプライズだ」
ニクスはにやりと笑った。
ユイはそれに不安しか覚えなかった。
「何企んでんのか知らないけど、普通が一番だと思うよ」
ユイは嫌な予感しかしないことから、忠告した。
それはユイなりの自身の安全を確保するためでもあった。
第一印象でうまくいきそうにないもにないものに巻き込まれてしまう以上、責任の回避できそうなところは回避しておきたかった。
「それよりも、コペル……俺の親友の名前だ。そのコペルの喜びをもっと大きくさせてやりたいんだ」
ニクスの計画の中身をより詳しく聞いてユイの直感は確信に変わった。
このようなネガティブな直感はよくあたることから、ユイはあまり乗り気になれなかった。
「やるのは勝手だけど、うまくいかなかったからって怒らないでよ」とは言えなかった。
とりあえず、やることはちゃんとやろう。
失敗したときに、「話を聞いた時からうまくいく気配が全くしなかったから」なんて言って手抜きしたら、余計に角が立ってしまう。
「おかえり。今日はやけに機嫌がいいね」
家にニクスが入ったのはニクスの計画したサプライズの仕掛けのためだ。
ニクスが家の中に入るや否やニクスを迎える声がした。
ニクスを迎えたのは同居人のコペルだ。
コペルの顔は悪魔に侵食されたように真っ白になっていた。
しかし、それはそうではない。
コペルは数年ほど前に患った病の後遺症のせいで、いくつかの器官が機能しなくなった。
それの影響でコペルの顔は血色を失っていた。
「わかるか? お前は助かるかもしれないんだ」
「どうした? うれしくないのか?」
「う……うん。うれしいよ。ただ急にそんなことを言われてもにわかに信じられないだけだよ」
コペルはぎこちない笑顔を浮かべた。
嘘……だな。コペルは一つも喜んじゃあいない。俺を安心させようと作り笑いをしているだけだ。
こいつは自分が助かることは絶対ないという考えを変えるつもりはない。
ニクスはコペルの笑顔を見てそう見抜いた。
「ちょっとは期待を持ってくれたっていいのに」
「何か言った?」
ニクスの独り言はコペルには聞こえなかった。
「良かったって言っただけだよ」
「何がだよ?」
「秋なのに結構冷える日が多かったし、お前一人だけにして心配だったんだ。けど、減らず口が叩けるんだ。杞憂で済んでよかったって話だよ」
半分は本当だった。
コペルは病の後遺症のせいで体力がかなり衰えている。それに加え、悪魔にかなり浸食されている。
それらが原因で生活を送るうえでかなりの支障を浸している。
それでも家の中を歩き回ったり、簡単な作業を短時間するだけならまだ辛うじてできるという程度には自由がきく。
それだけに一週間もコペルを一人きりにさせるのは不安で仕方なかった。
独り言の内容が聴かれるのはまずかった。
こんなのが聞こえたら、コペルの心を傷つけてしまう。
だが、取り繕うために言った適当は本当のことでもあった。
だから、嘘だとはすぐに見抜けないはずだ。
「それくらいならはっきり言えばいいのに」
「なんか、ずっと心配だったって本人の目の前で言うのは気恥ずかしいから」
「そういうこと……言うとこっちまで恥ずかしくなっちゃったじゃないか」
二人の間で沈黙が流れた。
ニクスは照れくさくてコペルを見ることができなくなってしまった。
そして、そらした目線の先にいた人物と目が合った。
ニクスの目に入った人物は恨めしそうな顔をしていた。
それもそのはずだ。
この地方の秋は時々真冬のような寒波が夜に訪れることがある。
今日はそんな寒波が訪れた日だった。
気温は一桁台まで下がっていた。
そんなところに十分近く放置されていたからだ。
「ダメだね」
「そう……だな」
二人は苦笑いを浮かべていた。
「そうだった。今日は客を連れてきたんだ」
「へえ。珍しいね。君がそんなことするなんて」
「いやあ、かなり面白いやつでさ。そいつは旅人なんだ。結構面白い話してくれてさ。お前もきっと好きになると思う」
「へえ、楽しみだね」
コペルはニクスが連れてきた客人に興味がわいた。
ベッドでほとんど寝たきりの状態で過ごすようになっておよそ五年。
家の外に出ることさえもしなくなった。
そんなコペルの唯一の楽しみが遠出をしたニクスの土産話だった。
そんなコペルが興味を持ったのは、いつも以上に面白そうな話を聞けるというところだ。
「入ってきてくれよ」
ユイはドアを押したが、ドアは一ミリも動かなかった。
ユイは力を入れてドアを押した。しかし、ドアはがたがた音を立てて震えるだけだった。
「何してんだろう。早く来いよ」
入って来いってドアがあかないんだから無理でしょ。
かなり本気で押しているのにびくとも動いてくれないんだけど。
「てか、君、入った時に鍵閉めたよね?」
「あっ」
ニクスはコペルに指摘されて思い出した。
夜に家に入るときはドアの鍵を閉めるのが習慣になっていた。
意識せずにやっている行動なので、ニクス自身気にもとめていなかった。
「悪い、悪い」
ニクスは謝りながらドアに駆け寄った。
そして、ドアの鍵を開けた。
まさか、こんな形で不安が的中するとは思わなかった。
ユイの予想では何らかの要因でグダグダな感じの流れになったせで、サプライズも何もあったもんじゃないしらけきったムードになるものだった。
それが、まさか自分が入る場面で失敗されるとは思いもしなかった。
「失礼します」
ユイは家に入るとすぐぎこちない喋り方であいさつした。
「えと、その……」
ユイは他人の家に上がる経験があまりなかったのでそわそわしていた。
そこそこ暖かい空気で出迎えられたことに戸惑った。
ニクスが何かやらかして白けたムードを隠すように暖かさを取り繕っているという状況を想定していたからだ。
「この人がその旅人だ」
「ユイって言います。よろしく」
「僕はコペル。よろしく」
「え~と、その……」
ユイは何を言えばいいのかわからず、戸惑っていた。
そして、助けを求めるようにニクスに目をやった。
「ああ……そうか。やっぱ人見知りしてしまうか。アンタのこと話したらさ、コペルもいろいろ話聞きたいってさ」
ユイは納得した。
初めて会う少年が期待のまなざしを向けていたことが腑に落ちなかった。
自身を見るコペルの目がやたらと輝いていたのは、ユイがこれまでの旅で経験した笑い話を期待していたからだと知ったからだ。
理由がわかたっと同時にニクスに対して怒りがわいた。
なんていうことをしてくれたんだよ。
アタシは正体がばれぬように人との接触を極力避けていたんだ。
だから、面白いネタなんて持っちゃいない。
てか、アタシがおもしろいこと喋る空気になってることがおかしいんだよ。
しかも、知らないうちにハードルめっちゃあげていたみたいだし。
この高さは普通に歩いて通り抜けれるぐらいの高さに設定されているね。
あとでなんかせびってやる。
アタシを招き入れるために理由をでっち上げたとはいえ、アタシにこんなしんどさを味あわせたんだ。
その分ぐらいなら要求したって罰が当たることもないだろう。
旅の面白エピソードがない以上、違う話でごまかすしかない。
「さっきの紹介、味気なかったね」
とりあえず、鉄板と言われるネタを一つやっておこう。
そうしたら、たいして面白くない話でも面白いと思える雰囲気は作れるだろうし。
「そうだね。互いに自分の名前を言っただけだしね」
「アタシさ、二百二十二年の二月二十二日生まれなんだ。全部二だから、覚えやすいねってよく言われるんだ」
「全部が二ってすごいね」
オッケー。つかみは上々。
誕生日ネタはあんまし外さないって本当だったんだ。
「コペル君の誕生日っていつなの?」
我ながらうまいこと話を逸らせた。
こうやって、コペル君に自分語りさせておけば、アタシの旅への関心も薄まるはず。
一時間近く座り続けたせいか、腰に痛みが走った。
「ちょっと休憩させて」
ユイは腰の痛みを和らげるために筋を伸ばした。
同時に、腕を天井に向かって伸ばした。
その時、鎌をくるんでいた布に手が当たった。
布の結び目に小指がひっかかってしまった。
ユイはそのことに気付かずに腕を伸ばし続けた。その結果、結び目はほどけてしまい、布によって隠されていた刃があらわになった。
「それは……ああ……そういうことか」
ユイの翼のような形の刃を持つ鎌をを見てこれから起こることに察しがついた。
コペルはこれから自分がどうなるのかさえ理解した。
不思議だ。こんなにも冷静でいられるなんて。
生きることはあきらめていた。だけど、死ぬのは怖かった。だから、こうしてずるずると生きてしまっていたんだ。
なのに、僕は死を受け入れようとしているんだ。
死神と出会ったら、もっと動揺して、わーわーわめくんだろうなって思っていたのにな。
いつも変わらない落ち着いた気持ちでいられることがあまりにもおかしかった。
コペルはそのおかしさにこらえられずに笑った。
「なら、さっさとやってくれよ。死神さん。人を楽しまるようなことしてから、悲しませるなんて……ひどい手口だね」
「理解が早いのはうれしいけど、誤解してるね。アタシはこれまで一度も人を殺しちゃあいないんだ。なのに、人の顔を見た途端勝手に自分の死を悟らないでくれる?」
「それは失礼した」
「もっと言えば、アタシは君を助けに来たんだ」
「それはご苦労なことだね。だけど、死を悟ったことは間違いじゃないと思っているよ」
コペルはシャツを脱いだ。
服に隠されていたものがあらわになった瞬間、ユイは言葉を失った。
ユイにとってそれは、言葉を発することも発する言葉さえも失ってしまうほどに衝撃的だった。
シャツで隠されていのは白色に染まった無機質な体だった。
ユイの目に映るコペルの体表の八割ほどが無機質な白に侵食されていたからだ。
それでユイはコペルが死を悟ったわけがわかった。
そして、もう一つ分かったことがあった。
「ほうら、これでわかっただろ? いまさら来たところで手遅れなんだよ。こんな状態なら君が何をしたって僕は死んでしまうだろうからね」
「ゴメン。ニクス君の期待に添えれそうにないや」
「どういうことだよ?」
「彼から悪魔を取り払っても元通りとはいかないってこと」
「悪魔がいなかったらコペルはこうならないんだ。悪魔がコペルの体からいなくなれば、元の元気な体に戻るんじゃないのか?」
「アタシができるのは悪魔を取り払うことだけで、悪魔に奪われた部位の再生まではできないんだ。この人はすでに体の大半を悪魔に蝕まれている。この人から悪魔を取り払ったらすぐに死んじゃうよ」
「そんな……」
「そんな顔しないでよ。こうなった時から大体察しがついていたことだしね。悪魔に憑かれた以上、いつかは悪魔に体を食いつくされる運命にあったわけだしね」
「嘘はよせよ。悪魔は異能を差し出す見返りに肉体を求めるんじゃないのか? お前は一度だって異能を使っちゃいないじゃないか」
「違うね。悪魔の力を使うことで肉体は悪魔が奪いやすいように変質するってだけだ。悪魔の力を使っていなくたって、時間をかければ奪えるんだ」
「じゃあ、お前に悪魔が憑いた時点でこの結果は変わらなかったのか?」
「そうだよ。悪魔ってやつはなんでだか人間の体をほしがるんだ。そのために寄生虫のように人間の体にこっそり入って、その体を自分の都合のいいように改造していく。そんな薄汚いやつに入り込まれたんだ。ろくなことにならないってことぐらいはわかっていたさ」
「ゴメン。もっと早く来ていれば……」
「おかしなこと言うね。死神が人間の命を救うのかい? ……ゴメン。言い過ぎたよ」
「別にいいよ。死神って言われても実感がないから」
ユイは人間を一人も殺していない。
だから、人間から死神と恐れられても実感がわかないでいた。
「あとさ、ユイって呼んでくれる? 実感はないっていてっも死神って呼ばれるとほんのちょっとだけ心が痛いんだ」
それでも、死神と呼ばれると自分が嫌われているようでいて苦しかった。
ユイの中で死神という言葉はかつて向けられたあの眼差しを彷彿させる言葉になっていた。
「ごめんね。ユイちゃん。散々無礼働いて厚かましいやつだと思うかもしれないけど、お願い。僕から悪魔をとってくれ」
心を傷つける言葉を軽い気持ちで投げつけておいて、こんなことを要望するのは恥知らずで厚かましいし、そんなことを願う資格だってないであろうことは理解している。
しかし、それでもそう願わずにはいられなかった。
自身に憑いた悪魔を消し去ってほしい、と。
「でも……それじゃあ、お前は……」
「いいんだ、ニクス。実を言うとね、自分が自分でなくなってるような気がしているんだ。こう、別の誰かに自分が塗り替えられているっていうのかな? 僕が僕でいられなくなっているんだ。だったら、僕が僕である内に死なせてくれないかな?」
コペルは時折不思議な感覚に見舞われることがあった。
何を忘れたのかはわからない。
それでも、確かに記憶が抜け落ちているということだけが認識できている。
「何かないのか? コペルが死なないで済む方法は?」
「アタシにはどうしようもないよ。彼は心臓を取られている」
何度も何度も同じようなことしか言えないのが悔しくてたまらなかった。
この忌み嫌われた体質がようやく誰かの役に立てると思ったのに、それがこんな形で裏切られることがどうしても許せなかった。
「なんでそんなことがわかるんだ?」
「彼の胸を見るとわかってしまったんだ」
ユイが見たものはコペルの右胸から突き出た赤い石のようなものだった。
それは悪魔に心臓を取られた人間に発現する第二の心臓というべきものだ。
この物質が今はコペルの心臓と同様の働きをしている。
ユイは骸骨の歯でふさがれた目を解放した。
赤く光る眼は悪魔を見ることができる。
ユイはその目を通してコペルの今の状況を解析した。
中身も大概だめだ。
臓器もせいぜい栄養を作るのに必要な器官だけが取り残されていて、それ以外は悪魔に奪われている。
悪魔は最低限人間が生きるのに必要な機能だけを取り残して他を奪い取った。
それは、悪魔が人間の体についているが故の奪いかただ。
悪魔は最終的に人間の体のすべてを奪いつくし体を乗っ取る。
しかし、すべてを奪いきらない内に、宿主に死なれるとその体は奪えない。
宿主が生きた状態であるうちに宿主のすべてを奪わないと、その体のコントロールを得ることができない。
すべてを一気に奪生きるために宿主が衰退しきって抵抗力を失わせないといけない。そのために人間が生きるのに必要最低限の器官だけを残して奪うようにする。
脳も侵食されようとしていることがわかった。
それがコペルの記憶の欠落の原因だった。
宿主の記憶をなくすことは悪魔の浸食を助長することになる。
人間の精神はそれまでの経験によって作られる。
人間が経験した様々なことを記憶し、それによって精神が作られる。
精神を形成する記憶を失うということは、そのまま自分を失うことになる。
失い続けることで、その人が持つ自分というものが希薄なものになる。
そうして、最終的に宿主の自分への執着がなくなってしまう。
自分を持たない人間は自分を奪う悪魔にさえ関心を示さなくなる。
だから、悪魔は脳の浸食も進めようとする。
「彼から悪魔を取り払ったら、この石は機能しなくなる。体から悪魔がいなくなったら彼は死ぬんだよ。それに脳にも悪魔の手が伸びている。悪魔がいなくなれば脳の一部も消えてしまう」
またこのことを言わないといけないのか。
そう思うとユイは憂鬱な気分になった。
しかし、どう取り繕うが、どんな言葉を選んでも言うことは変わらない。
言うことが変わってしまうということは、嘘をついているということだ。
「アタシが彼に憑いた悪魔を殺してしまったら彼が死ぬのは避けられないね」
「何……だと……」
「だろうね。わかりきっていたことだよ」
コペルは自分なくなっていくような感覚がしたときからうっすらと感じていた。
自分は後戻りできないところまで悪魔に奪われたのだと。
「さっきから、ユイちゃんは何度もそういっていたじゃないか?」
「嫌じゃないの? 『お前は死ぬんだ』なんてことを何度も言われてさ」
「全然。むしろ、感謝しているよ」
「死にたかったの?」
「全然。むしろ、生きたいと思っているよ。けれど、僕は君に感謝しているんだ」
「何を?」
ユイは怒られるようなことはあっても感謝されるような筋合いがあるとは到底思えなかった。
「こういうときってたいていは下手なきれいごとで持つこと自体が苦痛になる希望を持たせようとするだろ? だけど、君は僕にそんなウソの希望を一つも抱かせてくれなかった。それがうれしいんだ」
「それって皮肉?」
コペルの言った言葉は何の嫌味も皮肉もない心の底から出た言葉だった。
ユイはそれをコペルの本音だと思いたかった。
ひょっとしたらなんでもかんでもずばずば言っちゃいう自分へのあてつけじゃないかかという館上げが浮かんでしまったせいで、思わず訊いてみただけだった。
「ちょっと嫌味ぽっかったな? ぼくとしては下手な希望持たされるよりも、君みたいに本当のことをズバズバ言う人に、何の飾りっ気もなくいってもらえるほうが楽ってだけのことなんだけどね」
「ねえ、一個だけ訊かせて」
「何?」
「どうしてアタシを見た時に笑ったの?」
ユイは自分を笑われたんじゃないとわかっていた。
自分を見て何を思って、何がおかしかったのかが気になって仕方なかった。
「つまらない話だよ。死を間近にして冷静でいられることがどうしようもなく変だったって話。つまらないだろ?」
「さあ? どうかな? アタシはまだ生きるからね。よくわからないや」
「その体で?」
「そう。この体で」
「ハハハ。そんな風に思える君がうらやましいよ」
それは心の底から出た言葉だった。
自分のように悪魔に蝕まれながらも、生きることをあきらめないでいるユイがまぶしく輝いて見えた。
「この体にコンプレックスの塊のアタシを羨むなんて君も変わってるね」
「よく言われる」
コペルは苦笑いを浮かべた。
「じゃあ、そろそろお願いするよ」
「おいっ!?」
ニクスはコペルが今にも死のうとするのを拒むように声を上げた。
それが意味のないことだと知りながらも、つい、無意識に、条件反射で声を上げた。
「いいんだよ。悪魔のことがなくたってあと半月くらいの命だったんだ。ニクス、君だって知ってただろ?」
「だからって……何も今すぐじゃなくたって」
もしかしたら、コペルが死なずにコペルの体から悪魔が消える方法が今日中にでも見つかるかもしれない。
もしかしたら、コペルを冒している病に効く薬が開発されるかもしれない。
そんな意味のない薄っぺらい期待がニクスの中にある。
それがニクスを諦めさせないでいた。
しかし、ニクスはこれがただの妄想で、希望というには程遠いものであることもわかっていた。
そして、そんな妄想が何の意味も持たないことを誰よりもニクスが一番理解していた。
「だったらさ、せめて僕が僕である内に死なせてくれよ」
「ああ……もう。本当にどうしようもないんだな?」
それは自分の中の逃げ道をふさぐための問いだった。
こんな妄想にすがっている自分を消し去るためのことだ。
「そうだよ。それは彼女も同じだよ」
「そうだよ。アタシにコペル君を死なせない方法がない。けれど、これを使ったらコペル君は死んでしまう。それってアタシが君を殺したことになるじゃない。それがとてつもなく怖いんだよ。だからさ、心の底から生きたいって言ってよ」
ユイはいよいよ逃げ場を失った。
コペルに憑いた悪魔を殺すことはコペルを殺すことにつながる。
そのことが鎌をふるうことをためらわせる。
コペルはゆっくり両目を閉じた。
そしてゆっくり首を左右に振った。
「それは無理なんだ」
「生きることを諦めちゃったから?」
「ある意味そうかもね。僕は今まで精一杯生きてきた。先が短いと知ってからはもっとがむしゃらに生きていた。だからね、僕はこの人生に満足しているんだ」
コペルは言い終えると一呼吸置いた。
悪魔に侵食された影響で体力が落ちたからだけではない。
もっと別の理由があった。
「だけどね、この体を悪魔に奪われたら最後の最後で満足して死にきれないんだ。だから、僕に憑いた悪魔を殺してほしいんだ」
たった一つどうしても残ってしまう心残り。
それを吐露する上で自身の心にためを作る必要があったからだ。
「だったら仕方ねえな。頼むよ。こいつの願いをきいてやってくれ」
ニクスは自分が何を言おうとコペルが考えを改めっることはないと確信した。
そして、安い妄想を自分の中から跡形も消し去ることができた。
これがコペルの願いだっていうんなら、コペル差し伸べることのできる最後の救いだっていうんなら、コペルの願っている通りにしてやりたい。
「そんなこと言われたって……」
ユイもコペルがそう願っているん啞らそうするべきなんだろうと頭では分かっていた。
けれども、どうしても二の足を踏んでしまう。
それは悪魔だけでなく人間の命まで刈り取ってしまうというどうしようもなく恐ろしいことをしなけらばならないということから来るものだ。
「君が僕の中の悪魔を殺すことで僕は間違いなく死ぬ。だけど、そのことを悔やんじゃだめだ」
「悔やむに決まってんでしょうが。自分の手で人を殺しちゃうんだから」
悔やむな、なんて簡単に言ってくれる。君を殺すこっちの立場になってみろ。今だって手が震えているんだ。
ユイは心の中でコペルの無責任さを責めた。
この一振りが人を殺すと思ってしまうと、体は動かないし、頭だって真っ白になってしまう。
こっちはニクス君との約束で君を救うって決めたんだ。
なのに、こんなことしちゃったら約束と真逆じゃないか。
「僕は君に殺されるんじゃない。君に救われるんだからね」
「どういうこと?」
「僕は今日か明日にでも悪魔に体が奪われ、僕という人格が消えうせる。僕は悪魔によって理不尽に僕を蹂躙されつくされるんだ。そんなの悲しすぎる。だけど、僕は悪魔に憑かれているのに僕のままで死ねるんだ。悪魔を道連れにしてね。こっちのほうが何倍もいい」
「だからって……」
「君だってわかるでしょ? これが悪魔に憑かれたものの運命なんだよ。悪魔の力を使おうが使わまいが最終的に体を乗っ取られ、自分が消える。そんなのむかつくだろ。せめて一度くらいは仕返ししないと気が済まない」
コペルの言っていることはわかる。
自分を襲った理不尽のせいでこうなったんなら、せめてその理不尽に一矢報いたいという気持ちも。
この鎌だってその思いの結晶だ。
悪魔が憑きやすい体質だから、無数の悪魔が体についている。
右腕や左目、臓器もいくつか取られた。
悪魔の力がほしいなんて一度も願ったことはない。
なのに、アタシに何一つ与えることなく体だけは奪った。
なぜかって?
悪魔が憑きやすい特異体質だからだ。
そんな身勝手な理由で居ついて、アタシからたくさんのものを奪った悪魔への復讐がこの翼の形をした鎌だった。
心臓をとられたせいで自分の中の悪魔は殺せない。
それでも悪魔を殺そうものなら悪魔の思う壺なきがした。
だから、最初にしぶとく生きてやろうって誓った。
次に、こいつらの心が痛むことをしてやろうって思った。
ならば、こいつらの仲間を死ぬまで狩ってやると心に決めた。
ユイは悪魔を狩るうちにあることを知った。
悪魔はほかの悪魔が殺されると悲しむ。
そのことを知ってからさらに積極的に悪魔を狩るようになった。
これが自分に憑いた悪魔に対する唯一の復讐の手段だからだ。
普通の人間は悪魔に反撃する術を持たない。
だから、悪魔への復讐につきやってやりたい、とユイは思った。
「くううう……」
コペルは苦しそうに呻いた。
額には汗がたまっており、色白の肌はさらに血色を失っていた。
「どうしたの?」
「ここにきて悪魔の浸食が強まったんだよ。このままお前なんかと一緒に死んでたまるかってとこだろうね」
コペルの体がみるみる白く染まっていった。
それは悪魔がコペルの体を侵食しているからだ。
コペルの体力はかなりすり減っていた。それにちょって、悪魔の浸食に対する抵抗力も弱まった。そのことが悪魔の浸食を通常よりもかなり強くしてしまっていた。
「お願いだ。早く。悪魔を殺して」
コペルの右腕がゆっくり動き出した。
それはユイの首に向かって動いていた。
右腕はコペルの意思とは関係なしに動いている。
それに加え、コペルの顔が笑っていた。
それはコペルの体を奪った悪魔が浮かべた笑みだ。
もうすぐ体の支配が完了するのを確信した悪魔の勝利の笑みだった。
「ねえ。お願いだから」
辛うじて残っていた力を振り絞って懇願した。
コペルの右手の指先がユイののどに触れた。
「ああもう! クソッ」
ユイは鎌を振り下ろした。
ユイの鎌は人間を切ることはできないが、肉を切ったような感触がその手に伝わった。それは、鎌が悪魔を切った感触だ。
しかし、ユイはその感触を人間の肉を切ったように錯覚した。
「あ……ああ……アタシは……」
ユイの手から鎌が滑り落ちた。
ユイはおえつを漏らしないた。
コペルの言葉に逆らうことができす、やけくそ気味にコペルに憑いた悪魔を切った。その後悔が込み上げてきたからだ。
「ありが……とう」
コペルは静かにそういうと、眠るように目を閉じた。
その顔には一切の苦しみもない。ただただ眠っているようだった。
「アタシは……なんてことを……」
もしかしたら助かる手段はほかにあったかもしれない。
なのに、それを絶ってしまった。
ニクス君の友達をこの手で……この手で殺してしまった。
助けて見せるって約束したんだ。
それなのに、それを裏切ってしまった。
この体のことを知ってもなお友達でいてくれたニクス君を裏切ってしまった……。
ユイには自分の手が血で汚れたように見えた。
「ゴメン……なさい」
ユイは意識が消えていく中でかすれる声で弱弱しく言った。
その声はニクスの耳に届かなった。