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悪魔の死神〜ユイ一無二な冒険譚〜  作者: 紅ユウキ
3章
21/26

17

「結構意外だったなあ」

 回路の中心はユイが泊まっていたホテルの向かいの建物だった。

 回路をたどっているときに周囲の風景にデジャヴを感じていたが、それがこのことによるものだとは思いもよらなかった。

「この建物に何があるの?」

「何だろうね?」

 ここにあるのはこの街のインフラを管理するシステム。それがどんな形をしているかはわからないがそれを破壊する。

 建物は分厚い扉で入口はふさがれていた。そしてそれは南京錠と頑丈な鎖で絶対に外部からの侵入を防ぐという気概を見せていた。

 ユイが軽く押しても引いてもびくともしない。当たり前のことだった。開けるという意思を持たないで力を入れずに取っ手を持っただけのようにすぎなかったのだから。

「ちょっと下がっていてね」

 ユイは扉を蹴り飛ばした。

 扉は壁に深く埋まっていた。

「すごいねえ。鉄の扉をけ破ったよ」

 マリアは扉にくっきりと残った足跡に目をやりながら嘆息した。

「でもさ、そんなことする必要なかったよね?」

 マリアは足元のレールへと目をやった。

 蹴破るだけの力があるのならば、南京錠を無視して強引にスライドさせることもできたはずだからだ。

「そうだね」

 ユイがレールに気付けなかったのは無理もない。レールは土で埋まっており、初見でそれに気付くのはほとんど不可能だった。

 そして、仮にそのことに気付いて入れたのなら、ユイはスライドさせていた。

「まあ、結果オーライっていうしね? 多少は……」

 入ることができればなんだっていいと自分に言い聞かせつつ中へと入っていった。

 奥のほうに階段があった。それは上階ではなく地下へとつながっていた。

「なるほどね。あれはフェイクってわけか。器用なまねができるんだね」

 マリアは感心したように息を漏らした。

 ユイは部屋に入ったとたん立ち込めてきた匂いにむせ返った。

「何なの、これ?」

 ユイの鼻を刺激した血の匂い。

 それがこの空間には充満していた。

「なるほどね。本当にふざけたことをしてくれるよ」

――これはお前でも食らいきれんぞ――

 親切にどうも。そのくらいのことは見た瞬間に判っていたよ。

 目の前に存在する物体こそがヘツカの機能を管理しているものだ。これをつぶせば、街中にある光を放つ赤い意思は発行できなくなる。

 人のような形をした巨大な青白い光。それはさながら玉座に座って勇者を待ち構える魔王のようだった。

 以前立ち寄ったとある田舎に住んでいた小さな男の子が宝物のように抱えていた絵本で見たそれとは比べ物にならないほどの禍々しさを放っていた。

 ユイが今感じている禍々しさはユイのイメージが作り出したに過ぎない。そうとわかっていても、簡単にぬぐい捨てられるものではない。

 目の前に存在するのは数千位及ぶ人間の血肉を食らった悪魔。

――やけに喧しいな――

 唸るような低い声が頭の中に響いた。

「こいつ、直接頭に!?」

――違う。人間の体を持たない悪魔の声を聴けるのは悪魔だけだ。お前は俺の耳を介して、奴の声を聴いているぬ過ぎない――

「どうしたの?」

 マリアは突然慌てたユイを不思議そうに見つめた。

「マリアさんには聞こえていないの?」

「なにが?」

 マリは首を横に傾けた。

――やつらは一般的な悪魔憑きとは異なるのだろう。だから、悪魔の声が聴こえないんだろう――

「アイツの声だよ」

 マリアには悪魔の唸るような低い声が聞き取れない。

「ユイちゃんには聞こえるの?」

「まあ、ね」

「なんで、そんな面倒くさそうな顔してるの?」

「なんとなあく、この後の展開が読めたからだよ」

「なんか唸ってるポイけど大丈夫なの?」

「ほらね。まあ、こっちをガン見して呼吸してるだけだから、問題ないんじゃないかな?」

 こうやって悪魔のことをいちいち教える羽目になる。

 そんな面倒な作業を押し付けられるんだろうな、とユイは予想していた。それが態度に現れていたのだった。

「ねえ、なんか刃物持ってない?」

「これでよければ」

 マリアは銃を探検に変形させた。

「それ以外でなんかない?」

 悪魔を殺すことができる能力を持った刃だ。そんなもので体を切ったら何が起こるかわからない。

 ユイは鉄以外でできた刃物がほしかった。

「こんなことならでかいガラスの破片でも拾っとけばよかった」

 そうすれば、自分の体を切るための道具に困ることもなかっただろう。

――馬鹿か!? そんなことをすれば――

 アタシの体に入り込むことになるよね。

――わかているのならば、どうして?――

 あいつを食らうのは無理なんだったら、アタシの体の中でじわじわと殺すしかないでしょ。てか、いちいちマリアさんに悪魔の言葉を伝えるの面倒くさいし。

――さらっと本音を晒すなよ。てか、そんなくだらない理由のために横着するのか?――

 それは横着する理由の一つ。

 この悪魔は拘束されてるから抵抗できないけど、切り方一つ間違えたら抵抗のチャンスを与えることになるでしょ。そうしないために、あらかじめ大量に血を出してひきつける。あの鎖が切れた後自由にさせないためにもね。

――意外に考えているんだな――

 どうだろうね? 結局強引に楽して方をつけようとしているんだから、考えていないのと一緒じゃない?

――それでも考えて出したのか考えずに反射的に言っているのかでは大きく違う。考えた結果がそれなんだったら、考えずに言ったことよりも――

 まあ、アンタがどう思うかはあんたの勝手だしどうでもいいよ。

――そうか。お前のやろうとしていることは実は不可能に近いってこともわかっているんだろ?――

 まあね。けど、一番安全な方法ってこれなんだよね。

――その安全というのは反吐が出るな。いまさらいい人ぶる気か?――

 ユイの言う安全とはヘツカにとっての安全であって、ユイの身の安全は担保されていない。

 自身の危険を顧みない姿勢に悪魔は腹が立った。

 悪魔に指摘されてそれがまさに善人のやることなのだとユイは気が付いた。


 こうやって一方的に善意を押し付けるだけの馬鹿なら

――無数に存在する悪魔の中から一体だけ選んで殺すことのできないお前に奴だけを狙って弱らせ殺すことができるのか?――

 それは小粒すぎてつかめないだけって話だよ。これだけの大物ならピンポイントで潰せるよ。

 と、大口をたたいてみたもののその言葉はユイの中に存在する不安を包み隠すためのものだった。

 ユイはナイフを胸に深くに刺した。

 それを引く抜くと傷口から大量の血が噴き出した。

およそ一割ほどの出血量。悪魔に対して働く引力はユイが流した血の量に比例する。目の前にいる巨大な悪魔を引き寄せるためになら、これだけの量もいらなかった。だが、ユイは悪魔を引き寄せるのにどれだけの量が必要かわからなかったので加減ができなかった。

「なにやってるの!? 早く手当しないと」

 マリアは地面に倒れこもうとするユイの体を支えた。

「大丈夫……死にはしないよ。ちょっとだけこのままでいて」

 血は大量に出ているが死なない程度の傷だ。 

 ただ、立ち続けることができなくはなっていた。血と一緒にそれだけの体力を失っていた。

――出しすぎだ。バカ。余計なものまで引っ張り込むぞ――

 目の前の悪魔以外のほかの悪魔も引っ張り込んでしまうほど強烈な引力を作ってしまっている。しかし、それにほかの悪魔が引き寄せられないのは、ユイたちがいる部屋が地下の深くにあるからだ。もし、地上でこれだけの出血をしようものならヘツカ程度の広さなら、その範囲内の悪魔をすべて簡単に引き寄せられるほどの強さだ。

 マリアのすぐそばにいたことでユイはマリアの異変に気付いた。

 マリアの体が小刻みに震えていた。そして、マリアの顔はかなり青ざめていた。もともと透き通るような白い肌をしていたマリアの顔がさらに血の気を失っていて、その顔はまさに死人のようだった。

「どうしたの?」

「なんだかわからないんだけど体中がそわそわするんだ」

 マリアは体中の毛が逆立つような、ぞわっとした感覚に包まれていた。皮膚の内側を毛虫が歩いているようでかなり不愉快だった。

――まずいな。奴らにかぎつけられるかもしれねえ――

 どういうこと?

――お前の血がこいつの悪魔に影響を当てているようにこいつの仲間に影響を与えるかもしれねえ――

 ユイの血がマリアの内側の悪魔を刺激していた。マリアの体全体を包み込む不快感は刺激された悪魔の反応によるものだ。

 そういうことね。でもさ、こんなに地下深くまで潜っているんだし、さすがに届くこともないでしょ?

――そう思いたいが、胸騒ぎが収まらねえんだ。早いところ用を済ませて出たほうがいいな――

 わかったよ。つっても、そろそろ片が付きそうだけどね。

――何だ、これは? 我の体が引っ張られる――

 悪魔の体はユイの血に反応している。どれだけ強大な悪魔もユイの血には引き寄せられてしまう。だが、ユイの体に悪魔が入ることはない。

「なるほどね。がばがばなバリアしか張れない割にはしっかりと拘束できてるってわけね」

 悪魔は大量の人間の肉体を一つの塊にしたものに宿っている。

 ユイが悪魔を吸収するには、悪魔がその塊を完全に浸食しきったうえで、その塊が崩壊しきるのを待つしかない。

――この感じ……さっきも……――

 悪魔の呟きをユイはうまく聞き取れなかった。

「ああ……もうしゃらくさいなあ」

 マリアはユイはそっとおろした。

「君のやり方はちまちましててイライラするんだよ」

 銃声とともに青白い光が悪魔へと迫った。

 悪魔はそれを指一本ではじいた。

「ウソでしょ?」

 マリアはいとも簡単に弾き飛ばされたのが信じられなかった。

「だったら……」

 マリアは何発も撃ったがことごとくはじき返された。

 ユイはマリアに迫りくる一発を切った。

「貸し一個ね」

「ユイちゃん……!?」

「っ……けが人にこんな重労働させるなんて悪魔か鬼くらいなもんだよ」

 ユイは作り笑いを浮かべ皮肉を吐いた。

 死なない程度のけがとはいえ、かなりの負担になっている状態だった。

 ユイは何度か深呼吸をし息を整えた。

――なるほど。わが同胞を利用しているのか――

 悪魔はマリアの放った光の性質を理解していた。

――人間風情が悪魔を利用するか――

「怒っちゃった?」

――人間風情に体よく扱われるのは屈辱だが、それを感じるのは屑どもであって我ではない――

「へえ、仲間に冷たいんだね」

――仲間? 人間の道具に成り下がった塵どもがか?――

「さっき同胞って言ったじゃない? もう、忘れちゃったの?」

――そう……だったな。誰かと話すことなど何百年ぶりのことだからな。はしゃいでいたようだ―― 

「こんなかび臭いところに何百年も閉じこもっていられるなんて正気の沙汰じゃないね」

――悠長に悪魔と会話してる場合か!?――

 ユイの中の悪魔がしびれを切らして怒鳴った。

 ユイの頭に強く殴られたような衝撃が走った。

「まあ、落ち着いて。どうせ、血で引き寄せることもできないんだし、ちょっとくらい話し込んだっていいんじゃない?」

――できるだけ早く済ますって話だろうがっ!――

 悪魔はマリアへと腕を伸ばすが、その手は届かなかった。悪魔の手首に巻きつけらえた鎖が伸び切っていた。悪魔の手とマリアの間にはほんのわずかな距離しかない。マリアの鼻の先と悪魔の爪の先が触れるかどうかほどでしかない。悪魔の手が届かなかったのはマリアの運が良かったからだ。マリアが悪魔にもう少し近づいていても、鎖がもう少し長くてもどちらでもアウトだった。

――むう。これに苛む時が来ようとは――

 悪魔は今までこの拘束について何も感じていなかった。

 何もせずとも人間の血肉を与えられるだけで、ひたすら眠るように時を過ごしていた。それは退屈ではあったが不満はなかった。

 勝手に異能を引き出されていたが、それにおつりがくるほどの血肉をささげられていた。だから、それに対しても何もせずに放っておいた。

――小蠅一匹潰せんとはなかなか不便よのう――

「よくわかんないけど、大変そうだね」

 同情は口先だけだ。ユイの心の中に悪魔に対する情けは一ミリたりとも存在しない。

 悪魔を拘束する鎖は天井や床からは無数に枝分かれしていた。この細い管が通って様々な生活に便利な機能へと接続されていて、それらはこの管から供給される異能のエネルギーによって稼働している。

 悪魔の四肢に着けられた鎖を断ち切れば、街中へのエネルギーの供給は止まる。しかし、それをすると、悪魔を野に放つことになってしまう。

 ユイが深手を負っているので、野に放たれることなく、ユイの体に入り込むことになる。だから、街の安全面では全く影響はない。しかし、ユイの体が悪魔を受け入れた後どうなるか予想できない。抑えきることができるに越したことはないが、万が一そうならなかった場合、ユイの体内に存在する大量の悪魔も解放されてしまう。

「壁の時見たくしっぽ切りしないの?」

 四肢が鎖によって抑えられているから自由にできない。ならば、その四肢を切り離した後に改めてなくなった部分を作りなおせばいい。本来は明確な形を持たない悪魔になら造作もないことだ。

――さきほどのアレはやはり貴様が原因か――

「そうだよ」

 ユイの血液が付着したことで悪魔を殺す能力を得た鉄の扉。その扉の影響で壁は跡形もなく消え去った。

 唯一悪魔を寄せ付けない金属である鉄と悪魔を引き付ける体質を持つユイの血液が交わることで、鉄は悪魔を殺す能力を得る。

 銀や銅といった鉄以外の金属にユイの血をかけても悪魔を殺す能力は発現しない。鉄だけがユイの血を得ることで悪魔を殺すことができる。そして、それは悪魔を傷つけることができるから殺すことができるだけではなく、悪魔にとっての毒も同時に流し込んでいるからでもある。

 悪魔がこうやって生きていられるのは管を逆流した毒が自身の体に届く前に切り離したからだ。

――この部屋といい、貴様の力といい鬱陶しいな――

「へえ、あいつらもわかっていたってわけか」

 鼻に入ってくる血のようなにおいの原因はかつてここで生贄になった人々の血ではなく、鉄の匂いだった。

――この肉を食らいつくすことも出来ぬとは――

 ユイの血に惹かれた悪魔は寄生している体への侵食を進める。しかし、目の前の悪魔は侵食を進めていなかった。進めていなかったのではなく進めることができなかった。

「どうしたの?」

「なんでかしらないけど、悪魔は鉄が苦手なんだ」

 鉄には悪魔の力を抑える能力がある。鉄によって悪魔の侵食する能力が極限にまで抑えられていた。

 この空間に存在する鉄が悪魔を抑え込んでいた。

 床も天井も壁もすべてが鉄でできている。悪魔にとってこんな空間は拷問でしかない。なのに、悪魔が何も思わなかったのは、自身を取り巻く環境や状況に興味がなかったからだ。何もせずとも生きるために必要なものが天から降ってくる生活に不満を感じることもなく生きていた。何もできないことは退屈ではあったが不満ではなかった。そんな性格のせいで、あたり一帯が鉄でできた部屋に閉じ込められることを拷問だとも思わせなかった。

「鉄が? どうして君がそんなこと知ってるの?」

「それは内緒」

 それを教えるということは背負っている鎌の作り方を教えるのに等しい。マリアのことは信頼できても、マリアの仲間までは信頼できない。その気持ちが、マリアに教えることを阻止した。

「さて、どうする? 〝慈悲〟とかってのは全く通用しないし、アタシの中に無理やり収めるにしたって、アイツは寄生状態だから無理だし」

「寄生状態って何?」

「悪魔が人間に寄生している状態の時のことを勝手にそう呼んでるだけだよ」

「だったら、アタシにもわかるように言ってよ」

「こっちとしては……」

 独り言に勝手に割り込まれただけなのに、と続けたかったが、そうしなかった。釈然としないものはユイの中にあるが、それを吐き出したところでさらに大きなもやもやが生まれるだけだと直感したからだ。

「空気的にわかってくれるかなあって思ったんだよ」

 とっさに思い浮かんだ嘘にしてはなかなかできがいい。ユイは心の中で自画自賛した。

「悪魔を寄生虫見たく見るって発想がなかったよ」

「アタシが常識とまではいわないけど、君らみたいのはアタシと同じように悪魔のことを見てるんじゃないかなって思ってたんだよねえ」

「そりゃあ、悪魔を忌々しく思う気持ちはあるけど、どうしてそんな結論に至ったのかはわからないね」

「あいつらのやってることは寄生虫そのものだよ。人間に寄生して、じわじわとその人の自由を奪って、最終的にその体を奪い取るんだから。マリアさんだって悪魔は宿主の体を奪おうとしていることくらい知ってるでしょ?」

「まあね。言われてみればやってることは寄生虫だね」

――我を前にして悠長に雑談とは――

「あのさ……どれだけすごんだって、何もできないでしょ?」

 目の前の悪魔が手を伸ばしたところで、その手はユイたちには届かない。だから、ゆっくりと話をしていられた。 

「どうしたの?」

「これ見よがしに食っちゃべってるのが気に食わないんだってさ」

「意外と気が小さいんだね」

「そういうこと。それでさ、あそことそこ、あと、そことそこを打ち抜いてくんない?」

 ユイが指差した四点は鎖のつなぎ目だった。

 それを打ち抜けば悪魔の拘束は無力化され、悪魔は自由に動けるようになる。

「わかったよ」

 マリアはユイに言われた四か所を打ち抜いた。それの意味をするところ知らずに。

――馬鹿め。我の拘束を解くとは気が狂ったか?――

「どうだろうね? アタシはアタシの知る限り正常だよ」

――なんだ? 侵食が進んでいる!?――

 悪魔を拘束している鎖は侵食を抑える効果があった。

 鎖が拘束する力を失ったことで、侵食は尋常じゃない速度で進んでいった。

 悪魔の体を悪魔の意識に止められることなく侵食を進める。

 悪魔が寄生しているのはただの肉塊。神経を持たないそれは意思をもって操作することができない。

 侵食完了後、悪魔の体はその肉塊を捨て宙に漂う。

 悪魔の浸食は一分に満たなかった。

 体その肉塊を捨て宙に浮かび出た。

 そして、悪魔の体はユイのほうへと引き寄せられていた。

 悪魔はどれだけ抵抗しても、その引力に逆らうことはできない。

――どういうことだ?――

「これだけ血を流したんだ。フェロモンだって大量に嗅ぎまくってるでしょ?」

――我にもわかるように言え――

「アンタは心でどう思おうが身体はアタシを求めてしまって、あんた自身の意思に聞く耳をもっちゃいないってことだよ」

――ぬうう――

「眠っていることが退屈でないんなら、アタシの中だってそう悪くはないよ」

 悪魔の体は抗うことなくユイの体のかへと入り込んだ。

「やっぱ暴れるのね?」

――当たり前だ。なぜ、貴様に隷属しなければならぬのだ? この我が――

「アタシの中でおとなしく眠っているだけなら、そんなことを求めないよ。アタシには想像できないくらい長い間くそ退屈な生活を送れたんだ。寝床が変わったくらいでやることが変わらないんだっていうんだし、そう怒ることでもないでしょ」

――本当に割れを屈服させようとはせんのだな?――

「うん。正味、悪魔を屈服させられるんだったら、アタシの中の悪魔が喋られるはずもないしね」

――自身に宿した悪魔も野放しか。反乱されたらどうするつもりだ?――

「その時は……」

 考えはある。だが、それを実行しないで済むように祈っている。

――なるほど。考えはあるわけか――

「そういうこと」

「どうしたの?」

「あとで説明するから、ちょっとだけ休ませて」


 地上に上がった時には空に赤みが混じっていた。

 地上に出た時には騒乱は収まったのかやけに静かだった。

「その光って普通の人間には無害なの?」

 詳しいことを教えられないのは〝慈悲〟の本質を部外者に知られるわけにいかないから。ユイはそう考えていた。

 なら、〝慈悲〟が人間に対して有害か無害かは〝慈悲〟の本質に全く触れないだろうとユイは推測した。

「なんでそんなことを訊くの?」

 マリアはユイがそんなことを訊いてくることが疑問だった。

 悪魔憑きしかいないヘツカで、人間に対しての影響の有無の確認は無意味だからだ。

 ユイはマリアの訝しんでいる顔を見て、どうして言いよどんでいるのかわかった。

「いるんだよ。この町に人間が」

「君の相棒!?」

「相棒……少し違うかな?」

 ユイはニクスとの関係を表す言葉が浮かばなかった。

 相棒って言えるほどの関係でもない。

 おそらく仲間というのがふさわしいんだろう。ユイはそう思ったが、仲間という言葉もしっくりこなかった。

 間柄を示す言葉で仲間と何度も言ってきたが、その言葉がどこか他人行儀に感じられた。かといって、はっきりとこれだといえるものが浮かばない。

 たしかにニクスのことは気がかりだった。壁が消えたことを受け入れられずにヘツカを駆けまわってユイのことを探し回っている可能性があったからだ。

「一応仲間ってことでいいのかな?」

「何? その奥歯に物が挟まったような言いかた」

「うまい言葉が思い浮かばないんだよねえ。まあ、彼のこともそうなんだけど、ここには結構人間がいるんだよ」

 ヘツカにいる子供には悪魔が憑いていない。悪魔自身、子供の未発達な体を嫌うから憑かないというのもあるが、ヘツカの大人たちが子供には憑けないように施しているからだ。

「まあ、いいや。残念だけどアタシは何とも言えないね」

「ちょっと待って。それはないでしょ? だって、普通の人間に対する影響があるかないかなんて〝慈悲〟の本質に関係ないでしょ?」

 たしかに〝慈悲〟の本質と〝慈悲〟が人間に与える影響とは関係がないことをマリアは知っていた。

 しかし、マリアにも言うことができない事情があった。

「言えないっていうのは、アタシが知らないからなんだよ」

「〝慈悲〟を人間に向けて使ったことがないの?」

「そういうこと。てか、悪魔憑きに向けて使うものを人間に向けて使おうなんて思いもしなかったね」

「そんなことくらい知っていてもいいんじゃないかな?」

「仕方ないでしょ。アタシ、組織の中じゃあ一番下っ端なんだし」

「知らない理由がそれなのもどうかと思うけどね」

「まあ、人間に対して使うなって言われていたし、もしかした悪い影響を与えちゃうのかもね」

「しっかりしてよ」

 この様子だとかつて悪魔憑きだったものへの影響も知らないんだろう、とユイは思った。

「でもさ、悪魔憑きとそうじゃない人との区別はつくんでしょ?」

「そんなの簡単だね。悪魔つきには普通の人間と違って……」

「ああ……言わなくていいよ」

 ユイがマリアの言葉を遮ったのは、マリアがどうやって悪魔憑きかそうじゃないかを見分けているのか察しがついたからだ。

 マリアの悪魔憑きとそうでないものの区別の仕方は体の一部が白化しているかどうかだ。

 ユイのように確実にその人に悪魔が憑いているのかどうかがわかるわけじゃなかった。

「なんか元気がないけどどうかしたの?」

「アタシね、悪魔を殺せるんだ」

「それがどうかしたの?」

「アタシさこの町の悪魔憑きに憑いている悪魔を何匹か殺しちゃったんだ。そんな人たちってどういう状態なんだろう? 見た目は体の一部が白くなっちゃっているから悪魔憑きだし、かといって悪魔に憑かれているわけじゃないから普通の人間ともいえる。そんな人たちが〝慈悲〟を受けるとどうなるんだろう?」

 マリアは額に手を当て首を横に振った。

「君って人を悩ます天才だね」

 マリアは苦笑いを浮かべた。

「ねえ、君たちはどうしてそんな力を得たの?」

「〝慈悲〟のこと?」

「うん。自分で言うのもなんだけど、悪魔を殺せるのってアタシだけだと思っていたんだ」

「ゴメン、教えられないんだ。規則だからね。アタシが教えられるのは悪魔を殺すこの光の弾が〝慈悲〟と呼ばれているってことだけだよ」

 ユイはそんな答えしか返ってこないだろうと予想していた。

 〝慈悲〟と呼ばれる悪魔を殺す能力の入手の仕方なんて重要な情報を簡単に教えてもらえるなんて全く思っていなかったからだ。

 口が軽そうなマリアなら喋ると思ったから聞いてみただけだった。

「じゃあ、あと一つ。彼はさ、心臓を悪魔にとられちゃって、悪魔に生かされている状態なんだ。そんな彼についた悪魔が死んじゃって、彼はどうなったの?」

「悪魔に生かされるってどういうこと? 悪魔が人間を生かすことなんてないんじゃないの?」

「いくら組織の末端でも悪魔と人間の関係については知っているんじゃないの?」

「悪魔と人間の関係って、人間は異能を使うために悪魔に体の一部を与える。悪魔は体の一部をもらう代わりに人間に異能を与えるってことでしょ? 何か間違ってるの?」

「そっちのことじゃないよ。悪魔憑きの中にいる悪魔は宿主が死ぬと、その悪魔も死んでしまう……」

 ユイの言葉を掻き消すように何者かがユイの鎌の刃をたたいた。

 ユイは一瞬何が起こったのか理解できなかった。

 右手には強い衝撃と悪魔を切った感触だけが残っていた。 

 ユイの視線の先には貼り付けたような笑顔をした女性が立っていた。

「先輩、待ってください。その子は死神です」

「知ってますよ」

「だったら、なんで。彼女は我々の組織に勧誘して、それが断られても手を出さずに放っておくんじゃなかったんですか?」

「それでもよかったんですが、でたらめを吹聴するようなことがあるのならば話は別です」

 たった一回の呼吸をするだけで途方のない疲労感に見舞われた。

「なんなの? この気迫」

 マリアに植え付けられた死のイメージを連続してみるよりも疲れる。

「この気を当てられ続けて意識を保っていられるとは大したものですね。普通なら、本人も気づかないうちに気を失っているものなんですが」

「どうだろう? 息をするのがやっとだし、その人たちと大差ないんじゃないかな」

「それでもそこのポンコツよりかはましですよ」

 ハイゼンはマリアを横目で見た。

 それは人が周りを飛ぶ羽虫に向ける不快感をあらわにした眼差しだった。

 ユイはそれが自分に向けられたものでないのに、その目に恐怖を抱いた。あの目を向けられた瞬間、死んだことを認識する前に死ぬ。

「彼女はただすべての感覚神経を閉じているだけです。私の殺気を感じてしまったら、心が死んでしまいますからね」

「アタシにもその方法を教えてほしいね」

 ユイはハイゼンの殺気という表現に納得した。

 ハイゼンからあふれ出る静かな気迫は、自身の死を予感させる。これほど殺気とふさわしいものはない。

 これを殺気と呼び出したのは誰か知らないが、殺気と呼んだその誰かをほめたいと思った。

 ユイはハイゼンに殺気を当てられただけで体中が震えだした。そして、それはおさまるようには思えなかった。

 ユイの手が鎌を通して何かを切った感触を持った。

 どうなっているんだ? アタシは今の攻撃を五感とは別の感覚で感知した。

――お前……もうこっち側だよ――

 悪魔がユイを憐れむような口調で告げた。

 どういうこと? こっち側って何?

――お前の体は悪魔と同じなんだよ――

「アタシが悪魔だって!?」

 頭で思えばそれがそのまま悪魔に向けた言葉になるとわかっていても声に出してしまった。

 悪魔になっただなんて聞き間違えだとしか思えなかった。

「それ、どういうことだよ? てか、誰と話してるの?」

 マリアはユイの体を激しく揺さぶった。

「ちょっと待って。アタシだってわけわかんないんだから」

――お前の体を侵食できないんだよ――

 ちょっと待って。マリアの速さについていけるくらいに強くなったのは、左腕の分を今になって使ったからでしょ?

 だったら、侵食しやすくするための変換もないんじゃないの?

――そうじゃない。妙な感覚がしたから、試しに侵食してみたんだ。そしたら、何の手ごたえもなかった――

 それはアタシが絶望していないから……。

 ユイと悪魔の会話に割って入るようにハイゼンが銃弾を放った。

 会話に集中できない。

「とにかくさ、この異変はあんたとは関係がないってことでいいのかな?」

――ああ――

 この異変が何なのかはわからない。

 悪魔が言うには体が悪魔と同質になったからだという。それがどういう意味鎌では理解の使用はないが、体に憑いた悪魔たちの仕業でないことさえ確認できればよかった。

 悪魔に与えられたものだったのなら、あとで何を要求されるかわからない。しかし、これはそんなものではない。悪魔に与えられたものではなくもともと自分のもの。誰かに対価を要求されることのない力なのだから、気兼ねなく使える。

「ぶつぶつと何を言ってるんですか?」

「えっ!? ああ……ちょっと雑談」

 

 


 マリアはハイゼンから目をそらせなくなっていた。

「あ……ああ……」

 マリアは目が乾くのさえも忘れてずっと目を開き続けていた。

 ゆるみきった口元からは唾液がこぼれていた。

 マリアにはそれらをどうすることもできなかった。

 ほんの一瞬、ハイゼンの殺気を感じただけで、マリアは自分の筋肉を制御できなくっていた。

「ねえ、言ったとおりでしょ? 生存本能が反射的に神経を閉じたようですけど、それでも手遅れでしたね。私の殺気を感じてしまったことには違いがないのですから」

「へえ、アタシの言葉に耳を傾けた瞬間を狙うなんて器用なことができるんだ。殺気ってかなり便利なものなんだね」

「そうじゃありませんよ。私はずっと殺気を放出していますからね。あなたの言葉を聞き取るのとほぼ同時に私の殺気を感じたんでしょう」

「なるほどね」

 ハイゼンから放たれる静かな気迫を浴びることは精神にかなりの悪影響だとユイは実感していた。

 気迫に慣れたのか震えは先ほどに比べるとだいぶマシになったが、心ががりがり削られるような感覚があった。心にある一本の芯の内側から毒が浸透しているかのようだった。

 ハイゼンの弾に対応するように動くその体はまるで誰かに体を糸で操られているかのようだった。

 自分の意思で動かしているという感覚が全くなかった。

 誰かに外から操られているような気分だった。だが、確かなのは他の誰かにこの体を動かす権利を預けているわけではない。ユイの発した命令によって動かされている。

「これはなかなか難しいね」

 ユイの体の制御を奪ったものは反射神経だ。反射神経がユイの体を突き動かしている。それは無意識の行動だ。なので、ユイは体の動きを意識下におくことができない。

「だけど……」

 体を自由に動かせないのは悪魔に支配されているからではない。だから、いずれは自由に思いのままに動かすことができるようにはなる。

 それができないのはユイの体を支配しているのは反射神経だからだ。支配しているのは自分でありながら自分では制御できないもの。それが脳で処理する手間を踏む余裕はないと判断している。

 ユイの体自体はハイゼンの動きに食らいつくことができる。この熾烈な攻撃を受けていても自分で考え行動に移すことができるようにいずれなれる。

「ねえ、それ何なの?」

「それとは?」

「その服のことだよ。その桜の刺繍。それはどこで手に入れたの?」

 ハイゼンが来ていたコートの襟もとに施された桜の刺繍。

 それはあるブランドのマークだった。

 そして、その刺繍が入った衣服をハイゼンが身に着けることができるはずがないのだとユイは知っていた。

「これは我々の制服ですよ。なんてことはない只の制服ですよ」

「嘘だね。その刺繍はカンデラが帝のために仕立て上げた服につけるものだ。アンタのような帝に全く関係ない人間が着られるものじゃない」

 上位の貴族の顔をほとんど記憶しているユイはハイゼンの顔を一度も見たことはなかった。

 すべての人間を記憶しているわけではないが、すべての家の人間の顔の特徴は記憶している。

 ユイの知る限りハイゼンはどの家のものの顔の特徴にも当てはまらない顔立ちだった。

 ユイがハイゼンは上位の貴族の人間ではないと判断するのにそれだけで十分だった。

 それだけに、桜の刺繍が入った衣服を身に着けているハイゼンのことが気になって仕方なかった。

「マリアさんのはどこにも刺繍がないけれど、それと同じ素材だ。こっちのほうがもっとありえないんだよ」

「へえ、詳しいんですね。残念ですが、たまたまでしょ」

「たまたまなわけがない。そのコートの生地だってカンデラ以外には卸されない特別な生地だし……」

「やけに詳しいんですね。まるで、関係者のようじゃないですか」

 ハイゼンは顎に手を当て考え込んだ。

「カンデラの一人娘は数年前に亡くなったはずですし、アナタはいったい何なんですか?」

「アタシはあの人のコアなファンなんだよ。あの人の作る着物のことならなんでもわかる」

 それは嘘ではない。

 ハイゼンが身に着けているコートの製作者のことをユイは心から尊敬していた。それは崇拝にも近いものでもあった。

 それだけに、その人物の誇りを穢すハイゼンのことが許せなかった。

 ユイは力強く光をたたき切った。

 それは誰かの操り人形になった体が勝手に切ったのではなく、自分の意思で切ると決めて鎌を振り下ろしたものだった。

「なんとなく、コツはつかんだかな?」

 この五感とは異なる感覚に突き動かされることにようやく体が慣れた。

 ハイゼンの動きを完全にとらえることはまだできないが、ハイゼンの攻撃を受け流すだけならばなんとかなる。

「何の話ですか?」

「内緒。アンタに本気になられるとかなわないからね」

「勝つことを諦めているのに戦うとは奇妙ですね」

 ユイがハイゼンと戦っているのは勝つためではない。突然襲いかかってきたので、それに抵抗しているだけだった。

 ただ、ハイゼンのコートに入れられた桜の刺繍が目に入ってからはそのコートの出所を聞くまでは負けられないと思うようになった。

「やはり、あの方の娘でしたか」

「あの人の娘は死んだんだ。アタシがその子だというのなら、アタシは幽霊ってことになっちゃうよ」

 それはまるで自分に言い聞かせようとしているようだった。

「アタシは心臓だって……」

 しっかり動いているとは言えなかった。

 ユイの心臓はすでに悪魔に奪われていた。今、生きていられるのは、悪魔がユイの体を乗っ取るための最終段階に入っていて、それまでユイが死なないようにするためだからだ。

 悪魔はこの体を侵食できない、というがユイにはそれは信じられなかった。ユイは自分の生きたいという意思はこの世に存在するどの物質よりも固いと信じて疑わない。その固い意思の前に悪魔たちが何もできずに手をこまねいているだけにしか見えなかった。

「心臓を奪われているんですか。かわいそうに」

 その言葉とは裏腹に、ハイゼンの口調からは憐みのようなものは一切感じられなかった。

「無理してそんな言葉を言わなくていいんだよ」

「これは失礼」

 ハイゼンはぺこりと頭を下げた。

「どうして気づいたの?」

「アナタの顔を見ていればわかりますよ。私のようなものがこれを身に着けることを嫌がっていることに、見ただけでその衣服の生地に使われている原料がわかる眼。それらから導き出されるのはあなたがあのカンデラの一人娘であるということしかありませんからね」

「そう。だったらなんだっていうの?」

「別に。たった一人の娘がいなくなったというのに、色々寂しいなあと思いましてね」

「そりゃあ、こんな見た目だからね。気持ち悪くって愛そう尽かしたんじゃない?」

「クフフフ」

 ハイゼンの嫌味たらしい笑いがユイの神経を逆なでした。

「何がおかしいの?」

「いやあ、アナタがなかなかかわいいものですから、ほほえましくて、つい、ね」

「気色悪いこと言わないでよ」

 ユイは飽きるほど他人に可愛いと言われてきた。だから、その言葉に対する抵抗なんてものはなかった。しかし、ハイゼンのユイに向けた可愛いということ名がユイの耳に入った瞬間、体中に寒気が走った。

「お気に召しませんでしたか? まあ、いいでしょう。ワタシたちと一緒に来てもらいますよ」

「嫌だって言ったら?」

「わかってるいでしょう?」

 この皮膚を刺す感覚がやまないのだから、何が言いたいのかは口にされなくともわかる。

「力づくね」

 わかりやすくて気持ちよかった。

 結局のところ、それが一番手っ取りばやい手段だろう。

 口で何を言ったところで反発するのは目に見えている。ならば、力で黙らすほうが楽だ。

「暴力に訴えるってその面に似合わないね」

 こんなことがなければ、ユイはハイゼンのことを優しそうなお姉さんなんて印象を抱いていた。

「そりゃあ、そうでしょう。上位貴族の子が悪魔憑きだなんて話、これ以上にないくらいおかしいに決まっているじゃないですか」

「上位ねえ。あんな安っぽいのと同列にされるなんてアタシが知らない間にどれだけ落ちぶれてんだか」

「やはり、おうちは恋しいですか?」

「別に。ちょっと失望しただけだよ」

「そうは見えませんけどね」

 ハイゼンの見透かしたような目からユイは目をそらした。

「アタシを使って貴族に揺さぶりをかけようとでもいうの?」

「それも面白いですね。帝の仕立て屋の娘が悪魔憑き、か。貴族とは清廉であるもの。なのに、悪魔に穢されているとあれば、貴族の威信は失墜。世界が変わりますね。実に面白い」

 それで簡単に世界が引っくり返るのならば、どれだけ単純なんだろう。ユイはハイゼンの妄想にかけらほどの興味もなかった。

 貴族の一つが取り潰しになればいいほうで、世間的には並どころか波紋すら浮かび上がらないだろう。

 ハイゼンの妄想はあまりに現実離れしていた。それをどうやって実現する気なのかはとても気になる。

「アンタらについていくよ」

「嫌に素直ですね」

「正直、アンタにはかなう気がしないからね」

 ユイにとって屈辱的な選択だった。しかし、ユイはそれを選択せざるを得なかった。ユイはどうしても生き延びなければならない。

 ハイゼンたちにとって都合のいい人形に成り下がろうとも、目の前の死だけは回避する必要がある。

 いずれは、ハイゼンを打倒して自由になる。それまでの間の辛抱だ。ユイは自分にそう言い聞かせた。

――つまらぬ選択だな。小娘――

 悪魔の嘲笑がユイの心に突き刺さった。

 今は負けを認めるしかない。だけど、いずれはあの人だって打ち倒す。

――どんな野望を抱いていても媚を売る犬に成り下がった時点で貴様の負けだ。貴様では一生奴に勝てぬ――

 どういうこと?

――貴様は奴に勝つことを諦めた。いずれ勝つ? それは可能だろうよ。だが、貴様の心が奴に勝つという気概をもう二度と持てぬということだ――

 言いたいことはそれだけ?

 アタシは絶対にあきらめない。ただの一度の負けは本当の負けじゃない。アタシは心まで屈したわけじゃない。

 これから塗れる屈辱を糧にあいつを超える力を手に入れる。

「言葉とは裏腹に秘めたその情熱。なるほど、実に興味深い。ワタシはあなたのことが好きになりましたよ」

「なんか、同性に言われても響かないよね」

「つまり、私が男になればよいと」

「なれるの!?」

 ハイゼンのひどい冗談はユイの意表をついた。

 そんなあまりにも馬鹿げた冗談を口にするような人物に見えなかったから、思わず声をあげてしまった。

「その気になれば。ワタシほどにもなると雌雄の壁なんてありませんからね」

「ウソでしょ」

「ウソです。あなたがそう思えばね。しかし、ワタシのことを信じるのであればそれは真実になります」

「どういうこと?」

「ワタシは他者の認識で体の性質を変質させることができるんです。今、あなたが私のことを女だと認識しているから女であるだけで、男だと認識されればたちまち私の体は男の体へと変貌します。このことを信じないで、ワタシが女だと思い込み続けるのであれば、男に変化できないのだから嘘ということになりますし、ワタシの言ったことを信じて、ワタシを男と思ってみれば、ワタシは男になります」

 ユイはハイゼンの言葉を真に受けて、その通りにハイゼンを男だと思い込むことをする気になれなかった。仮にハイゼンの言ったことが真実だというのなら、それでいい。しかし、それが嘘だった場合、ハイゼンのことを信じてハイゼンを男だと思い込んだ自分をあざ笑われたらどうしようという不安があった。

「男でも女でもどっちでもないってやつはあるの?」

 そんなものと認識するつもりはないが、ハイゼンの変化にそれも含まれているのかどうかは興味があった。

「ないですね。人間の姿をしている生物でどちらでもないものなって存在しませんからね。だから、どっちでもないものだと認識できないんできないんですよ」

「なるほどね。確かにその形をしたどちらの性別でもない生き物は存在しないよね」

「どちらも持ったものならあるんですけどね」

「なんであるの!? どっちもないものに慣れないのなら逆の性質のほうにもなれないんじゃないの!?」

「昔、カタツムリの生態を研究していたことがありましてね。知ってますか? カタツムリは自身の行動範囲の狭さから、他の個体と出会う確率はかなり低い。仮にあったのが同性ならば、生殖行為はできない。それを防ぐために両方の性別の器官を持っているのだと」

「カタツムリのことはわかったけど、それとあんたが変身できることにどう関係があるの?」

「ワタシはカタツムリのその性質に興味を持ち、研究をすることで両方の性別の器官をもった生物になることができるようになったんですよ。もともと、どちらか一方の器官をもった生物になれるのなら、両方の器官をもった生物になることができた可能性を秘めていたんでしょう。それがカタツムリとの接触で可能になったというだけの話です」

「はあ……カタツムリの話の必要性は見えないけど、まあできる理由としては妥当だというのは伝わったよ」

「納得していただけて幸いです」

 あまり納得はしていない。ハイゼンの話を聞き続けるのに嫌気がさしたからそんなふりをしただけだ。

 ユイはマリアが人形のように無反応なことに気が付いた。

 体をさすっても何の反応もないし、目の前で手を振っても瞳が動かない。

「無駄ですよ。私の期は彼女の生命活動を制止させてしまう。なので、彼女は外部との接触を最小限に抑えているのですよ」

「これは不便だね」

 マリアはハイゼンから発せられる気に触れると失神してしまう。そうならないようにするためすべての感覚器官の機能を一時的に停止させている。

 そのせいで、ユイはマリアと会話をすることができない。

「ねえ、気を発することをやめることはできないの?」

「不可能ですね。おそらく彼女が感じている気というものは吐いた息に含まれるごくわずかな酸素と同じで、外に出るのをせき止めるのはどのような手段を用いてもできないでしょう」

「なるほどね。体臭とかと同じでどうやっても抑えられないんじゃあ仕方ないね」

「そういうことです」

 この心が諦めに染まっていく感覚はずっと消えないらしい。

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