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悪魔の死神〜ユイ一無二な冒険譚〜  作者: 紅ユウキ
3章
20/26

16

「いやあ……来ないで」

 どこからともなく女の子の声が聞こえた。

 ユイはその声がするほうへと向かった。

 通りを抜けるとそこには、少女と男がいた。

 少女に近づこうとする男のわき腹に蹴りを入れた。

 それをまともに食らった男は軽くよろめいただけだった。

「やっぱ……こうなっちゃう?」

 力いっぱいの蹴りでも男をよろめかすので精いっぱいな非力さを自嘲した。

――悪魔に反応することであの力が引き出されるんだ。異能を使っていない悪魔憑き相手なら普段通りの力しか出ないんだろう――

 理解が早いね。アタシはそんなことに気が付かなかったよ。

――お前がここに来るまでの全速力の速さがいつも通りだったからな。それでわかったんだよ――

 へえ、そうだったんだ。

 ユイは自分の走る速さがどうだったかなんて考えていられなかった。

 自分の耳に入った悲鳴にいてもたってもいられずに走っていただけだったからだ。

「なんだお前は」

 男は突然割り込んできた少女に戸惑った。

「さ、早く逃げて」

 ユイは男を無視して少女を立ち上がらせた。

「でも……お姉ちゃんは……?」

「アタシなら大丈夫」

「無視するなあ」

 青い閃光がユイに迫る。

 ユイはそれを難なく切り払った。

「ちょっとまずいね」

 ユイの目には空間を漂う悪魔が映っていた。

 それらは少女に惹かれたからこの場にやってきた。少女は悪魔を引き付ける体質を持っているわけではない。今の少女の心的状態が悪魔にとって魅力的だった。

 少女の抱く恐怖や憎しみは悪魔を引き寄せるのにこれ以上ないうってつけの餌だ。少女のそれらの感情を爆発させれば、少女はとめどなく異能を使い続ける。そうなれば、体を奪うのだってたやすい。

 それは、ユイにとって理解しがたいものだった。

 子供には悪魔が憑かないよう特別な細工が施されている。なのに、悪魔たちはいまにも少女の体に憑こうとしている。

――所詮は人間か。悪魔から守るにはざるすぎるんだよ――

「わかるの!?」

――ああ。これくらいしょぼいものならな。人間ってのはつくづくあきれるな。たしかに悪魔が無理矢理つくのは防げている。だけどな、子供自身が悪魔を欲したのならば、話は違う。悪魔は城壁を突き破ってその体に入るんじゃなく、招かれたから門から入っていくってだけの話だ――

 バリアは無理やり入り込もうとする悪魔は拒むけど、こっちから悪魔に憑かれることを望んでしまったら悪魔は簡単に体に入り込めるってことかな?

――そういうことだ――

 けどさ、子供なら好奇心から異能を使いたがっちゃうことだって考えられるんだっから、そんなしょぼいバリアなら張らないほうがマシなんじゃない?

――程度の問題だ。よくある好奇心程度ならバリアをすり抜けることはできないが、目の前の敵を倒すために心の底から力を欲するってのがここのやつらにとっては想定外だったんだ――

 なるほどね。

 確かに、子供がそこまで強く望むことなんてそうあり得ることだってないだろうしね。

 ユイはヘツカの歴史を知らないが長い間平穏であったことは感じ取れた。

 この平穏に終わりを唐突につきつけられるなんてことを予想することもなくなっていた。狭い檻の中の平和は、ヘツカの崩壊という最悪の事態に備えるという意識を消滅させた。

 子供たちに張られた悪魔を寄せ付けないバリアの性質自体も最低限の機能程度に抑えられていた。

「やけに親切だね」

 こうやって丁寧に教えてくれるのは何か裏があるからだと勘ぐってしまう。ユイはそれが情けなく思えたが、相手は悪魔である以上警戒しないといけないことが心苦しかった。

――単純に趣味じゃないんだ。ガキの感情を利用するっていうのがな――

「ガキにとりついたアンタが言えること?」

 ユイが会話している悪魔はユイが九才の頃にユイの体にとりついた悪魔だ。

 幼い体に入り込んだ悪魔が他の悪魔が幼い体に入ろうとしていることを咎めていることに腹が立った。

――俺が言えた口じゃなかったな――

 悪魔の声はどこか申し訳なさそうだった。

 ユイはそれが気に食わなかった。

 腕を一本奪い、親から突き放されることとなった原因が今更罪悪感にさいなまれているように見せていると感じたからだ。

 悪びれたふりで許してもらおうとする卑怯さがユイの神経を逆なでした。

「仕方ないね」

 それは悪魔に向けた言葉ではない。

 悪魔と会話し続けていると、少女に悪魔が憑いてしまう。そうなる前に対処する必要がある。

 ユイにはその対処法がすでに浮かんでいた。そして、それはユイにとって躊躇うほどのものでもない。

 ユイは足元にあった木片に腕をこすりつけることで皮をすりむかせた。

 針のようにとがったところに強くこすりつけたことによる痛みにユイの顔はゆがんだ。

 ユイの腕の木にこすった部分からわずかだが血が浮かび上がるように出てきた。

 ユイの血は悪魔を引き付ける。

 悪魔が少女の体に乗り移る前に自分に引き寄せることで、少女に悪魔が憑くのを防ごうとした。

「ゴメン。やっぱりちょっとだけおとなしくしてて」

 今、少女にはなれられるのはユイとしては好ましくなかった。

 ユイの目の届かない所で悪魔が少女に憑く可能性があるからだ。だったら、周囲の悪魔を自分に引き寄せることで、少女に悪魔が寄り付かないようにする。

「あの子は悪魔憑きじゃない」

 ユイの赤い目は少女の中に悪魔を感知しなかった。

 そもそもそれで見るまでもないことではあった。

 ヘツカの大人たちは子供に悪魔が憑かないように何かを施しているからだ。

「そんなの腹かっさばくまでわからないだろうが」

「わかるね。彼らは最低限の常識は持ち合わせていたみたいだしね」

 未熟な体に悪魔の異能は悪影響を与える。

 この町の住人たちはそこまで知っていたのかはわからないが、子供たちを悪魔の影響から遠ざけようとしていたことだけはわかる。

「ねえ……君らは弱い者いじめをよしとするの?」

 男は嘲り笑うかのように人差し指に力を入れようとした。

「な…なんだ?」

 男は指に力を入れたが青い光が放たれることはなかった。

 男の手に命令がいきわたらなかったからだ。

 男が指に力を入れる前に男の手が体から離れていたからだ。

「その鎌……まさか」

 男の手を切り離したのは太陽の光で銀色に輝く翼だった。

 それは翼というには生物が持つ質感は存在しない。なぜなら翼を象った金属だからだ。

「今頃気付いた? そうだよ。巷を騒がしている死神っていうのはこのアタシだよ」

「死神……?」

 少女は一言だけ呟いた。

 自分を救った人物はたしかに自分のしる死神と同じものを持っている。けれども、少女の目に死神は天使のように映った。

 ユイの顔は左側は異様であったが、それでも美しくあった。

 白く透き通る肌や、肩にかかる程度の長さのつややか神は羨ましくもあった。

 そして、太陽の光を反射し、銀色に輝く刃はまるで神聖な翼のようであった。

 少女は目の前に突如現れた天使に圧倒された。

「コワイ……?」

 少女は言葉を発することなく、首を横に振った。

 ユイにはわかっていた。少女のまなざしがこれまでむけられてきたどれもと違うということを。だが、ユイを見て、少女が何を思ったかまでは理解できなかった。

「アタシがどんな風に見えるのかわからないけれど、失望する前にその目を閉じることをお勧めするよ」

「俺を殺すってのか?」

「そんなことする気もないね」

「ガキの前で殺すのは気が引けるってか?」

 小さい子供が見ている前で命を奪うのは気が進まない。

 死神が命を奪う状況をえり好みするなんて笑えた話だ。

 それにそんなのは本当の理由じゃない。

「正直、アンタみたいな下種の血をこの手に付けたくないってだけなんだよねえ」

 男を殺す気になれないのは、ユイにとって男は殺すほどの価値もないものだからだ。

 少女のことをなぶっていたことは到底許されるわけではない。だからといって、一思いに殺すのはそれはそれで納得のいくものではない。

 男の死にざまは想像を絶する苦しみを味わいながら無様に死を乞うようなものだとユイは決めていた。

「ねえ、お姉ちゃんは本当に死神なの?」

「神様名乗れるほど高尚でもないんだけどねえ」

「じゃあ、何なんだ? 自分で死神と名乗っておいてそれを否定するお前は何なんだ?」

 男は剣を振り下ろした。

「死神ってのは世間がそう呼ぶようになったから、アタシを表す記号として使わしてもらってるだけで……」

 ユイは男の攻撃をいとも簡単にはじいた。

 ユイは鎌を握る手に力を込めた。

「アタシ自身はただの人殺しだよ」

 そして、叩き付けるように鎌を振り下ろした。

 鎌が剣をたたき折った。

 回転しながら宙を舞う破片は男の踵付近のタイルに突き刺さった。

「クソが……」

 男の胸が深くえぐれていた。

 それはユイの一撃によるものだった。

 ユイは重い一撃を叩き込んだが、それは男の手から剣を叩き落とすためのものでしかなかったはずだった。しかし、鎌は刃をたたき折り、鎌の勢いは止まることなく男の胸をさばいた。

 さきほどのマリアとの戦いで急上昇した身体能力をユイは完全に制御しきれていなかったせいだ。

 今までのユイの力なら男の手から剣を叩き落とすことさえ困難だっただろう。

 ユイの身体能力はユイの想像以上のものだった。

 ユイが剣をたたき折った時、男の体も同時に切り裂いていた。刃同士がぶつかりあった振動のほうが肉を切った感触よりも強かったこともあり、ユイが男の傷に気付くのに遅れた。

 男の傷口から血の代わりに灰がこぼれた。

 男の体のいたるところが灰へと変化していた。男の体のすべてが灰へと変り果てるのに時間はいらなかった。

「どういう仕組みしてんだろう」

 ユイは灰でできた山をまじまじと見つめ呟いた。

 ユイは体全体で寒気を感じた。

 男の体について考えるのをやめた。

「やっと追いついた」

 ユイの目の前にマリアが現れた。

 マリアの呼吸は荒くなっていた。

「足速いね」

「そっちが遅いんだよ」

 ユイと男のやり取りはそこそこ長いものだった。なのに、その途中ではなく、完全に終わってから少しの間をおいてやっと追いついた。

 ユイは女性でも鍛えている人間より少し速い程度のスピードで走っていた。それに追いつくことができないのなら、それはマリアが遅いからしかない。しかし、マリアが遅かったわけではない。

「そんなこと言ったって、あれで君を見失わないほうが無理な話だよ」

 ユイが不意打ちのように駆け出したのを追ってすぐに分かれ道に突き当たった。そこでマリアはユイが通ったほうと逆の道を選んでしまっていた。

 それに加え、ユイは普段のスピードで走っているように錯覚していただけで、少女のもとに行くまでの速さは普段の数倍以上の速さだった。

 マリアは気を抜いていたこともあって、ユイが走り出した時反応がかなり遅れた。その一秒足らずの遅れがユイを見失う原因となってしまった。

「てか、君、耳よすぎだよ」

 マリアには少女の悲鳴が聞こえていなかった。

 少女の声量ではユイたちがいた場所にまで届かない。

 ユイの聴覚も数段強化されていたからたまたま聞くことができただけだった。

 強化された五感による混乱を防ぐために、体がリミッターをかけていた。だから、五感の変化はあまり見受けられなかった。

 それでも、少女の悲鳴が聞こえたのは、体が課したリミッターを調節しているときに、たまたまリミッターを弱くしすぎたからに過ぎない。

 聴覚もリミッターも丁度良い強さに調整された。これで不意に遠くの声を拾うことはなくなった。

「残念。ちょっと遅かったね」

「何の話?」

「ゴメンねえ。君の仲間やっちゃった」

 口先だけの謝罪だ。

 その言葉に詫びる気持ちはみじんもない。

「仲間? どこにもいないけど?」

 マリアはあたりを見渡したが、仲間と思しきものは影さえ見当たらなかった。

「違うよ。これだよ」

 ユイは白い灰でできた山を指さした。

 マリアはそれがかつての仲間だと言われても信じられなかった。

「てか、その子何なの?」

 マリアはユイの陰に隠れている少女のことが気になっていた。

「アンタの仲間に襲われていたところを助けたんだよ」

「アタシの仲間はこんなひどいことをしないよ」

「そう思いたいんなら、そう思えば」

 ユイがどう言ったって、これがマリアの仲間の仕業だとマリアが認めることはない。

 それにマリアと口論することで時間を無駄遣いするのは避けたい。

「お姉ちゃんの言ってることはほんとだよ」

 ユイの陰から出て来た少女の姿にマリアは絶句した。

 服はぼろぼろで体中傷だらけ。

 傷はついさっきできたような新しいものばかりだった。

 仲間の仕業とは信じられなかった。だが、ほかの線として浮かんだものはこの状況で言うには憚れるものばかりだった。

「迂闊な擁護は口にしないほうがいいよ。マリアさんであっても切ることになるからね」

「わかったよ」

 マリアは仲間の用語をしようとしなかった。

 ユイが乱暴なことをするようには見えないし、他の誰がこんなことをするのかと訊かれれば思い当たる節がいくつもある。

 それに加え、ユイがかなわないと知りながらもむき出しの敵意をぶつけてくるからというのも大きい。ユイの敵意は本物だった。マリアはそれを感じ取った以上、認めなくてはならない事実なのだろうと思ってしまった。

「君、名前は?」

「アタシ、アニー」

「アニーちゃんね。アタシはマリア。よろしくね」

 アニーとマリアは握手した。

「この子、どうするの?」

 ユイは言葉に詰まった。

 一番の正解は何なのかわかっている。それに沿った行動をとるべきだということもわかっている。しかし、ユイにはそれを口にすることができなかった。

 ユイの中の正解は少女を悪魔憑きにしてしまうことが明白だったからだ。

「親のもとに返すしかないよね」

「どうしてそんな嫌そうなの?」

 ユイが答えられるわけがない。

 親の元に返すにしても大人はほとんど殺してしまった。その中にアニーの親が含まれていたらと思うとユイは少女に親のことを訊けないでいた。

「ねえ、パパやママはどうしたの?」

 マリアがアニーに穏やかな口調で尋ねた。

「パパはなんか突然血相を変えてどっかに走って行って……ママは……さっきまで一緒だったんだけど……はぐれちゃった」

 ユイがフェロモンを放出したとき、それに巻き込まれなかったものも何人かいた。その中に含まれていてくれ、と祈った。しかし、現実はそう都合よくいかなかった。

「ゴメン……」

「お姉ちゃん、何か知ってるの?」

 ユイは答えることができない。

 アニーの父親には二度と会うことはできないことを。そして、そうしたのは自分であるということを。

 ユイはアニーから目をそらし俯くことしかできなかった。 

 ユイには真実を語る勇気がなかった。

 大人たちに憑いた悪魔の浸食を無理やり進めた。それによって起きた悪魔の浸食とのせめぎあいで悪魔に体を奪われることなく死んだのか、ユイが切った悪魔に完全に浸食されたもののどちらかはわからない。

 ユイが隠している真実を話すことでアニーに深い心の傷を負わしてしまう。

「その……」

 マリアが手をたたいた。

「とりあえずママを探そう。はぐれたのがついさっきなら、パパよりは見つけやすいはずだし」

 ユイはマリアの提案に救われたような気がした。

「ありがとう」

「何が?」

「助かったよ」

「まあ、いいけど」

 感謝されるいわれはなくとも不意打ちで感謝されるのはむず痒いものがあった。マリアは照れくさそうに頭を掻いた。

「この子を親のところに届けたら聞きたい話があるからね」

「あんまり期待しないでね」

「何の話?」

「大人の話」

「大人って……お姉ちゃん、アタシと年そんなに変わらないでしょ?」

 アニーとマリアの新調査はアニーの頭一つ分ほどしかなかった。

 マリアはユイから顔をそらし、盛大に吹き出した。

「だよねえ。ユイちゃんって普通の子以上にませてるよね」

「こう見えて、十四なんだよ」

 マリアは改めて盛大に噴出した。

「今度は何!?」

 ユイはいら立ちを隠そうともせずにマリアに詰め寄った。

「うんやあ、別にぃ」

 ユイはいや見たらしく笑うマリアに殴り掛かった。その拳をマリアは簡単に受け止めた。

「遅いよ。蚊のほうがまだ気持ち速いくらいだよ」

「嫌な例えしないでよ」

 ユイは拳を包み込む手を振りほどいた。

「十四って……やっぱりアタシとそんなに変わらないじゃん」

「じゃあ、君は何歳なんだよ?」

「アタシ? 来月で十一歳」

「完全に負けてるね」

 ユイとアニーはほとんど身長が変わらない。

 しかし、あるものでユイはアニーに圧倒的に負けていた。

 それは、胸のふくらみだった。

 アニーの胸はわかりやすいくらいに膨らんでいた。それに比べ、ユイの胸は哀れなほどに薄っぺらい、まっ平と言っても差支えない。

「これは……悪魔の仕業なんだよ」

 苦し紛れの言い訳だった。

 平坦な胸にコンプレックスを抱いていたわけではない。ただ、こうしていじられると何も言い返せないままでいるのが悔しかった。

「悪魔はどうしようもない屑だけど、それまで悪魔のせいにするのはどうかと思うよ」

 マリアの冷静なツッコミにユイは言葉を失った。

――そんなことまで俺らのせいにされたらたまっとものじゃない――

 悪魔の声は怒りで震えていた。

 ユイはその中に別なものを感じていた。

 悪魔は確かになんでもかんでも自分たちのせいにされたことに憤っているように聞こえた。だが、それは憤っているように見せることで本心を隠しているように思えた。

 ユイは悪魔の声がどこかよそよそしいものに聞こえた。なぜかかたくなに目を合わせようとせずにいるような感じがした。

「ねえ、君はアタシのことが嫌いなの?」

「そんなこと訊かれて、嫌いですって言える人間がいると思う?」

「悪魔みたいな腐った神経の持ち主ならあるいは……」

 ユイは通りを出た瞬間、足を止めた。

 アニーの母親が青白い光に包まれた所に居合わせたからだ。

 アニーにその光景を見せまいとする思いがユイの足を止めた。

「マ、ママアアアアアアアアアア」

 アニーの母親は何かに押されたかのように背中から地面に倒れこんだ。

 ユイは急いで駆け付けその体が地面にたたきつけられるのを阻止した。

「ママに何したの?」

 ユイの目にはアニーに引き寄せられる悪魔が見えていた。

 アニーを取り囲むように集まった悪魔たちは、その体に入るのを今か今かと待ちわびていた。

「しまった」

 悪魔を引き寄せるために少量の血をたらし続けていたというのに、それに引き寄せられることなくアニーの体に入り込んだ。

 流す血の量が多かったとしても、悪魔はユイを無視していた。アニーの憎しみは血だけでどうにかできるレベルを超えていたからだ。

 ユイの血の引力よりも悪魔を強く求める気持ちのほうが勝ってしまう。だから、ユイがどれだけ血を流そうとも、アニーに悪魔が憑く。

「絶対に許さないんだから」

「ごめんね」

 ユイはアニーを鎌で背後から切り付けた。

 青白い顔をしたアニーが振り向いた。

 アニーに切られた感触はない。だが、体を通り抜けていく刃に、自分は切られたのだと思い込んでいたのだ。

 これで今アニーにとり憑いた悪魔による浸食は防げた。だが、これで悪魔が二度とアニーに憑けなくなったわけではない。

 アニーが意識を取り戻したとき、悪魔を求めたのなら悪魔はアニーの体に入り込む。

 ユイが行ったのは応急処置であって根本的治療ではない。

 これで、アニーの母が何事もなく意識を取り戻せば当分は平穏に過ごせるだろう。しかし、アニーの父の死因を知った時アニーが悪魔を求める可能性はある。

「なにをしたの?」

「アニーには悪魔が憑いてしまたんだ。異能を使う前に悪魔を殺すことで悪魔の浸食を防いだんだ」

「見たところ傷はないようだけど、どうして意識を失ったのかな?」

「そりゃあ、こんなごっついのが体を通り抜けるのはショックがでかいでしょ。小さい女の子なんだし、下手したらトラウマものだろうね」

 この恐怖で悪魔を求める意識の芽を根ごと刈り取れたのなら、この上なく喜ぶだろう。

「しれっと怖いこと言うね」

 マリアは背筋を震わせた。

 他人の心に大きな傷を作ったことを悪びれる気を微塵も見せないユイのことが恐ろしかった。

「悪魔憑きになって破滅するよりかはマシなんじゃない?」

「かもね」

 マリアは苦虫をつぶしたような表情をしていた。

「どうしたの?」

「ちょっとね。嫌なことを思い出しちゃったんだ」

「そう……あいつ、倒すけどいいよね?」

 ユイは男を呪うようにきつく睨んでいた。

 悪ふざけの延長で怒るのとは違う。ユイは心の底から目の前の男のことを憎んでいた。

 アニーを悪魔憑きにしようとした男、アイザック。ユイは生まれて初めてこいつだけは何があっても許さないと誓った。

「倒すだと?」

 アイザックはユイのことおバカにするように笑った。

 しかし、それは何も男が自分自身を過信しているからではない。

 アイザックとユイの間には埋めようのない大きな差があった。

「あの人のことはよく知らないけど、アタシなんかよりは強いし無理だよ」

 マリアはアイザックとはヘツカに入る前の顔合わせで初めて会った。そこでは挨拶を交わしたくらいでまともに会話したわけではない。それでも、自分より強いと言い切れるのは、自分より上の階級についているということを知っているからだった。

 言葉を交わさなくても組織内での階級を表すマークは胸に刺したバッジでわかる。

 マリアはアイザックのバッジを見て自分より強いと判断した。

「じゃあ、倒しちゃってもいいんだね?」

「えっ……ああ! そういうことか。……さすがにそれは屁理屈だよ」

 倒してはいけないと言っていないからと、倒していいとユイは受け取った。そのことにマリアは今になって気が付いた。

 仲間の目の前でユイのこと制止させなかったことを咎められるくらいなら、いっそのことユイにはアイザックを倒してもらいたかった。

 だが、マリアはそんな叶うはずのない願いが実現するよう祈ることはしない。

「アタシの仲間に手を出すっていうんなら、黙っていられないね」

「お前は黙ってろ」

 意外なところからの制止にマリアは戸惑った。

「どういう……ことですか?」

 マリアの乱入を止めたのはアイザックだった。

「こんな小さなガキに二人係で狩ったところでなめられっぱなしだ。だったら、俺一人でやる」

「へえ、やすっぽいプライドの中でも高いほう程度のものは持ち合わせているんだね」

「俺を倒す気でいるのか?」

「当然。じゃなきゃ、敵意をむき出しにして突っ立てるわけがないでしょ」

「おもしれえ。ちょっくら相手してやるよ」

「逆でしょ。相手してもらえることを感謝しなよ」

「クソガキが……」

 ユイの視界が強烈な光に包まれた。反射的に瞼を閉じたが遅かった。

 光に対する反応が遅れたせいで、ユイの両目は痛みを訴えている。

 光はなくなったというのに、ほとんど何も見えていないような状態だった。

「珍しいね。攻撃に異能を使うなんてさ」

 異能を使う目的は、通常の人の力では持てないほど重たいものを持ち運びするなど人の力程度ではできない作業に使うことだ。

 他人を攻撃するために使っていたら、悪魔の浸食が進んでしまうため大抵の人間はそんな使い方を好まない。

 だから、アイザックがやって見せたように目くらましのために光を発生させるなんてことはかなり珍しい。

ユイの右側で金属がぶつかり合うとがした。

「確かに。大口をたたくだけのことはある」

 ユイが必殺の一撃を器用に受け流していることにアイザックは感心した。

 それと同時にアイザックの中には大きな疑問が存在していた。

 ユイはひたすら攻撃を受け流すだけで、攻撃に転じてこない。

 正確に何度も攻撃を受け流すことができるのならば、反撃に転じることぐらいなら容易だと男は考えていた。

「このアイザック、ここまでコケにされるとはな」

 アイザックはユイが一度も反撃してこないことにいら立っていた。

 ユイはアイザックのいら立ちを知ることはできないし、知ったところでどうにもできなかった。

 ユイはそもそもアイザックを攻撃する意思がないからだ。

 ユイの目が見ているのは悪魔だけだ。

 目を閉じていても赤い瞳は悪魔を捉えることができる。けれども、正確な距離がわからない。

 それに加え、周囲に物体がどのように存在しているのかもわからない。

 両目が機能しない状態では周囲の状況を把握することはできない。

 不用意に動いた結果が致命的な隙を生む可能性があった。だから、ユイはアイザックの攻撃を凌ぐことだけに専念していた。 

「マリアさん。アニーのことは任せたよ」

「わかった」

 マリアはアニーとアニーの母親の体を抱え、その場から離れた。

「そろそろいいかな?」

 ユイはゆっくり目を開けた。

 目がちかちかすることはなくなったが、こんどは目が周囲の明るさに適応できなくなっていた。

 目が慣れるまで時間が必要だが、そんなことには構わない。

 ユイは目が限界を訴えるまで目を開き続ける。

 それは数秒程度しか続かないが、回数を重ねるうちに目を開いていられる時間が伸びていた。

――悪魔を利用しようなんてとんでもなく無謀なことを考えるな――

 悪魔が呆れたように皮肉を言い放った。

 そうはいったって、アンタも生きたいんでしょ?

――そうだな。宿主がポンコツだと嫌だな。ただ働きしないといけないんだからな――

「それでもまだまともには見えていないはずだ。むしろ、中途半端に見えるからこそ、逆につらいんだろ?」

「そうだね。でも、一瞬でも目を開けられればそれで十分だよ」

 たしかに、目を長い時間開け続けることはできない。それに、目を数秒空けては閉じての繰り返しで集中力がそがれている。だが、周囲に存在する物体がどんな風なのか把握するのには十分だった。

 それにユイの二つの目を通して外界を見ているのはユイだけではない。

 ユイに憑いた悪魔もその目を通して外界の情報を知ることができる。

 ユイは無数の悪魔と情報を共有することで、ろくに目を開けていられない状況でも視覚

による情報を確実に得るつもりだった。

 そして、それはユイの思惑通りだった。

 悪魔がユイの目を通してしてみたものはユイの脳に鮮明に映し出される。悪魔各々の個体差はあるがおおむね一致している。

 ユイは大きく足を踏み込んだ。

 その体はアイザックの懐深くへともぐりこんだ。

 ユイは鎌を水平に振った。

 アイザックはそれを剣で受け止めた。

「さっきまでとは大違いだな」

「大体コツはつかんだからね。こっから反撃開始だよ」

――よく言うぜ。俺らがいなかったら嬲り殺されてるっていうのによお――

 悪魔はあきれたように言い放った。

 別に手伝う必要はないんだよ?

 たださ、こっちがせっかく生きようと必死になっているというのに、知らぬ存ぜぬじゃあ厚かましいよね。

――わかったよ。お前が生きることは俺たちが死なないことと同義だからな。本当にイカれてるよなあ。悪魔に対して強気に出るなんてよ――

 そりゃあ、まあ、悪魔なんて大層なもんを名乗っちゃいるけど、別に怖くないしね。

――だったら、悪魔の恐怖ってやつを教えてやるか――

 ユイは体中がじりじりと焦がれるよう感覚に包れた。

 ユイの中に存在する悪魔たちが侵食を始めたからだ。

 ユイは皮膚の内側が痒い感じに似た感覚に不快感こそあったが、侵食されることはどうでもよかった。

――どうして、動揺しない!?――

 悪魔は焦りを隠せないでいた。目の前に敵がいる状況で空気を読まずに侵食を始めたのなら、何らかの反応があってもいいはずだ。なのに、ユイはまったく動揺していなかった。それどころか鎌の刃を自分の胸に突き当てていた。

 アンタは長年アタシの何を見てきたの?

 こんな時アタシがどう思うかなんてすぐわかるでしょ?

――仕方ねえ。ここで頑張ったところでその体は奪えねえからな――

 悪魔たちがこのタイミングで寝食を始めても無駄に終わるとユイは見通していた。だから、ユイは悪魔が侵食し出しても気に留めなかった。

 しょうもない話もたまには役に立つものだね。

 ユイの目は気付かないうちに光に慣れていた。

 目を開け続けても何も不自由しない。

「クッ……なんだ、これは? 急に動きが鋭くなった」

 悪魔との会話を桐下駄ユイの攻撃はこれまでのものとは比べ物にならなった。

 悪魔と会話しながらもユイは男に攻撃し続けていた。しかし、それは最低限のもので、どちらかと言えば男のほうがユイを攻めていた。

 それは、ユイが男に集中していなかったから、迂闊な行動で大きな隙を作らないようにするためのものにすぎなかったからだ。

 その枷がなくなった今、男にだけ集中することができる。

 男は無意識のうちに半歩下がっていた。

「ちょっと本気になった程度でこれか」

 ユイは男を冷めた目で見た。

 ほんの少し動きがよくなった程度で怯えて半歩下がる程度の小物ののことを見損なった。

「なんだよ?」

 男の手にあった剣は銃に形を変えていた。

 男は逃げながら銃を乱射した。

 銃口から放たれる青い光はすべて鎌によって切り裂かれた。

「自分の好きな形に変えられるのか。なかなか便利な道具だね」

 ユイには自分の都合に合わせて形を自由に変えられる機能が羨ましかった。

 この鎌自体は頑丈で柄の部分が痛んでいないかくらいしか気にしないでいいので、ユイはかなり気に入っていた。しかし、一つだけ気に入らないことがあった。それは、重いということだ。ユイの力でも難なく持ち上がるが、使うとなると話が違う。鎌を簡単に持ち上げられたとしても、鎌を振り回すのにはさらに力が必要となる。どれだけ動きを抑えようとしても、無駄ができそれが隙になってしまう。ユイは片手で鎌を使っている。そのせいで姿勢を崩さないようにすることが求められる。なので、ユイと鎌の相性はかなり悪い。

「何をそんなに怒っているんだ? そこの女とおまえは全く関係ないんだろ?」

「アンタはさ、こんな小さな子供を悪魔憑きにさせたんだ」

「でたらめを。こんなしみったれた町にいるんだ。元からそいつも悪魔憑きなんだろ」

「違うね。この街の子供たちは悪魔に憑かれないようにするため特殊な細工を施されていた」

「だったら、悪魔憑きになることもないだろうが」

「なっちゃうんだよねえ。それが」

 ユイはその道理を教えるつもりはなかった。

 悪魔の言った事の真偽を確かめていないからというのもあるが、何より話が長くて面倒だからだ。

 何かを説明するのに長々と喋る気分じゃなかった。ユイが説明のために喋るかどうかを決める基準はその時の気分と状況次第だ。

 気分が乗らないことでも状況的に相手に知ってもらわなければならないことならちゃんと説明する。今回は状況的にそうする必要を感じなかったし、そうする気分でもなかった。

「まあ、あとで仲間に教えてもらえばいいんじゃないかな?」

 ユイは男のみぞおちに蹴りを入れた。

 ユイの足は男の腹に深くめり込んだ。男の体に入り込んでいく足から伝わる肉や骨を砕く感触は受け入れがたがった。

 男は勢いよく吹き飛び、壁に強く打ち付けられた。

「死んじゃったかな?」

 ユイは男の生死を確かめようとしなかった。

 迂闊に近寄る危険を冒したくなかったからだ。

 男の指が一瞬ピクリと震えたのが見えた。

「死にそうではあるけど、死んでないってところか。まあ、なんだかんだ丈夫だし、死ぬまでだいぶ余裕があるでしょ」

「勝っちゃったよ……」

 マリアは目の前で起きた信じられない光景に我を失っていた。

「まあ、ラッキーだっただけなんだけどね」

「どういうこと?」

「あいつ、最後の最後までアタシのことなめ続けてくれていたんだ。まったく、あいつが最初から本気だったらと思うと寒気がするよ」

 アイザックが最初から本気を出していれば、確実になすすべもなくやられていた。なのに、アイザックは本気の片りんすら見せていなかった。

 軽く見ていた相手に少し自分の見立てを超えられたくらいで慌てはするが、それでも本気は隠し通そうとした。

 しょうもない見栄やプライドで自滅を選んでくれたことにユイは感謝した。

「そういうことか」

「てか、二人はどうしたの?」

「それなら……」

 マリアは二人をそばにあったベンチにもたれかけさせていた。

「まあ、悪くない選択だね」

 ユイは二人の顔や手についた汚れをふき取った。

「これからどうするの?」

「どうするって……落ち着くまでは一緒にいるって話でしょ。どっかに隠れて、やり過ごすんだよ」

 仲間と会った時にユイが死神の正体であることを素直に受け入れてもらうためだ。そして、さっきみたいに戦うことがないようにするためでもある。

 もともとユイとマリアやその仲間たちが戦う理由はない。戦いになったのは出会いかたが悪かったから。さっきみたいな最悪の出会いかたをしなければよいだけだ。

 どこか、マリアの仲間やヘツカの住人が通らなさそうなところに隠れていれば、変な誤解もなく仲間と合流することができる。

「そう」

 ユイはマリアの答えに構うことなく歩き出した。

「ねえ、おとなしくしててよ」

 そういって伸ばした手でユイの肩をつかんだ。

 ユイはそれを意に介することなく歩き続けた

「どこに行くの?」

「わからない」

「わからないって……」

 目的地はある。どうしても行かなければならない場所だ。ただそれがどこなのかがわからない。しかし、それは確実に存在する。

 根のように張り巡らされた悪魔の異能を通すための回路。それはまさに木の根のようにあるところを中心に広がっていた。

 ユイにはその場所がどこなのかはわからなかった。だが、足元にある回路が収束するほうへと向かえばいいのだという確信があった。


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