死神の決意
青空の下で読書にふけるニールにユイは近づいた。
ニールはユイに対し警戒するようなしぐさを見せない。
それで、ユイの懸念の一つは消えた。
「あのさ、ニール君はなりたいものとかってあるの?」
「どうして、そんなことを訊くの?」
ニールが疑問に思うのも当然だ。
昨日知り合っただけの人物に将来の夢が何なのかなんて訊かれて、素直に答えるのは憚れる。
「君の目はぎらついてたからさ。アタシが見てきたそんな目をした人は、自分のなりたいものに向かって一直線なんだ。それでさ、君の場合は何なんだろうって気になったんだ」
その言葉に偽りはない。
何かを決意した瞳に秘める想い、ユイはそれを知りたくなった。
「僕は英雄になりたい」
「どうして英雄になりたいの?」
「強いからだよ。誰にも負けないめちゃくちゃ強い人。僕はそんな人になりたい」
「ああ……そういうことか」
ニールにとっての英雄と言う勲章は強さの表現の一つでしかない。
「どうしたの?」
「なんでもないよ。どうして君はそんなに強くなりたいの?」
「強くなれば、英雄になれば誰にも何も奪われないでしょ」
「どういうこと?」
「英雄ってのはとてつもなく強い人たちだ。誰よりも強くなればもう何も奪われない」
ニールにとっての英雄とは力の強い人を意味する単語でしかない。
英雄の意味はユイの口元をゆるませた。
「何がおかしいの?」
「笑ったわけじゃない。そもそも他人の夢を笑えるような立場じゃないしね。安心しただけだよ。英雄なんて大したものを目標にしているから、かなりしっかりした子なんじゃないかって焦ってたから」
ユイはニールを見ているとコンプレックスが刺激されるような感覚に陥る。
自分より小さい子供が目標を持っていてそれに向かって努力をしているのに、自分は大口をたたきながら逃げるようにフラフラして何をしているんだろうって考えてしまうからだ。
「まあ、一番許せないのは……夢を食い物にしようとしている」
ユイは袖に忍ばせておいたアルミ製のナイフを取り出した。
「アンタだけどね」
そして、そのナイフを逆手で持ち刃先で自分の手首を突き刺した。刃自体はそんなに深く入り込んではいない。しかし、刃先が現れるとほんのりと血が流れた。
ユイは手首に刺さったナイフを振り落とした。栓がなくなったことで、血はとめどなくあふれ出る。
「何やってんの!?」
ニールは驚愕のあまり叫んだ。
ユイのその行為を目にした人間は気でも狂ったのかという目でユイを見つめていた。
ユイはその眼差しを全く気にしない。なぜなら、何の前触れもなく自分の手首をナイフで刺すなんて奇行を目の当りにしたら自分もそんな目を向けるに決まっているからだ。
傷口は皆が我に戻るころには完全にふさがっていた。
「何、この感覚? 頭がくらくらする」
「たちが悪いね。生き延びるためとはいえこんな不安定な体に入り込んで、子供の欲求を刺激するなんてさ」
悪魔は人間に憑いていないといずれ死んでしまう。それから逃れるために悪魔は人間にとりつく。
ユイの血は悪魔をおびき寄せる。
本来は誰にも憑いていない悪魔を自分に憑かせるための手段だが、他の使い道もある。
「気持ち……わるい。なんなの……?」
ニールは今までにない感覚に襲われている。
腹の底からどろっとしたものが湧き上がるようであったり、頭の中で何かが暴れているようだったり、ミミズや蛇のように細長い生き物が触覚をいやらしく刺激するように歩いているようだったりと、気持ち悪いという言葉で言い表されるさまざまな感覚をニールは味わっている。
「遊んでないでさっさと出てきたら?」
「さっきから何を言っているの?」
ニールは、ユイに何を言っているのかわからないと言っておきながら笑っていた。その邪気に満ちた笑みはニールのものではない。
その笑みを見てもユイは一縷の希望をを頼りにニールに問う。
「君はそんな体になってまで本当に力がほしいの?」
ニールの右腕は悪魔に侵食されきったせいで白く染まり、セメントで固めたかのように固くなっている。
しかし、それは皮膚の内側の話であり、表面には表れていない。だから、ルネでさえニールが悪魔に憑かれていたことに気付けなかった。
ユイはわかっていた。この子供の内側ではとんでもない異変がすでに起こっていて、ユイにはどうしようもない段階にまで至っているということを。
「そんなって、この気持ち悪さのこと? かまわないよ。そりゃあ、吐きそうなくらい気持ち悪いけれど、これを我慢すればいいだけの事なんでしょ?」
「我慢できるの?」
ユイにはニールが味わっている苦痛がどのようなものかはわからない。
だが、体中から汗が噴き出していることや、刃だから色が失われている様子からやせ我慢が続くほどの痛みではないとわかった。
ニールが支えにしようと遊具の柱をつかんだ瞬間、柱にニールの指が食い込んだ。
力を全く入れないでつかんだ柱が軽々と凹む。
これは異能の発現によるものである。
「いいね。この力。こんな力なら悪くないね。」
尋常じゃない怪力にニールの顔がほころぶ。
「僕はこの力ですべてを奪う。みんなから全部奪えば誰も僕から奪えないんだから」
「それは本気で言ってるの?」
ユイは鎌に巻かれた布をほどいた。
あらわになった鈍く光る刃は、悪魔の命だけを奪い取る。
「それは……死神の……だましたのかっ!?」
「だました? アタシは嘘は一つも言っていないよ。旅をしているっていうのは本当だよ。ただ、死神と呼ばれる一面だけを表に出さなかっただけの話だよ」
ユイは大きく鎌を振った。
「それに、そもそもアタシが話していたのはニールであって、お前じゃない。聞き耳立てていただけのお前が勝手にただの悪魔憑きだと思い込んでいただけだ」
「それもそうか。やれやれ社会に溶け込めるタイプの人殺しは厄介だな。自身の狂気を狂気と自覚している分、それをうまく隠す術を持っていやがる」
ユイは悪魔の嫌味に全く動じない。
悪魔の侮辱がユイのプライドを刺激しなかったからではない。
ユイにはその自覚があったからだ。といってもユイにとって悪魔が言う狂気とはひねくれの度合いと認識しているものだった。普通の人より捻くれているから、その部分を隠してできるだけ素直であろうとする努力はしている。
「死神なんて呼ばれてるけど、アタシは悪魔の命を奪っているだけで人間の命は一つとして奪っちゃいないんだよ」
この手で奪ったのは数えきれない悪魔の命。
人間の命にまでは手を付けていない。
人を殺していないのに勝手に人殺しのレッテルを張られるのは我慢ならない。
「本当にそうか? お前はこれまで本当に人を殺したことがないといえるのか?」
「言えるよ。この鎌は悪魔しか殺せないんだから」
この鎌で奪うのは悪魔の命のみ。
日の光を浴び鈍く光る翼は人の血肉を食らうことはできない。人を食らうことのできない鈍らに人の命を奪うだなんて到底不可能。
この鎌は悪魔の命を奪うためだけに存在している。
「珍しいタイプだから見逃してやろうと思ったのに……結局、悪魔はどこまで行っても悪魔か」
悪魔なんて誰もが宿主を食い殺しその体の支配権を得たいものだと思っていた。だが、ニールに憑いた悪魔にはそんな意思が感じられなかった。
「何のこと? 誰と話してんの?」
ニールが意識を取り戻した。
今ニールの体には二つの意識が現れている。
「君にとりついた悪魔だよ」
「悪魔……? 何、それ」
「そういえば、坊やには俺のことを知らせていなかったな」
「どういうこと……!? 勝手に体が……」
ニールは自分の意思とは関係なく声が発せられていることに戸惑いを隠せなかった。
「初めまして、君の中に住まわしてもらってる悪魔だよ」
「ねえ、僕はどうなったの?」
体中から発せられる気持ち悪い感覚は我慢できる。それは、復讐の上で支障をきたさないと思い込んでいるからだ。
自分の意思とは関係なく体が動くことは受け入れることができなかった。
肝心なところで体が言うことを訊かなくなったらどうしようか、という不安がある。
「悪魔が君の身体を勝手に使っているんだよ」
「悪魔……? だから、何なのソレは?」
聞きなれない単語と自分でも把握しきれない自分の体の変化からくる焦りや恐怖がにじみ出ていた。
一桁台の年齢の子供には悪魔の存在が知らされていないことが多い。それは、一般的に悪魔は子供には憑かないとされているからだ。
悪魔の存在を知らせることで不用意に好奇心を持たれたり、下手に不安を持つことで悪魔憑きへの偏見を持たぬようにするという意味も込められている。
だから、ニールが悪魔に憑いて何も知らないことには何ら驚きはない。
「ねえ、すべての人からすべてを奪い尽くすって本気で言っているの?」
悪魔の言葉が本当だとすれば、それはニールの言葉ではない。
ニールの英雄になるという夢は本物だ。それがこんな捻じ曲げられた願いの隠れ蓑であってほしくないというユイの願いだ。
「そうだよ。僕の願いだよ。僕は、あの日全てを奪われた。あの悲しみに暮れた思い出を繰り返すくらいなら、奪おうとするやつらからすべてを奪って何も奪えなくしてやる」
「すべて、ね。でも、奪われた人々には命が残るでしょ?」
「命一つで何ができる? せいぜい悲しみくれるくらいでしょ」
ユイはふんと鼻で笑った。
それは普段のツボにはまったが故のクセではない。ニールの言葉を完全に軽蔑したものだ。
「知らないの? 命一つあれば、奪い返すくらいたやすいんだよ」
「だったら、命も全部奪ってやる。この世にあるものすべてをこの手に収めてやる」
「命を奪うってことは殺すってことだよ? 君にそれができる?」
「ああやってやるさ。やってやるとも」
「だったら、口じゃなく態度で示してほしいものだね」
お前の憎しみを煽るこの胸の鼓動を止めて見せろ。
プライドをくすぐられた程度でむきになって、意地を張るような意気地なしには無理だ。
ユイの目はそう語っていた。
「アタシは君がありがたがってるその力を根こそぎ奪うものだよ。奪われる悲しみってのを味わいたくないっていうんなら、まずはアタシを殺してみなよ」
ユイがニールを煽るのは、ニールが言葉ではどれだけ語ろうとも人を殺す覚悟ができていないから殺されない、なんて楽観的な考えからではない。
「アンタ、何言ってんだ!?」
これまでの沈黙を破ってニクスが声を上げた。
「何って殺せるもんなら殺してみろって言ってんだよ」
「それで素直に殺されようっていうのか?」
「そんなわけないでしょ。アタシだって殺されないように抵抗するよ」
こんなところで他人に命をあげるつもりはない。
ニールは本当に人を殺す覚悟あるのか。
それを試そうというだけだ。
「君好みに言おう」
ニールが大好きな勇者の物語。
人々を力で抑えつけ、奴隷のように扱い、人々を苦しめる化け物。
それを倒し、英雄とあがめられる勇者の物語だ。
「さあ、アタシをこのしみったれた玉座から引きずり下ろし、アタシの胸をえぐり取りなよ。悪魔の膂力ならアタシの体を粉砕する程度息をするのと同じくらいの難しさでしょ?」
玉座なんてものはどこにもない。
小さな家がぽつぽつと建つ小さな村のとある家の庭だからだ。
「なんで、そんなまんざらでもないって顔をしてるの?」
「そう、そんな顔してたんだ」
ユイは何かむず痒いものを感じた。
それの正体がすぐにわかった。
自分の体の中で無数の悪魔を飼いならしている自分は悪魔の王……ニールの好きな物語に出てくる魔王に非常に近い存在ではないのかというお考えがふとよぎったからだ。
そんな自分が魔王だなんて、これ以上ない適役に巡り合えたことがおもしろかった。
「まあ、しょうもないことは置いといて、殺せるもんなら殺してみなよ。君の夢をぶち壊すアタシをさ」
一度の咳払いで仕切り直し、再びニールを煽った。
どのようにニールの記憶が改変されたのかはわからない。だが、死神に対する憎しみを植え付けられているのなら、ユイの言葉はニールの憎しみをより強くする。
ニールの手が震えている。
今のニールならユイの胸に手を突き刺し、心臓をえぐり取ることはたやすくできる。
「英雄になるんでしょ? 誰から何も奪われることのない力を持った人になるっていうんなら、死神一匹殺すのに何を躊躇うっていうの?」
ニールの死神に対する憎しみは作られたものだ。今のニールはその作られた心の衝動に操られているだけに過ぎない。
ニールが持つ憎しみを食い物にし、作り上げられた憎しみが死神への殺意だ。
悪魔につくられた憎しみとニールの憎しみの区別がつかないのが今のニールだ。
ニールの中の悪魔が消えただけではニールの憎しみの区別は生まれない。
ニールには自分の憎しみだけをしっかりと見つめていて欲しい。
悪魔に踊らされるニールを見たくない。
だから、自分の憎しみを見つけた上で、悪魔を殺す。
ニールの浸食のされ具合はかなり深刻なものではある。
ユイが悪魔を無理やり呼び起こしたことがより深刻にはしたが、昨日会った時から悪魔が消えればそんなに先は長くない。
ユイには、この状態のニールの中の悪魔を殺すことへのためらいがある。
それでも、殺さなければならない。
「そんなところで突っ立てないで、早くこれば? アタシは小手先の罠とか仕掛けちゃいないから。ら。罠とか搦め手の才能がからっきしだからね」
罠がないことを蘇峰明してもニールは動こうとしない。
「もしかして、死ぬのが怖い? 死んじゃったらどうしよう、とか思ってる? 英雄ってのは死んじゃったらどうしようなんて思わないものだよ」
「死ぬのくらいどうってことはない」
あんな風にすべてを根こそぎ奪われ、破壊しつくされた時の苦痛に比べたら、死ぬのなんて大したことはない。
すべてを奪おうとする死神なんかが怖かったら英雄には絶対なれない。
たかが死神一人倒すのに死にもの狂いになれないのなら、アイツを倒すなんて絶対にできやしない。
「その考え方がいけないって言ってるの」
ユイは、ニールの決意に水を差すように言い放った。
「英雄ってのはねえ、絶対に生きるっていう揺るがない自信を持っているの。死を恐れないってのは死んでもいいやって意味じゃない。生きるって確信していることだからね。砕けた言いかたすれば、そもそもこんなところで自分が死ぬはずないし、って自信があるんだよ。それもただの思い込みじゃない。これまでの経験や勘、本能がそう強く想わせるんだ。まあ、ごく稀に無根拠な自信ってやつもいるそうだけどね」
「ああ……そういうことか。でも、それってさ、ただの能天気ってことじゃないの?」
「かもね。何も考えないで絶対できるとか思っちゃっているわけだしね」
「散々煽っといて案外簡単じゃないか」
一本の腕がユイの胸に迫る。
その手は皮を破り、肉を裂き、骨を砕くほどの力を持っている。
その手にかかればユイの心臓はたやすく握りつぶされる。
「死神と言えども所詮は人間。脆いな」
「何かした?」
ニールの右腕はユイの胸を貫いていない。貫く前に崩壊した。
悪魔は人間の体を支配したときおよそ数週間しか持たない。それも侵食の作用によるものだ。
ユイはニールの右腕に自身の血をかけることで右腕の侵食だけを早めた。
侵食の限界を迎えた右腕はパラパラと崩れ、、腕を象っていた粒子は風に乗りどこかへと消え去った。
「やっと出てきてくれたね」
「どういうことだ?」
「何なの、これ? 身体が勝手に……というよりも、身体が全く動いてくれない」
ニールは自分の身体が自分の意思とは関係なく動いていることを理解した。
ユイの口車に乗ってユイを殺そうとしたのは、ニールの意思ではない。ニールの心を利用した悪魔によるものだった。
ユイは今ニールの体を操っているニールの内側にいるニールではないものの存在をニールに分からす。そして、ニールには自分の体を操ることができないないのだとわからせることが目当てだった。
だが、ニールの意識ははっきりしているということもわからす必要があった。
「やっぱり、そういうことだよね。やれやれ、よくもまあ、こんな手の込んだことができるものだよ」
「いつからわかっていた?」
「最後の異能を使ったので確信したって感じかな」
異能の発現の仕方は明らかにおかしかった。
ニールの意図とは関係なく異能が発現した。
「僕の体はどうなってるの?」
「悪魔に体を動かす権限を奪われたんだ。まあ、言葉を発する程度は残してやっているみたいだけどね」
「僕は喋るしかできないってこと?」
「そうだ。すでに坊やの体のほとんどを支配した。こんな状況でしゃべれるのはむしろ大したやつだよ」
自分の意思で考え、それを言葉にする。
ニールの侵食の深刻さを考えると、それができることは奇跡といっても間違いではない。
そもそも自分の意思を持ち続けるということがこんな状況で、それを持ち続けていられることがすでに奇跡の領域に足を踏み入れている。そのような状態で自分の考えを発信できるというのはもっとありえないことだ。
「で、貴様は私を引き摺り出して何がしたい?」
悪魔の疑問は尤もだ。
ただ単にニールに負荷をかけずに悪魔を殺すだけなら、ニールに憑いた悪魔を衆目に晒す必要など全くない。
「これを使えば、すぐに君を殺すことはできた。けれど、それじゃあ意味がない」
鎌を使えば、悪魔を殺すことはできた。
本来なら、ニールの侵食を進めてまで行うことではなかった。
感情の発露と共に白の比率が上がるニールの体は、勇者の物語と自身の復讐を重ねた瞬間に取り返しのつかない段階へと進んだ。
そして、ニールが悪魔のささやきを自分の意思と認識してしまった。
悪魔に揺るがされない確固たる自分に気付かせる。
それがユイの悪魔をおびき出す行為につながった。
「高みの見物を決めている君の足場が、君の知らないところで崩れていて、実は地べたから見上げているていう無様さをみんなに見せてやろうと思ってさ」
「そんなことをして何の意味があるというのだ? ただいたずらに侵食を進めるだけで、少年の心が死ぬだけではないか」
「よく言うよ。もともと体のほとんどは侵食済みで、あとはどうやって体のコントロールを奪ってやろうかって考えているところだったくせにさ」
「どういうこと?」
ニールの意思によって動かされた口から発せられた言葉は状況を把握できない戸惑いと、状況が理解できなくとも自分が危機的状況にあると認識したことによる恐怖が含まれていた。
「君の体は悪魔によって蝕まれているんだ。それも体のほとんどが悪魔の支配下にある。君の心が生きていることの方が不思議なくらいだよ」
ここまで侵食が進んでいて、自分をはっきりと認識できる人間など世界中を探してもまず見つからない。
悪魔を殺し、悪魔を食らうユイでさえ侵食された割合は半分に届くか届かないくらいだ。
特異体質であるユイでもニールのことを特別だと認めざるを得ない。
「そんな……」
「残念ながら先はそんなにないよ」
自我がはっきりしていても、侵食の度合いは深刻だ。
「それでも、君にできることだってある」
「知ってる。あいつへの復讐でしょ?」
ユイは頭を強く殴られたような感覚に襲われた。
ニールの執念の強さは、ユイに強い衝撃を与えた。
「この悪魔ってやつの力を利用して、奴を探し当てて奴を殺す」
「違うね。自分の体を満足に操れない君にはそれはかなわないよ」
体を自分の意思で操れるのなら、きっぱりと否定することはなかった。
「この体をお前なんかにくれてやるものかって強く想って悪魔を拒むんだ」
侵食の程度から言えば、ニールのほうが完全に不利。それでも、悪魔が支配しきる前に体の機能が完全に停止する可能性はゼロじゃない。
ニールが侵食に負けず体を取り戻せたのなら、それが一番いい。だが、悪魔に食われた体は戻ってこない。悪魔に憑かれたものができる悪魔に対する抵抗は、体が死ぬまで体の支配権を奪わせないよう強く想うことだけだ。
「アタシはだいぶお膳立てしてやったんだから、それで勝てないはずはないよ」
悪魔が自分でも侵食しているということに気付けづに侵食していた。
それもニールの意識をはっきりと保ったままで。
体の崩壊が始まるまで
「そうだ。こんなことで、僕の体を奪わせたりなんかしない。僕は奴らを……」
家にある金品を奪ったかと思えば、少し年の離れた姉を辱める男たち。
あの時、ニールは男たちがニールの姉に何をしたのかはわからない。だが、恥辱にまみれた姉の顔だけは今でもはっきりと覚えている。
そして、かすかに意識のあるニールを嘲り笑うかのように放たれた炎。
視界を染める赤黒い炎と、鼻にこびりついた焦げたにおい。
全てを奪い去った奴らにこの悲しみや苦しさを味あわせる。
そのために誰もが憧れる英雄になると決めた。英雄は誰にも負けない力の持ち主だ。その力を手にいれば奴らへの復讐は成し遂げられる。
「いやいや、滑稽だ。その怒りが俺によってつくられたものだとも知らずに、その怒りを寄る辺にし、俺に刃向かおうとするのだからな」
「どういう…こと……?」
「あの強盗事件は本物だ。復讐したい気持ちもお前にはあった。だが、お前の復讐したい気持ちは、お前の心には負荷が大きすぎた。なぜなら、その怒りは、お前の胸に刻まれた傷の痛みをも呼び覚ましてしまうからだ。俺はそれを……その痛みを、新鮮なままで維持してやった。なぜだかわかるか?」
「碌な理由じゃないんだろうなって勘が言っているよ」
「坊やの痛みは坊やを破滅へと走らせる。。破滅に向かうものは力を求める。だから、記憶を劣化させないでいたのさ」
ニールが痛みを鮮明に覚えていられたのは、悪魔が痛みを忘れさせないようにしたから。けれど、それはつまり悪魔によって作り出されたものではなくニールが実際に感じた痛み。
決して色あせることのない風景も、鼻に染みついた焦げたにおいも、犯人の声や家族の鳴き声も、あの時感じたすべてのものが変わることなく思い出せたのは悪魔のおかげだ。
ニールの口元がほころんだ。
ユイの瞳にはそれが勝ち誇った笑顔のように映った。
「何がおかしい」
「面白くって笑っているんじゃない。嬉しくて仕方ないんだ。君って存在のせいで何が本当で何が嘘かわからなくなった。けれど、この怒りや痛さは本物だって信じられるんだ」
知らない間に潜り込んだ異物によって記憶はいじられた。それで、どれが自分かわからなくなった。
どれが偽物でどれが本物かもわからない。だが、その中で絶対に本物だといえるものがある。しかも、それが本物であってほしかったものが本物だと証明された。
この怒りが偽物ならば、ここにいる意味はなかった。
悪魔に体を明け渡したに違いない。けれど、この胸に秘めた思いは本物。
ならば、復讐を果たすまでは何がなんでもこの体もこの魂も譲れない。
悪魔はニールを絶望のどん底に突き落とすつもりで、ニールを救い上げてしまった。
「これがあれば僕はやっていける」
「そうは言うが身体のほとんどを奪われたお前に何ができる?」
「僕自身の意思で復讐できる」
「アタシみたいな卑怯者からしたら君が羨ましいよ」
ニールの力強い言葉にユイの本音がこぼれた。
「どういうこと?」
コンプレックスをこじらせて、まっすぐ向き合うということから逃げているだけのユイにとって、強烈なトラウマを植え付けた相手に立ち向かおうとしている姿はそれだけで尊い。
そこに動機や理由なんていらない。
「君はかっこいいってこと」
「変なことを言うね。復讐だなんて、あの人はやめろっていうけれど」
「君にそれをやめてほしい理由は、君の手をほかの誰かの血で汚してほしくないって思っているからだよ。そういうアタシも、君の手が血で汚れるのはいやだけどね」
「どういうこと?」
「君に人殺しはしてほしくないってだけだよ」
どんな理由があって、どんなに悪いやつであっても殺しはしてほしくない。
ルネは、ニールの気持ちを理解した上で願っている。
ユイはルネほどニールのことを知っているわけではない。
ニールのどす黒い感情の理由を知っている程度だ。
自分が知り合った人物が殺人を犯すのは嫌だ。だから、できることなら
「だからね……」
ユイは鎌でニールを切り裂いた。
その復讐はニールの心を満たす。だが、それを悲しむ人間もいる。
その人が悲しむ姿を想像するだけで胸が張り裂けそうになる。
だれもニールの復讐を止める権利は持たない。
奪われたものが奪ったものから奪う権利は誰にだってある。
ただ、ニールの願いはかなわない。
ニールの体は悪魔に侵食されすぎている。
願いをかなえるための時間はもうない。
「お……姉ちゃん……」
ユイが聞き取れたのはそれだけだ。
ニールの口の動きからまだ言葉を発していたことはわかるが、何と言っていたかは聞き取れなかった。
最後の言葉はニールの言葉だった。
その言葉に込められた感情をユイは理解できなかった。
裏切られたという絶望なのか、救ってくれてありがとうと言う感謝なのか。
「やれやれ。死神は生きることを諦めていない、それどころか生きたいと強く願っているやつから命を奪うから死神なのであって、介錯は死神の仕事じゃないってのに」
悪魔を殺すことに特別な感情が湧くことはない。悪魔憑きをその鎌で切ることにもなれた。だが、
それは切られた人間の顔を見ないし、素性も知らないから何も感じずに済んでいるだけに過ぎない。
「まるで、何度か介錯に付き合わされたような言いかただね。人を殺したの?」
ニールの口調と声をまねた誰かがささやいた。
「そんなわけないでしょ。アタシは悪魔を殺しただけだよ。悪魔に生かされている人に憑いた悪魔を切っただけ。それで、その人の命が終わったってだけの話だよ」
そう、人は殺していない。
この手で奪ったのは悪魔の命だ。悪魔が死んだから、悪魔によって生かされていた人間も死んだ。結果に人の死がついてきただけだ。
「ものは言いようだな。結局はただの人殺しじゃないか。お前が悪魔を切らなければ、そいつはまだ死ななかったんだろ?」
鎌で悪魔を裂いても、悪魔はすぐに死ぬわけではない。
今わの際に呪いの言葉を吐き捨てるだけの時間はある。
「そうだね。身体は生きるよ」
心がなくなり、身体を奪われる。
それを生きているといえるのか。おそらくそれは生きているとは言えない。
体を動かすことができたとしても、本来の持ち主ではなく誰かの思惑で動かされているのならばそれは屈辱でしかない。
「お前はその子の体よりも心が生きることを選んだなんて言うつもりか?」
誰もが吐ける薄っぺらいきれいごとのようだ。
けれど……。
「そうだよ。体だけが生きていても、心が喰われたのならそれは死んだも同然。いや、それ以上につらいよ」
あの時の選択は間違っていなかった。
心を生かしたままで命をつなげられるのなら、それはほかのどの結果よりも素晴らしいものだ。だが、現実は違った。
その人の命をとるか、心をとるかの二択しかなかった。
ならば、永劫の凌辱の苦しめにおぼれないように救い上げたあれが一番だった。
それは命を終わらせた自分がそれで苦しまないようにするための言葉であると同時に、自分が同じ立場だったならそれが救いだと思っていただろうということでもある。
「救いなんてきれいなものじゃないかもしれない。けれども、アタシは彼の魂の前で胸を張れる。開きなりじゃない。彼の幽霊が目の前に現れて、恨み節を吐いたとしても絶対にまっすぐ立って見せるんだ」
誇りを凌辱される苦しみを目の当たりにした。
あれは人としての尊厳を、自分を壊される苦しみだ。
あれは誰にも味あわせてはいけない。
「夢を……心を……一方的に利用して穢すなんてことは絶対にしちゃあいけないんだよ」
ユイは地面に倒れこむニールの体を支えた。
誰も入っていない空っぽの体は片手で支えられるほど軽かった。
「君は紛れもなく勇者だよ。痛さを持ち続けながら、恐怖を直視しながら、挑もうとしたんだから」
寄りかかるニールの体をユイは優しく地面に置き壁にもたれかけさせた。
先ほどとは打って変わって穏やかな表情のニールはまるで眠っているかのようだった。
ユイの体中に思い出したかのように激痛が走った。
痛み自体は一瞬だったが、その痛みで意識が飛んでも不思議ではなかった。それほどにまで強烈な痛みが身体中を走った。
「どうしたんだ?」
「異能ってやつを使ったんだ」
悪魔憑きは普通の人間よりも優れた能力を使うことができる。それは身体機能の強化だけでなく、魔法と呼ばれるような人間が本来持ちえない能力さえも使えるようにさせる。
「それでちょっと侵食されちゃったみたい」
「大丈夫なのか?」
「多分ね」
ユイは悪魔を自分の栄養とすることができる。そしてそれをある程度蓄えておくことができる。今回使った異能がそのたくわえでは少し足りなかった。足りなかった分を補うように侵食された。
侵食の痛みが意識を吹き飛ばすほど強烈なものだとは想像できなかった。せいぜい針先をついた程度の痛痒い感じくらいだろうと高をくくっていた。
「アンタでもそんな弱気な言葉を吐くのか」
「異能は今回が初めてだからね。体にどんな影響が出るのか想像もできないし」
ユイは弱音を吐いたつもりはなかった。素直に本当のことを言ったつもりでいたからだ。
悪魔に自分の体の一部を与えることが条件となる異能の使用をユイはこれまで一度もしたことがなかった。だから、この異能の使用の影響がどのようなものなのか想像がつかないというだけの話だった。
「影響って悪魔の浸食が進むだけだろ?」
「それでどうなるか、だよ。下手すれば記憶に干渉できるほどの力を身に着ける可能性だってあるわけだし。今回異能使ったことでどの程度侵食されるのかが想像できないから困ってるの」
「ごめんね。アタシ……あの子にひどいことしちゃった」
覚めることのない夢に閉じ込める。
閉じ込められた本人は自分にとって都合のいい幸せな世界にい続けることになる。閉じ込めらた本人が閉じ込められたという自覚はない。ならば、本人にとってはこの上ない幸せなのだろう。
だが、ユイはそう思えなかった。なぜなら、どれだけ幸せなのだとしても代り映えのしないシーンの繰り返しは拷問に等しいものだと思ってしまったからだ。
「あの子のためにしてくれたんでしょ」
「どうだろうね」
ユイはあえて曖昧な返しをした。
ニールのためを思ってのことなのかどうか、それに対する答えは決まっている。だが、ユイの想いはそうであったとしても、結果が重いと反するものであればその想いは嘘になってしまう。
ユイは独善だと切り捨てられるのが怖かった。必死に救おうとした。だが、望んだ結果とは程遠いものに終わってしまった。そのことを大衆から責められても、非力な自分のせいだと思い込みやすくすることで、非難の声が聞こえぬよう耳をふさいだ。
その自傷行為ともとれる思い込みで現実から目をそらそうとしていた。
「一度決めたんなら逃げるなよ。あれだけ力強い言葉で返したんだ。いまさらみっともない真似するんじゃねえよ」
「やれやれ、君に言われることになるとはね」
わかってはいたさ。
あらかじめ痛みに慣れておこうなんて甘い考えが通用するわけないって。
そうやってふさぎ込むのは逃げているだけだ。
誰かのためを思いやっての行動だというのなら、どんな結果であってもまっすぐ間を向いて胸を張るしかないんだ。
その結果でその誰かを大切にする人々に恨まれたとして、その恨みに折れたのならそれはその誰かに対する裏切りだ。
その恨みに屈する準備をするのはこの手で負った業から逃げるためだ。痛みを感じる神経の機能を最小限の働きしかしなくすることで、自分は逃げずに真正面から立ち向かっているのだと錯覚させているにおすぎない。
恨みを受け止めきれるほどの強さは今はない。だが、この行いが誰かのためだと胸を張ることはできる。
胸を張りさく痛みに耐えきれないとしても、この行いが正しいと思う心は譲ってはいけない。
にーるっを大切に思う人々の恨み節からも目をそらさない。
全部受け止めてやる。
ユイは少年の死を悼む老婆に横目をやった。
「アタシ……行くね」
理由はどうあれ、少年の命を終わらしたのだ。
少年を育んだこの土地はユイを拒む。それはこの場にいる誰もが赦したとしても変わらない。
自分を育ててくれたこの場所に戻ることは決してない。
ユイは一つの道を自分の手でふさいだ。
ユイは一足先に家の中に入っていた。
今のユイにはルネをどうすることもできない。
力は人並みで隻腕のユイにはルネを支えることすらできない。
ニクスには、ルネが落ち着いたら今に連れていくよう言っておいた。
力仕事で培った筋力の使いどころとしては間違っていないと平常なら胸を張っていた。
黙々と家の中をうろつき、自分の部屋へと行きついた。
一度荷物を置き、部屋の中を眺める。
ここで過ごした時間はあまりにも短い。だが、とても充実した毎日だった。
逃げるように前へと進む今とは大違いだ。
いや、ここには逃げ込んだのだから、何かから逃げ続けていることには違いないのか。
「じゃあ、行こっか」
ユイは床に置かれた荷物を拾い上げた。
考えも程よく煮詰まった。
不意に思い出しては胸を痛めるときもあるだろう。だけど、逃げるためじゃなく、しっかりと受け入れたうえで前を向いて進むことはできる。
かがんだ状態からふと見上げた時、ユイの体は硬直した。
何かを見ようとしているわけでもないユイの目は何にも焦点を合わしているわけでもない。だが、うつろなわけでもなくしっかりと何かを見定めている。
それは時が止まったかのような風景だった。
日に焼け黄色みがかった壁紙や、使い込まれていたんだ布団。
逃げるように彷徨っていた自分を拾ってくれた施設とも永遠の別れだ。
色あせた記憶に色をともす。
「狭いね」
かつては遠く感じた机やベッドも今はほんの少し歩けば届いてしまう。
窓から見える庭はかつてはどこまでも続く草原のようだったのに、すぐに塀に届いてしまう。
昔も今も変わらないのは空の青はどこまでも続いているということだ。そして、一つ灯った白い光にどれだけ手を伸ばしてもつかめないのも変わらない。
違いがあるとすれば、おろしたてのようにきれいなコートの代わりに年季の入ったボロボロのコートがかけられていることだ。
今朝まで壁に掛けられた一着のコート。それはユイが普段身に着けているものと似た形をしているが、作りこみの質がまるで違う。
家を出るときに盗んだただ一着のコート。
それは捨てられるはずの失敗作。
ユイが作り上げる作品のどれもがまるで届かない傑作。
二度と着ることもないだろうと思っていたコートを取りに戻った。
ユイとともに旅をしボロボロになってしまったコートを代わりにおいていく。
それは、自分のことを覚えていてほしいという願いと自分はここにいられない代わりにここでの時間をそのコートに託すという二つの想いからだ。
それだけのはずだった。
「なんでっ……どうして? こんなことに……」
ルネの泣き顔。
そんなものを刻むために訪れたんじゃない。
いや、二度と会えない予感が作り出す喪失感はルネに涙を流させる。だが、そんなものは次に会えば、笑顔に変えられる。だから、その泣き顔は受け入れるつもりでいた。
ユイに刻み付けたルネの泣き顔は、「こんなはずじゃなかったのに」とユイに後悔を募らせる。
持っていくものを持ち、ここにおいていくものを置いてユイは家を出る。
心に刻み付けるようにユイは家をじっと見つめた。
ここでの日々はなんてことはない。
寝て、遊んで、勉強した。
それを繰り返すだけの、今となっては退屈ではあるが鮮烈な日々。
だが、ユイにはどれもがかけがえのない日々だ。
ユイは決意を固め歩き出す。
「待って!」
ルネの叫び声はユイの心を震わせた。
ここでの未練や感傷、感動や喜び全てをふさぎこもうとした栓は、ルネに呼び止められただけで吹き飛んだ。
「行かないで」
「それは無理だよ。アタシはあの子を終わらせたんだ。アタシはここにいちゃあいけないんだ」
ただ一度その足を止めさせられただけで、揺らぐ程度の決意や覚悟だ。
そんな脆い想いだけど、この想いを背負って去るしかない。
「そんなことはないわ。身勝手に彼を終わらせたことは許されざれることかもしれない。けれど、それでここにいちゃあいけないなんてことはないわ。だって、ここは、あなたの家なんだから」
「それでも、アタシは……ここにいてはいけないんだ」
「変わらないわね。責任感じると頑固になるところはずっと変わらないのね」
ルネが心から赦すと言ったところで、ユイは考えを決して変えない。
誰かが赦すか赦さないかじゃない。
ユイが自分を赦せるかどうかだ。
ユイは自分を育ててくれた人物に仇なす行いをした。
ユイはそれがどうしても許せない。
だから、二度とこの地に足を踏み入れてはいけないと自分を罰した。
「だからね、もう行かなくちゃ」
ユイはぎこちなく笑顔を浮かべる。
誰がどう見ても作り笑いと言い切れるほど不自然に上がった口角、目じりを下げよとしてびくびく震える瞼。
「最後まで、心から母とは呼んでくれないのね」
「えっ!?」
ユイはルネのことを母とは言わない。
他人に自分トルネの関係を説明するときや、ルネのことを呼ぶときにはルネのことを母というが、それはルネを表す記号でしかない。
ユイは、自分を拾い、育ててくれたルネには感謝している。そして、尊敬もしているし、傍から見れば親子といってもいい距離感にある。だが、どうしても親子という間柄になることを無意識に拒んでいた。
血のつながりのようなわかりやすいものがないからではない。
何かがルネと同化するのを拒んでいる。
おそらく、それは傍から見ればどうでもよい些末なことなのだろう。だが、その些末なことをユイは無視できない。
ルネにはわかっていた。
それはルネにはどうしようもないものだ。だから、無理強いはしなかった。
寂しさはあった。
一枚の壁で隔てられているようであったから。
けれど、それを壊していけなかった。それを壊してユイの心のに踏み入る勇気を持てなかったからだ。
今もその勇気はない。
なのに、不意の言葉で壊そうとしてしまった。
もう二度と会えない。
そんな予感がした。
その予感が自分律していたものを壊し、不躾にユイの心に足を踏みれさせた。
一度踏み入れた足を引くことはできない。
「わかっていたことよ。アナタは本当は行きたい場所がある。いえ、行くという言葉は間違いね。けれど、この言いかたはアナタが気付くべきことだから言えないわ」
「アタシが気付くこと……?」
「難しく考える必要はないわ。あなたが行きたいと思った方へと行きなさい。その行先に何が待っていようとあなたは受け入れられる。それだけの強さを持っている。私の自慢の娘なんだから」
「ごめんね。最後まで母さんて呼べなくてさ」
「そんなの気にすることじゃないわ」
「けれど、感謝はしているんだ。今の今までありがとうございました」
この先おそらく二度と会うことはない。
そう思えば言葉は尽きない。だが、それを尽きるまで言う場ではない。
「そうだ。システィに心配しないでって言っておいて」
システィからしたらあっという間に消える。
それではまたシスティを不安にさせる。
「アタシは絶対に死なないからってね」
どこの英雄や勇者だと笑った。
だが、その絶対に死なないという約束は破られないと強い確信があった。
根拠は一つとしてないが、予感ではなく確信といえるほどの強いものがユイの中にある。
「行ってきます」
「いってらっしゃい」
ユイは堂々と門を出る。
ここから先は振り返る必要はない。
世界は丸いというのであれば、前だけ向いて歩いた結果ここに再び立ち寄ることもあるだろう。
ここに立ち寄ることがあるのだとすればわき目も振らずに進んだ結果、意図せずに近づいてしまった。
そんな理由しかない。
仮に、ルネを気づ付けた自分を赦せるようになったとしても、自分の意思でここに立ち寄ることは決してない。
「またせたね」
孤児院の塀にもたれかかっていたニクスに声をかけた。
「もう、いいのか」
「うん」
ここで過ごした日々の思い出は決して忘れない。
二度と帰れないのは寂しくもあるが、最初から見納めのつもりで訪れたのだ。
ここで何かに理由をつけて留まるのは無様でしかない。
心残りがあるとすれば育ての親に自分の手で悲しい思い出を刻んだことだ。だが、ユイはその悲しみを癒そうとは思わなかった。なぜなら、自身の手で与えた悲しみを消し去る術を知らないからだ。
二人は特に話すこともないのか、黙って歩き続けた。
ヒラハタの門が霞がかったところでのことだった。
ユイは人によってつくられた道ではなく、道はなく目線の先に鬱蒼と木が生い茂る未開の地のほうへと歩を進めようとした。
ニクスはユイの肩をつかみ、引っ張った。
「痛い。痛いって」
ニクスの手はユイの肩の骨を圧迫していた。
「わ、悪い」
「ちょっとは加減してよね」
ユイは一般的な大人の男性より体力はあるが、体の構造自体は年相応の少女と差はあまりない。力仕事で鍛え上げられたニクスの握力でユイの肩の骨を折ることはその気になればたやすい。
「今のは本気なのか?」
ユイが選んだのはまったく整えらていないほうだった。
その道は人が歩いた形跡が全く見当たらない。それどころか、何らかの生物が歩いた形跡すらない。
そんな道をユイが本気で選んだわけではないとニクスは思った。
「ついて来たくなかったら帰ってもいいんだよ。別にアタシが頼んだんじゃないし」
「そうじゃない。この森を突き抜けるって、絶対無理だろ。体を壊すぞ」
「つっても、こっちしか道がないからね」
「いや、その方角に行くのなら都目指してそこから」
「そっちに行きたくないんだよ。だから、あえて未開の土地に踏み入れることにしたの」
途方もない苦難の道を選ぶということはよほどの理由なのだろうとニクスは察した。
「だったら、ここまで来た道をさかのぼってそこから目指せばいいじゃないか。そうすれば人里を通ることができるから、そんな無茶だってしなくていいし」
人里を通って行けば、時間はかかるが確実にたどり着くことができる。ユイの様子を見る限り急ぐ旅でもない様子だ。そう思い、ニクスは提案した。
「そのルートだと倍近くかかるんだよ。アタシはこの胸のざわめきの正体を突き止めたい。だから、多少無茶でもこの道を選ぶの」
ユイは胸のざわめきを一秒でも早く抑えたいと思っていた。ならば、寄り道などせずにまっすぐそのざわめきが示すほうへと行けばよかった。
なのに、ユイはそれよりも回り道をすることを選んだ。
タカツキやヒラハタへの寄り道の理由はユイが感じるざわめきの正体を突き止めた後による余裕はないと直感したことによるものだった。
最後に胸に刻んでおきたい顔を拝むために、残り少ないと直感した時間を浪費した。
その結果は、誰もが円満になるような結果ではなかった。だが、ヒラハタに立ち寄ったことは、ユイにこれから先後悔しないために必要だったと確信させた。
「何を言っても無駄なんだな」
「わかりきってたことでしょ? 文句言うならついてこないで」
「アンタが体を壊したら誰が助けるんだ?」
「そんなに心配?」
「目を離したら無茶するのは目に見えているからな。いや、俺が見える場所にいても無茶をするから、どうでもいいか。……とにかくだ。アンタが体を壊した後、何とかするのが俺の役目だからな」
「体壊すの前提っ!?」
「そうだよ。アンタは絶対体を壊す。その時、俺が助ける。だから、ついていく」
ユイは自分の頭を乱暴に掻き毟った。
そして、あきれ果てたように溜息を吐いた。
「暑苦しいなあ。アタシが屁理屈こねて暗についてくるなって言っても、結局ついてくるってことでしょ? ついてきてもいいけど、文句は言わないでよ」
「言わねえよ。俺が決めたことなんだしな」
ユイの行く道は正気の沙汰では考えられないほど異常な道だ。そんな道を行かずとも回り道ではあるがより確実な道を選べ良いものを選ぼうとしない。そんな危なっかしい少女を放っておけるほどニクスの神経は太くできていない。
どんな言葉をかけても無茶を冒すのであれば、その無茶で破滅することのないよう見届ける。そう誓った。




