死神
何だろうかこの感覚は?
まるで宙に浮いているかのように体が軽い。
だが、意識ははっきりとしているし、歩いている感覚もしっかり体中に伝わる。
この体はいたって健康だ。
何かに引っ張られるかのように細い道へとこの体は向かう。
これは自分の意思ではない。
この体に巣ぐう悪魔と呼ばれるものが、この体を動かしている。
自分の意思では悪魔の衝動を止めることができない。
こうなってしまっては諦めるしかない。
悪魔がこの足を止めるときまでこの体を好き勝手やるのただただ眺め続ける。
ここは、商業都市カラスマの一角にあるシジョー。
この町はもっとも盛んに取引されるカラスマ中心部へとつながる一本の大きな道がある。
シジョーはその道を中心に栄えた町だ。
そこではさまざま人が行き交い、道を埋め尽くしている。
今は昼ということもあって多くの人が移動する。
ここシジョーは人通りが多いだけに窃盗や器物損壊といった小さな事件は時々起るが、凶悪な犯罪はほとんど起きない。
それほどの治安の良さを誇る町の片隅での出来事だった。
大通りから少し離れた細い路地。
それでも周囲には背の高い建物が多い。なので、日中でも日光は遮られる。そのせいで、夕暮れ時のような薄暗さになってしまっている。
そんな場所での一幕だった。
「その鎌……まさか、お前が」
男の顔から血の気が引けていた。
それは目の前に現れた人物に恐怖したからだ。
フードを深くかぶっているせいで男から顔はよく見えない。
目の前の人物が担いでいたものに聞き覚えがあったからだ。
その鎌は鎌と呼ぶにはあまりにも鎌からかけ離れた形をしていた。
三日月の形をした刃が四,五枚重なってできているそれを担いだ姿はまるで背中から翼が生えているようだった。
そんな凶悪な見た目をした刃物はこの街には到底似合わない。
その絶望の代名詞が目の前に現れたのだ。
男は諦めたように溜息をついた。
悪魔はどう考えているんだろうか?
馬鹿みたいに引っ張られて、たどり着いた場所で、死ねって言われているんだ。
かなり堪えているのはひしひしと伝わってくる。
それと同時にこんなところで死ねるかって思いも同時に感じ取れた。
「あらあら、いつの間にか結構有名になっていたのね」
死神は自分が有名になっていることを知らなかった。
「そりゃあ、そうだろうよ。あれだけの人間を切っていたらな」
「人間を切った覚えはないよ」
「切ったのは人じゃなくて虫けらだとでもいうのか?」
男は嫌味たらしく言った。
それでもほんのわずかな善意があるのなら、心を痛めるはずだ。その痛みで動揺する隙をつく。
男はそう考えていた。
悪魔に手を貸すのは業腹だが、死神に目をつけられた以上死ぬのはわかりきっていた。
それでも逃げ延びる道を探した末の一手だ。
「残念だったね。動揺を誘おうたって、そうはいかないよ」
「強がりを言ったところで……」
男は死神に向かってとびかかった。
死神はそれを簡単によけた。
「そもそもアタシは人間のことを虫けらだなんて思ったことがないよ」
「だったら……なんで息をするようにそんなもんで切りかかれるんだよ」
死神はフードの上から頭を抑えつけた。
死神はいらだつと髪をクシャクシャといじる癖がある。しかし、今の状況でそれをやると、フードが取れてしまう。
フードが取れてしまうとそれによって隠されていた素顔がさらされてしまう。
死神はとある事情から素顔をさらしたくなかった。
そのため、死神は頭を抑えることにした。
「あーもう! こんなこと言ったって忘れるやつに教えるのって面倒だけど仕方ないな」
死神は自分の存在が抽象的でも広まっていること知った。しかも、かなり悪い評判がついていることもわかった。そこに変な噂がついて回るのが嫌だった。
だから、教えることにした。
「アタシはこれまで悪魔しか切ってこなかったの」
「悪魔しか切っていない? そんなわかりきった嘘をだれが信じるか」
「アタシはこうやって人気のないところに誘い込んでいるのはめっちゃ紛らわしいってのはわかるよ、。けれどさ、よく考えてみなよ」
死神は自分が覚えている限りでは、誰の目にもとまるようなところで切ったことはない。それが誤解の元になっているのを否定するつもりはない。
「仮にこの鎌が人間を切れるんなら、生きている人間がいるはずないんだよ? それで誰がアタシの存在を伝えれんの?」
「そりゃあ……お前、あれだよあれ。こっそり陰で見ていた人がいたとかさ」
さっきまでとは打って変わって男は言い淀んでいた。
まさか、そんなことを訊かれるなんて思いもしなかったからだ。
「隙あり!」
鎌の刃が男の体の中に入った。
「きたなっ」
刃が男の体を通り抜けた。
男は膝から地面につき、倒れこんだ。
「ごめんね」
死神は男のツッコミに罪悪感を覚えてしまった。
それに対する謝罪だった。
目の前の男はどこにでもいる悪魔憑きだ。
どうせ、すぐ忘れるような相手で、馴れ合うつもりはない。
けれど、悪魔だけを殺すのに、不要な不快感を他人に与えるのはどうしても後ろめたさを感じる。
「けど、これじゃあやっぱ尾ひれついちゃうかな?」
不意打ちで男を切ったことが、悪評を広めることにつがらなければいいな、と死神は祈った。
「でも、あんな強そうな人相手にまともにやりあったら負けていただろうし。仕方ないよね?」
誰に聞かせるでもない言い訳をぽつりとつぶやいた。
「死神だなんて怖い名前で呼んでくれるね、まったく」
自分にだって立派な名前があるんだと、アタシはユイっていうんだって心の中で叫んだ。
ユイの背後でどさっと大きな音がした。