鬼の目に花吹雪・1
初めまして。恥ずかしながら投稿を始めさせて頂きました。拙い文です。何とぞご寛容のほどを。
うららかな春の日和だった。
陽光に目を細めながら、崔英聖は都営地下鉄の駅から月島の通りへと歩み出た。
散髪したての短い髪を吹きすぎる風が優しく暖かい。自分の着ている黒のジャケットが、ひどく季節外れに感じられる。
二週間ほどの入院生活の間に、外の季節はずいぶん進んでしまったようだ。
シャツの襟元のボタンを外し、比較的車の少ない昼下がりの空気を深呼吸すると、思い出したように左の脇腹がしくりと痛んだ。
「…ぁ痛て…」
しかめた顔が苦笑いになる。
「…二十代も半分過ぎると、怪我の治りが遅いよなあ…」
キャンバス地のショルダーバッグを右肩に掛け替えると、英聖はちょうど青になった交差点の信号を渡った。
しばらく歩くと周囲の町並みが、近代的なビルから徐々に古ぼけたコンクリートや、背の低い木造モルタルの建物に変わってきた。
再開発の波は、昔の船着場の周辺だけを僅かながら洗い残しているのだ。
潮の香が混じった河口の匂いをかぎながら、英聖は慣れた足取りで目的地に到着した。
『菓子パン・ジゥース』
『岸田食料品店』
見上げると、赤が退色して薄汚れたピンクに変わった看板が、昭和30年代そのままの雰囲気を振りまいている駄菓子屋の2階の窓の下に、相変わらず少し傾いてはりついている。
側面に回れば、隣がすっぱりと家一件分の空き地になっているせいで、2階の外壁に作られたドアと、そこから地上までをかつて繋いでいた非常階段の痕跡を見ることができた。
昔は地上から2階への出入りを可能にしていたのだろうが、階段の無くなった今は、もはや何の用もなさないドアだ。
使うことがあるのは、ごく限られた者たちであり、崔英聖は、その一人だった。
表の引き戸をからからと開けて薄暗い店内に入ると、ガラスの蓋がついた平たい木製のケースの中に、整列したニッキ玉飴や鈴カステラ、きな粉棒などの昔懐かしい駄菓子が、そこだけ明るく色とりどりに客を迎えてくれる。
「ごめんください」
小腹が空いた塾帰りの子供のような調子で声を掛けつつ、袋菓子の並ぶ棚を横目に歩けば、店の奥行きはいくらもない。
ほんの数歩で、畳の部屋への上がり口にしつらえた旧式なレジスターの前に着く。
長身の英聖が見下ろすと、陰で背を丸めて居眠りしていたらしい、小柄な老女と目が合った。
「岸田のばあちゃん、お久しぶり」
慌てて丸眼鏡を直す様がおかしくて、英聖の顔から思わず笑みがこぼれる。
「だれ?」
「おれおれ」
「…あたしにゃ、そんな名前の孫は居ないよ」
「ひ孫は?」
「術者登録、取り消しといてあげるから、好きなだけ入院しといで」
「相変わらずきついなあ、岸田今日子さん」
女優のような名前だが、彼女の本名だ。
フルネームで呼ぶと何故か機嫌が良くなる。
「あんたも相変わらず元気だねえヨンちゃん。ビルの10階から落ちたって聞いたけど?」
「4階だってば。話が大きくなってる」
「4階だって、たいしたもんじゃないの。さすがは風技士だねえ」
「風使いが落ちちゃいけないんだけどね。入院までしちゃって格好悪いったらないよ」
「まあ、猿も木から落ちるっていうし。人生何が起こるか分かんないから面白いのよ」
娘のような声でころころと笑う岸田商店のオーナーに、英聖は苦笑しながら光沢のある一枚の白いカードを差し出した。
クリーム色のレジスター機のどこにスリットがあるのか、英聖の方からは見えないが、今日子婆さんは、受け取った白いカードを親指と人指し指に挟んで、すっと上から下へと滑らせた。
ややあって、チン!と甲高い音を立ててレジスターの銭受けの部分が飛び出す。
「はい。ちょうど月初めだから、いつものとおり三百円ね。」
英聖から百円玉三枚を徴収すると、今日子はカードを返してよこした。
「ああ、それから。二階の扉、気をつけなさいよ。どうも近頃、空間が不安定でねえ。
ゆっくり開けるようにね。不用意に踏み出しちゃうと、隣の空き地に落っこちるから」
「はいはい。…てか、立て付け直すように庶務へ言っとこうか?」
「前に一度伝えたんだけどねえ。係も忙しいのは分かるんだけど。そうね、暇があったら催促しといて頂戴。」
「了解。んじゃ、お邪魔します」
「はい、行ってらっしゃい」
見送る今日子に軽く頭を下げ、英聖は脱いだスニーカーを片手にまとめて持って、上がりかまちから奥へと進んだ。
擦り切れかけた畳を踏んで、木製の階段をきしませながら2階へ上ると、襖が外されて二間が一続きになった部屋の端に、場違いな洋式のドアがぽつんとついている。
今日子の話を思い出しながら、英聖は鈍く光る金属製のノブに触れた。
かすかな振動が伝わり、どこかでかちり、と音がした。
そのまま、ゆっくりとノブを回す。押し開いて、足元を確かめつつ一歩を踏み出すと、一瞬浮遊感があって英聖はぎくりとしたが、すぐに固く滑らかな床の感触が足の裏をしっかりと支えた。
「よかった。ちゃんとつながってるよ」
後ろ手にドアを閉めると、ノブの感覚は消え、広い空間にこだまする静かなざわめきが聞こえ始めて、視界が開けた。
古い石造りの、飾り気の無いホールには、いくつかの革張りの長椅子が並び、その向こうに銀行の窓口のようなカウンターが見える。
『新規登録』『資格申請』の看板を通り過ぎ、『業務相談』の窓口へ向かうと、書類の処理をしていた受付嬢が顔を上げた。
「あら…ヨンソン君いつ退院したの?」
「ども。今日ですよ。あっこさん、ご迷惑かけました」
「そんな事ないわ。じゃ、今日は労災の申請ね?」
「え、出るんですか?」
「条件ぎりぎりだけど、何とかなりそうよ」
「助かった…ありがたいです」
「じゃ、これが書類ね。月末までにお願い」
「はい」
「あ、それから…早速で悪いけど、ひとつ仕事が入ってるわ」
登録術師の紹介や、もろもろの事務を引き受けている受付嬢=桜井晶子は、プリントアウトされたシートの入ったファイルを1枚、カウンターに出してきた。
「場所は、城址公園の端なんだけど」
「城址公園…いつも花見でにぎわうとこですよね」
「ええ。桜はまだでも、今は梅が満開みたいね。それが、この前の地震で石垣の一部が崩れたのよ」
晶子の話はこうだった。
区の職員が、崩壊した部分を見に行ったところ、人が一人くぐれるほどの穴が開いていた。
かなり奥が深そうなので、ひとまず立ち入り禁止にして専門家の調査を待つことにした。
ところが、次の日から当の職員をはじめ、物珍しさで穴へ近寄った者はおろか、散歩の途中に偶然そばを通りかかった人たちまでが、次々に体調不良を訴えて、原因も分からないまま寝込んでいるのだという。
「祟りっぽいけど…何の祟りですかね?社を壊したわけでもなし、墓石を倒したわけでも…」
「御神木を切ったりした訳でもないわ。石垣に出来た穴が影響を及ぼしているのは
間違いなさそうだけど…」
「調査は、俺一人ですか?」
「おいおい、初動の調査は常に二人以上で、てのが原則だったろい?」
しわがれた声に振り向くと、昔話から抜け出してきたような和装と頭巾を身に付けた白いあごひげの老人が、肩に小さな生き物を乗せて立っていた。
「あれ、茂吉じっちゃん。久し振り〜。クダも元気か?」
「こないだ入院したと思ったら、もう治っちまったのか?若いってなぁ良いねえ。」
クダと呼ばれた、滑らかな毛並みの細長い獣が、英聖の腕に飛び移って遊んでいる間に、斉藤茂吉は資料を受け取って目を通した。
「被害者の情報が、もちっと欲しいな。現場に出向く前に病院に寄るか。」
「了解。症状とか見てからのほうが、持ってく装備品選び易いもんな。」
「察しが良いじゃねえか。じゃ、ちょっくら行って来るよ、晶子ちゃん。
手が空いたら、2番倉庫の鍵の準備しといてくんな。」
「あ、お二人とも待って。引受人の欄にサインしてからにして下さいな。」
職務に忠実なコーディネーター晶子が手渡した書類に、二人は手早く署名した。