相談屋の日常‐お手伝い希望の少女りんの話 その伍‐
「っ!」
ママは小さな悲鳴をあげて床へと倒れ込みました。その反動でテーブルに乗っていた物が幾らか床に落下しました。音は聞こえませんでした。ママは床から体をゆっくり起こしました。すでに青白かった顔色をさらに蒼白にし、何が起こったのかと呆然としていました。そして、ママは自分を蹴り倒したパパを見上げました。パパへ向けたママの瞳には、疑念の色を帯びていました。そんなママに対して、パパは侮蔑の色の含んだ瞳で見返していました。パパの、その初めてみる冷たい瞳に私はぞくりとしました。いやな汗が流れました。
「あなた……どっ…どうし……どうしたのっ」
パンッ
パパは乾いた音ともにママの頬を平手打ちしました。ママはまた床へと崩れました。そんなママをパパは静かに見下ろしていました。
「お前のせいで××は行方不明になった」
成人男性独特の重く響く低音ボイスで、パパはこう言い放ちました。
「仕事も満足にできない。日常生活も人並みに出来ない。そんなお前があれもこれもやろうとした結果がこれだ」
ママはこの言葉を聞いて閉口しました。
ママは生まれつき体の弱い人でした。仕事は普通にできますが、月に何度かは休まざるおえませんでした。また、不定期ですが寝込んでしまうことも有りました。そのような時は、家族みんなでママを支えました。今日、始めママは弟の遠足についていくことになっていました。それが突然無しになったのです。ママの仕事の方で大切な取り引きだか何だかが入ってしまったのだそうです。
「お前のせいだ」
パパは青い顔をして黙りこんだママに、再び言い放ちました。項垂れているママと静かにママを責めるパパの二人を、私はただただ見ていることしかできませんでした。
このあとまたパパによるママへの言葉攻めと暴力が始まりました。私は部屋の隅でそれらの一部始終をただただ見ていました。ママを助けに行けませんでした。ママの姿は痛々しかったので助けたかったです。私が出来るかは置いといて。けれども出来ませんでした。ママはこれは当然の報いであると決め込んでしまったのです。そんな当人の意思を差し置いて、入ることはできませんでした。私は変に頭がよかったのです。邪魔できないと思ってしまったのです。
夕食は三人で食べました。会話はもちろんありません。人が物を食べるときに出してしまう数える程度の音が、静寂に包まれたこの空気に響いていました。静かでした。椅子は三脚しかありませんでした。
ご飯を終えたあと、暫くしてまたそれが始まりました。お風呂へ入るようママに言われて私が入ったすぐのことです。嫌な乾いたそれでいて重い音を聞きながら、私は一人お風呂に入っていました。お風呂から上がってもそれは続いていました。私はどうしたらいいのかわかりませんでした。足は自室へと向かっていました。そしてそこへ辿り着くと、机に向かって勉強を始めていました。頭にはただ知識が入って行きました。けれど現状をどうにかするためには、私の思考回路はあまりよい働きをしてくれませんでした。私は自分の“あたまでっかち”さを痛感しました。そして逃げ出したくなってしまって、やることをさっさとして布団へと潜り込みました。布団に入ってすぐに私の意識は眠りへと落ちました。私の耳には何も聞こえてきませんでした。
目を覚ましました。日は今まさに昇ろうとしていました。今日も早く起きてしまったようです。私は着替えを済まし、リビングへと降りていきました。
そこにママの姿はありませんでした。代わりに、家具やら小物やらが散乱し荒れていました。椅子は倒れ、変な格好をしています。テーブルの上にあったものはほとんど床へと散らばっていました。テレビの画面にはひびが入り、ソファは所々破けてしまっていて綿が見えていました。玄関のある廊下との境目辺りにある家具の脇には、卵のパックが落ちていました。卵はすべて割れていました。
私は適当に朝食を済まし、これまた適当に弁当を作り、学校へ行きました。
「いってきます」
そういった私の言葉に返される言葉は在りませんでした。
いつも通りの道を通って学校へ向かいました。銀杏の葉は今日もひらひらと、その黄色みのだいだいを日光によって光らせながら下へと舞い落ちています。暦は霜月へと移り、晩秋はいよいよ終わりを告げました。