結【前】
雰囲気というものがある。
季節は冷えた外気が肌を害する最も過酷な時を迎えているというのに、ただその日ばかりは空気はふわりと色づいた。
その珍妙な現象はどこでも起きると言うわけではなかった。起きない場所もあれば起きる場所もある。似たような年代の若者を詰め込んだ箱の中では概ねその現象は起きた。取り締まる動きがあろうとも、起きないことなどほぼあり得ない。
回りくどさを撤回して一言でその現象を表すのであれば、それは「バレンタインデー」と言った。日本国に置いてはチョコレート菓子を贈って愛の告白と成すという、アイテムからして甘く濃いイベントである。
その日、その青年は、その容姿にふさわしく熱気を被っていた。いた、である。今現在はその熱気からは離れ、それどころか冷たい中にあった。青年に向けられる目は冷ややかで、同時に微かな悲しみが混じっていた。哀れみではない、呆れでもない。諦めを伴った悲しみである。それが青年を冷やした。
呆れられたのならば、あるいは哀れまれたのならば、それはゲームオーバーを示さない。だが諦められ、悲しまれたのならば。悲しむだけの何かをその視線の主が芽生えさせていてそれを諦めてしまわれたのならば。
気付けなかった己の迂闊。そして手遅れ。この鉄壁を攻略する小さな取りかかりを見逃したのだ。そしてその小さな綻びはより堅牢に鎧われてしまった。青年個人に対して、もうとりつく島など伺えぬほどに完璧に。
信頼は行動で買うものよ。
じゃあね。
青年の腕から逃げた少女は沈黙の果てにその二つだけを言い残して、部屋を出た。
なんとか準備室と言う名前の付いた狭い部屋はそこを主とする教師が職員室の机を己の居場所と決めているので無人だ。職員室に狩りたい獲物がいるらしきことを当人から聞き出した青年は知っている。この教室は適度な整理整頓を条件に青年に貸し出されている。ホテル代わりには使わないことも条件だが、場所が自分の通う高校である以上はその青年の信頼度は抜群だった。場所も人員も手近で済ませようとすると非常に面倒なことになると青年はもう学んでいたので。
青年は少女の消えた扉を見つめたまま、手近な椅子に腰を下ろした。
無人になりやすい教室は嗅覚の良いものなら嗅ぎつけて巣にする、この青年ほど徹底的に巣にできる存在も稀だが。
そこが狼の巣と、少女が知っていたのかどうかは問題ではない。ただ出ていった少女が狼を、見下げ果てた狼とまでは認識していなかったことは確かだった。少なくともこの教室にほぼ無理矢理連れ込まれた、その時までは。
「失敗したか」
それも致命的に。
青年は目を閉じた。何をするでもなく首を傾け、額に手を当てて、沈思した。
投げつけられた言葉と、視線が痛い。
思っていた以上に、想像していたよりも遙かに。
だからからりと再び開いた扉に返した反応は過敏だった。
だがそこに期待したものはなかった。当たり前だと即座に自嘲が沸いた。らしくない己の浅慮さにまた、一つ大きく思い知った。
どきん。と胸が鳴った。
向けられた顔が喜びから失望に移り変わる。心臓が跳ねるくらいに、今まで見たことがないくらいの素敵な顔から、やっぱり見たことのない自嘲するような顔。
誰を期待したのかわかってるし、私で失望されたのも分かってる。
「先輩?」
だけど私は空気を読む。ある意味読まない。
普段通りに、社会科準備室に踏み込む。踏み込むというか入り込むというか。物置に近いからなーこの部屋。資料や地図が所狭しと並んでいる。それでもそれほど汚くはない。掃除手伝わされイベントもあったし。思い起こすと春からこちら、やたらと掃除してた気がする。卯月先輩も掃除しないとイベント起きなかったし。
で、小奇麗さに私も貢献している部屋の窓際に霜月先輩はいる。もう表情は戻っていて、そこには期待も失望もない。普段のめんどくさそうな顔だ。
「お前な、人様の巣にのこのこ入ってくるんじゃねえよ」
「巣って、ここ社会科準備室じゃないですか。いつから社会科教師に転職したんですか」
「…………」
普段通りに軽い調子で返すと、霜月先輩は黙った。普段なら帰ってくる軽口が来ない。それだけダメージを受けてるってことだ。……彼女のことで。
霜月先輩はバレンタインのこの日にとある一年生に拒まれる。入学してからこちらちょっかいをかけ続けてた生徒で、女子攻略キャラの弥生はるか。ここに引っ張り込んでチョコを要求して、拒まれたらじゃあもっと甘いものでいいと彼女に迫って……考えたくないですが。
ってか腹立ちますが。見込みあると思わなきゃこの人がそんなアクション取るわけないのに。思わせぶりな事してるからだ。
いや先輩がアクション起こした結果拒まれないとこのイベントにはならないから、いいんだけど。いいんだけど腹立つやっぱり。
苛立ちを隠してきょとんとした顔を維持するのって結構厳しい。女優、女優、女優! と唱える。入学してから一年弱、何度唱えたか分かんないけど。
女優、女優、女優!
はっと軽く息を吐きだした先輩は、で? と足を組み直す。
「でって?」
「お前はなんで俺の巣でもある社会科準備室にやってきてんだ」
「なんでって先輩を探してです」
「だからなんでだ」
「えーと、いらんと言われそうなものを用意したからですけど」
最初っから手に持ってたピンクのラッピングを差し出すと、先輩は嫌そうに眉を顰めた。
「分かってなら持って来てんじゃねえよ」
「一縷の望みをかけたいと思いまして」
「…………」
また、先輩が黙る。そしてはーっと、さっきよりも長く息を吐きだした。
「望み、望みね」
苦笑するような表情は、ゲームではこの場面で初めて出て来る。生だとこんなに「来る」んだな。
「ほら」
「は?」
「望みだろ。貰っといてやるから寄越せ」
「あ、あ、はいっ!」
初めての表情に、素で反応が遅れた。慌てて駆け寄って伸ばされた手の上にピンクの包を載せる。ぽんと軽く放り投げてからつかみ直し先輩はそのまま包をつらつらと弄ぶ。
「ご褒美は欲しいのか?」
「……なんか子供のお使いみたいに思ってません?」
「違わねえだろ」
「違いますよ」
ここだ。
私はごくっと唾を飲み込んだ。
私を今まで完全に子供扱いして、足にじゃれつく犬か何か程度にしか思ってなかった霜月先輩が私への認識を変える。それがこの選択肢だ。ってか今は言葉だけど。
イベントアルバムから何度も繰り返して見た。前半はセリフをスキップして、ここだけを何度も何度も。恋が始まる、その瞬間を。
選択肢では三つ。「お歳暮見たいなものです」「子供じゃありません」「そんな風だから……」
お歳暮はフラグ折り選択肢で、友情ルートへ進む。子供じゃないが正解のようで実は違う。これはBADへ進む選択肢。正解は、
「そんな風だから……」
「なんだ」
言いかけた言葉を、私は飲み込む。選択肢だからじゃない。女優だからでもない。返された短い単語に、本気で怯えそうになったからだ。
これはこの人が初めて「ヒロイン」を認識するイベントだ。人として女の子として。今まで幼児か犬だった主人公を、知性のある生き物として据える。
萌えたイベントだけど、だけどこんなに、リアルのこの人は、
この人は――怖い。
冷たい汗が背中を流れる。だけど動き出したイベントは止まらない。
「振られるんですよ」
「いい度胸だな、志木」
「本当のことじゃないですか」
私は「弥生はるか」とは接触してない。だけど存在は知っている。この人が人目も気にせずちょっかいを掛け続けてるからだ。ゲームでも登場条件を満たさなければ接触はない。だけど名前は当然のように出て来る。だけど「ヒロイン」は知らない。今、この人が「弥生はるか」に拒まれて傷ついていることを知らない。だから噂のままに、告げることができる。
「先輩は優しくしないじゃないですか。子供扱いって優しくないんですからね。誰に対してもそんなんだから相手にして貰えないんですよきっと」
口を尖らせて訴える。子供扱いに傷ついていたことを冗談のように訴える。
先輩は一瞬だけ目を見開いて、そして、
「へーえ?」
と言いながらぽんぽん弄んでいた包を足元に落とす。その扱いの悪さに抗議するより早く先輩は立ち上がり、長いコンパスで一気に私との距離を詰めた。そして初めてその長い指が私に触れた。首から顎を滑った指が、私の顔を傾けさせる。
「大人扱いってこういうのか?」
近づいてきた顔に反射的に目を閉じそうになる。でもダメだ、ダメ。ここで受け入れたら流れが違う!
ぱしんと手を弾いて、私はすささっと後ずさる。
……いや結構本気でした。本気で逃げました。近づいてきた体の大きさとか、指の感触とか本気でヤバイ。まともに恋愛経験のなかった私には生々しすぎる。
「そ、そう言うんじゃなくて! 普通に好きだってどうして分からないんですか!」
言い捨てて、私は逃げる。
今は追って来てくれない。分かってる。だけどこれで霜月先輩は私を意識し出す。
彼にとっては十分「優しく」しているつもりだった犬に優しくないと詰られて。そしてタイミング悪く「そんなんだから」と「図星」を刺されて。
乱暴に扉を閉めた余韻が指に残る。その手をぎゅっと抱きしめて私は廊下を走った。堅物キャラに見つかっても今は構わない。それどころじゃない。
にやけるとか、喜ぶとかそういうレベルじゃない。達成感もあるけどそんなんじゃなくて。
心臓が破裂しそう。
あの人とこれから恋ができる。あの人に愛して貰うことがやっとできる。あの指が私に触れた。
溢れてくる興奮と喜びで、どうにかなってしまいそうだった。
終わりませんでした。ので続く。