麦茶に微笑み
千切れた雲が水色の空に浮かんでいた。見下ろす校庭には熱気が集まり歪んでいた。季節は扉を押し開けて夏になっていた。シャツの袖を捲り、少しでも体温を下げようと首筋を手で扇いでみたのだけれども、焼け石に水だ。汗をかきにくい体質であるからこういう時は辛い。早く部屋に入ろうと俺は渡り廊下を急いだ。
緑色の床面は太陽熱に乾いている。靴のゴムを熱が貫いて来るような嫌な気持ちに、俺は辟易していた。だから、扉を開けた瞬間にクーラーの冷気が顔を打った時、ほっとした気持ちになって少しばかり呆けてしまった。ゆっくりと扉を閉めて、抱えていた紙を机の上に置いて、部屋を見回した。部屋には、誰もいなかった。妙だなと考えた直後、扉のノブがカタリと鳴った。山口が流れている汗を皺ひとつ無く伸ばしたハンカチで拭きながら、言葉にならない声で呻きつつ部屋に入ってきた。俺が少し身体を横にずらして道を作ってやると、山口はサンダルをへたらせながら椅子へと向かっていった。
「いや、いや、暑いね。これでまだ7月なんだから気が滅入ってしまう。君、ヒートアイランド現象と地球温暖化が原因と人は騒ぐが、誰も車を廃止しようとは叫ばないのは知っているだろう。ソ連崩壊からこのかた、人類は自意識に苛まれているかのように黙りこくっている……勿論、車を廃止するだなんて馬鹿の発言と考えられているからね、馬鹿にされたくない良識的な人々は馬鹿みたいに黙っているんだ。それで永石、会長は?」
髪をかき上げながら、狐みたいな細目を俺に向けて山口はまくし立てた。話し半分さえも聞きはしなかったが、少し遅れてしまい、答える頃には山口はもう扇子を開いてヒラヒラと風をそよがせているのだった。
「さぁ。戻った頃にはいなかったが」
「そうかね。あっは、大方校内を回っているんだろう。会長は猫の好奇心をお持ちだからね。鼠に殺されなければよいが。ところで、永石」
「ん……なんだ?」
「君は喉が渇かないかい? 渇いただろう。僕も喉が渇いた。麦茶が飲みたいんだ」
立ち上がる様子は、ない。俺は溜め息を吐いて備え付けの冷蔵庫に向かった。山積みになったオレンジを崩さないよう気をつけながら、麦茶の入ったポットを取りだし、グラスを2つつまみ上げる。一つを山口に渡してやり、俺は席に座る。結露が手にへばりついた。グラスに注いでやれば、不思議な色合いをしたあの液体が、なんとなく胸を締め付けるノスタルジアな芳香を漂わせた。
すすりつつ、ぼんやりと宙を見ていたら、非常に胡散臭い微笑みを顔に貼りつけながら、山口が俺を見ているのに気がついた。山口は空のグラスを掲げている。乾杯……という訳じゃあるまい。机に置き、ついと押し出されたグラスに、不承不承とではあるが麦茶を注いでやれば、「メルシ、ボークー」だのと茶化してくるのだから溜め息を溢した所で何が悪いのだろうか。
山口 優紀。細目と薄っぺらな笑みが特徴のこの男は、お喋りで、主人体質で、なにかと胡散臭い。へらりと笑い、何事にも動じないのは素晴らしい才能だとは思うのだが、頭が良く、家柄も良く、顔も――認めたくないんだが――整っているから、なんとなく胸の浅い所が刺されたように痛む。一応は同じ生徒会役員なのだから、一緒に頑張って働こうとは思うんだが……まあ、羨むのは自分の心が汚いせいだと自覚はしている。しかしまだ、大人になるには時間が必要みたいだ。
「ん。なんだい、人の顔をそんなジロジロと見てきたりして。ははぁ、もしかして僕に惚れたかい?」
……追記だが、多分にナルシストらしい。にやりと笑う山口に、呆れながら別にと答えようとした所で、ふと、思い付いた。普段はこういう冗談はしないんだが、なんとなく浮かんだし、なんとなく良い案のように思えたのである。多分、暑さでやられていたんだろう。
浮き腰でパイプ椅子を持ち上げて、山口に近づけた。山口は細目のままでおやと呟き、不思議そうに俺を見てきた。そうして、俺は山口の手を握る。
「実は俺……山口のことが好きだったんだ。ずっと、見てきた。もう耐えられない。好きだ、お前が好きなんだ、山口……ッ!」
これはただ山口の驚く顔を見てみたかったから思い付いただけなんだが、予想外に上手い演技をこなせただろうと思う。意外に演劇の才能があるんじゃなかろうか。
しかし、困ったことが起きた。ちらりと顔を上げた瞬間に見たのは、真顔で目を見開いている山口の顔だった。やった! 内心で勝ち誇っていた俺だが、笑みを浮かばせ細目に戻った山口の弁に、すぐさま俺は驚愕する羽目になる。
「……そうか。良かった、僕だけではなかったんだ」
「……はぁ?」
「僕も、君のことが気になっていたんだ。僕が君を見ていたのに気付かなかったかい? 酷い人だ、僕はこんなにも思っていたのに、君は宙に浮いた概念を追いかけていた……あっは、しかしそれも、ただの無意味な悩みに過ぎなかったんだね。僕は君を愛しているし、君も僕を愛している。なら……分かるね?」
ふざけてるのか? 訊ねようとした瞬間に、俺は手にザワリと蛇の這うような感覚を覚える。おっかな手に視線を向けてみれば、誘うような目付きで俺を見上げながら、山口が俺の手の甲を舌で舐めていた。いつの間にか、握っていた手の指には山口の指がからめられている。嫌な汗をかきながら、俺が口をパクパクと動かしていると、這うように山口の鼻先が、手の甲から腕を伝い、肩を過ぎ、首筋に移る。俺は仰け反るも、山口は前屈みになって俺を追い詰める。気がつけば左手も絡め取られている。
「心臓をえぐり出せるのなら、君にあげるのに。僕の心臓は壊れそうなくらい脈動している、君のせいだよ。ねぇ、責任、取ってよ」
「は、ははっ……意味が、分からない、なぁ」
「……ズルい人だ、君は。君を僕に頂戴、そう言いたいんだよ」
首筋に、生暖かい感覚。ふっと意識が遠退いた。途端に背中に激痛が走る。仰け反りすぎて椅子は倒れてしまい、床に激突してしまう。運良く頭は打たずに済んだが、如何せん頭はぐるぐると思考を続けている。山口が、俺を、好き? 藪蛇!?
遠い天井を見つめていると、クックッと笑い声が聞こえてきた。慌てて身体を起こして山口を見れば、堪えかねたように腹に両手を当てて大笑いしている山口の姿が見え、俺は現状を理解する。
「あーはっはっは! 君、演技が下手だね。ショウが終わるまでは続けなくちゃならないのに、役を下りちゃならんよ! あっは、いやしかし、先の冗談は面白かったよ。なかなかに楽しませてもらったが、担がれるのは嫌いでね。いやしかし、熱がこもっていたが、本当に僕が好きなんじゃないかい?」
思いきり首を横に振れば、新たな大笑いを頂いた――甚だ不名誉なことだが。山口は、椅子に戻った。いつもより楽しげに微笑みながら、扇子もどことなく大振りで扇いでいる。俺は居心地悪くしながら、同じくパイプ椅子に腰掛けたのである。
「まさか君がね。ああいう笑いをくれるのは、相模か会長だけと思っていたが……あっは、やはり普段真面目な男がボケてくれると、一層楽しい」
「……言うな。言ってくれるな」
赤面を手で覆う。もうやだ、来世では貝になって大陸棚を泳ぎたい。そんな嘆きを突き破り、山口は語る。
「しかし、君がああいうことをするのはおどろきだね。何かあったかい、LSDでもキメたのかな」
「……あー、いや、下らんことだ」
「馬鹿を言うんじゃない。下る下らないを決めるのは僕の仕事だよ。君は諦めて白状するんだね、嘲笑ってあげるよ」
嘲笑ありきかよという意見は通りそうにもない。どうせしくじったのだ、行き着く所まで降伏してやろうと、俺は決意した。グラスを手に取り、ゆるゆると揺らしながら、俺は山口に向き合う。
「……笑うなよ?」
「いや、笑うよ?」
「……はぁ。あー、なんだ。お前のその、胡散臭い微笑をだな、剥がしてみたくなったんだよ。狼狽を期待したんだが、まさか嘲笑を頂くとはね」
「……不愉快だね、まったく、笑えやしない」
はぁ? そう言いたくもなる。不機嫌そうに眉をひそめ、少し唇を尖らせている山口に、これは一体どういうことかと思うのは致し方ない。
「一応君には余所行き用の微笑ではなく特別な微笑を送ってきたつもりだが……それを胡散臭いとはね。やれやれ、参ったよ」
「はぁ、全く意味が分からない」
「だから、僕は君を特別扱いしていたのに、君はそれを受け取っちゃいなかった訳だ。なんだよそよそしいとは思っていたが、実に不愉快だよ」
扇子を閉じ、その扇子で俺を指した山口だが、俺はと言えばついていけなかった。はぁ、特別扱い。あれか、何かと言えば用事を言いつけられるのは特別扱いだったのだろうか。
「いいかね、よく見たまえ。これが、上っ面微笑。分かるね、適当に人をこなす時の微笑だ。そしてこれが君への微笑だ。ほら、違うだろう」
「……いやいや! まったく変化ないから!」
「おや、そうかい。これは参ったね。この厚い面の皮は感情を通さぬらしい。親父からも『お前は感情が読めないから、口で言え』と言われていてね。気をつけていたつもりだが……やれやれ!」
そう言って、山口は笑った。そう言われると、なんだかいつものへらりとした笑いではなく、もっと乾いた、少しばかり爽やかな、からりとした笑いにも見えなくない。しかし、実に微妙だ。
「大方君は、『けっ、気に食わねぇ野郎だヘラヘラ笑いやがって。てめぇの面の皮暴いて瀬戸内海に放り投げてやるよ!』とでも考えてたんだろうけど」
「いや、そんなことは考えてない」「僕はね、いいかな、俗物なんだ。人を内と外とに別ける。そうして、君は仲間扱いなんだよ。役員仲間だしね」
「……そのわりには、顎でコキ使ってくれますな」
「あっは、僕も無関係の人間をコキ使うほど悪人ではないよ。親愛の証という奴さ」
そんな親愛の証はいらない。ジト目で睨み付けてやれば、いつもの細目微笑で返される。ぶっちゃけ、未だに違いは分からない。
お互い、黙りこくったまま時間ばかり過ぎていく。剣呑な雰囲気でもないが、楽しい雰囲気という訳でもない。さあ。行き詰まりである。からかおうだなんて考えなければ良かったと思いながら、ブレイクスルーを待ち望んでいたら、理想のばか騒ぎが部屋にやってきた。
「猫!」
扉をバンと開け、叫ぶ少女。日焼けした肌を持つ我らが生徒会長様だが、猫とはなんだ猫とは。猫は主語なのか目的語なのか、述語はなんだと訊ねてやりたいがしかし、助かった。
「会長、猫がどうしたの?」
「猫が!いる!カムヒア!」
「文で喋れ、文で」
「さっき校舎裏を徘徊してたら、猫がいたの!それも家族!子猫がプリティなのでカムヒア!以上!」
頭が痛い。これで17歳なのだから驚愕である。しかし山口は、くつくつと笑いながら、「それは一大事やなぁ」などと笑いつつ、椅子から立ち上がる。会長は俺を見つめる。仕方がないので、仕方がないので俺も立ち上がった。仕方のない理由があるんだから仕方ないのである。
「ホント、一目見たら気に入るよ。可愛い、ホント可愛い、目に入れたら痛いだろうけど可愛いものは可愛いのだから仕方ないよね」
「仕方ないね、うん、仕方ない。猫は正義だし」
「猫!イズ!ジャスティース!信じる奴がジャスティスなんです!」
「会長、意味が分からない」
「考えるな、感じろ!」
名残惜しくもあるが、俺達はクーラーの効いた部屋から去り、屋外に出た。前を歩く山口は扇子で扇ぎながら、るんたった跳ねる会長についていく。勿論俺もなんだが、しかし、ふと思い至った。そう考えれば納得なんだが、生徒会での山口は実に素直だ。頼まれたらハイハイと引き受けるし、誘われてもハイハイと頷く。暑がりな山口なのに、こうも容易く外に出るのは、考えれば不思議だ。普段の、つまりは外での山口はのらりくらりと誘いを断る男で、告白を断られたと悟らされずに断るというよく分からない才能があるとも聞く。面倒くさがりで、大抵は一人のんべんだらりしている山口だが、生徒会では違う。
俺が仕事を頼んでも引き受ける。あまりにも当たり前に行っていたから、気付かなかった。
……本当に分かりづらいな、この男は。そう思いながら山口を見ていたら、振り返った山口が、俺を見てにこりと笑った。ああ、そういうことかと、気づいた時に、災難の会長である。
「二人とも、どうしたの? 見つめあっちゃって、ラブスパイラル?」
ボケを回収するのが遅れ、山口に拐われた。山口はにへらと笑いながら、「さっき永石に告白されてね」と答えた。会長は驚き、笑う。厄介なことになるな。俺は溜め息をついて、会長に弁明すると共に、今度からはこの奇怪な男に、もっと注目してみようと決意したのだった。
勿論、いやにテンションの高い会長と、茶化して場を掻き乱す山口とにより、事態の終息に手間取ることは言うまでもなく、山口に対して、それまでとは種類は違うにせよ、新たな反感を抱いたのも言うまでもないことだろう。