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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

業務アンドロイドは人の心がわからない

作者: 満月丸
掲載日:2026/04/20



 娘が寝息を立て始めたのを見届けてから、戸沢はリビングへ戻った。

 そして座る妻、戸沢咲へ、信じがたい話だが、と断ってから話し始める。面倒が起きれば絶対に相談しろと厳命されているが故の行動。


「つまり」


 すべてを聞いた後、咲はゆっくりと頷いた。


「貴方は、その異世界で年若い子を、その手に掛けたも同然のことをした、ということかしら」

「そうだ」


 その瞬間、咲の手が、真正面から戸沢の顔を掴んでいた。

 ぐ、と上向かされた顔面に鈍い痛みが走って眼鏡がずれる。

 戸沢は思わず目を見開いた。


 咲は、笑ったままだった。

 そのまま指先にじわじわと力が籠もる。

 ああ、これはまずい、そう思うが口を開くことはできなかった。


「彰さん」


 妻の声が低い。これはブチ切れている時の声だ。


「しばらく、話しかけないでくださいね」


 戸沢は止まった、瞬きも止まってフリーズする。

 咲の目は怒っていない、ただ真っ直ぐこちらを見ている。それが余計にヤバいと感じた。


 数秒遅れて手が離れる。頬に残った熱を感じながら、戸沢は、ずれた眼鏡を直した。


「……申し開きは」

「結構です」

「でも」

「結構です」


 一切の言い訳を聞かないというスタンス、こういう時、彼女は本当に何か月でも対話を拒否してくる。こちらが頭を下げようが何をしようが一切の妥協を許さない。


 異世界で王女に拒絶を返した時より、将軍に睨まれた時より、今の方がよほど厄介だと思った。

 戸沢咲に拒絶される、それが一番効くのだ、戸沢彰という人間には。


 咲は唯の眠る寝室へ向かった。戸沢の前を通る時も、視線は合わない。

 何か言うべきだ、と戸沢は考えた。説明か謝罪か、あるいは娘の名を出してでも言い訳という話を繋ぐか。

 だが、どれも薄い言葉にしかならないとわかった。

 ソファの上で、戸沢は黙る。右手を握れば、爪が掌へ食い込んだ。


 寝室の扉が閉まる音を聞いてからも、戸沢はしばらく動けなかった。



◇ ◇ ◇



 人事部はいつも通りの地獄だった。


 朝一番から各部署の催促が喧しい。

 やれどこぞの部署でハラスメントがあっただの、やれどこぞの課長から新入社員が使いものにならないだの、だから代わりの人材送ってね、みたいなメールを死んだ目で眺める。残業不払い、打刻漏れ、異動届、新規面談の予定、未払い残業の精査、休暇申請や離職願い、そんな書類を淡々と捌いていく。

 上は上で、今月の離職率の数字を見て沈んだ声を出していた。いい人を回してほしい、急ぎで、できれば安く、即戦力で。無茶だけをオブラートに包んだ要望が、朝から晩まで飛んでくる。居るわけねぇだろバーカ、就業時間見直せや、という言葉が全員の脳裏で過った。


 その渦中で、人事部の面々――要するに社畜共は、いつも通り働いていた。


 メールを返し、面談日程を組み、求人票を直し、現場の泣き言を聞き流しながら書類を突っ返す。あ~クッソ疲れたとか、マジしんどいとかは、昼休みにコンビニのおにぎりを噛むついでに言えばいい。ブラック企業では手を止める理由にはならない。


 ただ、その日は妙なことがあった。

 社畜A、もとい中堅の田口が、デスク越しに視線を上げる。


「……なあ」


 向かいの社畜B、若手の上原はキーボードを叩いたまま、「何すか」とだけ返した。

 田口は顎で一点を示す。

 人事部長、戸沢彰の席だった。


「遂に激務過ぎて、業務アンドロイドが壊れたようだぜ」


 上原も思わず手を止めて、そちらを見る。

 戸沢はモニターの前に座っていた。書類の修正画面を開き、右手はマウスに置かれている。だが動かない。ピクリともしない。明らかに止まっている。

 いつもならスタタタターンッくらいのノリでキーボードを叩く手が、微動だにしないのだ。これはもはや異常事態である。

 上原は思わず小声で突っ込んだ。


「いやいや、あの年度末徹夜ランを平然と完走した奴が、どうすれば壊れるんすか」


 隣席の社畜C、同じ島の加藤が飴を口へ放り込みつつ、もう片方の手ではキーボードを打っている。


「恋じゃない?」

「は?」

「遂に発生したのよ、恋というバグが。遅咲きの春ってやつ」

「ねぇよ、絶対にねぇよ、あの人に限って」


 ナチュラルにアンドロイド扱いしている点は、もはや誰も突っ込まない。


「っていうか、誰が相手だよ。新規の子?」

「新規に女性なんて居なかったっすよ」

「知らないけど。昨日まで正常稼働してた機械が急に虚空見始めたら、そういうイベントしかなくない?」

「機械って言うな」

「でも機械じゃん、あれ。相手が泣こうが喚こうが怒ろうが、そうですか、で済ませてるのよ。ほら、前に酷いハラスメントで若い子が泣いてても眉一つ動かさないし、怒鳴り込んできたセクハラ親父相手に同じ調子で話し聞いて淡々と報告書作ってたの覚えてるでしょ。被害者の子に『泣いても記録は変わりませんよ』って言い放ったの、この人本当に人間なのか疑ったわよ」


 言いながら加藤の手は止まらない。求人媒体のHP修正を行い、面談候補者一覧を確認し、ついでに別窓へ返信まで飛ばしている。田口も上原も似たようなものだった。口は動くけど業務は落とさない、残業してまで仕事は終える。そういう意味では全員よく訓練された社畜である。


 その間も、戸沢は止まっていた。

 モニターの光が黒縁眼鏡に反射して、表情が読みづらい。いつもならメールを三本返しながら電話を取り、部下のミスを淡々と拾って刺し、役員が来れば一秒で営業用の顔へ切り替える男が、である。

 腹黒悪魔、陰険眼鏡、業務アンドロイド。

 陰での呼び名はいくつもあるが、今日のそれはどれにも当てはまりにくかった。悪魔にしては静かすぎるし、陰険にしては虚ろだし、アンドロイドにしては再起動が遅い。業務効率が落ちまくっている。


 しばらくして、戸沢が動いた。

 カチ、とマウスが鳴る。数行入力し、別ファイルを開き、印刷設定まで進める。戻ったかと思えば、また止まる。

 今度は少し斜め上を見たまま、数分。

 古いパソコンが処理落ちを起こした時みたいだな、と田口は思った。


「……なあ、マジでどうしたんだ、部長」

「さあ……ひょっとして、ご実家で何かあったとかじゃないっすか? 親族が亡くなったとか」

「それなら仕事しないで忌引きでも取ってるでしょ」

「じゃ、親と喧嘩したとか?」

「喧嘩ねぇ、あのアンドロイドの親だからアンドロイドじゃないの? 喧嘩の図式が全然見えない。それにあの人、家族関係では結構ちゃんとしてそうじゃないの」

「加藤さん、ちゃんとしてそうな人ほど、壊れる時は家庭っすよ」

「経験者みたいな口利くわね」

「実は先日姉が離婚したんすよ」

「いや重いのよ。唐突な新事実を出さないで」


 社畜共がこそこそと盛り上がっている時、戸沢の席から紙の落ちる音がした。

 三人ともそちらを見る。

 戸沢は自分で落とした書類を見下ろしていた。拾うでもなく、叱るでもなく、ただ一拍遅れてしゃがむ。拾い上げた後も、すぐには立たなかった。書類を持ったまま、床を見ている。

 上原の手が一瞬だけ止まる。


「……本格的に変じゃないっすか」

「だな」


 田口は小声で返した。

 あの戸沢が、である。部下が書類を落とせば、まず「気をつけなさい、注意力が死んでいるのではないですか」と刺す男だ。自分で落として固まるなど、見たことがない。

 しかも今日は嫌味が少ない。というより、ほとんど飛んでこない。

 静かだ。

 平和とも言える。


「これはあれだな、静かで助かる」


 田口の評価に、加藤が笑う。


「結論それ?」

「だって下手に触って機嫌直されたら嫌だろ。また通常営業に戻るんだよ、チクチク刺してくるやつ」

「胃が痛くなるから暫く静かなままで良いっすね」

「でしょう」


 三人はそれぞれ自分の画面へ戻る。

 どうせ聞いたところで、「貴方がたの業務に関係ありますか」で終わるのだ。慰める義理も、踏み込む勇気もない。人事部とはいえ、人の心の面倒まで見る部署ではないのだ。少なくとも、この会社では。


 ここで期待されている人員とは、要するに、自分の仕事で手一杯の人員でもある。余計な荷物は背負わない、背負えば損をすると、若手ですら、もう充分すぎるほど学んでいる。


 だから誰も、戸沢へ声をかけなかった。

 人事部長のパソコンが、今日も何度目かのフリーズを起こしているように見えても。

 その画面の向こうで、男が何を思い出しているのか、彼らには関係のないことだった。



◇ ◇ ◇



 喫煙所というのも、最近では肩身が狭くなった。

 田口は壁際の灰皿へ灰を落としながら、鼻で息を抜く。四角いガラス張りの喫煙ブースだけが、唯一の至福の場所だ。

 社内分煙だ何だと制度だけは立派になったが、吸える場所は年々減る一方だ。おまけに値段まで上がる。肩身が狭い上に財布まで軽くなるのだから、愛煙家には世知辛い時代である。


「タバコの値段、また上がるらしいぜ」


 愚痴るように言えば、隣でタバコ片手にスマホを見ていた加藤が、顔も上げずに返した。


「吸わないタバコの分だけ貯金しなさいよ。節税よ、節税」

「節税の意味、広すぎないっすか?」

「気分の話」

「一箱三百円の時代が懐かしいぜ」


 そんな具合に、昼休みの喫煙所は社畜共にとって数少ない駄弁り場だった。

 狭い、臭い、冬は寒い、夏は蒸す。だが部署に戻れば電話とメールが待っていると思えば、壁に囲まれたこの数十分がやたら貴重に思える。


 その時、入口の引き戸が開いた。

 三人とも何気なくそちらを見て、揃って停止した。


 戸沢だった。

 スーツ姿のまま、いつもの無表情でスタスタと入ってくる。中堅の田口ですら戸沢がここに居るのを見たことがないのに、至極当然の顔で居るのだ。

 戸沢は三人の視線を受けても気にした様子を見せず、ポケットから煙草の箱を取り出した。


 田口は思わず咥えた煙草を吸い、上原は缶を持ったまま所在なく立ち、加藤はスマホの画面に目線を落とした。

 ライターの蓋が小さく鳴り、火がつく。先端が赤くなり、新しく細い煙が立った。


 誰も何も言わない。居心地が悪すぎる。

 だが今さら火をつけた煙草を捨てるのも惜しい。高いし。


 なので、まず対話というコンソールを開こうと試みるのは、若手の上原だ。


「ぶ、部長もタバコ吸うんですね。意外です」


 上原の声は少し上ずっていた。

 戸沢は一拍置いてから、ちらりと三人を見る。


「まあ、普段は吸いません。娘が居ますし」

「え、娘さん居るんすか!? マジで!?」


 ほとんど反射だった。

 だが戸沢は咎めず、灰を落としながら「ええ」と短く返す。

 田口と加藤の視線が、ほぼ同時に戸沢の左手へ落ちた。

 指輪はない。

 そのことに気づいたらしい当人は、やはり何も気にしない顔をしている。


「業務には関係がありませんから」


 いつものアレだ、隠すとかじゃなくて、面倒だから外しているのだろう。


 既婚者だったのか、という驚きが三人の間を回る。あの戸沢が。腹黒悪魔で陰険眼鏡で業務アンドロイドのあれが。家庭を持ち、しかも娘がいる。社内で結婚したくない社員ナンバーワン(加藤調べ)の男は、既に子持ちだった。

 上原の脳裏には無表情の小型ロボットみたいな幼児が浮かんだ。黒縁眼鏡を掛けた鉄の塊が「おかえりなさいませ、父」と言う図である。あまりに失礼だったが、誰もその想像へ突っ込めるわけがない。


「ええと、おいくつなんですか?」


 今度は田口のコマンド入力だった。

 戸沢は今度こそ即レスを返す。


「四つです」


 可愛い盛りじゃん、と加藤が声に出しかけて飲み込んだ。危ない。今の相手は友人ではなく部長である。

 それでも口元までは抑えきれない。


「ちっちゃい頃ですね。一番可愛いんじゃありません?」

「そうですね」


 戸沢は短く返す。同じ言い回しだが、いつもの業務用の相槌より少しだけ柔らかかった。

 上原が缶コーヒーを持ち直す。


「じゃあ、家じゃ結構……ええと、にぎやかなんですか」

「にぎやか、でしょうね。よく喋ります。歌も歌いますし、絵本も持ってきます。寝る前に水を飲んだのに、布団へ入ってからもう一回飲みたいと言い出すこともある」


 いるいる、そういう子、と加藤は言いそうになったが、喫煙所でこの部長相手に共感を飛ばす胆力まではない。もっとこう、「一般的な幼児の行動パターンです」みたいな説明でも始まるのかと勝手に身構えていたのに、意外と普通だ。

 同じ事を思ったのか、上原が呟く。


「へえ……なんか、ちゃんとお父さんなんですね、部長も」


 言った瞬間、田口が横目で見た。お前それ大丈夫か。

 だが戸沢は怒らないので、加藤が少しだけ身を乗り出した。


「部長、娘さんって部長に似てるんですか?」


 上原の中で、さっきの鉄の塊が再登場する。今度は小さいネクタイまでしていた。

 戸沢は少し考えるような間があってから、


「……妻に、似ています」


 それだけ言った。

 田口はその短さで、何となく察する。似ていてほしいのは、そっちなのだろうな、と。

 上原が別の角度から攻める。


「じゃあ、その、今日は珍しく吸いたくなった感じですか。娘さんがイヤイヤ期とか?」


 「パパきらい! ママがいい!」と叫んで顔を見て泣かれるとか、容易に想像できる光景である。それでショックを受けているのなら微笑ましい話だ。


 戸沢の指先が、煙草を持ったまま止まって、


「まあ」


 煙をゆっくり吐く。


「少し、家庭でやらかしまして」


 三人の目が揃う。


 家庭。

 やらかし。


 その単語だけで、さっきまでの「ちゃんとお父さん」が別の意味を持ち始める。

 加藤がそっと聞く。


「何かしちゃったんですか、娘さんに」


 言ってから、戸沢は答えないだろう、と思った。いつもなら「業務に関係ありますか」で終わるからだ。

 だが今日は違った。


「妻に、しばらく話しかけるなと言われました」


 三人が少し停止する。


「……部長が?」

「ええ」

「奥さんに?」

「はい」


 ああ、と納得した。だから壊れているのか、と。

 年度末の徹夜ランでも潰れない業務アンドロイドに不具合が出る原因が家庭の口利き停止って、妙に人間臭いな、と上原は思った。奥さんのコマンド入力が的確すぎない?

 ともあれ娘さんのイヤイヤ期という話ではなさそうだ。微笑ましさがどこかに吹っ飛んだ。

 そこで喫煙所の外から誰かが戸を開けかけ、戸沢の姿に気づいたらしく無言でそっと閉めた。英断だ、と三人は逃げた奴を羨ましく思った。


「……でも、部長にもそういうのあるんですね。家庭の悩みなんて無縁だと思ってたんですけど」

「ありますよ、人間なので」


 即答だった。

 人間という自覚はあったのか、と三人は思った。


「いやぁ、どこの家庭でも問題はあるもんですよねぇ!」


 そのままでは妙な沈黙に沈みそうだと思ったのか、上原がやけに明るい声を出した。缶コーヒーを持ち上げ、無理にでも場を明るくしようとしている。


「実は俺の姉も離婚しちゃいましてね。旦那の暴力が原因で!」


 田口と加藤がそろって「おい大丈夫かそれ」という視線で上原を見た。上原は話題を繋ぐことに意識が寄っていて、自分が何を口走ったのか半拍遅れている顔だった。今頃、冷や汗がダラダラと出ていた。


 戸沢が、離婚、と呟いた。

 その一言のあと、動きが止まる。


 指先で挟んでいた煙草がわずかに震え、長く伸びていた灰がはらりと落ちた。次の瞬間、ぐしゃりと紙が潰れる。火のついたままの煙草が、戸沢の指の中で押し潰されていた。


 三人の肩が揃って強張る。


 戸沢の目が開いて、口端が歪んだ。

 見ていて臓腑を撫であげられるような、顔――、


「ああーっと部長!」


 加藤が一番に声を上げた。


「だだだ大丈夫ですよ、きっと! 別にそう、離婚するって決まったわけじゃないですし!」

「そ、そそそうそう! ほら、夫婦喧嘩なんてどこにでもあるもんですよ。ウチのカミさんと俺なんかしょっちゅう喧嘩ばっかしてて! やれ靴下を一緒の洗濯機に入れるんじゃねぇとか、そういう下らないことで毎回揉めてるんで!」


 加藤と田口のフォローに上原まで焦って口を挟んだ。


「ええと、ぶ、部長って奥さんと仲良いんですか? ほ、ほら、どこで知り合ったとか知りたいなーって」


 田口と加藤の肘が脇腹へ入った。余計なことを言うんじゃねぇ。

 戸沢は数回、瞬きを繰り返した。そこでようやく何かが戻ったように、視線が手元へ落ちる。


「知り合った場所、ですか」


 潰した煙草が指を焼いていたことに、今気づいたらしい。戸沢は短く眉を寄せ、灰皿へそれを放った。細く煙が上がる。


「彼女とは小学校からの知り合いです」


 小学校。

 三人の頭に、ほとんど同時に同じ感想が浮かんだ。


 このアンドロイド、学校行ってたのか。


 当たり前のことを聞いた気がするのに、妙に違和感が強い。たぶん小学生の頃から今と大して変わらなかったのだろうな、と、田口の頭にはランドセルを背負った黒縁眼鏡のチビ戸沢が浮かんだ。


「彼女とはなかなか強烈な出会いで。今も忘れられません」

「はぁ、忘れられないって言うと、まさか部長が意地悪しちゃったとかで?」

「いえ。『その程度の問題も解けないなら、もう少し予習程度は嗜むべきです』と言いましたが」


 幼少期から人の心がなさすぎる。


「そうしたら、咲に拳を貰いました。笑顔で」


 加藤の脳裏に一瞬でイメージ図が出来上がる。笑顔で拳を振るう狂犬みたいな女性である。上原は咲さんって言うのかぁ、と缶コーヒーを飲む手が少し止まった。田口は、なるほど戸沢に効くわけだ、と別方向で納得していた。


「す、すごい奥様ですね」

「そうですね。変わった人です」


 そこで少しだけ目を伏せる。


「私のような、親からも見放される異常者に付き合えるなんて。変わった女性です」


 三人は顔を見合わせた。

 何だろう。今、聞き流してはいけない類の話が混じった気がする。

 だがそこへ踏み込めるほど親しいわけではないし、踏み込んでいい相手でもない。しかも異常者という自己評価については、残念ながら完全否定が難しかった。


 以前、徹夜続きで頭がどうかしていた同僚の一人が、戸沢のデスクへ脅迫文を仕込んだことがある。紙切れ一枚、しかも内容は子どもの悪戯みたいなものだった。「バーカバーカ◯ね!」みたいな。普通なら鼻で笑って終わりだろう、と皆思っていた。

 翌日、戸沢はそれを一瞥しただけで何も言わなかった。

 ああ、終わったのかと思った、その次の日だ。

 犯人の男が自分のデスクの引き出しを開けた途端、喫煙所まで聞こえる声で叫んだ。


 中には、大量の死んだレッドローチが入っていたらしい。ペット用の餌用ゴキ◯リだ。誰が見てもやりすぎだった。報復の出力がバグってる。


「えっと、その……素晴らしい奥さんなんすね!」


 上原がそう続けた。笑顔でグーパンする女に対して、だいぶ無理やり前向きな単語を拾った感がある。田口と加藤は、よくそこへ着地させたな、という目で見た。


「で、部長は、奥さんと仲直りしたいってことですかね?」


 だから余計なことを、と二人は同時に思った。

 戸沢は、すぐには返さない。喫煙所の壁を見ているのか、その向こうを見ているのかもわからない眼差しで、しばらく止まっていた。


「したい、と言えば、したいです」


 淡々とした声だった。


「が、よくわからなくて」


 わからない。

 その言葉に、三人はまた顔を見合わせた。

 戸沢が、わからないと言う。何となく納得もできるし、改めて言葉にされると妙な迫力もある。


「人の心が、わからないんですよ。昔っから」


 うん、まあそうだろうね。

 三人とも胸の内ではほぼ同じことを思った。普段から見ていれば、何かしら普通と噛み合っていないのはわかる。というより、噛み合っていないからこそ、あの仕事の回し方ができるのだろうとも思う。


 戸沢は自分の言葉をそのまま拾うように続けた。


「わからないことを、わからないままに謝ったところで、それは解決ではありません。ただの問題の先送りですし、誠意がない。だから考えているのですが」


 そこで戸沢がポケットからスマートフォンを出して、開いた。

 画面に映っているのは、たぶん妻子だ。ちらりとしか見えなかったが、明るい色の服と、小さな手が見えた気がした。


「わからないままでしょうね、一生」


 口調は変わらない。いつも通り平坦で、報告書でも読んでいるみたいな声だった。

 なのに、その横顔だけが、妙に沈んで見えた。


 ああこれはガチな人だ、と加藤は思った。

 田口も、まあそういう感じだったよなぁ、と胸の内で呟く。壊れているとか機械だとか散々言ってきたが、歪み方があまりに人間臭い。面倒くさい種類の人間だ。

 上原はそんな空気を読まず、あるいは読んだ上で行ったのか、まっすぐに言った。


「じゃあ奥さんに、素直にわからないって言ってみたらどうですかね」


 だから問題解決になってねぇんだよ、と田口と加藤は胸の中で同時に突っ込んだ。


「妻は、怒ると問題がわかるまでは教えてくれないので」


 それはそれで厳しいな、と三人は思ったが、今さら口には出さない。


「私に問題があったのだろう、というのはわかります。非倫理的行動だった。理屈ではわかりますが……」


 そこまで言って、戸沢の目が少しだけ細くなる。


「ああ、そうですね。……あれは私の感情だった。私の感情が、彼を最悪な目に遭わせた。だから、怒ったのでしょうね」


 ぽつ、ぽつ、と零れるように落ちた言葉だった。


 一拍の後、加藤がバッと左右の二人を見た。大丈夫かこれ。犯罪の自白になってないか。

 田口はごく小さく首を振る。いや、まだわからない。ギリギリぼやけてる。具体的じゃない。たぶんセーフ。いやセーフか?

 上原は頷く。まあ、奥さんが警察沙汰にしてないんだし、セーフなんだろう、たぶん。


 三人は考えるのをやめた。これ以上突っつけば何が出てくるかわからない。喫煙所で処理できる範囲を明らかに越えている。

 なので、加藤はヤケクソ交じりに声を明るくした。


「じゃあ部長、その“わからない”ってのを順序立てて紙に書いて、奥さんに伝えてみればいいんですよ! その時に何を感じたのか、とか、紙に書いてみたら整理できるかもしれませんし!」

「まあ、アレっすね。後から書く日記みたいなもんだと思えばいいんですよ。部長、そういうの作るの得意でしょう?」


 提案を受けて、戸沢は三人を見た。他人の顔に何か答えでも貼ってあるみたいな目だった。


「……なるほど、その視点はありませんでした。参考にします」


 そう言うと、戸沢はすっと立ち上がった。

 もう煙草は吸い終わっている。乱れた様子もなく、スーツの皺を軽く払って、そのまま出口へ向かう。


 その時、田口はふと思った。指が赤かったのに消えている、タバコで火傷はしなかったのだろうか。指が焼けていたのに。


 戸沢は引き戸に手をかけたところで、一度だけ振り返った。


「ありがとうございます」


 どこまでも無表情で、淡々としていた。

 バタン、と戸が閉まる。


「はぁぁ~~~……」


 最初に大きく息を吐いたのは田口だった。続いて加藤、最後に上原も肩を落とす。

 手元の煙草は、とっくに短くなっていた。


「なんだろう」


 加藤が壁にもたれたまま言う。


「凄い疲れた」

「わかる、カウンセリングしてた気分だわ」


 上原は缶コーヒーの残りを飲み干してから、小さく言った。


「あの人、ちゃんと人間だったんだなぁ」


 その一言に、二人とも微妙な顔をする。失礼だが、否定しづらい感想でもあった。


 三人はそのまま、しばらく喫煙所でだらだら過ごした。戻ればまた仕事が待っているとわかっているからこそ、今すぐ戻る気になれない。休憩時間ギリギリまで居座るのだ。

 話題は当然、上司の意外な一面で埋め尽くされた。

 部長に娘がいた、しかも四歳、奥さんは強い、戸沢は家庭でちゃんと怒られる、人の心がわからない自覚がある。そして、たぶん本気で仲直りしたがっている。

 情報量が多すぎる。


「いやでも、小学校からってすごくない? 幼馴染じゃん」

「笑顔で殴るのもすごいけどな」

「昔から矯正されてたのかもしれないっすね」

「言い方〜」


 そんなことを言い合いながら、三人とも頭のどこかで思っていた。


 あの戸沢にも、会社の外ではどうにもならない相手がいる。

 それだけで、少しだけ見え方が変わるのだから不思議だった。



◇ ◇ ◇



 帰宅した戸沢は、自室の机に向かっていた。

 壁際の書棚、積み上がった業務資料、閉じたノートパソコン。仕事を持ち帰る時と何も変わらない光景の中で、今夜は内容だけが違った。

 それは仕事の書類ではない、咲に渡すための文書だ。

 部屋には、ペンが奏でる音だけが響いている。


 まず書き出したのは事実関係。それ自体は難しくない。

 召喚された、状況を確認した、帰還手段を要求した、信用せず、自力で術を調べた、脅しを受けた、再発防止を兼ねて報復を決行した、帰還した。

 項目にすれば、拍子抜けするほど簡潔だった。


 しかし、そこへ感情を書き加えようとして、手が止まる。

 戸沢はペン先を紙に浮かせたまま、しばし黙した。


 その時に自分が何を考えていたのかはわかる。

 だが、それに付いていた感情を拾い直そうとすると、指先から零れる。


 通り過ぎた浅い水を両手で掬うみたいなものだ、と戸沢は思った。掌を寄せても、隙間から落ちていく。自分の手は、そういうことに全く向いていない。


 だから記号にする。

 快と不快。


 拉致された → 不快

 不貞を強要された → 不快

 王配として添え物にされようとした → とても不快


 そこまでは迷いなく書けた。

 だが次の行に記した文言で、また止まった。


 ミケラ王子を化物にした →


 空白。

 戸沢はしばらくその行を見ていた。目を逸らさないまま、自分の中の何かを確認するようにジッと見つめ続け、


 やがて、そこへ文字を書く。


『快』


 書いた後で、戸沢はペンを置かなかった。それに訂正線を引く理由は、どこにも見当たらなかった。


 最後の瞬間、自分は楽しんでいた。

 あれは間違いない。


 娘を人質に取ると脅された。あの場では見逃せなかった。だが今になって順番に並べれば、最初の説明と噛み合わない点がある。

 召喚者を選ぶのは女神アベレスだと、最初に告げられていた。ならばミケラのあの言葉は、ただの軽口だった可能性が高い。脅しとして最大限こちらを揺さぶるための、悪質な一言。


 それでも、戸沢は見逃さなかった。

 見逃せなかったのではなく、見逃したくなかったのかもしれない、と今は思う。


 倫理的な手段を上回ってでも帰りたかった。それは本当だ。だが、帰る手段を得た時点で帰ればよかったのだ。そこで終えられた、終えてもよかった。後日、本当に娘が召喚されたら何が何でも報復に出れば良い、被害がないのに先回りして仮想敵を潰す道理はない。


 それなのに、自分は残った。

 憎悪と呼んで差し支えない感情が、次の行動を選ばせた。相手へ最も傷を残せる方法を計算し、その通りに実行した。


 その気になれば別の手もあった。

 ソラーレ王女の罪悪感を利用し、彼女を話術で籠絡する。戸沢の魔術で魔獣を倒し、発言力を持たせ、女王に即位させた後で召喚術を禁じさせる。時間は掛かるが、人命の毀損をさせないまま達成する道だってあった。何年掛かるかわからないが、いくらでも考えつく。


 だが戸沢は選ばなかった。

 既に自分は死人を使って帰る筋道ができていたのだ。そこでわざわざ倫理的な手段へ戻す意味が、まるでわからなかった。遠回りをする理由がなかった。自分にとっては最短手順、それだけのことだった。


 天井を仰いで、目を閉じる。


 大広間、蝋燭の灯り、貴族たちの顔。

 王女の崩れた姿、国王の恐怖の目、レオナ将軍の剣。

 あの瞬間、あの場に向けられた視線のすべてが、自分だけへ集まっていた。


 自分の手で作った作品を見せた。

 それを見た者たちの顔が変わっていく。口が止まり、手が止まり、目が見開かれる。嫌悪も、恐怖も、憎しみも、絶望も、全部がこちらへ向く。


 あれは、気持ちがよかった。

 感情を浴びた、とも言える。

 視線も、感情も、罵声も、あの場では全部、自分のものだった。

 他人の感情が、苦しむ姿が、絶望に打ちひしがれる姿が、



 ――何よりも、美しい。



 息を、吐いた。胸の奥に残っていたものを押し出すような、長い息だった。

 机の上へペンを放れば、乾いた音が響く。


 一人きりの部屋で、戸沢は額を押さえた。指先が髪を掻き分け、皮膚へ触れる。

 熱はない、頭痛もない、ただ、自分の中の感情が静かに並んでいるだけだ。


「やはり」


 その結論は、思っていたより低く、掠れていた。


「異常なんでしょうねぇ、私は」


 その言葉の返事は、ない。


 しばらく額を押さえたまま、紙の上に並んだ文字を見ていた。そこには事実と判断と、ようやく書き起こした感情の羅列が並んでいる。


 咲がこれを読んだら、どういう顔をするだろう。


 戸沢には、それがまだ、わからなかった。



◇ ◇ ◇



 愛娘の唯を寝かしつけてから、戸沢はリビングへ戻った。


 ソファの前のローテーブルには、さっきまで唯が広げていた絵本が端へ寄せてある。咲はそこに座っていた。

 髪を肩へ流し、マグカップも持たず、ただ静かに戸沢を見上げる。何も言わず、ただ見つめてくる。


 戸沢はその向かいへ腰を下ろした。


 手には数枚にまとめた紙がある。報告書の体裁に寄せた、自分用の整理と、咲に見せるための記録だ。日記と呼ぶには味気なく、始末書と呼ぶには私的すぎる。

 何にせよ、戸沢彰という人間の内訳を、今できる範囲で文字に落としたものだった。


「読んでほしい」


 そう言うと、咲は一度だけ頷いた。余計な言葉は挟まず紙を手に取り、一枚目へ目を落とす。


 ぱらり、と捲る音がした。

 静かなリビングだった。時計の針が進む音までは聞こえないが、紙の擦れる音だけはやけに耳につく。咲の視線が文字を追うたび、戸沢は自分の書いた文面を脳内でなぞっていた。


 何があったか。何を考えたか。何をしたか。

 そして、何を"快"と感じたか。


 自分の掌がゆっくり閉じていく。膝の上で、指が内側へ食い込んだ。

 最悪の可能性を考えていた。これを読んだ咲が、決定的に軽蔑するかもしれないという可能性を。離れると告げるかもしれないという可能性を。

 けれど、その感覚に名前はつけられなかった。不安なのか、恐怖なのか、それとも別の何かか、戸沢には判別できない。ただ、握った手が冷えていることだけはわかった。


 やがて最後の一枚が伏せられる。

 咲は紙を揃え、膝の上で整えてから、戸沢へ向き直った。


「彰さんは」


 声は、静かだった。


「何が悪かったのか、わかったの?」


 戸沢は正直に答えた。


「いや、わからない」


 嘘は言わない、誤魔化すべき相手ではない。


「私は人より感情が薄いし、他人の感情を汲み取る機能が欠如している。なにより、理解しようという気があまりない。概ね、世界の大半は私にとってどうでもいい存在だからだ」


 自分で口にしていても、業務報告の補足説明をしているような感覚だった。温度がない。そこに痛みや恥を乗せる回路が、自分には元々薄いのだと知っている。


「特に、異世界召喚などされた先で不当に扱われれば、その存在に嫌悪を抱くのは当然だった。どうでもいい存在から、排除すべき敵に切り替わる状況だった。そしてミケラ王子の言葉が、不快な存在から敵へ変わった瞬間だったのだろう。十代の、子どもの軽口に」


 自分でそう言いながらも、その軽口が軽口の範囲に収まっていないことは理解している。ミケラは戸沢の娘を年頃と感じたからこその脅しなのだろう、あの世界で三十路後半の人間の子供は、それ相応の年齢になるからだ。そんな、様々な要因が重なっての爆発だった。


 だが、それでも。

 今こうして言葉にすると、自分の引き金の軽さだけが目につく。


「私の欠点は、他人の心に留意できない点だ。特に敵対した相手への攻撃性は、自分でも異常だと把握している。その攻撃性は私の感情が原因だった。概ね、私は自分が攻撃されることを許さない。その枠に今では君たちが入り込み、中心に置かれている。自分よりも尚、中心に」


 咲の指先が、膝の上で小さく重なり直されているのが目に入った。


「君は、私に感情に翻弄されるなと言いたいのだろうか。この異常行動をする怒りという感情を、制御しろと」


 咲は黙してから、ふう、と息を吐いた。


「彰さん」


 呼ばれて、戸沢は顔を上げた。


「私が怒っているのはね。貴方が子どもを犠牲にして、それを当たり前のことみたいに話したことよ」


 戸沢は黙った。

 咲の声は強くない。叱りつける調子でもない。なのに、その一文はまっすぐ届いた。


「怒るのは当然よ。私も同じ状況なら、相手に拳を叩き込んでいたわ。貴方に拳を食らわせたみたいに」


 この夫婦、やや攻撃的ではある。


「でもね。怒って人を傷つけても、相手を傷つけたっていう事実は忘れないで。他人を犠牲にしたっていうその事実を、当たり前のこととして処理しないで」


 戸沢は言葉を探したが、すぐには見つからなかった。何を返せば適切なのかではなく、何を理解すべきなのか、その輪郭がまだ曖昧だったからだ。

 その沈黙を見て、咲は少し困ったように眉を寄せた。


「そうねぇ、じゃあ彰さん。唯がこの先大きくなって、仮に悪いことをしたとしましょう。それが原因で相手に酷い目にあわされて、取り返しのつかないことになったら……貴方、耐えられる?」


 戸沢の思考が、そこで止まった。

 酷い目。

 その単語から脳裏に浮かんだのは、あの地下墓地でも大広間でもなく、継ぎ接ぎの身体で立っていたミケラの姿だった。あの虚ろな目、裂けた服、肘や膝から飛び出た骨。

 それが唯の姿に重なる。


 喉の奥から、短い呻きが漏れた。その先に思考を向けることが出来ずにエラーを吐いている。

 咲はその反応を見て、頷いた。


「そうね。貴方がしたのって、そういうことなの。彼の親御さんや、お姉さんも、今の貴方よりずっと酷い気分を味わったでしょうね」


 咲の言葉は責め立てるものではなかったが、逃げることは許さないとばかりに突きつけてくる。


「状況的に仕方なかった、って言うのは簡単よ。でもね、人を死に追いやったっていう事実を、軽くしないで。もっと重く、受け止めてちょうだい。自分のしたことを、人の倫理規範の中にちゃんと、分類して」


 親のような言葉だった。

 戸沢は所在なさげに目を動かす。それから、ゆっくり頷いた。

 理解はできない、完全には。けれど処理はできる。そういうものなのだと実感できれば、自分の中の分類へ入れられる。

 戸沢彰という人間の理解は、そういうふうにできている。


「……わかった」


 咲はそれを聞いて、ようやくちゃんと笑った。


「さ、お説教はおしまい、久しぶりにお話でもしましょうか」


 前と同じ声だった。戸沢へ向けられる、いつも通りの声音だ。彼女の怒りが収まったのだと知って、自然と肩を落としていた。

 そんな戸沢へ、咲はゆっくりと目を細めて、続けた。


「それにね、貴方はわからないのかもしれないけど。きっと彰さんは、怖かったのよ」


「……怖い?」


 理解できない言葉に戸沢は固まる。


「私が?」


 聞き返す声は平坦だった。

 だが、そこに籠もる僅かな動揺を、咲はしっかりと受け取っている。


「だってそうでしょう。知らない世界に一人で放り込まれて、帰れないって言われて、相手は貴方を道具としか見てない。そんな場所で、家族を人質に取られたの。怖くて当たり前よ。だから怒ったんでしょう、だから報復したんでしょう。……でも彰さんはそれを『合理的』って名前の箱に入れちゃうから、自分でも気づけないだけ」


 そして、咲は隣に座る。肩が触れるか触れないかの位置。

 今までずっとそうしてきたように、外付け倫理装置は今夜、ほんの少しだけ違うことをした。

 戸沢の頭を抱きしめたのだ。


「お疲れ様、頑張ったね」


 と子供にするように撫でた。

 髪が乱れ、百八十センチ近い大の男が妻の肩に頭を預けている。客観的に見れば滑稽な光景だろう、ブラック企業の社畜共が見たら卒倒するだろう。

 戸沢は動けなかった。咲の体温が「安全」の信号だということを、身体が覚えていた。


 それに救われたのだと自覚する前に、無意識で戸沢の身体が動いていた。

 そこに、理屈はなかった。

 

「……君と出会えてよかったと、心から、そう思うよ。咲」


 妻を抱きしめ返すそれは、報復を楽しむ悪魔の笑みでも、威圧を掛ける天使のような微笑みでもない。


 戸沢咲の前でしか見せない、


 戸沢彰()としての、微笑みだったのだ。




戸沢彰:

 人の心がわからないことで夫婦喧嘩というか、奥さんに躾けられてる業務アンドロイド。奥さんへは愛情や執着以上に崇拝の念に近い感情がある。もはや神。だからこそ危うい。

 送還術の影響でちょっと人間やめている上に、アベレスとの繋がりが残っているので異世界を渡ることができると察している。ちょっとした傷ならすぐ治る、ますます人外になりつつある。

 社畜共にプライベートな事を語ったのは自分でも不思議だと思っているが、普通に切羽詰まってたせいという発想はない。あと、犯罪まがいな告白の件も「異世界なら証明不可能→被害者不在、故に日本で犯罪にはなりえない→よし!」というロジックからポロリと出た言葉である。そのせいで周囲を戦々恐々とさせているという意識はやっぱりない。お前そういうとこやぞ。


戸沢咲:

 旦那の教育法に頭を悩ませる強い女性。小学生の頃は嫌味な眼鏡野郎にムカついて眼鏡を叩き割った程度には血気盛んだった。その後親に怒られて眼鏡野郎に謝罪を、と渋々家に向かった先で戸沢家の異常性、余所余所しい父、悪魔でも見るかのような母という構図になんかムカついたので謝罪せずに帰った。そしてそれから戸沢に構うようになった、という経緯がある。

 戸沢から見れば、何故か殴られたのに謝罪せず帰った挙句にその日から自分に構うようになった変な子、という理解できない存在を見るような気持ちだったという。そしたら親より信頼されるようになった。おもしれー女が過ぎる。

 咲から見れば弟に接するような気持ちもすこしある。感情は複雑だが、旦那の素直なところが好き。旦那に絆されているという自覚はない。


社畜共:

 中堅の田口、若手の上原、紅一点の加藤の社畜三人衆。オーバーワーク気味な人事部で駄弁りつつ仕事をこなしている図太い連中。後日から業務アンドロイドが再起動しているので、仲直りしたのかぁとニヤニヤしていれば、当の業務アンドロイドがこちらへ少し会話をするようになってきて戸惑っている。ひょっとして軽口を叩ける相手と認識された? と複雑な気分で今日も喫煙所で駄弁っている。上司という名の珍獣を見つめる会。


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