第9話 一行の値段
9話です。
その日は、板が配られなかった。
入口で、渡されるはずのものがない。
誰も、理由を聞かない。
聞けば、終わるからだ。
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法廷の中央に立つ被告は、一人。
年若い男だった。
職は、倉庫番。
「罪状を読み上げる」
司祭が言う。
「配給記録の不一致。
数量誤差の黙認。
秩序攪乱」
男は、首を振った。
「間違いです」
即答だった。
傍聴席が、静まる。
否定は、目立つ。
「記録はある」
司祭が言う。
「倉庫帳簿だ」
男は、私を見た。
私は、何も持っていない。
板も、筆も。
それでも、視線が集まる。
「確認します」
私は、声を出していた。
判事が、一瞬ためらい、頷く。
「帳簿の数字は、
誰が書きましたか」
「私です」
男が答える。
「いつ」
「昨日」
「誰の指示で」
「……上役です」
法廷に、わずかな空気の揺れ。
私は、続ける。
「その数字は、
実物と一致していますか」
「……していません」
司祭が、声を強める。
「不正を認めたな」
「いいえ」
男は、首を振った。
「書いた数字が、
現実を変えただけです」
空気が止まる。
私は、ゆっくりと言った。
「数字は、
物を動かします」
「配給を。
罰を。
命を」
司祭が、遮る。
「数字は、道具だ」
私は、頷いた。
「はい」
一拍。
「だから、
使った者が問われます」
判事が、木槌を握る。
私は、最後の質問を置いた。
「その帳簿の、
一行目を書いたのは誰ですか」
沈黙。
男は、答えない。
答えられない。
「確認します」
私は、法廷全体に向けて言った。
「この裁判は、
一行を裁いています」
司祭が言う。
「ならば、その行は誤りだ」
「では」
私は、静かに続けた。
「正しい一行は、
どこにありますか」
沈黙。
誰も、書いていない。
誰も、書けない。
木槌が鳴った。
「有罪」
短い。
「記録に残すな」
私は、初めて答えなかった。
答えなくても、
分かっていたからだ。
男は、連れて行かれた。
抵抗はない。
ただ、すれ違うとき、
小さく言った。
「……書いてください」
私は、何も持っていない手を見た。
それでも、思った。
一行の値段は、
人一人分だ。
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外で鐘が鳴る。
今日も王都は静かだ。
だが――
何も書かれない紙が、
一番多くの人を殺している。
誤字脱字はお許しください。




