第34話 戻った理由
34話です。
彼は、朝市にいた。
いつも通りの場所。
いつも通りの時間。
誰も、
声をかけない。
だが――
見ている。
それが、
王都の新しい挨拶だった。
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彼は、
果物を一つ手に取る。
値を聞く。
払う。
すべて、
規則通り。
何も、
問題はない。
それでも、
人の視線が
一瞬だけ遅れる。
「……戻ったんだって?」
誰かが、
小さく言う。
彼は、
聞こえないふりを
しなかった。
振り返った。
「戻ったよ」
その声は、
低く、
穏やかだった。
市場の空気が、
固まる。
「……どうだった?」
誰かが、
勇気を出した。
彼は、
少し考えてから
答えた。
「静かだった」
その答えに、
誰も笑わない。
「怖くなかった?」
彼は、
首を振った。
「怖いのは、
戻れないことだ」
その言葉が、
市場に落ちた。
⸻
私は、
少し離れた場所で
それを聞いていた。
彼は、
私を見つけると
小さく頷いた。
私は、
頷き返す。
それだけで、
十分だった。
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「……何を
聞かれた?」
別の声。
彼は、
即答しなかった。
沈黙。
だが――
それは、
恐怖の沈黙ではない。
選ぶ沈黙だ。
「何も」
彼は、
そう言った。
「正確には」
一拍。
「何も、
答えなくて
よかった」
ざわめきが、
小さく走る。
「……それだけ?」
彼は、
頷いた。
「それだけ」
誰かが、
小さく息を吐く。
失望ではない。
安心だ。
⸻
「じゃあ」
若い女が聞く。
「なぜ、
戻ってきたの?」
彼は、
真っ直ぐ答えた。
「戻れたから」
その言葉は、
拍子抜けするほど
単純だった。
「捕まらなかった」
「消されなかった」
「……だから」
一拍。
「まだ、
続きがある」
その瞬間、
私ははっきり感じた。
制度が
最も嫌う言葉が
出た。
続き。
⸻
その日の午後。
役所の一室で、
報告が上がる。
「……話しています」
上役が、
顔を上げる。
「何を」
「体験を」
上役は、
舌打ちを
飲み込んだ。
「内容は」
書記が、
答える。
「恐怖では
ありません」
「説明です」
上役の眉が、
動く。
「止めろ」
書記は、
首を振った。
「……正式な
違反が
ありません」
沈黙。
それは、
役所の沈黙だ。
最悪の沈黙。
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夕方。
倉庫の裏に、
三人が立っていた。
五人ではない。
七人でもない。
だが――
ゼロではない。
彼は、
そこにいた。
私も、
いた。
誰も、
号令をかけない。
彼が、
言った。
「……捕まると
思ってた」
「でも」
一拍。
「思ったより、
何も起きなかった」
誰かが、
笑った。
短く。
それは、
不適切な反応だった。
だからこそ、
正しかった。
⸻
夜。
私は、
家に戻り、
警告の紙を見た。
その横に、
もう一枚
紙を置く。
今日、
聞いた言葉を
一行だけ書く。
「戻れた」
それは、
宣言ではない。
事実だ。
外で鐘が鳴る。
今日も王都は静かだ。
だが――
沈黙の外側に、
説明が生まれた日だ。
チョークシリーズは他の先生の物語もありますのでよろしければご覧ください。




