第五章 記憶の牢獄
――どこまでが現実だったのか。
目を開けたとき、アシュレイは石の床の上に倒れていた。
天井はなく、無数の光が漂っている。
それぞれの光は小さな記憶の欠片のようで、指先で触れると過去の情景が瞬きのように流れた。
「ここは……」
呟く声が、反響しなかった。音が吸い込まれて消える。
周囲には壁も扉もなく、ただ広がる無音の白。
「記憶の牢獄――あなたの中よ。」
振り向くと、ミリアが立っていた。
黒い衣を纏い、瞳だけが金色に輝いている。
だがその気配は、あのミリアではない。
「……お前は誰だ」
「彼女の“影”よ。愛した相手を忘れた代償に、彼女の中に生まれたもう一人のミリア。」
影は静かに歩み寄る。
「あなたは現実で気を失った。
この場所は、あなたが閉ざした記憶の底――つまり、封印そのもの。」
アシュレイは剣を探したが、腰には何もなかった。
「ここは夢か」
「違う。あなたが逃げ込んだ“真実”。」
光の粒が一つ、彼の手元に落ちた。
触れた瞬間、景色が変わる。
見覚えのある神殿。
六人の勇者が円陣を組み、中央に魔王の心臓が脈動している。
その中心に立っているのは――アシュレイ自身。
『封印の儀、開始!』
レティアの声が響く。
眩い光。
だが次の瞬間、剣が振り下ろされる。
血ではなく、光が飛び散った。
倒れたのは、もう一人のアシュレイだった。
“七人目”の勇者――彼と同じ顔をした男。
「……俺は……自分自身を、斬ったのか?」
「そう。あなたは影を恐れた。
本当は“二人で封印を完成させる”はずだったのに、あなたは片方を消した。」
「そんなこと……」
否定しようとしたが、声が震えた。
映像の中で、剣を握る自分の表情には恐怖があった。
敵への恐怖ではない。
自分の中にある同じものへの恐怖。
「勇者の印は、元来ひとつの魂を七つに分けて宿す儀式。
あなたたちは“ひとつの存在”の欠片。
でも、あなたは自分の欠片を殺した。
その瞬間、封印の均衡は崩れたの。」
「……七人目とは、俺自身のもう一つの部分か。」
「ええ。あなたが殺したあなた。」
ミリアの影が微笑む。
「でも、彼を封印したのは私。
愛していたから。
あなたが壊れないように、彼を“あなたの記憶”の中に閉じ込めた。」
「なぜ……そんなことを」
「あなたが英雄でいるために。」
言葉が喉で止まる。
英雄――その称号が、急に重く感じられた。
「今のあなたは、記憶で作られた勇者。
本当のあなたは、封印の内側に閉じ込められている。」
アシュレイは拳を握った。
「……なら、外に出るにはどうすればいい」
「一つだけ方法がある。
影と融合すること。」
「融合?」
「あなたが殺した“もう一人のあなた”と一つになる。
そうすれば封印は完成し、世界は救われる。
ただし――あなたという個は、消える。」
沈黙。
光が揺れ、無数の過去が滲んだ。
笑い、怒り、誓い、戦い――すべてが偽りのように脆く見えた。
「……ミリアは、それを望むと思うか?」
影は微笑んだ。
「彼女は、最初からそれを望んでいた。
あなたを救うために、あなたを殺すことを。」
「……」
その時、光の向こうに人影が現れた。
半透明のアシュレイ――影の彼自身。
静かに歩み寄り、同じ声で言った。
「戻ろう。俺たちは二つで一つだ。」
「お前が俺を乗っ取るつもりなら、抵抗する。」
「違う。お前が選べ。
俺と一つになって封印を完成させるか、
このまま世界と一緒に消えるか。」
アシュレイは拳を握り、ゆっくりと息を吐いた。
思考を切り離し、心臓の鼓動だけを感じる。
世界を守るために剣を取ったはずが、
その剣で、自分自身を斬ってきた。
「……影。お前は俺か?」
「そう。お前の罪であり、勇気だ。」
光が強まる。
ミリアの影が後ろで微笑んだ。
「行きなさい。真実は、どちらか一人だけに残る。」
アシュレイは一歩、踏み出した。
影も同じように進む。
距離が縮まり、光が重なる。
――その瞬間、世界が反転した。
*
目を開けた。
海の音がする。
潮風が頬を撫でる。
彼は封印島の浜辺に立っていた。
朝日が昇り、霧が薄れる。
背後には、倒れた塔。
「……終わったのか?」
声に答える者はいない。
だが、遠くから足音がした。
振り向くと、そこにミリアがいた。
微笑んで、静かに言う。
「あなたは、誰?」
アシュレイは一瞬、言葉を失った。
胸の奥が熱くなり、涙がこぼれそうになる。
「……俺は、七人目の勇者だ。」
ミリアの瞳が揺れた。
それは懐かしさと悲しみと、そして安堵の色だった。
「そう。ようやく、帰ってきたのね。」
彼女が微笑むと、空が裂けるように光が降り注いだ。
封印の紋章が空へ伸び、世界を包み込む。
光の中で、アシュレイは自分の輪郭が薄れていくのを感じた。
恐怖はなかった。
ただ、ひとつの確信があった。
――もう、誰も失わない。
その言葉を胸に、彼は目を閉じた。
そして、世界は静かに再生を始めた。
次章予告:最終章「神の虚像」
世界が再構築される中、ミリアが“本当の神託”の歪みを発見
神とは、勇者の記憶を制御する人工存在だった
終幕で、勇者たちは「信じるとは何か」という問いに答えを出す