第四章 影の宿主
夜が明けることを、誰も望まなかった。
朝日は昇ったが、誰もそれを「光」と呼ばなかった。
ミリアがいなくなった朝――封印島の空は、鈍く、重く、灰色だった。
アシュレイは、彼女の部屋に残された魔導書を見下ろしていた。
机の上には、整然と並べられた紙束と、黒い羽ペン。
その中心に、一枚だけ開かれたページがある。
「記憶封印術――対象の存在を“世界から消す”禁呪。
発動条件:対象を“愛していること”。」
「……愛、か」
低く呟いた声が礼拝堂の石壁に吸い込まれる。
アシュレイはページをめくりながら、ある一点に視線を止めた。
文字の下に、彼女の筆跡で走り書きされていた。
“彼を忘れるために、私は彼を封じた。”
――彼。
その一語が、胸に刺さる。
だが、その“彼”が誰なのか、彼自身も思い出せない。
「まるで、島全体が記憶を喰ってるみたいだな」
背後から声。カインだった。
いつもの皮肉な笑みは消え、目の奥にわずかな警戒が浮かんでいる。
「お前は何か知っているのか?」
「知っているなら、ここにはいない」
「それでも、言え」
「……影を見た」
アシュレイの手が止まる。
「影?」
「昨夜、海辺でな。ミリアの足跡を追ってたら、波打ち際に黒い影が動いた。
人の形をしてたが、光がない。月を反射しないんだ。まるで――」
「存在そのものが欠落している」
「ああ。影が波間を歩いてた。そいつがミリアを連れて行った」
アシュレイは短く息を吸った。
「つまり、彼女は“影に連れ去られた”」
「あるいは、“影を取り戻しに行った”」
沈黙。
その仮説の重さが、空気を変えた。
ミリアは自ら封印した“誰か”を愛していた。
ならば、その相手こそが――影の宿主。
*
昼。
塔の周囲を調査していたユノが、慌てた様子で戻ってきた。
「アシュレイさん! 塔の下で……見つけました!」
彼の手には、焦げた羊皮紙。
そこには、淡く赤い文字が浮かんでいた。
“封印は、記憶の上に成り立つ。
記憶を失った者は、封印の内側にいる。”
「記憶を失った者……?」
アシュレイは無意識に自分の胸を押さえた。
どくり、と心臓が脈を打つ。
そのたびに、頭の奥で誰かの声が響く。
――“君が、僕を殺したんだよ。”
「アシュレイ?」
ユノが不安げに覗き込む。
「大丈夫ですか?」
「ああ……ただの、頭痛だ」
彼は立ち上がると、塔の入口を見上げた。
霧の向こう、黒い石造りの階段が螺旋を描いて天へ続いている。
「封印の塔。中には何がある?」
「わかりません。でも、扉の前に……」
ユノは唇を噛んだ。
「……血文字がありました。“戻れ、勇者たち”と。」
「誰の警告だ」
「わかりません。ただ、ミリアの筆跡に似ていました」
アシュレイは剣の柄に触れた。
金属の冷たさが、思考を現実へ引き戻す。
「彼女は中にいる。行くぞ」
*
塔の内部は静寂だった。
空気が古く、どこか濡れている。
階段を上るごとに、音が吸い込まれていくような錯覚に襲われる。
中腹に差しかかったとき、アシュレイは足を止めた。
壁に刻まれた文様。
六つの円と、一つの欠けた印。
中央には、古代語でこう刻まれていた。
“六は現を守り、一は夢を護る。”
「夢……」
アシュレイは呟く。
「夢の中にいる者、それが七人目――」
言葉の途中で、背後の足音が止まった。
振り返ると、ユノが立っていた。
だが、その目が違う。
「ユノ……?」
「ねえ、アシュレイさん」
声が低く、別人のようだった。
「どうして、僕が“二つの影”を持っているって、知ってたの?」
アシュレイの心臓が一拍、跳ねた。
「何を言っている」
「僕の中に、もう一人いるんです。夜になると夢で僕の身体を使う。
あなたは昨日、それを“宿主”って呼んだ。どうして知ってるんですか?」
「……」
アシュレイは無意識に剣を抜いた。
「君は、何者だ」
ユノの口角が、わずかに上がる。
「そうだね。そろそろ思い出してもいい頃だ。
僕を殺したのは――あなただよ、アシュレイ。」
閃光。
影が床を這い、形を持ちはじめる。
黒い人影が、少年の身体から立ち上がった。
その輪郭が、まるで鏡のようにアシュレイの姿を映している。
「俺……?」
「そう。あなたが“僕を斬った”。
封印の儀式の最中に、神託を裏切って。
だから僕は、あなたの影として残った。」
「嘘だ」
「違う。君の中の“記憶の空白”がその証拠だ。
ミリアが僕を封印したのは、君を守るためだよ。
彼女はあなたを愛していたから。」
アシュレイの手が震えた。
脳裏に、断片が流れ込む。
笑う少女。
祈る仲間。
そして――剣を振り下ろす自分。
「俺は……勇者を、殺した……?」
「そう。そして、その罪を消すために、君の記憶は書き換えられた。
だが、僕は消えなかった。
今も、君の影として存在している。」
「何が目的だ」
「封印の再起動だよ。
六人では足りない。七人目――つまり僕を、“取り戻さなければ”封印は壊れる。」
「なら、なぜ殺した俺を恨まない」
「恨んでいるさ。でも、僕は君でもある。
憎しみは、自己否定にしかならない。」
その言葉に、アシュレイは剣を下ろした。
彼の瞳に、一瞬だけ光が宿る。
「……お前が七人目、か」
「違う。僕は“お前の影”だ。
本当の七人目は、まだ別にいる。」
「――何?」
その瞬間、塔全体が震えた。
天井の封印紋が赤く光り、低い唸り声が響く。
壁に刻まれた六つの印が、一つずつ砕けていく。
「封印が解ける!」
ユノの身体が崩れ落ち、影が空へ伸びる。
その影が形を変え、女の姿になった。
――ミリア。
彼女の目は閉じている。
唇が微かに動いた。
「……影は、宿主を選ぶ。
愛した者の記憶を食べ、姿を借りて――」
彼女はゆっくり目を開いた。
その瞳は、漆黒だった。
「――あなたを取り戻すの。」
アシュレイは息を呑んだ。
それはミリアの声でありながら、別の何かの声だった。
影は微笑み、囁く。
「次に封じるのは、あなたよ。」
次章予告:第五章「記憶の牢獄」
影に囚われたアシュレイが“記憶世界”で真実を目撃
ミリア=影ではなく、“影に愛された人間”
七人目の真実=神そのものの「抜け殻」