視界の端
居ない。誰も居ない。
後ろを振り返った明日香は、誰一人として歩いていない道を注意深く見つめてから、前に向き直った。
──居ない。
そうはっきりと確認した上で、視界の端に意識を向け、憂鬱を吐き出すように息を吐く。
〝何か〟を視界の端の捉え、恐る恐る振り返り確認する、という行為を一体何度繰り返せばいいのか。終わりの見えない不気味さに、もう一度息を吐く。
〝何か〟が見え始めたのは、丁度一週間前からだ。
最初は眼病を疑った。
すぐに眼科に掛かったが、異常はなし。そんなに気になるなら、と大学病院を勧められたが、そこまでする程のことでもないように気が引けて、掛かれずにいる。
視界の端に映る〝何か〟は、ただ映っている、というだけで特に困ることはないのだ。見える度に後ろを振り返らなければならない、ということ以外は。
その行為も、一週間も続けば慣れて無感情に近くなってくる。最初こそ悲鳴を上げるなりしていたが、今は念の為に誰も居ないことを確認するだけの行為となった。
仕事帰りなどは、何事も億劫に感じ、ちらと肩越しに確認するだけで済ます時もある。
「明日香さ、何か悩み事でもあるの。なんか、めちゃくちゃ顔色悪いけど」
休日に訪れたカフェで、栗色の瞳を心配そうに細めながら、結奈が言った。
「んー……ううん」
そう答えると、結奈はむっと口を曲げる。
「それ絶対なにかあるじゃん。──もしかして、この間言ってた同じ部の気になる人と何かあった? ……彼女が居たとか」
窺うように声を潜めて訊く結奈に、明日香は思わずといった風に笑みを漏らした。そんな悩みならどれだけよかっただろう。いや、いいのだろうか。それはそれで落ち込む気がする……。
「違うよ。そっちは全然進展なし。そもそも忙しくて飲みに行く約束すら出来ないもん」
結奈は難しい顔をすると、可愛らしく小首を傾げてから小さく呻った。
「それなら今日どっかに遊びに誘えばよかったんじゃないの。私と遊んでなんていないでさ。先週だってカフェ巡りしてたんでしょ。見たよ、投稿」
テーブルの上のスマートフォンを指差しながら真剣に言う結奈に、明日香は笑みを深めた。
「それはそれ。結奈と遊ぶのだって私には──」
言い掛けた明日香は、そこで言葉を呑み込んだ。
──居る……。
視界の端に、覗く〝何か〟が。
じぃっと、こちらを窺うように見つめる影が。
「明日香?」
怪訝そうに問う結奈に意識を引き戻され、明日香は笑みを浮かべ直すと首を振った。
「んー、ともかく。今日は結奈と遊びたかったんだからいいの。今度時間があったら誘ってみようと思ってるし」
結奈はパッと表情を変えると、身を乗り出して瞳を輝かせる。
「名前、なんだっけ。佐々木さんだっけ」
「佐伯さん」
「佐伯さんかぁ。写真とか撮ってないの」
「仕事中に撮れる訳ないでしょ」
「SNSとかは?」
「全くやってないって。……話してるのを聞いた」
「えー、めずらし」
結奈は新作ラテの残りを飲みつつ、「そういえばさ」と自身の話を始めた。
それを聞くともなしに聞いていた明日香は、ふと視界の端に意識を持っていかれた。
──居る、〝何か〟が。でも……。
この影は、こんなにも近くに居ただろうか。
心臓がドキリと跳ね、冷たいものが広がっていく。
〝何か〟は「視界の端に何かが居る」と認識する程度の影が揺れるだけだった。しかし今、シルエットが認識出来るような近さにまでそれが近付いて来ている気がした。
当然、見比べたりは出来ないから、感覚の問題でしかない。
それでも、少しだけの違和感が頭を支配する。
明日香は振り返り、辺りを見回した。
──誰も居ない。振り返れば、誰も……。
気にしなければ気にならない。そう強引に自分へ言い聞かせる。
「ねー、明日香。何見てんの? 聞いてるぅ?」
結奈に視線を戻した明日香は、おもむろに立ち上がった。
「ごめん、移動しよ。……ううん、やっぱり今日は帰る。ごめん」
戸惑う結奈を置いてカフェを出る。
じんわりと心臓が締め付けられるような、そんな感覚が残っている。
居る。
視界の端に。
少し近くなった、一定の距離を保って。
何かが、居る──。
スマートフォンを覗き込んだ明日香は、溜め息を吐いた。
結奈と会った日から三日。謝罪の連絡を入れたのだが、返事はなかった。
それもそうだろう。当日の自身の行動を振り返り、明日香は頭が痛くなる思いがした。結奈に許してもらえるよう、話をしなければならない。しかし、そうしたくとも仕事に追われ、思うようにいかなかった。スケジュールを確認し、眉を寄せる。
定時で上がれた今日は、奇跡のような日だった。この後会えないか連絡をしたら、会ってくれるだろうか。
「前田さん?」
ふいに呼ばれた声に、明日香は振り向いた。その先に居た姿に、心臓が跳ねる。
「あ、佐伯さん。あ、えーと、お疲れ様です」
「お疲れ様です。今日は久々にこんな時間に上がれたね。田中とかはまだ残るとか言ってたけど、俺はもう上がってきちゃった。流石にここ最近キツかったし」
明日香は、髪を耳に掛け、少しでも仕事終わりの姿がマシに見えるように整えている自分を内心こそばゆく感じ、薄く笑った。
「私も、一応今やってる案件はまとまったし、帰ろうかなって。今日はスーパーでお惣菜でも買ってちゃんとしたご飯食べようかな」
言い終わってから、明日香は内心でしまった、と舌打ちした。折角のチャンスを自分で潰した上に、ずぼらな女だと思われてしまうかもしれない。
しかし、佐伯は悩むように目線を逸らし、んー、と唸ってから言った。
「それだったら、これからどっかで一緒に飯でもどうかな。あ、でも家でゆっくりしたいか」
その時、明日香のスマートフォンが受信音を鳴らした。ピロン、ピロンと続く。
佐伯が目線で問いかけるのに画面を確認すると、結奈からのメッセージだった。「ごめん、風邪で寝込んでた。気にしないで。今度また話聞くから」というメッセージと共に可愛らしいスタンプが続いている。
「……彼氏?」
安堵に画面から目を上げた明日香に、佐伯が静かな声で訊いた。
目を瞬いた明日香は、ぶんぶんと首と手を振り「違うよ、絶対」と否定すると、期待を込めた瞳で佐伯を見つめた。
「あの、ご飯……行きたいな。一緒に」
明日香の言葉に、佐伯が柔らかく微笑んだ。
「よかった。ちゃんとしたご飯が食べたいならちょっと歩くけど、いい定食屋があるんだ。あ、それともお洒落な店がいいかな。前田さんってカフェ行くの好きなんだよね。田中が言ってた」
明日香は小さく首を振ると、言った。
「今日は出来れば、白米とお味噌汁と焼き魚とかが食べたい気分、かな」
その言葉に、佐伯がふっと笑みを零す。
「実は俺も。味噌汁飲んでホッとしたい気分。じゃあ、定食屋に行こうか」
定食は確かに美味しかった。
炊き立ての白米に、程よい塩気の味噌汁と焼き魚。落ち着きつつも賑やかさのある清潔な店内で、好意を抱いている相手と卓を囲む。
しかし──居る、のだ。
定食屋へ向かう道すがら、佐伯と話しながら、明日香は幾度も視界の端に気を取られた。
これまでは一日に数回現れるだけだったそれは今、明日香が振り返ってもほんの少しの間消えるだけで、すぐに視界の端に戻って来るようになっていた。
清潔な店内に、薄汚れたその姿が立っているのが、視界の端に映る。
──居る。
肩越しに振り返ると、誰も居ない。消えてしまう。薄汚れた姿が──
「前田さんてさ、よく見てるよね、後ろ」
佐伯の声に、ハッと顔を戻した明日香は、持っていた茶碗を置いた。上手く答えられずに、間抜けに口をパクパクとさせる。
「あ、別に責めてる訳じゃなくてさ。仕事中とかも見てることあるでしょ。特に何もないと思うけど……。もしかして、その──」
佐伯が言い淀む。
視界の端には、〝何か〟がこちらを覗いている。
──居る……。違う、話に集中しろ、明日香。
「もしかして?」
佐伯が口を引き結んでから、顎に手を当て言う。
「田中のこと、気にしてたりする?」
「えっ?」
予想もしなかった言葉に、間抜けな声で訊き返した明日香は、それと同時に耐え切れず振り返った。
当然、その先には誰も居ない。
──居ない。振り返ると居ない。でも……確かに、居る。
視線を戻すと、佐伯は奇妙な顔で明日香の顔を見つめていた。そして「あのさ」と気まずそうに切り出した。
「もしかして、ストーカーとか……そういうのに悩んでたりする?」
「え、ストーカー?」
その時、明日香の背後で大きな音が響いた。一瞬の沈黙の後、店員の「申し訳ございません」という声が聞こえてくる。
遅れて振り返った明日香は、どうやら飾ってあった大皿が落ちるか何かして割れたのだと知った。「急に飛んだぞ、アレ」と隣の客が話すのを聞きながら、佐伯に向き直る。
「そういうことは……ないよ」
明日香の背後に目をやっていた佐伯は、目線を戻すとじっと明日香を見つめてから、ゆっくりと頷いた。
「そう。なら、いいんだけど」
明日香はまだ納得がいっていない風の佐伯の様子に、誤魔化すように首を振って見せながら付け加えた。
「首のストレッチ、みたいな。気にさせちゃってたらごめんね。癖になってるかも」
目を瞬いた佐伯は、ふっと噴き出した。
「首のストレッチ? どこでそんなストレッチ覚えたの」
「え、えーと動画で?」
「首のストレッチしたいなら、もっと効果的なのがあるよ。俺達パソコンで作業すること多いし、こういうストレッチも大事だよな」
そう言って、座りながらでも出来るストレッチというものを、佐伯はレクチャーし始めた。
明日香は、佐伯の話を熱心に聞きながら〝何か〟の存在を頭の中から追いやった。
居ない。
気にしなければいい。いちいち振り向くのは止めだ。
居ない。居る訳がない。
明日香は、〝何か〟を気にするのは止め、佐伯を見つめた。
「あの、ご馳走様でした。ごめんね、有難う」
「ううん、俺も楽しかったからさ」
駅に向かう道を歩きながら、明日香は横を歩く佐伯を見上げた。目が合うとどちらからともなく笑い合う。このところ緊張続きだった気持ちが僅かに緩む心地がした。
「あのさ、もしよかったらなんだけど──」
そう佐伯が言った時、明日香はついと意識を視界の端に取られた。
気にしないと決めたのに、それはもう癖のようになっていた。
──〝何か〟なんて居ない。
そう、居ない。気にしなければ、居ない。
「──また、飯とか行けないかな。よければ二人で」
「え?」
佐伯を振り返った明日香は、戸惑いに目を瞬いた。
居ない。佐伯が──居ない。
来た道を振り返る。
そこには、飲み屋の赤提灯が灯るだけだった。酔客は全てそれぞれの店に呑み込まれてしまって、今この道に立つのは明日香だけだ。
「え、あれ……佐伯さん?」
小さく訊く声が、扉越しに聞こえる上機嫌な笑い声や、歌声に搔き消される。
視線を落とすと、地面に鞄が転がっているのが見えた。
「これ、佐伯さんの……」
思わず鞄に手を伸ばしたその時、背中を駆けのぼる寒気に、明日香はハッと息を呑んだ。
まるで強く押されているような圧迫感がすぐ側にある。
心臓が跳ねて痛み、脚が震えて動けない。
居る。〝何か〟が。視界の端に居た何かが、今、今……すぐ後ろに──。
──居る!
「誰にも渡さないよ」
翌朝。
道に落ちていた鞄は、通行人に踏みつけられ、蹴とばされ、瞬く間に汚れていった。
この道を、明日香と佐伯が通ったことを知る者は、誰も居ない。
そして、二人の行方を知る者も、誰も居ない。
居ない──。




