第13話 作戦会議
夜の森は、深い闇の気配に満たされていた。時折、獣が立てる微かな物音だけが、世界の時間が止まっていないことを証明する。肌を刺す風は湿った土と腐葉土の匂いを運び、徐々に近づいてくる秋の気配を告げていた。
その闇の底に、カイたちは息を潜めていた。
風に乗って、遠くから鈍い音が断続的に響いてくる。腹の底に直接響くような、巨大な心臓の鼓動。それはエステ砦の城壁を打つ、カドゥーカ王国の新型攻城兵器『共振破城槌』が立てる音だった。
その音を背に、カイたち特務分隊は、敵の斥候網から隠れた森の奥で最後の作戦会議を開いていた。
「……状況は最悪、という言葉でも生温いな」
地面に膝をつき、無骨な指で小枝を走らせていたグレゴールが、唸るように言った。熊のような巨漢の顔には、深い疲労と苦渋が刻まれている。地面に描かれたのは、エステ砦とその周辺の簡易的な地図だった。
「……五倍。いや、下手をすれば六倍か」
地面に広げた羊皮紙の上で、グレゴールの太い指が止まる。熊のような巨漢の顔には、隠しようのない疲労が張り付いていた。
指先が示すのは、砦を包囲する敵陣の配置図だ。小枝で引かれた線が、絶望的な戦力差を冷酷に可視化している。
「魔術師の数も揃えてやがる。それに、あの大筒……『共振破城槌』か。あれを止めん限り、夜明けまで保つかどうか」
「陥落は今夜かも……」
グレゴールの隣で、リアーナが静かに告げた。彼女は闇に溶け込むように木陰に佇み、その存在感は希薄だった。しかし、その緑の瞳だけが、夜行性の獣のように鋭く光っている。
「敵の攻勢は苛烈を極めてる。砦からの返答も、途絶えがち。おそらく、魔力も体力も、尽きかけている」
その言葉に、テッサが悔しげに唇を噛んだ。彼女の真っ直ぐな瞳は、怒りと無力感で揺れている。
「じゃあ、私たちは……仲間を見殺しにするしかないの?」
「感情論で勝てる戦ではありません」
ルキウスが淡々と言葉を挟んだ。指先で眼鏡のブリッジを押し上げる動作には、いら立ちとも諦めともつかない冷たさが滲む。
カイは、議論の輪から少しだけ離れた場所に立っていた。外套のフードを目深に被り、ただ黙って、仲間たちが交わす言葉の奔流に耳を傾けている。
陽動、兵站、包囲網の脆弱点。
飛び交う言葉は、彼の頭の中を意味の拾えない音の羅列として通り過ぎていく。カイの視線は、グレゴールが地面に描いた地図と、仲間たちの顔を行ったり来たりした。一度、口を開きかけて、閉じる。また開きかけて、やめる。行商人として身につけた知識は、ここでは何の足しにもならなかった。
「敵の指揮系統は本陣に集中している。だけど、あの『破城槌』の周囲だけ、異常に防衛が厚い。奴らもあれが切り札だと分かっている」
リアーナが偵察してきた情報を報告する。彼女の言葉は、この場の空気をさらに重くした。
「つまり、本体を叩くのは不可能……。ならば、我々の目的は一つ」
グレゴールが、節くれだった指で、敵陣の東側を力強く叩いた。
「陽動だ。俺たちが東で最大限に騒ぎを起こし、敵の注意を引きつける。その隙に、砦の連中を西の通用門から一人でも多く逃がす」
それは、勝利を放棄した作戦だった。仲間を一人でも救う、最善の敗北。
「……賛成です。それが、最も合理的な判断でしょう」
ルキウスが静かに同意する。
「……分かったわ。やりましょう」
テッサが、唇を噛み締めながら頷いた。彼女の拳は、白くなるほど強く握り締められている。
沈黙が落ちた。
夜風が梢を揺らす音だけが、やけに大きく響く。
誰も口には出さない。だが、その沈黙は雄弁だった。これが最後の作戦になるかもしれない。そんな予感が、四人の間に重く澱んでいた。
ルキウスが懐から懐中時計を取り出し、作戦開始時刻を確認しようとした、その時だ。
「……あの」
カイが、ぼそりと口を開いた。 四人の視線が、一斉に彼に突き刺さる。 カイは居心地悪そうに首を縮めた。言葉を選ぶように、視線を宙に彷徨わせる。長い沈黙。やがて、彼は自信なさげに呟いた。
「……どうやって、伝えるんだ?」
しん、と静まり返った。 グレゴールが口を半開きにして固まる。テッサはぱちぱちと瞬きを繰り返した。
「……は?」
ルキウスの声が裏返る。 カイは視線を逸らしたまま、ボソボソと続けた。
「いや……俺たちがここで騒いでも、中の連中が知らなかったら、逃げないんじゃないかと思って……」
再び、沈黙。 数秒の後。
「ぶッ……がっはっはっは!!」
グレゴールの豪快な笑い声が、張り詰めた空気を打ち砕いた。彼は涙が出るほど腹を抱え、カイの背中をバンバンと叩いた。
「そうか、そうだった! 隊長は軍人じゃなかったな! 根本的なところが抜けてやがる!」
テッサも、力が抜けたように肩を落とし、くすりと笑った。
「もう……驚かせないでくださいよ。てっきり、もっと深刻な欠陥があるのかと……」
「隊長……失礼ながら、本気で仰っているのですか?」
ルキウスが、呆れ顔で眼鏡の位置を指で押し上げながら言った。彼は手のひらをカイの前に差し出すと、そこに淡い緑色の風が集まり、渦を巻いていくのが見えた。
「『風密管』は、律学院の初等科で習う、軍事通信の基礎中の基礎ですよ。風の律動を操作し、音を外に漏らさない不可視の管を作る。私なら、この距離から砦の中庭にいる人間の耳元にだけ、声を届けることも可能です」
風は、彼の意のままに一本の細い管となって、暗闘の中へと伸びていく。それは、カイがこれまで見たこともない、繊細で美しい魔法だった。
カイは黙ってその光景を見つめていた。首がわずかに傾く。
その時、カイの外套の襟元から、ひょっこりと半透明の顔が覗いた。プリルだ。彼は、カイの顔とルキウスの顔を交互に見比べると、ルキウスの口調を完璧に真似て、カイの耳元で囁いた。
『基礎中の基礎ですよ!』
カイの耳が、じわりと赤く染まった。視線が明後日の方向へ逸れる。
しかし、その瞬間、張り詰めていた空気はふっと緩んだ。
部下たちの目に宿る光が、少し変わった。それまでは、畏怖と、どこか値踏みするような色が混じっていた。だが今は違う。どこか、「自分たちが支えなければならない」という、温かい感情が灯っていた。
カイの肩から、わずかに力が抜けた。
ルキウスは言葉通り、即座に『風密管』で砦内部の守備隊長と連絡を取った。「――我々は東で陽動を行う。その隙に、西門から脱出されたし。健闘を祈る」という簡潔な通信を終えると、彼はカイに向き直り、静かに頷く。
この時カイの視線は、仲間たちの描いた地図ではなく、崖下の闇の向こう、全ての元凶である『共振破城槌』が放つ、不気味で禍々しい律動の光に、真っ直ぐに注がれていた。
同じ覚悟の表情で、同じ戦場を見つめながら、カイとその部下たちは少し違うところを見つめていた。
かくして、アウレリア王国軍の歴史上、最も輝かしい「勘違い」は、静かに産声を上げたのである。




