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第2話 闇夜

 痩せ細った月が、巨人の骨のような白い光を落とす。


 かつて国境を守った砦の残骸は、今や盗賊の巣窟と化していた。崩れた石壁に茨が蛇のごとく絡みつき、風が抜けるたび、がらんどうの窓枠が呻き声を上げる。


 カイは闇に溶け、廃墟の影に潜んでいた。肩でプリルが丸まり、マントの縁を掴んでいる。半透明のゼリー状の体は、カイの緊張を吸い取ったのか、固い青色に変色していた。


「……行くぞ」


 自分に言い聞かせるように呟き、カイは目を閉じた。  意識を世界の表層――無数の『律動』のさざ波へと沈める。思考ではない。五感でもない


 砦に十三の律動。二つは見張り。鈍い警戒心と退屈が油のように浮かんでいる。残る十の律動は中庭。焚き火の熱源反応を中心に、乱雑に動き回っている。安酒のアルコールが血流を駆け巡り、泥のような弛緩と、尖った欲望が入り混じっているのがわかった。


 そして、その中心から離れた暗がりに、一つだけ。恐怖に削られ、今にも切れそうなほど激しく明滅する、か細い律動。攫われた少女だろうか。


「……プリル」


 カイの囁きは、風に溶けた。


「にゃーん」


 肩のプリルが、間延びした猫の鳴き真似をする。本物の猫が気まぐれに鳴いたように、自然に夜闇へ響く。


 壁の上の見張り二人、その意識が一瞬、声のした方角へ揺らぐ。生まれた注意力の空白を、カイは見逃さない。


 カイの足が、思考より先に動いた。  影から影へ。石畳の苔に足を滑らせないよう、慎重に、かつ迅速に距離を詰める。


 一人目の背後。男が猫の声に気を取られ、身を乗り出した刹那、カイは短剣『星影』を抜いた。  柄に埋め込まれた『星詠みの涙』が、ひやりと冷気を放つ。狙うのは首の右側。頸動脈の律動が、ドクドクと脈打つ箇所。


 刃が沈む。肉を裂く、嫌な感触。温かい液体が手に噴きかかる。  男は「あ」と短く息を漏らし、崩れ落ちた。カイは死体を抱きとめ、音を立てないように壁際に横たえる。


 吐き気がこみ上げる。だが、まだ終わっていない。  もう一人。  這うように移動し、二人目の背後へ。男は中庭の喧騒に気を取られ、相棒の異変に気づいていない。  近づくのは危険だ。カイは魔力を練り、風の律動に干渉する。

 

 不可視の風刃が、男のうなじを撫でた。カミソリで皮膚を削ぐような、鋭利な一撃。 男が首を押さえる。指の間から鮮血が溢れ、前のめりに倒れた。


 静寂。 カイは自身の心臓が、早鐘を打っているのを感じた。殺した。二人も。手のひらの粘つく感触を拭おうと、死体の服で手を擦る。男の懐から、革紐の包みが滑り落ちた。


 中から覗いたのは、一枚の羊皮紙。月光にかざすと拙い子供の絵だった。大きな男と小さな女、その間に立つ子供。


『とうちゃん、はやくかえってきてね。おかあさんとまってる』


 滲んだインクの文字が、カイの視界を揺らす。


 カイの喉がひくりと鳴った。  こいつにも家族がいた。俺と同じように、誰かの帰りを待つ人間がいて、それを俺が奪った。  正義の執行ではない。ただの殺し合いだ。  足元の石畳がぐらりと揺れた気がした。視界の端が白くチカチカする。


 その時。


「―――ぎゃはは! そろそろあのラスナの小娘を“味見”してやろうぜ!」


 中庭から響く、下卑た笑い声。続いて、布を引き裂く音と、悲鳴に近い嗚咽。  カイの身体が、びくりと跳ねた。


 羊皮紙を握りしめる。 感傷に浸っている場合か。今ここで立ち止まれば、あの少女も、そして俺自身も死ぬ。


 カイは深く息を吸い込み、アジトの中心へと続く暗い通路へ足を踏み入れた。



※※※※※※



「あァ? 何だ、てめえ」


 男がカイを見下ろす。酔った濁った目。カイの華奢な体格と、血の気の失せた青白い顔を見て、男は鼻で笑った。


「迷子のガキか? ママのおっぱいでも吸いに来たかよ」


 カイは立ち止まった。


 沈黙。  


 何を言うべきか。気の利いた脅し文句など思いつかない。口の中がカラカラに乾いている。


 数秒の気まずい間の後、カイは正直に答えた。


「……いや。迷子じゃない」


 極めて真面目なトーンだった。


「……は?」


 男がぽかんと口を開けた。こいつは何を言っているんだ、という困惑。それが瞬時に、怒りへと変わる。


「舐めてんのか、クソガキが!」


 男が戦斧を振りかぶった。  ブン、と空気を切り裂く重い音。何の技術もうない、ただの暴力。だが、当たれば死ぬ質量だ。


 カイは動かなかった。


 恐怖で足が竦んだのではない。


 見えてしまったのだ。


 振り上げられた斧の柄。その木材の中にある、微細なヒビが。長年の使用と乾燥で蓄積された、律動の「淀み」。


 思考より先に、体が反応した。  漆黒の長刀『古橄欖』を抜き放つ。


キィン!


 甲高い音が夜気を裂いた。カイは一歩も引かず、ただ剣の腹で、斧の柄の「一点」を叩いたのだ。  バキリ、と乾いた音がして、巨大な斧頭が回転しながら夜空へ飛んでいった。


「な……」


 男が、折れた柄を握りしめたまま硬直する。  自分の全力の一撃が、木の枝のようにへし折られた現実が処理できないようだ。


 カイの瞳は、そんな男の驚愕を映しても、微動だにしなかった。


 彼は一歩踏み込み、呆然とする男の腹を無造作に蹴り飛ばす。同時に律動を操り、地面に薄く水を撒き、風を使って巨体をした。男の体はするりと崩れ、そのまま背後の石壁に叩きつけられる。


 一瞬の静寂の後、怒号が響く。


「て、てめぇ!」


「殺せ! 囲んで殺しちまえ!」


 焚き火を囲んでいた盗賊たちが、一斉に武器を手に取った。  十人。  剣、槍、メイス。殺意に満ちた男たちが、半包囲の形をとって迫ってくる。  カイの背筋に冷たい汗が伝う。  多すぎる。まともにやり合えば、数の暴力ですり潰される。


 ――逃げたい。  ――いや、逃げ道はない。


 なら、減らすしかない。  カイの瞳孔が開く。『共鳴感知』がフル稼働し、世界がスローモーションのように色褪せる。  男たちの筋肉の収縮。武器の軌道。地面の凹凸。それらが全て「情報」として脳に雪崩れ込む。


 右から槍。突き出されるより先に、カイは半歩、左へずれた。


 ヒュッ。槍が虚空を突く。


 すれ違いざま、『古橄欖』を一閃。 抵抗のない、肉を断つ感触が手に伝わる。


「あ゛っ!?」


 男が槍を取り落とす。カイはその背中を蹴り、盾代わりにして次の敵へ突っ込んだ。


「死ねェ!」


 大剣が横薙ぎに振るわれる。 カイは屈んでそれを避ける、目の前にはガラ空きの男の脇腹があった。鎧の継ぎ目、革紐が劣化して緩んでいる箇所が見える。


 そこへ刃を滑り込ませる。深追いはしない。刃を引き抜いた。


「な、なんだコイツ……!」


「攻撃が……当たらねえ!」


 盗賊たちの間に、少しずつ恐怖という名の毒が回る。  一人が恐慌を来たし、叫びながら突っ込んできた。 カイはその剣を『貪龍衣』の籠手で受け流す。ヴォーラの龍鱗は、粗悪な鉄剣など歯牙にもかけず、剣は大きく欠けた。


「ひぃっ! た、助けてくれ!」


「おい、そっちからいけ!」


 数分後。響き渡っていた怒号と悲鳴は、完全に止んだ。


 パチパチと、焚き火が爆ぜる音だけが響く。


 カイは、血の海と化した中庭の中心に立っていた。


 呼吸が荒い。心臓が痛いほど脈打っている。

 全身に浴びた返り血が、夜風に冷やされて気持ち悪い。鉄の臭いで鼻が曲がりそうだ。


「ひぃっ……!」


 唯一生き残った男が、腰を抜かして後ずさりする。

 

 カイがゆっくりと視線を向けると、男は「化け物……!」と悲鳴を上げ、武器を捨てて闇の中へ逃げ去っていった。 追う気力はない。


 カイは『古橄欖』を下げ、その場に膝をつきそうになった。


 終わった。生きてる。


 ぐう、と腹の虫が鳴った。 極度の緊張からの解放。身体がエネルギーを欲している証拠だ。


 こんな状況で腹が減る自分に、カイは呆れ、そして少しだけ安心した。


「ぷりっ」


 肩のプリルが、どこか非難するような音を立てて、カイの頬に半透明の体を押し付けた。その色は、今の惨状を反映してか、それともカイの心の疲弊を写してか、物悲しい薄紫色に変わっている。


「悪い。汚れたな」


 カイはプリルの頭らしき部分を指先で撫でると、『古橄欖』についた血糊を死体の服で無造作に拭った。納刀の金属音が、静寂に冷たく響く。


 カイはアジトの奥、少女が囚われているであろう部屋へと、重い足取りで歩き出した。

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