第1話 新しい道
空は高く、どこまでも澄んでいる。
テッラローザの赤煉瓦が丘の向こうに消え、幾日が過ぎた。カイは黙々と歩き続ける。道の両脇ではオリーブの葉が陽光を弾いて銀色にきらめき、点在する糸杉が空へ黒い影を伸ばしていた。
だが、肩にかかる鎧の重みだけが、やけに現実的だった。レナータがヴォーラの漆黒の鱗で仕立てた『貪龍衣』。その内張りの冷たく硬い革の感触。歩くたびに腰骨を打つ長刀『古橄欖』の重み。
ふと、足が止まる。
視線が、無意識に右隣の空間をさまよった。いるはずがないのに、そこに立つ老人の気配を探してしまう。
風が頬を冷たく撫でるだけだ。
肩の上で、ゼリー状の塊がぷるりと揺れた。空腹を訴え、半透明の体が淡いオレンジ色に染まっている。
「カイ、腹減ったー」
プリルの声に、カイは黙って腰の袋から干し肉をちぎって差し出す。プリルは喜んで飛びつき、体内にそれを吸収していく。
「カイくん、暗いわね。そんなんじゃ、いい女も逃げていくわよ?」
不意に、プリルが艶のある声色で言った。テッラローザの情報屋、カーラ・ロッシの口調だ。カイは眉を寄せ、プリルの体を指で突く。
「やめろ」
「あら、照れちゃって。可愛いところもあるじゃない」
カーラの声でくすくす笑ったプリルが、今度は厳格な老人の声に変わった。
「カイ、感傷は非合理的だ」
ベルクトの声。あまりに忠実な再現に、カイの体がわずかに硬直した。
「……それも、やめてくれ」
声は静かだが、低い。
「ちぇー」
子供の声に戻ったプリルが、不満げに体を膨らませた。気遣いは分かるが、今はそっとしておいてほしかった。
※※※※※※
夕暮れが街道を赤黒く染める頃、地平線に宿場町のシルエットが見えた。
町に近づくほど空気が淀んでいくのを感じた。人々は俯き、足早に通り過ぎる。その目は諦めと警戒に濁っていた。
町の広場では、数人の武装した男たちが闊歩していた。汚れた革鎧に、手入れの悪い剣。尊大な態度で大声で笑い、果物屋の店先から無遠慮にリンゴを掴み、代金も払わず齧りつく。店主の老人は、唇を噛むだけだ。
彼らから目を逸らし、カイは一軒の酒場へと入った。安酒の甘ったるい匂いに、汗の酸味が混じり鼻を打った。煤けたランプの光が、傷だらけのテーブルを埃っぽく照らしている。客はまばらで、皆ひそひそと話していた。
「一人かい」
カウンターの向こうから、腹の出た主人が面倒そうに顔を上げた。
「ああ。適当に飯を頼む」
カイは銅貨を数枚置き、隅の席へつく。
腹が鳴った。
音は小さかったが、静まり返った店内に響く。カイは表情を変えず、ただテーブルの木目を見つめる。
やがて運ばれてきた赤黒い皿の底に、水っぽいトマトの汁が広がっていた。数切れのモツはゴムのように硬く、噛むと嫌な獣の臭いが鼻につく。
それでも、箸を止めなかった。
三日前の朝に食べた黒パンと干し肉以来、まともな食事はこれが初めてだった。不味いが、腹は満たされる。薄いエールで流し込んだ。
隣のテーブルから、傭兵らしい男たちのひそやかな会話が聞こえる。
「聞いたか? 最近、とんでもなく腕の立つ“猫”がいるらしいぜ」
「ああ、聞いた聞いた。どんな遺跡の錠前も『ニャンとかなる』とか嘯いて、一人で宝をかっさらうって話だろ」
カイはモツを噛み続ける。どうでもいい噂話だ。そう思った時、宿の主人が声を潜めてきた。
「旅の人かい。悪いことは言わん。水と食料を補給したら、朝日と一緒に発ちな」
「何があったんだ?」
主人は顎で、武装した男たちのテーブルを示した。
「あれだよ。ベルクト様……あの人がいなくなってから、この国は荒れ放題でね。用心棒を自分から追い出すなんて、馬鹿な真似をしたもんだよ。おかげで腕利きの兵士はみんな北の国境に駆り出され、今じゃああいう連中の天下さ」
主人の言葉に、カイの手が止まった。アウレリア王国がベルクトを追放した影響が、こんな辺境の町にまで影を落としている。
その時、宿屋の扉が乱暴に開け放たれ、先ほどの盗賊たちが三人、大声で笑いながら入ってきた。
「おい親父! 一番強い酒と一番いい部屋を用意しろ! 今夜は景気のいいお祝いだ!」
リーダー格らしい、顔に傷のある男がカウンターを拳で叩く。宿の主人は、一瞬顔を歪めたが、すぐに媚びるような笑みを貼り付けた。
「へい、親分! いつもありがとうございます!」
盗賊たちは構わず、空いていた一番大きなテーブルを陣取った。カイは彼らから目を逸らし、スープの底に残った欠片をさらった。面倒ごとは御免だ。こんな寂れた町の問題に首を突っ込む義理も、理由もない。
「――やめて! 離して!」
甲高い悲鳴が、宿屋の重い空気を切り裂いた。
カイが顔を上げると、盗賊の一人が、宿屋の手伝いらしい若い少女の腕を掴んでいた。少女は必死に抵抗しているが、大人の男の力には到底敵わない。
「いいじゃねえか、ちょっと付き合えよ。俺たちの新しいアジトに、ちょうど給仕係が欲しかったんだ」
「いやっ!」
リーダー格の男が、面倒臭そうに立ち上がる。
「うるせえな、さっさと連れていけ。抵抗するなら気絶させろ」
「はいよ、親分!」
腕を掴んでいた男が、少女を無理やり引きずっていく。少女は涙を浮かべ、助けを求めるように周囲を見回すが、誰の目も合わない。やがて諦めたように俯き、なされるがままに引きずられていく。
カイは、ただ黙ってその光景を見ていた。
だが、少女が宿屋の出口に差し掛かり、強引に手を引かれたその瞬間。乱暴な扱いで、彼女が深く被っていたフードがふわりと脱げ落ちた。
――その耳は、僅かに先端が尖っていた。
カイの動きが止まった。スプーンを持ったまま、視線が少女の耳に釘付けになる。 周囲の音が遠ざかり、少女の心拍の早鐘だけが、『共鳴感知』を通じて不快なほどの音量で伝わってきた。
脳裏に、レナータの姿が焼き付くように蘇る。アルティの役人に不当な扱いを受けた時の、彼女の横顔。諦めと、怒りと、そしてどうしようもない悲しみを湛えた、あの熾火色の瞳。
『……いつものことよ……慣れてる。私は……“ラスナの血を引く女”だから』
諦めと、消せない誇りを滲ませた声が響く。
気づけば、爪が掌に食い込むほど拳を握っていた。しかしカイが目の前の出来事を咀嚼するより先に、事態は進展していった。
外へと引きずられた少女は、そのままなすすべもなく路地へ消える。町の人々は、誰もそちらを見ない。
レナータがこの光景を見たら、酒場の隅で動かない俺をどう思うだろうか。軽蔑するだろうか。それとも、「仕方ない」と、あの寂しげな笑みを浮かべるだろうか。
ベルクトなら、どうしただろう。
「合理的だ。自らの危険を冒してまで、見ず知らずの他者を救うことに、いかなる利益がある?」
きっと、そう言って一笑に付すだろう。それが正しい。
――だが。
ゆっくりと、席を立つ。
彼は、宿場町の薄暗い路地へと、迷いのない足取りで向かった。そのヘーゼルブラウンの瞳の奥には、宿屋のランプの揺らめきが、静かな熾火のように写っていた。
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