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幕間5 漆黒のオリーブ

 工房の朝は静寂に満ちていた。炉の火は落ち、燃え尽きた炭が微かな熱を放っているばかりだ。肌寒い空気の中、カイは目を覚ました。隣には、レナータの穏やかな寝息。彼女の銀灰色の髪が、カイの胸元に絹のように散らばっている。


 お互いの気持ちから目を背けるような数ヶ月が過ぎた頃。レナータの労作が終わりを告げたのは、その日の昼過ぎだった。彼女は、目の下に深い隈を作りながらも、至上の満足感が浮かんでいる。


 レナータに呼ばれ工房へ入ると、部屋の中央に鎮座する武具一式が、まるで光そのものを吸い込んでいるかのように佇んでいた。


「……できたわ、カイ」


 レナータの声は、疲労で少し掠れていたが、確かな熱を帯びていた。


 それは、もはや単なる鎧ではなかった。ヴォーラの漆黒の鱗が、一枚一枚丁寧に磨き上げられ、まるで夜の闇そのものを切り取って仕立てたかのように、滑らかな曲線を描いている。要所には、龍骨を削り出した純白の補強材が走り、禍々しいまでの黒の中に、神聖さすら感じさせるアクセントを加えていた。胸当て、肩当て、小手。それぞれが独立した部品でありながら、一つの生命体のように完璧な調和を保っている。


 そして、その傍らに横たえられた長刀。『糸杉』と名付けられた初代の剣の面影は、もはやどこにもなかった。刀身は、一見すると黒曜石を磨き上げたかのような、深く艶のある黒。しかし、カイがそれを手に取ると、光の角度によって、その表面に浮かび上がる微細な鱗の紋様が、深緑や黄金色に複雑に変化した。


 爪か骨を思わせる滑らかな白い(つば)。柄には滑り止めとして龍の鞣し革が巻かれ、その柄頭には、心臓近くから採取されたという小さな「龍玉」の欠片が埋め込まれ、鈍い光を放っていた。


「かつてあなたに渡した『糸杉』は、一度折れたら、二度と芽吹かない覚悟の剣だった。多くを諦めて生きてきた、私自身だったのかもしれない」


 レナータは、カイの姿を眩しそうに見つめながら、静かに語り始めた。


「でも、あなたは違った。師を失い、絶望の縁に立たされながらも、立ち上がって、新たな旅を始めようとしている。その姿を見て、思ったの。あなたが次に手にすべきは、『死』の象徴じゃない。再生と永続をその身に宿す、オリーブの古木……その剣の銘は『古橄欖(エテルノ・オリヴォ)』よ」


 彼女は、カイが持つ新しい長刀を、愛おしそうに指でなぞる。そしてその指先はそのまま鎧へと向かった。


「この鎧の銘は『貪龍衣(ヴォラーチェスクード)』。ただ硬いだけの鎧じゃないわ。ヴォーラは、無数の生命の『律動』を貪り、自らの力としてきた。奴の鱗一枚一枚が外部から加えられた魔力、つまり敵の攻撃魔法を『貪り食らう』。それが、この鎧の固有能力、『汲魂(きゅうこん)』の正体よ」


 カイはごくりと喉を鳴らした。


「つまり、敵が魔法を撃てば撃つほど、あんたの力は増していく。……そして、その溜め込んだ魔力をどう使うか。それが、その剣『古橄欖』の本当の価値よ」


 彼女は、一度言葉を切り、カイの理解を確かめるように見つめた。


「古橄欖の刀身の芯には、ヴォーラの背骨を使ってる。ヴォーラの体内で最も魔力を通した器官。一切の減反なく魔力を伝えるわ。そうして剣先に集まる極めて高純度な魔力は、根源的な『律動』の結合そのものを引き裂くの。これがこの剣の能力『裂界(フェンディ・コルト)』よ。分厚い鋼鉄の盾だろうが、高位の魔法障壁だろうが、この力は等しく紙のように切り裂くわ。


 裂界。その言葉の響きだけで、カイは背筋が凍るような感覚を覚えた。それは、もはや剣技ではない。世界の法則そのものを捻じ曲げる、禁忌に近い力だった。


「もっとも、これだけの力には相応の代償が伴うわ。発動には『汲魂』で溜めた魔力のほとんどを一度に消費する。連発は不可能。まさに、切り札よ。あんたが、全てを賭けて勝負を決める時、一度だけ振るうことを許された切り札よ」


 レナータは、最後に、どこか寂しそうな、しかし誇りに満ちた表情で言った。


「こいつは、もうただの武具じゃないわ。ヴォーラの魂の一部であり、あなたの覚悟の証よ。そして……」


 彼女はカイの目を真っ直ぐに見つめた。


「私の魂の欠片でもある。だから、みっともない死に方だけはしないでよね」


 完成した武具の圧倒的な存在感と、そこに込められたレナータの想いの重さに、カイは息をのんだ。


 彼は、そっと『古橄欖』を作業台に置くと、レナータの前に進み出て、深く、深く頭を下げた。言葉が出てこない。ただ、震える背中が、彼の万感の想いを物語っていた。


「レナータ……ありがとう。俺には……もったいないくらいだ」


 ようやく絞り出した声は、ひどく頼りなかった。自分は、この素晴らしい武具を受け取る資格などない。そう感じているようだった。


 彼女は、静かにカイの隣に歩み寄ると、何も聞かず、ただ彼の背中を、鍛冶で硬くなった、しかし温かい手で優しく、何度も撫でた。


「……バカね、あんたは」


 その声は、いつものようにぶっきらぼうだったが、震えていた。


「そういう時は、ありがとうって笑うもんよ」


 カイは、顔を上げることができなかった。


 テッラローザの東門へと続く石畳の道は、夜明け前の冷たい沈黙に包まれていた。東の空が、まるで血を滲ませたように、不吉なまでに赤く染まり始めている。空気はガラスのように澄み、吐く息が白く凍った。


 新しい武具を身につけたカイが、黙って門に向かって歩き出す。その後ろを、レナータも何も言わずに、少しだけ距離を置いてついてくる。


 石畳を打つ、二人の足音だけが響く。互いに、言いたいことは山ほどあるはずなのに、どんな言葉を選べばいいのか、分からなかった。ただ、この無言の時間を少しでも長くように――その想いだけが、二人を歩かせていた。


 カイの肩の上、フードの中で、プリルが珍しく空気を読んで静かに丸まっている。


 やがて、巨大な東門のシルエットが見えてきた。その場所で、レナータの足が、ぴたりと止まった。カイも歩みを止め、彼女の方を振り返る。


 レナータが、意を決したようにカイの腕を、強く掴んだ。その指の力に、彼女の必死さが込められていた。


「……カイ」


 彼女は、カイのヘーゼルブラウンの瞳を、逸らさずに真っ直ぐに見つめ、絞り出すように言った。


「どこへ行ってもいい。誰と会ってもいい。……でも、手入れが必要になったらいつでも帰ってきてね。あんたの剣と鎧を直せるのは、この国じゃ、わたしだけなんだから」


 彼はただ、一度だけ頷いた。


 カイは、レナータの手を、その震える指を、そっと離した。そして、彼女に背を向けて、門へと歩き出す。もう、振り返らないと決めていた。


 門をくぐり、王都へと続く街道へ、力強い一歩を踏み出した、まさにその瞬間だった。


 腰に下げた短剣『星影』。その柄に埋め込まれた「星詠みの涙」が、これまでにないほど激しく、そして、不快なほどの冷たさをもって、強く脈動した。


 ピリリ、と皮膚を刺すような冷気が、短剣から腰を伝い、背骨を駆け上る。カイの「共鳴感知」が、本人の意志とは無関係に、強制的に遥か東の空、王都ルステラの方向へと向かされた。


 脳裏に、おぞましいビジョンが叩きつけられる。王都ルステラの中心で渦巻く、巨大な「律動の歪み」。それはヴォーラの混沌とした憎悪とは違う。もっと計算高く、硝子のように冷たい、純粋な悪意だった。

ここまでお付き合い頂きありがとうございました!

この第一章は、私の中では前日譚でした。やっとカイも王都へ向かえます笑

次章のストックが怪しいので、1週間お休みし、7/29より投稿する予定です。


ここから少し弱音です。

最近はほとんど反応のない中、投稿後に伸びるPVをみて、BOTではないかと疑心暗鬼になる日々を送っています。「初投稿の洗礼」かとも思いますが、本業で週6.5日働く中で執筆のモチベーションを保つのが辛いです。


不躾なお願いで心苦しいのですが、もしお楽しみいただけたら、ブックマークや感想など頂けますとうれしいです。また↓のポイントから★1でもリアクションを頂けるだけで、とても励みになります。厳しい評価・意見でも構いませんので、ぜひフィードバックをください。

何卒宜しくお願い致します。

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