第41話 英雄の産声
どれほどの時間、慟哭していただろうか。
カイが顔を上げたとき、周囲の空気が変わっていることに気づいた。 一人、また一人と、破壊された建物の陰から、生き残ったロッカの住民たちが恐る恐る姿を現していた。彼らは、まず天を覆うヴォーラの巨体に畏怖の念を浮かべ、次いでその傍らにいるカイを見て、足を止める。
静寂を破ったのは、瓦礫の陰から顔を出した小さな子供の、掠れた呟きだった。
「……すごい…」
その純粋な驚嘆の声は、張り詰めていた空気そのものに亀裂を入れた。
「ああ…ドラゴンが…本当に、死んでいる…」
「助かったのか…?我々は…」
ヴォーラに夫を喰われたのだろう、虚ろな目をしていた老婆が、カイの姿を見て、その場にへたり込んだ。皺だらけの手を合わせ、声もなく涙を流している。
助けられた衛兵の一人が、こちらへ歩み寄り、その場に崩れ落ちるように膝をついた。
「あんたが……あんたがいなければ、俺たちはみんな……!仇を……ありがとう…!!」
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で、彼はただ、何度も地面に額を擦り付けていた。 親を亡くしたらしい幼い兄妹が、遠巻きにカイを見つめている。その瞳には、恐怖と、しかしそれ以上に、何か信じられない奇跡を見るような、純粋な輝きが宿っていた。
その人垣を割って、二人の男が進み出てきた。一人は、老齢の貴族だった。高価だったであろう衣服は泥と埃に汚れ、その顔には深い疲労と心労が刻まれている。ロッカの領主だ。もう一人は、屈強な体つきの中年の男。生き残った衛兵たちの長だろう。彼の鎧は所々が凹み、額には血の滲む傷があったが、その足取りにはまだ力が残っていた。
二人は、カイの数歩手前で足を止め、ヴォーラの圧倒的な亡骸を見上げ、そして再びカイへと視線を落とした。衛兵隊長の顔に、驚愕と、自らの無力さへの悔しさが入り混じった複雑な感情がよぎった。領主は、震える手で故郷の守護印を結ぶと、ゆっくりと、そして深く、カイに向かって頭を下げた。
「若き……戦士よ……」
老人の声は、弱々しく、かすれていた。しかし、静まり返った広場では、その一言一句が奇妙なほどはっきりと響いた。
「貴殿の、その比類なき勇気が、このロッカを……我々、民の全てを……救ってくださった。この御恩、この感謝、いかなる言葉をもってしても、言い尽くすことはできませぬ」
衛兵隊長はカイの前に進み出ると、躊躇なく片膝をつき、無骨な拳を地面につけて頭を垂れた。
「このロッカの盾は砕けた。俺たちは……無力だった。だが、あんたは……! あんたこそが、この街の英雄だ!」
そして、領主もまた、震える声で、しかし高らかに叫んだ。
「ロッカの民よ!我々は、今、生ける伝説の誕生を目撃している!有史以来、幾多の国を滅ぼしてきた成龍を、たった一人で、この若き英雄が討ち取ったのだ!古の英雄譚にしか語られぬ偉業が、我々の目の前で成し遂げられた!龍殺しだ!」
領主の言葉を引き金に、堰を切ったように歓声が上がった。それはもはや個々の声ではなく、恐怖から解放された安堵と、生への渇望が入り混じった一つの巨大な咆哮だった。地響きのような熱狂が広場を飲み込む。
人々はカイを取り囲み、ある者は涙を流して感謝を述べ、ある者はただ、その名を叫び続けた。
だが、その熱狂の渦の中心で、カイはまるで厚い氷の中に閉じ込められたようだった。
人々の声が鼓膜を震わせる。感謝の言葉も、称賛の声も、確かに耳には届いている。だが、そのどれもが、彼の心には届かなかった。それはまるで、遠い異国の言語で語られる、自分とは何の関係もない物語を聞いているかのようだった。
彼の世界は、ベルクトの心臓が止まったあの瞬間に、共に停止してしまっていた。 腕に抱いた師の亡骸は、少しずつ、しかし確実に硬直し始めている。その重さと冷たさだけが、カイにとっての唯一の現実だった。
領主が革袋を差し出してきた。中身が金貨であることは、その音と重みで分かった。
「報奨金だ。これしきりでは、貴殿の功績に到底見合わぬが……今はこれしか用意できん。受け取ってくれ」
カイは無言でそれを受け取った。腕にのしかかる金貨のずしりとした重みが、彼の空虚な心をさらに際立たせる。
人々の視線は、天を衝くドラゴンの亡骸と、それを討った少年だけに注がれている。カイが失ったものを知ろうとする者は、誰一人としていない。




