第40話 満足
音が、消えた。
あれほど耳を劈いていた風の音も、建物の崩れる轟音も、そして自らの心臓が恐怖に暴れる音すら、分厚い水の中に沈んだように遠い。 視界が白く、明滅を繰り返している。極度の疲労とアドレナリンの奔流が、現実との境界を曖昧にしていた。
「……やった、のか……?」
乾いた唇から、か細い声が漏れた。
眼前に横たわる、巨大な絶望の残骸。城壁のごとき漆黒の鱗は、ベルクトの放った禁呪によって無数の亀裂が走り、その隙間からは、かつて七色に輝いていたであろう律動の光が、今はもう弱々しく、最後の残り火のようにまたたいている。 カイの短剣が突き立った心臓の真上。そこからはマグマのように粘度の高いおびただしい量の血液が、ゆっくりと、しかし確実に流れ出し、瓦礫だらけの地面で禍々しく凝固していく。
ヴォーラは、死んだ。
この手で、殺した。
その事実が、脳に染み渡るのに、途方もなく長い時間が必要だった。 達成感はない。ふらり、とヴォーラの巨体から足が滑る。地面に叩きつけられそうになる体を、辛うじて腕で支えた。残されたのは、骨の一本一本が悲鳴を上げるような激痛と、全身の筋肉がずたずたに引き裂かれたかのような疲労感だった。
「……っ、ぐ…ぅ…」
吐瀉物のように、苦悶の呻きが漏れた。膝が笑い、震え、立っていることすらままならない。何度も膝から崩れ落ちそうになるのを、意志の力だけで無理やり支える。
この勝利は、自分一人のものではない。いや、むしろ――。
「ベルクト……!」
声はかすれ、風が瓦礫の間を吹き抜ける音にかき消された。足が、鉛のように重い。一歩進むごとに、足の裏に突き刺さる鋭利な破片の痛みが、遠い現実のように感じられる。瓦礫の山を、這うようにして越える。剥がれた爪の先から血が滲み、ぬるりとした感触が石くれに広がった。
遠く、広場の中心から少し外れた場所に、見慣れた黒い外套の人影が見えた。崩れた城壁の一部に背を預け、ぐったりと座り込んでいる。
その姿を認めた瞬間、カイの呼吸が止まった。
血の鉄臭さ、肉の焼ける匂い、舞い上がる粉塵。むせ返るような戦場の匂いの中で、彼の存在だけが、異様なほど静かだった。
「ベルクト……!しっかりしろ!」
叫びながら、もつれる足を叱咤する。走ろうとして、無様に転倒した。掌を擦りむき、膝を打つ。痛みなど感じなかった。ただ、一秒でも早く、彼の元へ。その一心だけが、カイの体を突き動かしていた。
ようやく辿り着いたベルクトの姿は、あまりにも無惨だった。外套の胸元は、どす黒く、ぐっしょりと濡れていた。胸部は大きく抉れ、常人であれば即死しているであろう傷だ。左腕があったはずの場所は、肩の付け根からごっそりと失われ、応急処置であろう魔法の光が、おぞましい傷口をかろうじて焼灼していた。
呼吸は、あるのかないのか分からないほどに浅く、か細い。死の気配がベルクトの周囲に澱んでいた。
カイの隣で、半透明の体を持つプリルが、ぷるぷると震えながら師の胸元にすがりついていた。その体は、悲しみを映すかのように濁った鉛色に淀み、光をほとんど透過しなくなっている。
「ベルクト……。ベルクト、起きてよぉ……!」
プリルの声は、いつものような快活さも、悪戯っぽい響きも、何一つ含んでいなかった。ただ、幼子が母を求めるような、悲痛な懇願だけがそこにあった。
震える指先を、恐る恐るベルクトの頬に伸ばす。 触れた瞬間、カイは息を呑んだ。 冷たい。 それは、冬の日の冷気や、井戸水の冷たさとは全く異質なものだった。生命の熱というものが、根源から奪い去られたかのような、無機質な、まるで石像に触れているかのようなその感触に、カイの指先から血の気が引いていく。
「……あ…」
言葉が出ない。
助けを、呼ばなければ。魔法で、どうにか。
だが、頭が真っ白で、何も考えられない。
ただ、目の前の現実が、カイの心を絶望の底へと引きずり込んでいく。 この人は、もう、助からない。そんな、残酷な予感が、脳を直接揺さぶっていた。
その時だった。 石のように冷たいはずの瞼が、かすかに震えた。
カイが息を止めて見つめる前で、ベルクトの瞳が、ゆっくりと、しかし確かな意志を持って開かれた。
その瞳に宿っていたのは、死を目前にした者の恐怖や諦観ではなかった。ましてや、弟子に向けられた慈愛の光でもない。 そこに燃え盛っていたのは、常軌を逸した、狂気と紙一重の学究的な興奮と、究極の真理を垣間見た者だけが浮かべる満足の光だった。
「……カイ……」
かすれた、血の泡が混じる声。その視線は、カイを捉えていなかった。彼の瞳は、カイの背後、今やただの巨大な肉塊と化したヴォーラの亡骸に、まるで恋い焦がれるように注がれていた。
「……見たか…? あのヴォーラの……魂の構造を……」
ごふっ、と鈍い音を立てて、ベルクトは黒い血の塊を吐き出した。カイは悲鳴に近い声を上げて彼の肩を掴んだ。
「ベルクト! もう喋るな! 死ぬな…! 死なないでくれ…!」
必死の懇願は、しかし彼の耳には届いていないようだった。ベルクトは、カイの言葉を遮るように、熱に浮かされたように言葉を続けた。その声は、途切れ途切れでありながら、異様なほどの熱を帯びていた。
「私の術によって……乱れた律動の奔流……。その中心にあった……核の輝き……。あれこそが……あれこそが、私が生涯を賭して探求した……生命の、原初の……ぐふっ……!」
理解不能な言葉の羅列が、カイの脳を殴りつけた。魂の構造? 律動の奔流? 何を言っているんだ。この人は。 今、まさに自らの命が消えようとしているこの瞬間に。自分の死よりも、目の前の怪物の死体の方に、その知性の全てを注いでいる。この人は、死ぬ間際ですら、探求者なのだ。
カイはただ、彼の体を揺することしかできなかった。その異常なまでの執念が、恐ろしくて、そしてあまりにもベルクトという人間らしくて、涙も出なかった。
だが、不意に、ベルクトの瞳から狂的な光がすうっと消えた。燃え盛る炎が、静かな熾火に変わるように。その視線が、初めてゆっくりとカイに向けられた。焦点が合い、そこに映るのは、紛れもなく弟子であるカイ自身の姿だった。
「……見事だったぞ、カイ……」
声の調子が、穏やかな、いつもの師のものに戻っていた。皺の刻まれた目尻が、わずかに和らぐ。
「君は……本当に、強くなったな……。私の想像を……はるかに超えて……」
その言葉が、カイの心の最も柔らかい場所を、的確に、そして深く貫いた。必死に築いた感情の堰は、その一言でたやすく決壊する。
「やめろ……やめてくれ……」
視界が急速に滲み、堪えきれない嗚咽と共に、熱い雫が次から次へと溢れ出した。
「ルステラに……」
ベルクトは、最後の力を振り絞るように、カイの手を弱々しく握った。その冷たさが、彼の命が尽きかけていることを、残酷に告げていた。
「王都ルステラにいる……シエナという娘を……頼……む……」
シエナ。 その名に、カイは聞き覚えがなかった。だが、ベルクトの口調には、ただ事ではない切迫感が滲んでいる。
「彼女は……いや……もう、いい……」
ベルクトは何かを言いかけたが、ふっと言葉を切り、力なく首を振った。その瞳に、一瞬だけ深い悔恨のような色がよぎる。
「あとは……君……の人生だ、カイ……。自由に……生きろ……」
それが、彼がカイに遺した、最期の言葉だった。 握られていた手に、ふっと重みが加わる。 ベルクトの手から力が抜け、だらりと滑り落ちた。
彼の瞳から、完全に光が失われる。
ただ、夜明け前の薄暗い空を、虚ろに映しているだけだった。
腕の中で、一つの偉大な知性が、大恩のある師が、そしてかけがえのない友が完全に沈黙した。
※※※※※※
どれくらいの時間が経っただろうか。
一秒か、あるいは永遠か。
巨大で禍々しいヴォーラの亡骸を背景に、傷ついた少年が、小さな賢者の亡骸を抱きしめている。その横では、奇妙な半透明の生き物が、ただ静かに寄り添っていた。
その非現実的で、あまりに悲壮な光景だけが、そこにあった。
「……ぁ…」
喉の奥から、空気がかすれる音がした。
ベルクトの死。
その事実が、凍てついた思考を無理やり溶かし、感情の濁流となってカイの全身を叩きのめした。
「あ……ああ……あああああああああああああッ!」
それは、声ではなかった。 言葉としての意味をなさず、ただ魂が引き裂かれるような、獣じみた咆哮。カイは天を仰ぎ、ただ泣き叫んだ。
旅の記憶が、奔流となって脳内を駆け巡る。
初めて会った安酒場での、胡散臭いがどこか品のある佇まい。
得意げに毒キノコを差し出してきた、子供のような笑顔。
世界の「律動」について、楽しそうに語ってくれた真剣な横顔。
野盗を躊躇なく殺した後の、氷のように冷たい合理的な瞳。
灰色の渓谷で、カイの作った不味いスープを「悪くない」と呟いた、不器用な優しさ。
その全てが、この腕の中で、永遠に失われた。
そのカイの慟哭に呼応するように、隣で震えていたプリルが、初めて聞くような悲痛な鳴き声を上げた。それは、様々な声色を模倣する能力が暴走したかのように、赤子の鳴き声、鳥の悲鳴、あるいは風の呻き声のように聞こえた。 やがて、その鳴き声は、たどたどしい、しかし明確な言葉になった。
「ベルクト……帰ってきてよぉ……」
ベルクトの顔にそのゼリー状の体をすり寄せ、子供のようにただただ泣きじゃくるプリルの姿が、カイの心をさらに深く抉った。
流れるカイの涙が、ベルクトの冷たい頬を伝い、乾いた血と混じり合って、ひび割れた大地へとぽつりと吸い込まれていった。




