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第39話 星詠みの導き

 ヴォーラは、自らの罠が成功し、厄介な魔術師を無力化したことに勝ち誇ったような唸り声を上げた。そして、とどめを刺そうと、その巨大な頭部を持ち上げる。


 だが、その動きが、ぴたりと止まった。


 地に膝をつき、血の海に沈むベルクトが、最後の力を振り絞っていた。彼は残った右手で杖を地面に突き立てる。地面が大木のように隆起し、ヴォーラの巨体をほんの一瞬だけ拘束していた。


「……これで……終わりにはせん……」


 ベルクトが、血の泡を吹きながら呟く。


「カイ……最後に、魂魄魔法の極致を見せよう……!」


 ベルクトの胸から、彼自身の魂の一部が、眩いばかりに輝く光の楔となって抜き出されていく。それは彼の生命そのものだった。


 彼は、自らの生命エネルギーそのものを触媒として、禁断の術を発動させようとしていた。彼が長年探求し、そのために王国を追われ、狂人と呼ばれた研究。その究極の応用。


「魂よ…、混ざり合い…、そして、乱れよ…!」


 ベルクトの体から、凄まじい量の魔力が流れ出る。同時に、カイの「共鳴感知」は、師の存在そのものが急速に燃え尽きていく様を、痛いほど鮮明に捉えていた。


 禁呪は、完成した。


 不可視の衝撃波が、ヴォーラへと炸裂する。それは物理的な破壊とは次元が違う、魂の根源に直接干渉する一撃だった。


 グギャアアアアアアアアアアアアア―――ッ!?


 ヴォーラの巨体が、内側からの圧力に耐えきれず、激しくのたうち回る。


 その漆黒の鱗の隙間という隙間から、無数の光の粒子が噴き出し始めた。


 それは、過去にヴォーラが貪り喰らった、幾万もの生命の魂の残滓だった。


 苦しみの青。怒りの赤。悲しみの灰色。後悔の濁った緑。それらのおぞましい魂の叫びが、悍ましくも美しい光の嵐となって、ヴォーラの体表を駆け巡る。 強大だが歪に調和していたヴォーラの「律動」は、完全に掻き乱され、不協和音のような苦悶の咆哮が、ロッカの廃墟に木霊した。


 しかし、術の反動は、ベルクトの生命を限界まで蝕んでいた。詠唱を終えると同時に、彼は再び激しく血を吐き、今度こそ、完全にその場に崩れ落ちた。


「…………ベルクト……」


 カイの口から、か細い声が漏れた。


 師の自己犠牲。プリルの絶叫。そして、脳裏を鮮烈に過る、レナータの顔。「生きて帰ってきな」――潤んだ彼女の瞳と、交わした約束。


 ここで終わってたまるか。ここで、全てを無駄にして、たまるか。


 視界が一度、真っ白に染まる。


 完全な静寂の中、ベルクト、カーラ、レナータ、そしてプリル。大切な人々の声が、脳裏で鳴り響く。


 世界から、色が消えた。音が、旋律に変わった。


 カイの視界の中で、燃え盛る炎も、崩れた瓦礫も、苦悶するヴォーラの巨体も、全てが意味を失い、ただ、無数の「律動」の流れとして再構築されていく。これまでノイズにしか聞こえなかった世界のざわめきが、一つ一つの意味を持つ音符として、彼の魂に直接流れ込んでくる。


 時間の流れが、蜜のようにねっとりと緩やかになった。


 カイの瞳の奥で、銀色の燐光が、静かに、しかし強く灯った。


 もはや、ヴォーラは恐怖の対象ではなかった。ただ、解析すべき、巨大で複雑な「律動の塊」でしかなかった。


 その瞬間、腰に提げた短剣が、彼の覚醒に呼応した。


 柄に埋め込まれた「星詠みの涙」が、心臓のように強く、そして氷のように冷たい脈動を始めたのだ。

 

 カイの意識と、宝石が繋がる。


 彼の感覚野に、一本の清浄な銀色の光の糸が伸び、それが触手のように周囲の世界へと広がっていく。


 ヴォーラが放つ、禍々しい不協和音の嵐。その中で、カイは「視た」。


 たった一点。無秩序と混沌の律動の中で、唯一、秩序と法則性を保ちながら、強く、気高く脈打つ「核」の存在を。


 ヴォーラの心臓の真上。ベルクトの禁呪によって奇跡的に剥がれ落ちた数枚の鱗、その隙間から、苦悶の律動が最も激しく噴き出していた。


 弱点。それは、もはや直感などという曖昧なものではない。世界の法則そのものが、カイに絶対的な確信を告げていた。


 血の海に沈み、崩れ落ちていく師の最後の姿を、カイは覚醒した感覚の中、網膜に焼き付けた。 老賢者は、カイを一瞥し、その瞳の奥で、ほんのわずかに、満足げに笑ったように見えた。


 それが、合図だった。


 カイは静かに頷いた。恐怖も、迷いも、今はなかった。友がその命を賭して拓いてくれたこの道を、進むだけだ。


 脚は震えていた。極限の集中下にあっても、肉体は正直に悲鳴を上げている。心臓は、胸郭を内側から破壊せんばかりに激しく暴れていた。


 だが、心は凪いでいた。


 カイはレナータが鍛えた『糸杉』を両手で握りしめ、地を蹴った。狙うはヴォーラの肩口。核ではないが、その動きをわずかでも阻害できる鱗の隙間。


「オオオオッ!」


  雄叫びと共に、渾身の力で剣を突き立てる。ズンッ、という重い手応えと共に、剣はヴォーラの硬い皮膚を貫き、深く突き刺さった。


 巨龍が痛みと驚愕に身をよじる。その動きを阻害する「楔」は、確かに打ち込まれた。


 だが、その一撃の凄まじい負荷に、『糸杉』の刀身が耐えきれなかった。ミシリ、と嫌な音が響き、刀身に大きな亀裂が走る。


  ――『糸杉の木は一度折れたら、二度と芽吹かない。それで終わりだ』


 レナータの言葉が、脳裏をよぎる。


 カイはその一瞬に全てを賭けた。


 大地を蹴る。砕け散る寸前の『糸杉』の柄を足掛かりにして、ヴォーラの巨体を駆け上がる。その動きには、一切の迷いも恐怖もない。ただ、天啓のように示された弱点へ向かう、純粋な意志があるだけだった。


 長剣を手放し、空になった右手に、腰の短剣を抜き放つ。


 柄に埋め込まれた「星詠みの涙」が、まるでこの瞬間のために存在したとでも言うかのように、暁の明星のごとき苛烈な輝きを放った。


 覚醒した「共鳴感知」が、宝石の律動が、そしてカイの魂そのものが、ただ一点を指し示している。


 巨体から放たれる圧倒的な魔力、その生命エネルギーの奔流。その中に、ほんの一瞬、針の先ほどの微かな淀み。――遠くで、鐘の音が聞こえる。


 彼は短剣を、龍の弱点へと突き立てた。


 ブシュッ、と。熱い肉を貫く、生々しい音が響いた。


 短剣に嵌め込まれた「星詠みの涙」が、断末魔のような閃光を放つ。


 ヴォーラは、信じられないというように、その紅蓮の瞳を大きく見開いた。その目に映るのは、ただの矮小な人間の姿。その口から漏れたのは、もはや咆哮ではなかった。驚愕と、理解不能なものへの畏怖が混じった、ただの喘ぎだった。


 天を焦がすほどの、最後の断末魔。それは、一つの時代が終わる音だった。


 やがて、その巨体は、ゆっくりと、山が崩れ落ちるように、大地へと傾いでいく。地響きが轟き、ロッカの街を揺るがし、そして――。


 全ては、終わった。



 ※※※※※※



 ヴォーラの巨体が完全に動きを止め、全ての音が死に絶えたかのような静寂が戦場を支配した。

 カイは、まだ龍の骸に短剣を突き刺したまま、その背の上で、肩で荒い息をついていた。

 全身が傷だらけで、魔力も体力も、もう一滴も残っていない。極限の集中から解放された途端、全身の骨が軋むような激痛が彼を襲った。


 勝った。その実感が、しかし、高揚感をもたらすことはなかった。


 ただ、ひたすらに、虚しい。


 カイは、よろめきながらヴォーラの巨体から滑り降りた。そして、ただ一点を目指して、足を引きずるように歩き出す。


 膝をつき、意識を失いかけているベルクトと、その胸元にすがりついて泣きじゃくるプリルの元へ。


 遠くで、街の混乱が徐々に静まり、生き残った人々の安堵の声や、あるいは新たな悲しみに泣き叫ぶ声が、微かに聞こえ始めていた。


 だが、そんな音は、もはやカイの耳には届いていなかった。


 彼は、一歩、また一歩と、傷ついた足を引きずりながら、かけがえのない師の元へと、ただひたすらに歩み寄っていく。視界が、滲んでいく。


 それは、極度の疲労のせいか、あるいは、こみ上げてくる熱いもののせいか。カイには、もう、分からなかった。

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