第38話 神話の戦い
戦いの幕は、ベルクトによって切られた。
そこに普段の飄々とした老人の姿はなかった。彼は杖を構えるでもなく、ただ静かに片手をヴォーラへと差し向ける。それだけだ。
次の瞬間、ヴォーラの頭上に、巨大な炎の槍が出現した。それは、ただの炎ではない。凝縮された太陽の欠片。空気が焦げ、空間が陽炎のように歪む。
ヴォーラが気づき、身を捩った時には、既に炎槍は放たれていた。
音もなく空を裂き、漆黒の鱗に突き刺さる。
――ギャオオオオオオオッ!
ヴォーラが、初めて明確な苦悶の咆哮を上げた。鱗が数枚焼け爛れ、その下から溶岩のような肉が覗く。
だが、ベルクトの攻撃は終わらない。
ヴォーラの足元の大地が隆起し、鋭い岩の槍が幾本も突き上げ、巨龍の足元を拘束する。絶対零度の吹雪が渦を巻き、ヴォーラの動きを一瞬にして鈍らせる。
それは、もはや魔法というよりも、天変地異の顕現だった。
何万の兵をもってしても敵わぬだろう圧倒的な力が、たった一人の老人の手によって、流麗かつ無慈悲に繰り出されていく。
その大規模な魔法の応酬の中を、カイは駆け抜けた。
これまでの訓練で培った全てを、この一瞬に叩きつける。
「共鳴感知」を研ぎ澄ませる。
ヴォーラの巨体が放つ、禍々しくも強大な「律動」。その流れを読み、次に来る攻撃――爪の薙ぎ払いや尻尾の一撃の予兆を捉え、紙一重で回避する。
「ぐっ……!だけど、いける!」
カイは歯を食いしばり、ヴォーラの体勢が崩れた一瞬の隙を突く。狙うは鱗と鱗の継ぎ目。そこへ、レナータの技の粋を集めた長剣『糸杉』を突き立てた。
ズブリ、と確かな手応え。安物の剣では傷一つ付けられなかったであろう硬い皮膚を、剣は易々と切り裂いた。そして、隙を見て、魔法を叩き込む。
「――燃えろッ!」
掌から放たれた炎の矢が、ヴォーラの巨大な眼球を狙う。巨体に対してはあまりに小さい攻撃だが、ヴォーラは鬱陶しげに顔を背けた。
レナータが新調してくれた鎧が、ヴォーラの起こす衝撃波や飛んでくる瓦礫から、カイの身を何度も守ってくれた。そして、手にした長剣の、吸い付くような感触と確かな重みが、カイに勇気を与えてくれる。
彼は徐々に、この地獄のような戦いのリズムを掴み始めていた。
突如、ベルクトの放った最大級の雷撃が直撃し、ヴォーラはひときわ大きな苦悶の声を上げて、広場の中央に墜落した。
黒煙を上げる巨体は痙攣し、動きを止める。
そして、まるで最後の抵抗を諦めたかのように、無防備な腹部を晒した。
「好機だ!」
まだ戦意を失っていなかった街の衛兵たちが、その隙を逃すまいと雄叫びを上げて殺到する。カイもまた、ヴォーラの腹部へと駆け寄った。
その瞬間だった。
ベルクトが「待て、カイ! 罠だ!」と叫んだのと、ヴォーラの瞳が嘲笑うかのように細められたのは、ほぼ同時だった。
次の瞬間、隠されていた強靭な尾が、鞭のようにしなり、地面を薙ぎ払った。
「しまっ――!」
カイは咄嗟に防御の姿勢を取るが、あまりの威力に吹き飛ばされ、建物の残骸に叩きつけられる。
衛兵たちは、赤子の手をひねるように宙を舞い、絶命した。
さらに、ヴォーラは翼で意図的に砂塵を巻き上げ、カイたちの視界を奪う。
砂塵が晴れかけた、その瞬間。
カイの眼前に、地獄の門が開いた。 開かれたヴォーラの巨大な顎。何重にも並ぶ鋸状の牙が、彼の運命を嘲笑うかのように並んでいた。
そして、カイは―― いや、戦場にいた全ての者が、肌で、魂で、感じ取った。
地獄の釜のように暗い口の奥から、全ての音を喰らうかのような、絶対的な「静寂」が生まれつつあることを。
戦場を吹き荒れていた風が、ぴたりと止んだ。まるで世界から音が消えたかのように、異常なまでの「凪」が訪れる。
炎の揺らめきすら、一瞬だけ動きを止めたように見えた。
カイは肌を粟立たせた。『共鳴感知』が、悲鳴を上げている。周囲一帯の大気の「律動」が、その流れも、囁きも、呼吸さえも、たった一体の生物――ヴォーラに、完全に掌握されたのだ。
ヴォーラが、深く、長く息を吸い込む。
次の瞬間、巨龍はカイへと続く直線上の空間から、全ての「風の律動」を根こそぎ奪い去った。 カイの目には、前方の空間が陽炎のようにぐにゃりと歪み、そこだけ「風が死んだ」かのような透明な道が生まれたように見えた。
音もなければ、衝撃もない。ただ、絶対的な「無」が、カイに向かって突き進んでくる。
その虚無の道の両脇では、ぽっかりと空いた空間の穴を埋めようと、周囲の空気が悲鳴のような音を立てて流れ込み、ガラス片のように鋭い、無数の乱気流を生み出していた。
これが、ヴォーラの魔法。天災そのものを武器とする、狡猾で残忍な一撃。
気圧の急激な低下による肉体の破壊。そして、その全てが終わった後に訪れる、遅延式の暴風の衝撃波。
――死だ。
抗うことも、避けることも許されない、絶対的な死の宣告。
時間が、スローモーションのように引き伸ばされる。
絶望に凍り付くカイの身体を、背後から強い力で突き飛ばしたのは、ベルクトだった。
「――カイッ!」
師の、切羽詰まった声。
次の瞬間、カイの体は、魔法の力によって、あらぬ方向へと強く突き飛ばされた。
地面を転がり、瓦礫に背を打ち付けたカイが顔を上げた直後、世界は破裂した。
彼がほんの数秒前まで立っていた空間。そこに生まれた「虚無」が、その存在を維持できずに崩壊したのだ。四方八方から、その虚無を埋めようと空気が凄まじい勢いで殺到し、中心で激突する。
――音がなかった。内側から膨張する純粋な力の塊が、暴風そのものとなって炸裂し、遅れて、世界が揺れるほどの轟音が鼓膜を打つ。
だが、その壊滅的な衝撃波がカイに届くことはなかった。
ベルクトが、そこに立っていたからだ。
カイが突き飛ばされた直後、彼は残った右手で杖を地面に突き立て、自らの背後に、渦巻く風の律動を鎮めるかのような、淡く翠色に輝くドーム状の空気の壁を展開していた。それはまるで、嵐の夜に灯るランタンの光のように、儚く、しかし気高い光を放っていた。
暴風が、その翠色の壁に激突する。悲鳴のような高周波が響き、表面に蜘蛛の巣のような亀裂が無限に広がっていく。ベルクトは歯を食いしばり、その場に踏みとどまろうとするが、天災そのものを人の身で受け止めるには、限界があった。
パリン、と。ガラスが砕けるような、澄んだ音が響いた。
次の瞬間、結界は光の粒子となって砕け散り、相殺しきれなかった衝撃波の奔流が、ベルクトの老いた体を容赦なく打ち据えた。
「――がっ……!」
糸が切れた操り人形のように、ベルクトの体は宙を舞い、背後の崩れた壁に叩きつけられる。彼の左腕は、ありえない方向に折れ曲がり、口からはびしゃりと大量の鮮血が吐き出された。
「ベルクトーー! やめてーー!」
プリルが、これまでに聞いたこともない、魂を引き裂くような悲痛な絶叫を上げた。 その小さな体はカイのそばに転がり、涙を流すかのように体を震わせながら、必死に声を張り上げる。
「カイ! カイ、しっかりして! ベルクトが……ベルクトが………!」
カイは、その光景を、スローモーションのように見ていた。
師が、自分を守るために血を流している。
友が、自分を庇うために、地に伏している。
自らの非力さが、この結果を招いた。
絶望が、黒い泥のように心を塗りつぶす。怒りが、灼熱の鉄となって腹の底から突き上げてくる。――ぐ、と喉の奥で何かが軋む。
その瞬間、カイの世界は、変貌した。




