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第32話 献身と帰還

 カイが最初にしたのは、安全な場所の確保だった。


 広間の天井は崩れているが、かろうじて雨風をしのげる。カイは瓦礫を片付け、隙間風を防ぐために布や板切れを集めた。


 行商人時代に培った生存のための知恵が、今ほど役に立ったことはない。


 毛布という毛布を掻き集め、ベルクトの体を包む。だが、いくら重ねても、その恐ろしい冷たさは和らがない。


 カイは自分の体温を分け与えるように、ベルクトの手足を必死に擦った。掌が擦り切れ、血が滲んでも止めなかった。


 次は火だ。


 カイは集めた湿った薪の前で膝をつき、精神を集中させた。


 ベルクトに教わった初歩の火の魔法。指先に意識を込め、律動を束ねる。「――燃えろ」。


 指先に灯った小さな火種を、慎重に薪に移す。だが、湿った薪は燻るだけで、なかなか燃え上がらない。火を維持するための精密な魔力制御は、疲弊した今のカイには酷な作業だった。


「くそっ、こんな時に…!ベルクトみたいに簡単にはいかない…!」


 カイは歯を食いしばり、何度も失敗を繰り返しながら、ようやくか弱い炎を育てることに成功した。


 焚き火の煙の匂いが、廃墟の湿ったカビの匂いに混じる。その頼りない光が、カイの疲労と決意に満ちた表情と、ベルクトの蝋人形のような顔を交互に照らし出した。


 食料の確保も必要だった。


 自分たちの荷物には、数日分の食料――レンガのように硬くなった黒パンと、石のように干からびた肉――は入っている。


 だが、意識のない人間に食べさせられるものではなかった。


 灰色の渓谷には、ほとんど生命は存在しない。だが、カイは諦めなかった。


 行商人時代の知識を頼りに、食べられる薬草や、わずかに残る木の根などを探し回し、細かく刻んで水で炊く。


 出来上がったものは苦く、えぐみのある、泥水のような液体だった。


 カイは、その液体を布に染み込ませ、ベルクトの唇を湿らせるように、一滴、また一滴と、根気よく含ませていった。


 以前ロバのロシナンテを介抱した時のことが頭をよぎった。今でもあの時のことを思い出すと胸が張り裂けそうになる。それでも、嫌な想像を振り払うように、カイは懸命に看病した。


 夜が来て、また朝が来る。その繰り返しが、どれほど続いただろうか。カイは三日間、ほとんど眠れていなかった。目の下には深い隈が刻まれ、手は火傷と切り傷で荒れていた。


 本当にベルクトは戻ってくるのか。自分のやっていることは、無駄な足掻きなのではないか。そんな不安が、悪魔のように囁きかける。


 だが、諦めたら終わりだ。信じるしかなかった。


 カイが疲れ果て、焚き火の前でうたた寝をしていると、プリルがそっと彼の頬に体をすり寄せた。


「カイ、大丈夫? ベルクト、きっと元気になるよ!」


 その小さな温もりと、健気な言葉が、カイの張り詰めた心を、どれほど慰めてくれたことだろうか。


 それは、派手な戦闘とは対極にある、地味で、静かで、しかし壮絶な「生命を繋ぎ止めるための戦い」だった。



※※※※※※



 目覚めは、静寂の中に訪れた。


 最初に感じたのは、暖かさ。それから、規則正しい呼吸音。誰かが、すぐ近くで息をしている。確かな生命の音。


 ベルクトはゆっくりと目を開けた。


 彼の意識は、魂の構造に関する新たな知見を得たという、研究者としての至上の満足感に満たされていた。魂とは個にして全。その律動の調和を人為的に乱すことで、存在そのものを揺るがすことすら可能かもしれない……。


 だが、そんな知的な興奮は、次の瞬間、驚愕へと変わった。


 身体が、動かない。まるで鉛のように重く、そしてひどく衰弱している。


 視線だけで周囲の状況を確認する。燃えさし、スープの残り、自分の身体を包むごわごわした毛布。そして、傍らで疲れ果てて眠る、若い弟子の姿。


 ベルクトは、無言でその光景を見つめた。鋭い知性は即座に状況を理解した。


 自分は、探求の代償として、肉体的には死の淵を彷徨っていたのだ。そして、この不器用で、しかし献身的な若者が、ただひたすらに自分を生かそうとしてくれていたのだと。


 研究は、計画通りに進んだ。だが、目の前の計り知れない献身を前にして、独力で成し遂げたなどという傲慢な思考は霧散した。


 カイが目を覚ました。重い瞼を持ち上げ、ぼんやりとベルクトを見る。数秒の間があった。そして、理解が瞳に宿る。


「ベルクト......!大丈夫か!?体は!?どこか痛むところは!?」


 カイは飛び起きた。いや、飛び起きようとして、疲労で思うように体が動かず、よろめいた。それでもベルクトに駆け寄り、その肩を掴む。


 矢継ぎ早の質問に、ベルクトは苦笑した。そして、いつもの調子で答える。


「うるさいぞ、カイ。少しは静かにできんのか」


 だが、その声には紛れもない温かみが宿っていた。カイの中に心からの安堵と喜びが広がる。涙が溢れそうになるのを、彼は慌てて腕でごしごしと拭った。


 プリルも目を覚まし、ベルクトの胸に飛びつく。


「ベルクト!すっごく心配したんだよ!よかったー!」


 ベルクトは、まとわりつくプリルを邪険にせず、そっと撫でた。その手つきには、確かに親愛が込められていた。


 それからベルクトは魂魄魔法を用い、流石に本調子ではないものの、数日で別人のように体力が回復していた。その超常的な治癒力は、カイに魔法というものの底知れなさを改めて見せつけていた。


 旅立てるまでに回復した日、ベルクトは準備を整えるカイに、落ち着いた声で話しかけた。


「カイ、君には礼を言わねばならん」


 落ち着いた、これ以上ないほど真摯な声だ。


「君がいなければ、私の肉体は、魂の探求という負荷に耐えきれず、渓谷の冷たい石になっていただろう。私は、君に命を救われた」


 カイは照れくさそうに頭を掻いた。


「別に......あんたが勝手にぶっ倒れただけだろ」


 だが、その表情は嬉しそうだった。ベルクトは続ける。カイの目を真っ直ぐに見つめながら。


「私はこれまで、君を才能ある弟子、興味深い若者として見てきた。だが、少し傲慢だったようだ。私もまた、君という友人から多くのものを得ていた」


 友人。


 その言葉が、カイの胸に深く、温かく染み渡った。この老人が、自分の才能だけでなく、自分という人間そのものを認め、必要としてくれた。そのことが存外に嬉しかった。


 やがて、ベルクトが口を開く。


「さて、そろそろ発つとしよう」


 朝日を背に受けながら、彼らは歩き始める。


 ベルクトは杖に寄りかかり、まだ完全ではない体力で一歩一歩進む。カイはそんな彼のペースに合わせ、時折手を貸しながら歩く。プリルは相変わらず無邪気に、しかし二人を見守るように付き添っている。


 二人の足音だけが、荒涼とした灰色の大地に静かに響く。それはもはや、師と弟子のそれではなかった。

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