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第31話 知の代償

 どれくらいの時間が経ったのか。


 全身を叩きつけていた不協和音は、いつの間にか止んでいた。だが、脳裏に焼き付いた断片的な光景は、幻覚などではないと『共鳴感知』が確信している


 プリルはカイのマントの中でぐったりと意識を失っている。時折、苦し気に身じろぎするだけだ。


 ふと気がつくと、ベルクトの輪郭は陽炎のように揺らめいている。


 ベルクトの魂——その存在の核が、肉体という器から少しずつ、しかし確実に剥離していた。


 それは水が砂に染み込むように、音もなく、不可逆的な変化だった。


 カイの共鳴感知は、ベルクトの魂が向かう先を朧げに捉える。それはどこまでも果てしなく続く、この世の絵の具を全て混ぜたような濁り切った闇であった。


 今すぐベルクトの肩を掴み、この狂気の儀式を止めなければならない。理性がそう叫ぶ。


 だが――もしここで中断させたら?魂だけが深淵に取り残され、二度とこの肉体に戻れなくなったら?それは、この手で師を殺すのと同じことではないか。


「カイ......カイ、来て......」


 プリルの震え声が、カイの意識を現実へと引き戻した。その半透明の体は、今まで見たことがないほど激しく震えていた。


「ベルクトが...氷みたいになってる...声が、聞こえないよ...どんどん、小さくなっていくみたい...」


 カイは慌ててベルクトに駆け寄った。そして、手を触れて愕然とする。


 冷たい。


 それは単に体温が下がったというレベルではなかった。まるで生命そのものが凍りついたかのような、絶対的な冷たさ。皮膚は蝋のように白く、血の気は完全に失われている。


 呼吸は——している。


 だが、それは一分間に数回という、生きているとは到底思えない間隔だった。


 魔法の暴走や、外部からの攻撃ではない。これは、術の「代償」。カイは直感的に理解した。魂が肉体を離れている間、その器を最低限維持するために、生命活動が極限まで抑制されている。


 術そのものは成功していた。だが、その代償として、ベルクトの肉体は急速に衰弱していく。


「くそっ、何なんだよ、これ……!勝手にどっかへ行くな……!」


 カイの口から、悪態が漏れる。パニックと絶望が、彼の思考を麻痺させようとしていた。


「ベルクト、死んじゃうの……?プリル、やだよ……ベルクトいなくなるの、やだ……」


 腕の中で震えるプリルの小さな体温と、氷の塊のようになっていく師の姿が、カイの意識を繋ぎ止める。


「……最悪だ」


カイの口から、乾いた声が漏れた。


「あんたのやることは、何もかもが最悪だ。クソ爺……!でも、あんたに教わることは、まだ山ほどあるんだ…!」


 ここで死なせるものか。


 その一念が、パニックに沈みかけていたカイの思考を打ち据えた。今から儀式を中止しても、ベルクトの魂にどんな影響が出るか分からない。ならば、やるべきことは一つだけだ。


「プリル、手伝ってくれ。ベルクトの魂が戻ってくるまで、俺たちがこいつの体を生かし続ける。それが俺たちにできる、唯一のことだ」


 雨音が激しさを増していた。廃墟の屋根を叩く雨は、まるでこの世界そのものが泣いているかのようだった。灰色の渓谷は、さらに深い闇に沈もうとしている。


 だが、カイの瞳には、手間のかかる師を見捨てないという、揺るぎない光だけが宿っていた。

たくさんの作品の中からお時間をいただき、ありがとうございます!


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