表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
31/72

第30話 王立律学院分校跡

 テッラローザを後にして数日、世界の色彩は徐々に失われていった。


 なだらかな丘陵地帯と赤レンガの街並みは遠ざかり、旅路を覆うのは、常に鉛色の曇天と、時折世界を塗りつぶす冷たい霧雨だけになった。


「灰色の渓谷」と呼ばれるその土地は、生命の気配が死に絶えた場所だった。植物という植物は枯れ果て、まるで世界の骨格が剥き出しになったかのように、岩肌がどこまでも広がっている。


 灰色、黒、そして湿った土の焦げ茶色。それ以外に色を持たない、モノクロームな風景が延々と続く。


「ここは...」


 カイは、この土地に足を踏み入れた瞬間から、言いようのない圧迫感に苛まれていた。


 空気が重い。まるで、水底を歩いているようだ。


「共鳴感知」が捉えるこの土地の「律動」は、異常なまでに静まり返り、彼の精神をじわじわと蝕んでいく。


 それは恐怖や敵意といった分かりやすいものではなく、むしろ完全な「無」や「虚無」に近い感覚だった。あらゆる生命の歌が止み、永遠の沈黙だけが支配する場所。


 プリルはカイのマントの中に潜り込み、小さく震えていた。


「ここ、やだ……なんか、息がしにくいよ……」


 ベルクトだけが、むしろ興味深そうに周囲を見回していた。その瞳には、抑えようのない知的好奇心が宿っている。


 なぜ、こんな場所に来ることになったのか。カイの脳裏に、テッラローザで交わした会話が蘇った。


 ※※※※※※


 カーラを交えた宴会の少し前、ベルクトと2人きりになったタイミングで、カイには尋ねなければならないことがあった。


「ベルクト。装備が出来たら次はどこへ向かうんだ?」


 その問いは、新たな旅の始まりを告げる合図だった。ベルクトは、カイの決意に満ちた瞳を見て、ふむ、と一つ頷いた。


「私の長年の研究に、一つの区切りをつけに行きたい。少々、付き合ってもらうぞ」


 ベルクトは地図を広げ、テッラローザから数日北にある一点を指した。


「ここだ。王立律学院の古い分校跡。今はもう廃墟だが、私の研究には好都合な場所でな」


「あんたの研究って…また何か危ないことじゃないのか?」


 カイの率直な問いに、ベルクトは悪びれもせずに答えた。


「被検体が必要な研究ではないが、その可能性は否定できん。だからこそ、君が必要だ。”観察”している数日間、私の身体は完全に無防備になる。君の『共鳴感知』は、万が一の危険を察知する上でも有用だろう?」


 それは、カイの能力を試すような、師から弟子への問いかけだった。


 初めて、ベルクトが自分を頼っている。その事実が、カイの胸に熱と、ずしりとした責任感を同時に宿した。


「……分かった。行こう、ベルクト」


 カイが力強く頷くのを見て、ベルクトは満足そうに口の端を微かに上げた


 ※※※※※※


 やがて、霧の向こうに、打ち捨てられた巨人の骸のようなシルエットが浮かび上がった。「王立律学院分校跡」。風化した石造りの建物は半ば崩れ落ち、無数の蔦が、その死体に絡みつく蛇のように建物を覆っている。


 かつては王国を代表する知の殿堂も、今では不気味なほどの静寂に包まれている。


「かつてここは、世界の『律動』が特に強く、そして安定している場所として知られていた」


 彼は立ち止まり、灰色の大地に手を触れた。指先で土を掬い、さらさらと零す。


「各地から優秀な学者が集い、昼夜を問わず真理を探求した。私もまた、若い頃にここで多くを学んだ。だが、今となっては見る影もないな」


 ベルクトは、分校跡の無残な姿に一瞬だけ、感傷とも哀悼ともつかない表情を見せ、手慣れた様子で廃墟の中へと足を踏み入れた。


 カイとプリルも後に続く。内部は外観以上に荒れ果てていた。床には瓦礫が散乱し、天井からは雨水が滴り落ちている。空気は湿気とカビの匂いに満ちていた。


 だが、ベルクトは迷うことなく奥へと進んでいく。まるで、かつて歩き慣れた道を辿るかのように。


 やがて、比較的保存状態の良い広間に辿り着いた。


「ここだ」


 ベルクトが儀式の場所に選んだのは、分校跡の中央に位置する、かつて大広間だったであろう場所だ。


 広間の中央には、既に複雑な魔法陣が描かれていた。幾何学的な模様と古代文字が絡み合い、見る者に眩暈を起こさせるような複雑さだった。どのように描かれたものかも分からないが、その線は今も鮮明で、微かに律動を放っている。


 カイは共鳴感知を研ぎ澄ませた。すると——


「っ……!」


 カイの共鳴感知が、その律動の異質さを告げていた。深く、重く、そして危険な匂い。それはまるで、足元に開いた深淵そのものだった。覗き込めば、魂ごと引きずり込まれるような、本能的な恐怖。


「ベルクト、これは……」


「これは私が学生時代に、古文書を参考に独学で構築した、いわば処女作のようなものだ」


 ベルクトの声は、いつになく真剣だった。彼は懐から幾つかの触媒を取り出し、魔法陣の要所に配置し始める。その手つきに迷いはない。


 プリルがカイの袖を引っ張った。


「ねぇ、カイ……なんか、変だよ。ベルクト、いつもと違う……」


 プリルの言う通り、ベルクトの纏う空気が違う。普段の飄々とした態度は影を潜め、研究者特有の、狂気に似た熱が彼の全身から立ち昇っていた。


 外では霧雨が豪雨に変わっていた。石造りの廃墟に当たる雨音が、太古の太鼓のようなリズムを刻む。


 やがて、全ての準備を終えたベルクトが、魔法陣の中心で静かに息を吸い込んだ。


「これから魂の深淵へ挑む。術が私の精神を肉体から引き剥がしている間、この身体に何が起きるか、私にも完全には予測できん。あとは頼んだぞ」


 彼がそう呟き、指を鳴らした瞬間――世界が軋む音がした。


「────ッ!?」


 音ではない。カイの魂そのものを直接殴りつけるような、強烈な不協和音。彼の『共鳴感知』が、この土地そのものが発する断末魔の悲鳴を捉えていた。足元の大地が、世界の法則が、無理矢理ねじ曲げられていくような圧倒的な苦痛。


「か……ぃ……たす、け……」


 プリルの身体が、ノイズの走った映像のように激しく点滅し、その半透明の体内で渦巻く“影”が苦悶にのたうつのが見えた。漏れ聞こえる声は、もはやプリル一人のものではなく、何十人もの絶叫が混じり合ったおぞましい合唱だった。


 脳が焼ける。視界が赤く染まる。カイの意識に、理解を超えたイメージの濁流が流れ込んできた。


 天を覆う、漆黒の翼。燃え盛る街。絶望に染まった人々の顔。


「やめろ……ベルクトッ!!」


 叫ぼうとした声は、喉の奥で音にならずに消えた。身体は金縛りにあったように動かない。


 師の顔を見る。


 ベルクトは、カイやプリルの苦悶に気づいているのかいないのか、恍惚とした表情で、虚空に開いた“何か”を覗き込んでいた。その瞳に、もはや理性はない。


 世界の根源を喰らい尽くさんとする、我が身さえ顧みない底なしの好奇心。


 カイは悟った。自分がこれまで見てきた姿は、その巨大な狂気の、ほんの上澄みに過ぎなかったのだ、と。

たくさんの作品の中からお時間をいただき、ありがとうございます!


よろしければ↓のポイントから★1でもリアクションを頂けると、とても励みになります。よろしくお願いします!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ