第30話 王立律学院分校跡
テッラローザを後にして数日、世界の色彩は徐々に失われていった。
なだらかな丘陵地帯と赤レンガの街並みは遠ざかり、旅路を覆うのは、常に鉛色の曇天と、時折世界を塗りつぶす冷たい霧雨だけになった。
「灰色の渓谷」と呼ばれるその土地は、生命の気配が死に絶えた場所だった。植物という植物は枯れ果て、まるで世界の骨格が剥き出しになったかのように、岩肌がどこまでも広がっている。
灰色、黒、そして湿った土の焦げ茶色。それ以外に色を持たない、モノクロームな風景が延々と続く。
「ここは...」
カイは、この土地に足を踏み入れた瞬間から、言いようのない圧迫感に苛まれていた。
空気が重い。まるで、水底を歩いているようだ。
「共鳴感知」が捉えるこの土地の「律動」は、異常なまでに静まり返り、彼の精神をじわじわと蝕んでいく。
それは恐怖や敵意といった分かりやすいものではなく、むしろ完全な「無」や「虚無」に近い感覚だった。あらゆる生命の歌が止み、永遠の沈黙だけが支配する場所。
プリルはカイのマントの中に潜り込み、小さく震えていた。
「ここ、やだ……なんか、息がしにくいよ……」
ベルクトだけが、むしろ興味深そうに周囲を見回していた。その瞳には、抑えようのない知的好奇心が宿っている。
なぜ、こんな場所に来ることになったのか。カイの脳裏に、テッラローザで交わした会話が蘇った。
※※※※※※
カーラを交えた宴会の少し前、ベルクトと2人きりになったタイミングで、カイには尋ねなければならないことがあった。
「ベルクト。装備が出来たら次はどこへ向かうんだ?」
その問いは、新たな旅の始まりを告げる合図だった。ベルクトは、カイの決意に満ちた瞳を見て、ふむ、と一つ頷いた。
「私の長年の研究に、一つの区切りをつけに行きたい。少々、付き合ってもらうぞ」
ベルクトは地図を広げ、テッラローザから数日北にある一点を指した。
「ここだ。王立律学院の古い分校跡。今はもう廃墟だが、私の研究には好都合な場所でな」
「あんたの研究って…また何か危ないことじゃないのか?」
カイの率直な問いに、ベルクトは悪びれもせずに答えた。
「被検体が必要な研究ではないが、その可能性は否定できん。だからこそ、君が必要だ。”観察”している数日間、私の身体は完全に無防備になる。君の『共鳴感知』は、万が一の危険を察知する上でも有用だろう?」
それは、カイの能力を試すような、師から弟子への問いかけだった。
初めて、ベルクトが自分を頼っている。その事実が、カイの胸に熱と、ずしりとした責任感を同時に宿した。
「……分かった。行こう、ベルクト」
カイが力強く頷くのを見て、ベルクトは満足そうに口の端を微かに上げた
※※※※※※
やがて、霧の向こうに、打ち捨てられた巨人の骸のようなシルエットが浮かび上がった。「王立律学院分校跡」。風化した石造りの建物は半ば崩れ落ち、無数の蔦が、その死体に絡みつく蛇のように建物を覆っている。
かつては王国を代表する知の殿堂も、今では不気味なほどの静寂に包まれている。
「かつてここは、世界の『律動』が特に強く、そして安定している場所として知られていた」
彼は立ち止まり、灰色の大地に手を触れた。指先で土を掬い、さらさらと零す。
「各地から優秀な学者が集い、昼夜を問わず真理を探求した。私もまた、若い頃にここで多くを学んだ。だが、今となっては見る影もないな」
ベルクトは、分校跡の無残な姿に一瞬だけ、感傷とも哀悼ともつかない表情を見せ、手慣れた様子で廃墟の中へと足を踏み入れた。
カイとプリルも後に続く。内部は外観以上に荒れ果てていた。床には瓦礫が散乱し、天井からは雨水が滴り落ちている。空気は湿気とカビの匂いに満ちていた。
だが、ベルクトは迷うことなく奥へと進んでいく。まるで、かつて歩き慣れた道を辿るかのように。
やがて、比較的保存状態の良い広間に辿り着いた。
「ここだ」
ベルクトが儀式の場所に選んだのは、分校跡の中央に位置する、かつて大広間だったであろう場所だ。
広間の中央には、既に複雑な魔法陣が描かれていた。幾何学的な模様と古代文字が絡み合い、見る者に眩暈を起こさせるような複雑さだった。どのように描かれたものかも分からないが、その線は今も鮮明で、微かに律動を放っている。
カイは共鳴感知を研ぎ澄ませた。すると——
「っ……!」
カイの共鳴感知が、その律動の異質さを告げていた。深く、重く、そして危険な匂い。それはまるで、足元に開いた深淵そのものだった。覗き込めば、魂ごと引きずり込まれるような、本能的な恐怖。
「ベルクト、これは……」
「これは私が学生時代に、古文書を参考に独学で構築した、いわば処女作のようなものだ」
ベルクトの声は、いつになく真剣だった。彼は懐から幾つかの触媒を取り出し、魔法陣の要所に配置し始める。その手つきに迷いはない。
プリルがカイの袖を引っ張った。
「ねぇ、カイ……なんか、変だよ。ベルクト、いつもと違う……」
プリルの言う通り、ベルクトの纏う空気が違う。普段の飄々とした態度は影を潜め、研究者特有の、狂気に似た熱が彼の全身から立ち昇っていた。
外では霧雨が豪雨に変わっていた。石造りの廃墟に当たる雨音が、太古の太鼓のようなリズムを刻む。
やがて、全ての準備を終えたベルクトが、魔法陣の中心で静かに息を吸い込んだ。
「これから魂の深淵へ挑む。術が私の精神を肉体から引き剥がしている間、この身体に何が起きるか、私にも完全には予測できん。あとは頼んだぞ」
彼がそう呟き、指を鳴らした瞬間――世界が軋む音がした。
「────ッ!?」
音ではない。カイの魂そのものを直接殴りつけるような、強烈な不協和音。彼の『共鳴感知』が、この土地そのものが発する断末魔の悲鳴を捉えていた。足元の大地が、世界の法則が、無理矢理ねじ曲げられていくような圧倒的な苦痛。
「か……ぃ……たす、け……」
プリルの身体が、ノイズの走った映像のように激しく点滅し、その半透明の体内で渦巻く“影”が苦悶にのたうつのが見えた。漏れ聞こえる声は、もはやプリル一人のものではなく、何十人もの絶叫が混じり合ったおぞましい合唱だった。
脳が焼ける。視界が赤く染まる。カイの意識に、理解を超えたイメージの濁流が流れ込んできた。
天を覆う、漆黒の翼。燃え盛る街。絶望に染まった人々の顔。
「やめろ……ベルクトッ!!」
叫ぼうとした声は、喉の奥で音にならずに消えた。身体は金縛りにあったように動かない。
師の顔を見る。
ベルクトは、カイやプリルの苦悶に気づいているのかいないのか、恍惚とした表情で、虚空に開いた“何か”を覗き込んでいた。その瞳に、もはや理性はない。
世界の根源を喰らい尽くさんとする、我が身さえ顧みない底なしの好奇心。
カイは悟った。自分がこれまで見てきた姿は、その巨大な狂気の、ほんの上澄みに過ぎなかったのだ、と。
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