第29話 旅立ちの朝
宴から数日たった、夜明け前。レナータの工房は、まだ夜の名残を纏っていた。
炉の中で最後の熾火が朱く呼吸をしている。その微かな光が、壁に吊るされた無数の工具たちの輪郭を浮かび上がらせる。
空気は鉄と石炭の匂い、そして昨夜レナータが淹れた薬草茶の苦い香りが混じっている。
カイは、ほとんど眠れないまま、その光景を眺めていた。隣でプリルが、カイのマントを布団代わりにすうすうと寝息を立てている。
工房の奥で、かすかな金属音が響いた。レナータだ。
彼女は作業台の前に立っていた。銀灰色の髪は無造作に束ねられ、その肩には徹夜の疲労が重くのしかかっている。目の下には薄い隈が浮かび、それが彼女の熾火色の瞳をより深く、より切実なものに見せていた。
カイがそっと視線を向けると、彼女は完成した一振りの長剣と、腰に提げるための短剣を、柔らかい鹿革の布で何度も、何度も拭っていた。
カイが静かに立ち上がると、その気配に気づいたレナータが顔を上げた。彼女は少しだけ気まずそうに視線を彷徨わせると、やがて意を決したように、二振りの武具をカイの前に差し出した。
「……できたよ」
その声は、掠れていた。彼女の指先が、カイの手に触れそうになり、慌てたように引っ込む。その一瞬の躊躇いが、彼女の言葉にならない感情のすべてを物語っていた。
カイは差し出された武具を受け取った。ずしり、と腕にのしかかる重み。それは単なる鉄の塊の重さではなかった。レナータがこのひと月の間、自らの魂を削り、炎と対話し、鉄に宿らせた祈りの重みだった。
「……ありがとう、レナータ」
やっとのことで絞り出した言葉は、陳腐で、彼の感動の百分の一も伝えられていないように思えた。だが、レナータは何も言わず、ただカイの目をじっと見つめ返した。
二人の間に、言葉の入り込む隙間のない、張り詰めた沈黙が流れる。カイの吐く息が、朝の冷気の中で白く形を結んでは消えた。
「あれぇ? レナータお姉ちゃん、目にキラキラがいっぱいだよー!?大丈夫ー?」
プリルはカイの肩にぴょんと飛び乗ると、レナータの顔を不思議そうに覗き込んだ。
レナータは、まるで心臓を直接掴まれたかのように、びくりと肩を震わせた。彼女の顔が、炉の火のようにみるみるうちに赤く染まっていく。
「バカ言ってんじゃないの...」
狼狽した彼女は、乱暴に顔を背けると、絞り出すように言った。
「……手入れしに、戻ってきなさいよ。……たまに居るの。せっかくいい剣を鍛えたのに、それを持って2度と戻ってこない奴」
その声は震え、途切れ途切れだった。カイの胸が、強く締め付けられる。彼は、ただ力強く頷くことしかできなかった。気の利いた言葉など、何一つ出てこない。
起きてきたベルクトと共に身支度を整える。そして工房の扉に手をかけ、振り返った時、レナータはもう一度、カイの方を向いていた。
その表情は、先ほどの動揺が嘘のように落ち着いていたが、瞳の奥の熱だけは隠せていなかった。
「……次会う時は、こないだの夜に寝ている私の胸を揉んだこと、説明しなさいよ」
唐突に投げつけられた言葉に、今度はカイが狼狽する番だった。
「え、あ、あれは、その……!」
レナータは、カイの真っ赤になった顔を見て、悪戯っぽく、そして寂しそうにふっと笑った。
外に出ると、朝の冷気が頬を刺す。吐く息が白く立ち昇り、すぐに消えていく。
レナータはカイの匂いでも確かめるように、一瞬だけ抱きつくと、すぐに離れて工房の中へ戻って扉を閉めた。
工房を後にする三人の足音が、石畳に響く。
ベルクトの表情はいつも通り読み取れないが、その瞳にはどこか面白がるような色が浮かんでいた。
「……良い餞になったな、カイ」
彼にしては珍しく素直な、しかし複雑な響きを持つ言葉だった。
カイはもう一度、工房の扉を振り返った。扉は閉まっていて、レナータの姿は見えない。道は雪解け水でぬかるんでいる。しかし彼女の温もりと、鉄の匂い、そしてあの不器用な言葉が、カイの背中をいつまでも温めていた。
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