第2話 ベルクトの片鱗
朝靄が薄く立ち込める中、一行はアウレリア王国の田舎町を背に、テッラローザへと続く街道を踏み出した。
東の空がようやく白み始め、糸杉の細い影が道に長く伸びている。なだらかな丘陵地帯にはオリーブの畑が点在し、未舗装の道は乾いた土埃を舞い上げる。
旅の始まりにはつきもののわずかな期待感がカイの胸にもあったが、それ以上に彼を包んでいたのは、濃い閉塞感だった。
カイは先頭を歩きながら、時折振り返って後ろの二人——いや、一人と一匹を確認した。
黒い外套を纏った老人は、優雅な足取りで歩いているが、その手にぶら下げた荷物の持ち方が明らかにぎこちない。
プリルは老人の肩に乗り、半透明の体を朝の光に透かしながら、あちこちをきょろきょろと見回している。
「本当に、テッラローザまで行けば、あんたの荷物は売れるんだろうな?“高価な魔道具”とやらが売れなきゃ、俺たち野垂れ死にだぜ?」
カイは不信感を隠そうともせずに問いかけた。カイのぼやきに、ベルクトは空を見上げ、まるで他人事のように答える。
「ふむ、金銭の計算は君に任せるとしよう。私はどうも、そういう細々としたことには疎くてな」
その世間知らずな発言に、カイはこめかみを指で強く押さえた。頭痛がする。この老人の呑気さも、それに付き合っている自分の愚かさも、全てが腹立たしかった。
「まあ少なくとも、この辺りの無教養な商人よりは、物の価値を理解する者がいるはずだ」
この老人は、自分の荷物が売れるかどうかさえ確信を持てないらしい。その様子は「無教養な商人」に他ならないカイを、ますます苛つかせる。
そして何よりもカイを不安にさせるのは、ベルクトの鞄から顔を出したり、カイの肩に突然乗ってきたりと、ちょこまかと動き回るプリルだった。
昨夜、宿で聞いたプリルの声真似——悪徳商人の声を完璧に再現したあの不気味な能力が、どうしても気になっていた。
その後もプリルは周囲の動物の鳴き真似や、カイが呟いた独り言などを唐突に真似ては、カイを驚かせた。
「おい、このプリルってやつ、なんで色んな声が出るんだ?」
とうとうカイはベルクトに尋ねた。 ベルクトは、道の脇に咲く名も知らぬ野草の葉脈を熱心に観察しながら、こともなげに答える。
「ああ、あれか。IN212H……いや、プリルだったな。これはな、決まった形を持たないが故に、表面を振動させて音を出している。だから理論上、どんな音でも出せるのだ。」
「プリルはねー、聞いた声、ぜーんぶ覚えちゃうの!」
プリルが甲高い声で答える。この老人の話は理解できないことが多い。カイは疲労を逃がすように、ため息をついた。
道中、カイは無意識のうちに、道端を飛ぶ風切鳥の姿を目で追った。
鳥の羽ばたきのリズムが、この時は妙に気になった。まるで、その動きの中に何か重要なものが隠されているかのような——
「ほう、あの鳥は興味深い飛び方をする」
ベルクトが突然立ち止まり、カイと同じ方向を見上げた。
「風の律動を巧みに捉えているようだ。見たまえ、翼を広げるタイミングと、風の流れが完璧に調和している」
カイは眉をひそめた。
「律動って、何だ?」
「ああ、そうか。君はまだ基礎的な概念も知らないのだな」
ベルクトは杖を地面に突き、講義でも始めるような口調になった。
「万物は、根源的なエネルギーの流れ、すなわち"律動"によって成り立っている。魔法とは、その律動に自らの魔力で干渉し、望む現象を引き起こす技術なのだよ」
カイは半信半疑で聞き流した。魔法使いをこの目で見た経験は数えるほどだが、誰もが裕福で教養もあった。この不審な老人が、魔法に明るいとは思えなかった。
「この植物の葉脈のパターンは、ある種の術式構造と類似性が見られるな」
ベルクトは道端の雑草を指さし、また独り言のように呟いた。
カイは黙って空を仰いだ。この調子では、テッラローザに着く前に日が暮れるどころか、年が暮れてしまいそうだ。
※※※※※※
夕暮れが近づいた頃、一行は街道から少し外れた森の中で野営の準備を始めた。
カイは慣れた手つきで焚き火の用意を始め、ベルクトは興味深げに周囲の植物を観察している。
「晩飯、何がいい?」
「君に任せるよ」
ベルクトは悪びれる様子もなくそう答えた。彼はカイの手際に感心しているようであった。
カイは小さくため息をつき、腰の小袋から罠を取り出した。
「火を起こすから、その辺でキノコでも採ってきてくれ。食べられそうなやつな」
「菌類か。嫌いじゃないな」
ベルクトは子供のように目を輝かせ、嬉々として森の奥へと入っていく。その様子に、カイは一抹の不安がよぎった。
しばらくして、ベルクトが両手いっぱいのキノコを抱えて戻ってきた。一目見て、カイは顔面蒼白になる。
「見ろ、この鮮烈な色彩!この種なら目立つから効率的に集められるぞ」
ベルクトが差し出したキノコは、どれも毒々しい赤や紫に彩られていた。中でも特に目を引く黒いキノコを見て、カイは叫んだ。
「それ全部毒があるやつだ!特にその黒いのは『死の接吻』って呼ばれてて、食べると内臓が全部溶けて尻から出ていくぞ!」
カイは片っ端からキノコを叩き落とした。ベルクトは不満そうに眉をひそめる。
「なぜだ?これほど視覚的に優れた標本を——」
「食うためのキノコを探してこいって言っただろ!」
プリルがケラケラと笑い声を上げた。
「ベルクト、やっちゃったー!カイ、怒ってるー!」
結局、カイは自分で森鼠を狩り、慣れた手つきで解体した。内臓を取り出し、串に刺して火で炙る。その手際の良さに、ベルクトは素直に感心していた。
「ふむ、実に効率的だ。君の生活技術は賞賛に値する」
「あんたと違って、俺は生きるために必要なことをやってるだけだ」
カイは不機嫌そうに答えたが、心の奥では、ベルクトに褒められたことが少し嬉しかった。
長い間、誰からも認められることのなかった自分の技術を、この奇妙な老人は評価してくれた。
焚き火の傍で、ベルクトは再び「律動」について語り始めた。
カイは適当に相槌を打ちながら、話を聞き流す。だが時折、ベルクトの言葉の中に、妙に引っかかるものがあった。
「君は時に、常人では気づかないような物事の本質を見抜くことがある」
ベルクトはカイをじっと見つめた。
カイは居心地悪そうに視線をそらした。そんな才能なんて、自分にあるはずがない。あったら、もっとマシな人生を送れているはずだ。
重苦しい空気が流れたとき、それまで満足気に肉を取り込んでいたプリルが声を挙げた。
「美味しかった!カイ、お礼に歌ってあげる!」
妙に人懐っこい奇妙な生き物に苦手意識を抱いていたカイは、「好きにしろよ」と投げやりに答えた。
「うん、じゃあ始めるねー」
その時、彼はこれまでの生涯で初めて、芸術によって頭を殴られるような経験をした。
どこまでも透明で透き通るような美しい歌声が、しかし力強く大気を震わせた。プリルの歌う曲はアウレリア王国では有名な曲で、カイも旅の吟遊詩人が歌っているところは何度か聞いたことがあった。
しかし今耳に入る声は深い哀愁と底知れぬ情熱を抱えており、まるで別の曲のように情動を揺さぶる。一つ一つの音が、直接心臓を掴んで揺さぶってくるようだ。旅の詩人が歌うそれが道端の石ころなら、これは磨き抜かれた至宝。いや、夜空で瞬く星そのものが、耳元で歌っているかのようだった。
それは本来、稀有な才能と果てしない研鑽のいずれが欠けても成立しない、神に愛された者だけに許された至高の調べであった。
(…なんだ、こいつ、こんな歌も歌えるのか…?)
カイは思わず手を止めた。否応なく、その歌声に意識が吸い込まれていく。
プリルはしばらく歌うと、カイが聴き入っているのに気づき、満足そうに体をぷるぷると揺らした。
「どう?まえに聴いた上手な人のマネだよー!すごいでしょ?プリルのこと見直した?」
カイは何も答えなかったが、その表情は少し柔らかくなっていた。
※※※※※※
夜の森特有の虫の声、時折聞こえる梟の鳴き声、風が木々を揺らす音だけ聞こえる。
焚き火は小さくなり、熾火が赤い光を明滅させているが、その暖かさも徐々に夜の冷気に侵食されつつあった。
カイは、地面の硬さと夜の冷気を感じながら、なかなか寝付けずにいた。
将来への不安が、重い石のように胸を押し潰す。このまま旅を続けて、本当に状況は好転するのだろうか。
ふと、荷物の中から何かが月光を反射して光った。以前、商人にクズ石だと言われたあの宝石だった。
カイは宝石を手に取り、月明かりにかざして眺めた。不思議なことに、石の表面がまるで水を纏っているかのように、ひんやりと濡れている。
いや、濡れているのではない。石そのものが、内側から微かに冷気を放っているような——
「こんなもの、やっぱりただの石ころだよな……でも、なんでだろう、手放せないんだ……」
カイは自嘲的に呟いた。価値のないものにしがみつく自分が情けない。それでも、この石を見ていると、なぜか心が落ち着くのだった。
そのとき、妙な気配を感じた。
虫の声が、いつの間にか止んでいる。風も凪いで、森全体が息を潜めているような不自然な静寂。
カイの全身の産毛が逆立つ。
「……誰かいるのか?」
カイは身を起こし、辺りを見回した。
ベルクトは相変わらず静かに横たわり、プリルも丸くなって眠っているように見える。何も異常はない。
しかし、言い様のない不安が止まらなかった。まるで、何か大きな事件が起こるのを、森全体が恐れているかのような——
「へへ、こんな爺と餓鬼が野宿とはな。懐の物、全部置いていきな」
突然、闇の中から男たちが五人、姿を現した。
薄汚れた服装に、棍棒や錆びた剣といった粗末な武器を手にしている。
月光に照らされた彼らの顔は、痩せこけているが、獣のようにギラギラと光る目でカイたちを見下ろしていた。
カイは恐怖で体が硬直する。咄嗟に眠っているベルクトを庇おうとするが、足がすくんで動けない。
全身が震え、冷や汗が背中を伝う。
「く、金なら……少しだけなら……」
震える声で応じようとしたが、言葉は恐怖で途切れ途切れになる。
その時、ベルクトが静かに目を開けた。その瞳は、月明かりが雲間から一瞬差し込んだせいか、驚くほど冷たい光を宿していた。
襲われていることに気づいていないように無防備に立ち上がる老人に、野盗の一人が嘲笑うような声をあげた。
「なんだ爺さん、命が惜しくないのか?」
ベルクトは表情一つ変えず、まるで埃を払うかのように、指先を軽く振るった。
音も、光も、何の前触れもなかった。
ただ、空気が一瞬、歪んだように感じられた。
野盗たちの顔から、一斉に表情が消えた。
リーダー格の男が、何かを叫ぼうとして口を開いたまま、膝から崩れ落ちる。
二人目の男は、まるで糸が切れた人形のように、音もなくその場に倒れ伏た。
突然の出来事に残りの三人は声を失い、数歩遠ざかるが、一人、また一人と…まるで重力に逆らうことを忘れたかのように、地面へと倒れていく。
「な、なんだ……?」
カイは震えながら、最も近くに倒れた野盗に這い寄った。恐る恐る、その呼吸を確かめる。
「し、死んでる……全員……」
血は一滴も流れていない。外傷もない。
まるで、安らかに眠っているかのような表情で、しかし確実に、彼らは死んでいた。
カイは恐怖でガタガタと震えながら、ベルクトを見上げた。
「あ、あんた……一体何をした……?」
ベルクトは、崩れ落ちた野盗たちを一瞥し、カイの反応を静かに観察しながら、淡々と答えた。
「彼らの魂魄の律動を少しばかり停止させただけだ。生命活動を維持させながら確実に意識だけを奪うのは、些か手順が複雑でね。彼らが我々にそれほどの手間をかけさせる価値があるとは思えんしな」
その言葉は、まるで朝食の献立でも説明するかのように淡々としていた。感情の温度を一切感じさせない。
この老人にとって、眼の前の野盗たちは纏わりつく虫と変わりないのだ。
「カイ、大丈夫?」
プリルがカイの腕にそっと触れた。その小さな体は、心配そうに震えている。
「プリルは怖かった……。でも、カイが無事でよかった……」
※※※※※※
カイは、ベルクトの冷酷さに依然としてショックを受けながらも、生きるためには仕方ないと自分に言い聞かせ、ためらいがちに野盗の一人の懐を探り始めた。
カサカサという乾いた音が、静寂の中で妙に大きく響く。
しかし、野盗たちの持ち物からは、金目のものは何一つ出てこなかった。
錆びた農具を改造した粗末な武器、カビの生えたパンの欠片、そして、破れて泥に汚れた小さな子供の靴。それだけだった。
「こいつらも……生きるために必死だったのかもしれないな……」
カイは子供の靴を見つめ、胸が締め付けられるような思いがした。この靴の持ち主は、今どこにいるのだろう。父親の帰りを待っているのだろうか。
ベルクトは、カイが野盗の持ち物を漁るのを、特に興味も示さず、かといって咎めるでもなく、ただ静かに見ていた。
彼にとって、野盗の個人的な事情や王国の社会問題は、自身の知的好奇心の対象外であり、ほとんど関心がないようだった。
しかし、カイが子供の靴を手に取り、複雑な表情を浮かべているのを見て、初めて口を開く。
「重税で土地を奪われ、家族を飢えさせ、最後は盗賊に身を落とす。この国ではよくある話だ」
その言葉には、何の感情も込められていなかった。ただ、事実を述べているだけのように聞こえた。
カイがなにも言えずに立っていると、ベルクトは静かにカイを見つめた。
「ところでカイ、君は彼らが近づいてくるのに、なぜ気がついた?」
突然の質問に、カイは戸惑った。
「え?それは……なんとなく、空気が変わったというか……」
ベルクトの瞳に、鋭い光が宿った。
「ふむ。やはりそうか。世界には時々、律動に関する不思議な感受性を持つ者がいる。『祝福』と呼ばれる稀有な才能だよ、カイ。君は、世界の"律動"を、その流れや淀みを、他人よりも敏感に感じ取ることができるようだ。『共鳴感知』とでも呼ぶべきか」
ベルクトは立ち上がり、カイの肩に手を置いた。その手は、先ほど五人の命を奪ったとは思えないほど、穏やかで温かかった。
「それだけでは大きな力ではないが、磨けば面白い武器になる。配られたカードを上手く使うのが人生のコツというものだ。君のカードは、決して悪くない」
カイは答えられなかった。頭が混乱して、何を考えればいいのか分からない。
※※※※※※
夜が明け始めた頃、カイはまだ野盗たちの死体の傍に座り込んでいた。
「さて、そろそろ出発しようか」
ベルクトが促すが、カイは動けなかった。
「なあ、ベルクト」
荷物をまとめながら、カイはふと思った。
ベルクトは本当に恐ろしい力を持っている。その力は、カイの想像をはるかに超えていた。
だが同時に、その力がなければ、今頃自分は野盗に殺されていたかもしれない。
「その…助けてくれて、ありがとう」
カイは不器用にそう言った。ベルクトは意外そうな顔をし、そして微かに笑った。
「礼を言われるようなことではない。君は私の護衛なのだろう?生かしておかなければ、テッラローザまで辿り着けん」
相変わらず素っ気ない物言いだったが、その言葉にはかすかな温かみがあった。
カイはふと、気になっていたことを尋ねた。
「そういえば、ベルクトはなんで旅をしているんだ?」
「……私の長年の研究も、いよいよ最終段階に入っている。私の理論の正しさを証明するためには、どうしても必要な最後の“サンプル”が存在するのだ。それを探す旅、いわば最後のフィールドワークといったところだな」
ベルクトの話はほとんど理解できなかったが、その瞳の奥には狂気的なまでの探求心の炎がチラついている。
彼が真実を話していると、カイは直感した。
朝日が昇り始めた。新しい一日が始まる。
カイは深呼吸をし、歩き出した。後ろからベルクトとプリルがついてくる。この旅の行く末は、まだ分からない。だが少なくとも、退屈ではなさそうだ。
「テッラローザまで、あとどれくらいだ?」
ベルクトが尋ねる。カイは前を向いたまま答えた。
「順調にいけば、あと三日ってところだ」
「ふむ、それまでに君の『共鳴感知』について、もう少し詳しく調べてみたいものだな」
「勝手にしろ」
カイはぶっきらぼうに答えたが、心の奥では、ベルクトの言葉に小さな期待を感じていた。
自分に才能がある。今まで誰にも言われたことのない言葉だった。
それが本当かどうかは分からない。だが、もし本当なら——
カイは首を振った。期待なんてするものじゃない。
それでも、朝日に照らされた道は、昨日よりも少しだけ明るく見えた。