第28話 宴の後の夜
宴は少し重い空気の中で、いつの間にかお開きになっていた。テーブルの上には食べ残されたチーズと、空になったグラスだけが虚しく転がっている。
ベルクトは早々に離れへと引き上げ、プリルもそれに付き従って姿を消した。残されたのは、慣れない酔いの中で朦朧としているカイと、彼の隣で、子供のように無防備な寝息を立てるレナータ。そして、夜の闇の中でもなお、その存在感を少しも失わないカーラだった。
カイの意識は、ワインの酔いとそして隣で眠るレナータの体温とで、心地よくも危険な微睡みの中を漂っていた。
その時、音もなく、カーラがカイの背後に回り込んでいた。彼女の甘い香りが、カイの感覚を支配する。
「あら、寝ちゃうの?せっかく新しい剣が手に入ったんだから……カイくんの“剣”も練習しないといけないんじゃない?」
耳元で囁かれた、直接的で挑発的な誘い。その吐息が、カイの首筋を撫でる。心臓が跳ね上がり、酔いが一瞬で吹き飛んだ。カイが狼狽して身じろぎすると、カーラはくすくすと喉の奥で笑った。
その時、隣で寝ていたレナータが「んぅ…だめぇ…」と寝言を言いながら、カイの腕にぎゅっと抱きついた。彼女の寝息とほんのりと甘い香りに、カイの体は石になったように動かなくなり、首筋まで一気に熱が上った。
彼女はレナータに視線を移し、面白そうに、そして少しだけ意地の悪い笑みを浮かべた。
「あらあら、可愛い。レナータは私のこと苦手みたいだけど、私は彼女のこと好きなのよ。一生懸命で良い子でしょ?」
その言葉は、意外なほど優しい響きをしていたが、すぐにカーラは爆弾を投下する。
「今日の主役はレナータですもんね。譲るわ。ねぇ、カイくん、優しくしてあげてね。この子、こう見えて本当に不器用で、“初めて”のことには臆病なんだから」
静まり返った工房で、その言葉の意味が、じわじわとカイの脳髄に染み込んでいく。
“初めて”
カーラの意味するところは、カイにも明確に理解出来た。
身動き一つできないカイの横で、レナータはまるで安心できる場所を探すかのように、カイの腕により力強く抱きついてくる。
柔らかい感触と体温が、作業着越しにもはっきりと伝わり、彼の腕から全身へと広がっていく。規則正しい寝息が、カイの耳をくすぐる。
顔が、耳まで真っ赤に染まっていくのが自分でも分かった。
どうしていいか分からない。カーラの挑発的な視線と、レナータの無防備な寝顔。二つの異なる香りに挟まれ、酔った頭では何も考えられなくなっていた。
そんなカイの純情な反応に満足したのか、カーラは「おやすみなさい」と囁き、耳の下にキスをすると、猫のようにしなやかな足取りで工房から去っていった。
後に残されたのは、カイと、彼に寄り添って眠るレナータだけだった。
静寂が戻る。レナータの胸が、穏やかな呼吸に合わせてゆっくりと上下している。その重みと温もりが、カイの理性を少しずつ、しかし確実に蝕んでいく。
彼の視線が、着崩れた彼女の服の胸元へと吸い寄せられる。酔いのせいか、あるいは抗いがたい衝動か、カイの手が、まるで自身の意志とは無関係に、ゆっくりと持ち上がり、その柔らかな膨らみへと伸びていった。
指先が、布越しに、信じられないほどの柔らかさに触れた。
「んぅ…」
レナータが、甘く、か細い声を漏らす。カイの全身に、雷が落ちたかのような衝撃が走った。罪悪感と、背徳的な興奮。彼は慌てて手を引っ込め、まるで触れてはならない神聖なものから逃れるように、レナータに背を向けた。
心臓が、肋骨を内側から叩き壊さんばかりに激しく鼓動している。眠れるはずもなかった。悶々としたまま、彼は天井の暗闇を睨みつけ、長い、長い夜が明けるのを待つしかなかった。
※※※※※※
翌日の早朝。結局、カイは一睡もできなかった。
ひんやりとした空気が肌を刺す。誰もまだ起きていない工房を抜け出し、彼は裏手にある小さな井戸端へと向かった。冷たい水で顔を洗い、昨夜の出来事を頭から追い出そうとするが、レナータの感触とカーラの言葉が、こびりついて離れない。
「くそっ…!」
カイは頭を抱える。気持ちを切り替えるように、彼は腰に差したばかりの短剣を鞘から抜き放った。朝日にかざすと、その美しい刀身が、彼の決意を映すかのように鋭い光を放つ。
そうだ、俺は強くなるんだ。
新たな決意を胸に刻んだ、その瞬間だった。
柄に埋め込まれた「星詠みの涙」が、ピリリッと、鋭く、そして明確な不快感を伴う冷たさを、彼の右手に伝えた。
空はどこまでも青く晴れ渡っている。世界は昨日と同じ顔でそこにあった。ただカイの目には、どこか僅かに色褪せているように感じられた。
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