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第25話 儚い守り

 扉を開けたカイの目に飛び込んできたのは、彼の記憶にある豪奢(ごうしゃ)なドレス姿とは似ても似つかぬ、ラフな身なりのカーラの姿。どこにでもいる町娘のような、生成り色のブラウスと茜色のスカートを身に着けている。その姿は親しみやすく、無防備に見えた。


 だが、それは一瞬の錯覚に過ぎなかった。


 彼女のカミーチャは、農婦が着るごわごわした麻とは違う、肌が透けるほど薄手で柔らかなコットンで作られていた。首元は大きく開き、豊かな胸がそれとなく晒されている。そして何より、彼女の細い腰に巻かれた幅広の黒い皮の。それが、ゆったりとした服装の中で、信じられないほどのくびれを強調し、彼女の肉体が持つ官能的な曲線を、かえって生々しく描き出していた。


 それは、計算され尽くした『隙』だった。


 友達の家に遊びに来た、という気軽さを装いながら、女としての武器を何一つ手放していない。武装したドレス姿よりも、むしろこの親密さを装った服装の方が、より巧みで、危険な罠のようにカイには感じられた。


 彼女は『ちょっとお酒でも飲みに来ただけよ』とでも言うように小脇に上等なワインを抱え、悪戯っぽく口の端を上げた。


 レナータが苦々しい顔で扉を開ける。


「あら、やっぱりカイじゃない! なんだか工房から、とっても楽しそうな気配がしたものだから。何か素敵なものでも完成したのかしら?」


 カーラの視線が、カイ、レナータ、部屋の隅にいるベルクトへと滑る。カイの目には、獲物を見定めた猫科の獣を思わせる、鋭い光が彼女の瞳の奥に宿るのがはっきりと見えた。


 レナータは腕を組み、全身で拒絶を示した。


「カーラ、また何の用よ! うちは今、取り込み中なの!」


「あら、つれないこと言わないでよ、レナータ」


 カーラはしなやかな身のこなしで工房に一歩足を踏み入れる。


「カイの新しい門出かもしれないじゃない? お祝いに駆けつけたんだから!」


 カーラは酒瓶のラベルをちらつかせる。


「ほら、『月光の雫』よ。ヴィンテージものの、とっておき。あなた、こういうの目がないでしょう?」


 レナータの耳が、ぴくりと動いた。


 彼女はカーラのことが苦手だ。その享楽的な生き方も、性を武器にするような在り方も、レナータの実直な価値観とは相容れない。だが、彼女は同時に、美酒をこよなく愛する職人でもあった。カーラが口にした銘柄は、好事家の間で幻とまで言われる代物だ。


「……」


 レナータは苦虫を噛み潰したような顔で黙り込んだ。その横顔に浮かぶのは、鍛冶師としての矜持と、抗いがたい酒への誘惑との間で揺れる、あまりに人間的な葛藤だった。


 ベルクトが、読んでいた本から静かに顔を上げた。その口元には、この状況を心から楽しんでいるかのような、微かな笑みが浮かんでいる。


「ほう、『月光の雫』か。確かに悪くない。私の記憶が正しければ、醸造から50年は経っているはずだが」


「さすがベルクト様、お目が高いわ」


 やがて、レナータは大きなため息をつくと、観念したように呟いた。


「……ま、まあ、祝いの席に水を差すのも野暮ってもんよね」


 その声は、まだ不機嫌さを隠しきれていなかった。彼女はカイの方をちらりと見て、「あんたのせいだからね」とでも言いたげな、責任転嫁の視線を送る。そして、吐き捨てるようにカーラに言った。


「……それ飲んだら、とっとと帰ってよ」


「ええ、もちろん」


 カーラは勝利を確信した微笑みを浮かべながら、優雅に工房へと足を踏み入れた。彼女が通り過ぎた後には、ジャスミンと何か刺激的なスパイスを混ぜたような、記憶に残る香りが漂う。


 窓の外では陽が落ち、空は深い瑠璃色に染まる。夜の始まりだった。


 工房の一角に設けられた宴席は、普段の実用一辺倒の空間とは別世界のような華やぎを帯びていた。作業台として使われていた大きな木のテーブルは、急ごしらえながら清潔な布で覆われ、レナータが奥から引っ張り出してきた上等な杯が並んでいる。


「へぇ、こんな良い杯も持ってたんだ」


 カーラがからかうように声を掛けるが、レナータは聞こえないふりをして、黙々とワインの栓を抜いた。コルクが抜ける音と共に、芳醇な香りが空気中に広がる。熟した葡萄と、僅かな樽の木の香り、そして時間だけが生み出せる複雑な芳香が絡み合った、液体の宝石が杯に注がれる。


 カイは差し出されたグラスを、ぎこちない手つきで受け取る。以前カーラのもとで食事を取った時は、緊張や警戒からワインは口にしなかった。カイが酒をまともに飲むのは初めてに近い。グラスの持ち方すら定かでなく、その様子を見たカーラは内心で微笑んだ。


「それじゃあ、カイの新しい門出と、レナータの素晴らしい仕事に。乾杯」


 カーラの甘い声が、乾杯の音頭をとる。


 カチン、と硬質な音が工房に響いた。

たくさんの作品の中からお時間をいただき、ありがとうございます!

心から感謝しています!!



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