第16話 プリルの冒険
昼下がりの太陽は空高く昇り、容赦のない陽光を地上に降り注いでいたが、工房の落とす影はカイたちの足元を黒々と染めていた。晴れ渡る空とは裏腹に、カイの胸中を占めるのは、打ちひしがれるような絶望感だった。
「……帰りなさい!」
レナータの鋭い言葉と、ピシャリと閉められた扉の音が、カイの鼓膜にまだこびりついている。数瞬前までの期待感は木っ端微塵に砕け散り、今はただ、呆然と目の前の扉を見つめることしかできなかった。
「そ、そんな……」
力なく呟くカイの肩を、ポンとベルクトが軽く叩いた
「カイ、いつまでもここで立ち尽くしていても状況は変わらんぞ。カーラ・ロッシは、どうやらこの工房の主からは相当嫌われていると見える。別の手段を考えるか?」
ベルクトは腕を組み、閉ざされた扉を興味深そうに眺めている。その冷静な言葉が、カイの胸にはやけに冷たく響いた。
「カイ、大丈夫?」
足元で、プリルが心配そうにカイを見上げていた。そのゼリー状の体が、不安を示すかのように僅かに白濁している。 しかし突然、何かを思いついたように、プリルの頭頂部にアンテナのような突起がピコンと立った。
「プリルにまかせて!ご機嫌とってくる!」
小さな声でカイに囁くと、プリルはカイが制止する間もなく、その小さな体で跳躍した。
「いたたたたっ!」
プリルは自分の体を細長く引き伸ばし、まるで液体のようにするりと換気用の小さな窓から工房内部へと滑り込んでいく。変形する瞬間、苦痛の声を上げたが、カイが何か言う間もなかった。
「あ!こら、プリル!何持って……!勝手なことするなよ……!」
カイは慌てて小声で制止しようとしたが、既に遅かった。プリルの姿は完全に工房の影へと消えていた。
遠くから、職人街の喧騒が微かに聞こえてくる。鉄を打つ音、誰かの怒鳴り声、そして、何かの金属が擦れる音。しかし、この一角だけは、まるで時間が止まったかのように静かだった。カイの心臓の音だけが、やけに大きく響いていた。
※※※※※※
工房の内部は、外の眩い陽光が届かないためか、薄暗かった。しかし、炉に残る熾火の赤い光と、壁の高い位置にあるいくつかの小さな窓から差し込む細い光条が、辛うじてその輪郭を浮かび上がらせていた。空気中には、鉄と炭の焼ける匂いが濃密に立ち込め、そこに微かな薬品の刺激臭が混じり合い、独特の匂いを醸し出している。
ぷるんっと小さな、しかし弾力のある音と共に、プリルは工房の石の床に軟着陸した。一瞬、周囲を興味深そうに見回す。
壁には、様々な形状の金槌や火箸、ヤットコなどが機能的に、しかし使い込まれた風合いで整然と並べられている。隅には研ぎ石や革砥、そして用途の判然としない奇妙な道具類も見える。一人で作業するには十分な広さだが、来客をもてなすようなスペースは皆無。全てが実用本位に配置された、職人のための城だった。
プリルが工房の奥へと進むと、そこには大きな炉があり、まだ微かに赤い熱気を放っていた。
そして、その炉の前で、一人の女性が作業に没頭していた。レナータ・ヴェルディ。腰まで届く銀灰色の髪を無造作に革紐で束ね、額には汗が滲んでいる。
彼女は、小さな金属片をピンセットでつまみ上げ、片眼鏡で覗き込みながら、時折ヤスリで慎重に表面を削っていた。その横顔は真剣そのもので、周囲の気配など一切意に介していないようだった。先ほどカイたちに見せた氷のような表情とは異なり、そこにはただ純粋に目の前の仕事と向き合う職人の厳粛さがあった。
プリルは、まるで忍び寄る猫のように、音もなくレナータの背後に回り込み、そして、彼女がヤスリを置いた瞬間を見計らって、ぴょこんとその作業台の前に現れた。
「お姉ちゃん、これ、あげる!カイの大事なキラキラなのー!だからカイの武器作って!」
甲高い、しかしどこか得意げな響きを含んだ声。プリルは、以前カイに貰った「星詠みの涙」を、レナータの目の前に誇らしげに差し出した。そして、その声色にはほんの僅かだが、いつかベルクトの屋敷で聞いた、幼いシエナが何かをねだる時の甘えるような響きが真似されていた。
作業に没頭していたレナータは、突然目の前に現れたプリルと、そのプリルが差し出す奇妙な輝きを放つ石に、息を呑み、椅子を蹴るようにして後ずさった。手にしていたヤスリがカラン、と音を立てて作業台から転がり落ちる。
「きゃあ!なに…!?どこから入ってきた、この…ゼリーみたいなのは!?」
レナータの声は低く、鋭い警戒心が露わになっていた。細められた熾火色の瞳が、プリルと宝石を交互に見据える。その表情は、カーラの名前を聞いた時と同じくらい険しい。
だが、プリルは臆する様子もなく、ただニコニコしながら宝石を差し出し続けている。
レナータは、唾を飲み込むと、恐る恐るというように、プリルが差し出す宝石に手を伸ばした。指先が触れるか触れないかの距離で、彼女の動きが止まる。
ゴクリ、とレナータの喉が鳴った。
瞳孔がわずかに開き、呼吸が一瞬止まる。職人としての本能が、彼女の警戒心を凌駕した瞬間だった。
彼女の指が、まるで引き寄せられるように、震えながら宝石へと伸びる。そして、ついにその白い指先が、ひんやりとした宝石の表面に触れた。