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第14話  初陣

 テッラローザでの数週間の修練は、カイの中に確かな変化を刻みつけていた。基本的な元素魔法は形になり、「共鳴感知」の精度も日ごとに増している。


 そんなある日、ベルクトは「そろそろ、もう少し実践的な訓練を交えたほうがいいだろう。少し遠出するぞ」と告げた。


 それから街道を外れ、人の踏み入らないような岩がちな丘陵地帯に足を踏み入れて数時間が経った。乾いた土と草いきれの匂いが、生暖かい風に乗って鼻腔をくすぐる。


 常に周囲の律動に意識を張り続ける緊張感に、カイはずっしりとした疲労感を覚えていた。


「ベルクト、少し…」


 カイが休憩を提案しようと口を開きかけた、その時だった。前方を歩いていたベルクトが、音もなく立ち止まる。カイも慌てて足を止め、その視線の先を追った。


 そこには、ひときわ大きな苔むした岩が、まるで古の巨人の墓石のように鎮座している。何の変哲もない、ただの岩だ。しかし、ベルクトの纏う空気が、それがただの風景の一部ではないことを告げていた。


「カイ。お前の『共鳴感知』で、あれを見てみろ」


 静かだが鋭い声に、カイはごくりと喉を鳴らした。言われるまま、目の前の岩に意識を向ける。


 世界から音が消える。風の感触が遠のく。視界にあるものに、その根源に宿る「律動」の濃淡が情報として追加されていく。


 他の岩は静かで、冷たい、無機質な律動を放っている。その中で、カイが見つめる「岩」だけが、明らかに異質な音を奏でていた。


 ゆっくりと、だが確かに脈打つ、生々しい生命の律動。


 ぞわり、と全身の皮膚が粟立った。


「岩じゃない…生きている…!」


 岩蜥(がんせき)。行商人仲間から聞いた厄介な魔物の名前が、カイの脳裏に過ぎった。


 擬態(ぎたい)で獲物を待ち伏せ、屈強な傭兵ですら麻痺毒で動けなくし、生きたまま喰う…。遭遇したら最後、荷物を全部捨てて逃げろと言われる、行商人にとっては災害のような存在だ。


 カイがその律動の正体を悟った瞬間、あたかも彼の視線に応えるかのように、岩の表面に亀裂が走った。


 いや、違う。それは、これまで堅く閉じていた巨大な瞼が、音もなく開かれたのだ。黄色く、縦に裂けた爬虫類の瞳が、カイを冷たく、無感情に捉えた。


 岩だと思っていた表面が、鱗状の皮膚となってぬらりと蠢き、全長2メートルはあろうかという巨大な蜥蜴(とかげ)が、そのおぞましい全身を大地から引き剥がした。


「ほう…見つけたか。良い目だ。では、どうする?」


 ベルクトの声が、やけに遠く聞こえる。プリルが耳を裂くような悲鳴を上げてカイのマントの中に完全に潜り込む気配を感じながら、カイは震える手で、腰の短剣を抜き放っていた。


 岩蜥は喉の奥を低く鳴らすと、口から独特の酸っぱい匂いを伴う、白濁した霧を噴射した。麻痺毒だ。


 カイは咄嗟に体内の魔力を練り上げ、風の律動に同調させるイメージを脳裏に描く。だが、恐怖からそのイメージは乱れ、指先から放たれた意志が生み出した風は、毒霧を完全に払い飛ばすには至らない。


 霧の端を吸い込んでしまい、腕にピリピリとした痺れが走った。


「くそっ…!」


 その一瞬の隙を、岩蜥は見逃さなかった。


 霧を陽動とし、低い姿勢から弾丸のように突進する。


 カイは鈍った体で横に飛び、かろうじて直撃を避けるが、岩のような硬い体表が脇腹を掠め、強烈な衝撃で数メートル吹き飛ばされ、地面に叩きつけられた。


 口の中に、じゃりりとした土の味が広がった。


「ぐっ…!」


 体勢を立て直したカイは、再度迫る岩蜥の側面に、行商人時代からの安物の短剣を叩きつける。


 しかし、硬い鱗に阻まれ「キン!」という甲高い音と共に火花が散るだけ。逆に手首に痺れるような鈍痛が走り、短剣の刃が僅かにこぼれる。


「硬すぎる…!この短剣じゃ、傷一つ…!」


 訓練と実戦の絶望的な差異。焦りと恐怖、そして自分の装備の無力さに、呼吸が浅くなる。


「カイ!恐怖に呑まれるな!律動を読め!」


 ベルクトの叱咤が、混乱するカイの意識に杭を打ち込むように響いた。


 カイは一度大きく距離を取り、あえて目を閉じた。視覚情報が、恐怖を増幅させている。


 風の音、自分の荒い息遣い、プリルの小さな呻き声。それら全てを意識の外へ追いやり、ただひたすらに、感覚を研ぎ澄ませる。


 岩蜥の全身を覆う、まるで分厚い鉛の壁のように、生命の律動を内に固く閉ざしている感覚。だが、その壁の一部、腹の中心あたりからだけ、内なる生命の律動が、抑えきれずに勢いよく漏れ出している。


 他の部位と比べて、明らかに律動の密度が低く、守りが薄いことを示していた。


 さらに、毒霧を吐く直前に喉元に、突進する直前に後脚に、それぞれ律動が「集まる」――攻撃の予備動作があることを掴む。


「見えた……!」


 恐怖が急速に色褪せていく。代わりに、思考が氷のように冴え渡り、世界の動きがスローモーションに見え始めた。


 岩蜥が再び喉元に律動を集中させる。毒霧の予兆だ。


 カイはそれよりも速く、体内の魔力を水の律動へと変換し、そのイメージを岩蜥の足元に叩きつけた。岩蜥は予期せぬ足場の変化に体勢をわずかに崩す。


 毒霧の噴射が、狙いを外れて虚空を濡らした。


 体勢を立て直そうと前脚を踏み出した、その一瞬。


 がら空きになった腹部、先ほど見つけた「律動の薄い一点」へ、カイは突進した。


 ありったけの体重を乗せた短剣が、硬い鱗を避け、柔らかい皮膚に突き立てられる。


 ブスリ、という生々しい抵抗の感触。肉を裂き、骨に当たる鈍い衝撃が、柄を通して腕に伝わった。


「グギャアアァァッ!」


 岩蜥が苦痛に暴れる。カイは短剣を突き刺したまま離さず、空いた方の手で、残った魔力を炎の律動へと叩きつけた。


 傷口から内部を直接焼かれ、岩蜥は空気を引き裂くような断末魔を上げた。焦げた肉の匂いが、あたりに立ち込める。


 激しい痙攣が二、三度続き、やがてその巨体は完全に動きを止めた。


 静寂が戻る。カイは肩で大きく息をしながら、その場に膝をついた。全身は汗と土埃で汚れ、腕には麻痺毒の痺れが残っている。


 疲労困憊だが、その目には確かな達成感と、自分自身で道を切り拓いた者の強い光が宿っていた。


 静かに近づいてきたベルクトが、倒れた岩蜥を一瞥し、カイに言う。


「初陣にしては上出来だ。だが、この程度の相手に苦戦をするようでは先は長いな。それに武器も話にならん。」


 彼はカイの手に握られた短剣に目をやる。カイも、刃こぼれした短剣と、まだ痺れの残る腕を見下ろした。


 勝利の喜びと共に、もっと良い武器があれば、という強い思いが湧き上がってくる。


 それは、単なる物欲ではない。自身の内に眠る可能性を解き放ちたいという、魂の渇きにも似た切実な「渇望」だった。

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